黎明に見つけた場所
眠り方を忘れたかのように、昨夜は長すぎる数時間を過ごした。薄暗い朝は、僕を歓迎などしていない。僕もまた、こんな朝は歓迎していない。辛くても、泣きたくても、日常は無慈悲に律儀に、僕を襲う。駅に向かう足は鉛よりも重かった。
茶髪の少女はいなかった。当たり前な、簡素な駅の空間だけが広がっていて、僕は日常の味を嫌と言うほど確かめた。始業時刻ギリギリの列車にまた、ノイズ塗れで乗り込んでいく。何か、物足りなさに似た寂しさを感じながら。
鋭く冷たい瞳の奥と、柔らかそうな物腰に纏わせた柑橘系の香り。軽薄な声色と、深層心理のその底まで深く突き刺されるように選ばれた言葉たち。訳が分からなかった。何も、何も知らないクセに。僕の何を知っている訳でもないクセに、どうしてあんなに『正解』を引き当ててくるのか。
自然と少女のことを考える自分が分からなかった。忘れたいはずだった。あの記憶と同じくらい、下手をすればそれ以上に、僕は忘れてしまいたかった。考えたくなんてなかった。何も知らず、何も考えず、ただルート通りに生きていけたら多分楽なんだろう。多分、多分──でも僕は、そんなこと望んでいない。のかもしれない。
分からない。少女のことばかりじゃない。これまでの僕、あの頃の僕、そして、今の僕。今まで確実だと思い込んでいたモノ全てが崩れ去って、底の見えない思考の深淵が僕を飲み込む。誰も、自分も、信じられなくなっていく。
揺れる列車の中、僕は彼女に会いたかった。答えはくれなくても、その声と瞳の近くにいたかった。
だけど、その帰り道も彼女は駅にいなかった。
当然と言えば当然だろうか。僕も彼女も、お互いに他人でしかない。いや、正確には他人とは違うのだろうけど、僕は今の関係を適切に表現できる関係性を知らない。そもそも、僕は彼女にとって何でもなさすぎるのだから。夕暮れに赤く塗られたおんぼろの駅は、僕が幼かったころから何も変わっていない。
あの日も、真っ赤な夕暮れの道を歩いた。ひとりで。ひとりぼっちで。手を引いてくれる誰かも、肩を叩いてくれる誰かも、いなかったから。いなくなったから。あの日の僕は、誰にも肯定されなくなった。最後の頼みの綱だったはずの僕自身も、否定したから。
誰かの為に、なんてどこにも存在しない。大体のことは全部、詰めてしまえば自分の為。自分を良く見せる、不快にならない、社会的地位を守る、様々あるけど、結局主体になるのは、『自分自身』だけ。客観視なんて存在しなくて。だから僕は諦めて。誰かの為に生きてるつもりの『誰か』を否定したがる。どこにいるかも知らないまま。
何処へ行けばいいのか分からないまま、足は動いた。幼いころに通った道を通れば、家に辿り着けることくらい知っているのに。あの日、僕は惨めだった。下を向いて、涙を堪えて歩いた。誰にも認められなかった僕の正義を、その時の僕は確かに掴んでいた。
もう、踏み躙って失くしてしまったけど。
閑散としたシャッター街を耳を塞いで歩いた。何も見たくないし、どこにも行きたくなんてなかった。辿り着いても多分、そこは僕の場所ではなくて。見失いかけた正解のルートに戻りたくもない。ないない尽くし、と頭の中に思い浮かべてワザとらしく笑おうとしたけど、乾いた息が漏れただけだった。
また、眠れない夜が来る。その恐怖から逃れることは出来ず、僕は不似合いな家に帰る。多分、『ズレた僕』をここは受け入れてくれないだろう。自分の為、と何度言い聞かせてきたのか、もう覚えていない。体の疲労は限界に近かった。ふらつく足元の制御が効かず、視界も霞む。
住み慣れた空間のはずなのに。僕がいるべき数少ない場所なのに。こんなところにいたくない、不条理で非合理的な感情の波が僕の理性を飲み込んでいく。ぐちゃぐちゃになった頭は整理がつかず。嫌だ、こんな夜はもう、嫌だ。
※
また会ったね、とそう言われた。至って自然なことの様に。休日の駅はいつもよりも空白が多く、僕がここに来るべき理由もない。
試されたのだろうか、と考えてみる。僕が、正解のルートをなぞるフリが出来なくても探しに来るかどうか。だとしたら、僕は簡単に乗せられたことになるけど。それならそれでもいいかもしれない。掴み処のなさすぎる彼女を手玉にとれるほど、僕は成長していない。
「分かってたんですか」
私服姿の彼女は、ベンチに座って遠くを見ていた。どこかで見たような目で。
どこかで。
「分かるわけないじゃん、賭けてみたの」
遊んでいる、と分かる声に苛立つが、荒げる声も持ち合わせていない。探りにくい距離感を持て余して、隣に座れない。
「あの制服、S高でしょ。頭いいんだ」
皮肉としか取れない、それは僕が悪いのか。
「大したことはないです」
くっくっと笑う仕草が鬱陶しい。バカにされるのは、慣れていない。
「賢いのも考えものだね、死にたくなるなんてさ」
口の端は上がっているが、もう目は笑っていなかった。むしろ、どこか寂しそうにまた遠くを見る。僕の方など一度たりとも振り向こうとはしない。
「その点あたしは良かったよ。難しいこと考えなくていいし、期待を背負うこともない」
ポニーテールを作っていないことに今更気が付いた。湿気た風が髪を揺らし、ため息が一つ。目を閉じた彼女は立ち上がり、僕の左肩をぽんと叩く。
「ゴメン、今日は気が乗らないから。せっかく会えたけど遊ぶのはまた次にね」
目も合わせずに一方的に語りかけ、彼女は離れた。聞くべきことはたくさんあったはずなのに、そのどれもがタイミングを逃して空に消え去る。名前、連絡先、そんなもので彼女を知ることはできないなんていう、そんな直感。
叩かれた肩の感触を確かめるように右手でそこを掴む。知らず知らずのうちに力が籠り、爪を立てた。満足なんてしていない。納得なんてできない。だけど、今日は『こういうモノ』だと理性から最も離れた場所で理解していた。
「あの」
それでも。結果が分かっていたけど、声を出さずにはいられなくて。何も動かないことが、妙に怖いような気がして。
振り返りはしなくても、足を止めた彼女に伝える言葉を必死に探す。何を、僕は何を伝えたいのか。僕の言葉で。正解のルートを辿るための道具に成り下がっていた、この豊富に見せかけた何もない心の辞書で。
喉元まで出かかった幾通りが、外に出ない。どうにもつき纏う違和感が、僕の舌を絡め捕って離さない。ふっと息を漏らす彼女が、振り返り、近づく。一歩、二歩。三歩目はなかった。一メートル未満の距離で、僕らは目と目を合わせる。
その瞳の奥底は、やっぱり綺麗だった。
「──」
轟音の列車が、小さな口から零れた言葉を掻き消す。ひょい、と伸ばされた右手が開き、その小さな空間が僕を誘った。にやにやと笑う顔を正面から見返すのが妙に恥ずかしくて、目を逸らす。でも、ゆっくりと僕の右手は伸びていた。ついこの間、取れなかった手を取るために。
恐る恐る、だけど確かに指の一本ずつを閉じて掴んだその手は冷たく、細い。満足そうに、少し口を開けて笑う彼女を僕は目に焼き付けた。
何秒間そうしていただろうか。手のひらが汗ばむ前に、彼女の方から離した。そしてそのまま背中を向けて、もう振り返らなかった。その肩が少し震えているように見えたのは、僕の目の錯覚? ただ僕は、言い様の無い充足が心を満たすのを感じていた。
そして、僕はちょっと居場所を見つけた。朝一の駅に向かう足が、少しだけ軽くなった。重苦しい朝も、耳から流し込むノイズに頼らず立ち上がることができるように。彼女と少し色んな事をした。それは紛れもなく偶然の産物で、本当なら無い方が『良かった』のかもしれない。
だけど、間違いなく今の僕はそれを求めていた。特に大したこともなく、饒舌な会話もなく、ただ歩くだけのぼんやりとした時間が愛しくて。腐り切っていた僕の体に、舞い込んだ一陣の風。なびく心が、とても自然だった。
朝の駅、頭半個分下の茶髪を探すのが僕の癖になり、見つけられない日は次の日を楽しみに日常に乗り込む。それだけ。薄くて、軽い何でもないような関係。僕は、それを大事にしたい、確かにそう思っていた。『ココ』は僕の場所。名前のない、何でもない、誰かの手に一瞬で握りつぶされてしまいそうな、僕の場所。




