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思い出したくもない日のこと


 笑ウナ。


 僕を、笑うな。


 取り囲む『彼ら』は僕を見下し、蹴り、嗤う。そこに見えるのは悪意だけ。そして、僕に対する圧倒的な優越感。さぞかし気持ちがいいのだろう。人を踏みにじって嘲笑える場所は、きっと楽しいだろう。だけど、僕は、僕はお前らとは違う。違う。

 拳を振りかざして、声の限りに叫んで、でも、意味はなかった。僕は、自分の正義を信じていたけど、それはあっさりと崩されて蹴散らされる。僕など、僕の言葉など、僕の拳など、どこにも届かない、響かない。何も、為さない。それを、理解させられる恐怖。お前など、所詮はこんなにちっぽけな存在なのだと。


 砂利が口に入る。鳩尾を蹴りつけられてうずくまった体に、嘲りが突き立てられる。切れた口の血の味は、鉄臭くて苦い。屈辱の味が、口の中を痛いほどに満たした。頭を護った手が乱暴に引き剥がされ、必死の抵抗も掴まれて押さえつけられる。嫌だ、嫌だ──。

 笑い声、その中に怯えている者もいることを僕は良く知っている。そちら側、だったのだから。もう、戻れないけれど。そう、変わると思った。自分が立ち上がることで何かを変えられると驕っていた。僕は、何かを変えるには弱すぎたのに。弱い、弱すぎる。この手も、この心も。だから、ただこうして砂の上に這いつくばって涙を堪えることくらいしか。


 遠くへ離れていく幼い誰かの背中。何も言わず、何も伝えず、ただ去っていった。その背中の傷を隠したままに。一瞬振り向いたその顔は、真っ黒。


 笑い声が遠のき、真っ暗な世界に覆い尽くされるその時、目を醒ました。


 嫌な夢を見た朝は、重い。この6年間ほど何度となく繰り返した悪夢と、何度となく嫌気がさした日常は朝のコーヒーでも飲み下しにくい。重苦しい頭を壁に思いっきり打ち付けたいとか、気が狂ったように叫んでみたいとか、多分『日常』にそぐわない衝動を押さえつけて家を出る。

 まだ、僕は正解のルートを歩いているから。ズレたい自分を自覚しながらも、ズレた後が怖くって踏み出せない弱さを併せ持っている。ここからどこかへ消えたいと望みながら、どこにも行けないなんていう諦念が心の半分以上を占めている。諦めているのが、きっと『正解』なんだろう。


 非現実に夢を見ることは許していても、そこにのめり込むことは許さない。僕は、せめて最後に残った正解のルートを歩き続けないと僕でなくなる。ココはレールと同じ。ワケの分からない理論を振りかざしながらでも、とりあえずそれっぽく生きなければ、生きなければ──どうなる? 外れた『感情』はロクな結果を招かないのを嫌と言うほど思い知らされた、忘れない。辛くなるのは僕自身だ。


 どうせ、また。


 凡人、の二文字が良く似合う僕は、せいぜい凡人なりに生きるしか道を与えられず。いや、道はあったのかもしれないけど、もう失って。地図なき道を行く勇気も持ち合わせず。他人と比べて弱いところばかりが見えて、微かな取り柄も上位互換を沢山見つけて。僕は、僕は──あの日から、どれほど小さくなってしまったんだろう。いや、最初から大きくなんてなかったんだけど。


 最後に振り絞った勇気の空回りから、僕は逃れられない。


 駅のホームについて、知らずに茶髪を探す自分を知った。名前くらい、その想いの名前を付け損ねていて、ノイズのボリュームを上げて誤魔化す。ここじゃない、と言い張れる強さがあったらどんなに良かっただろうか。ここでいい、と思えるほど寛容でいられたらどんなに楽だろうか。いつもいつも、僕を苦しめているのは僕自身だ。

 見慣れたはずの線路が、見慣れない距離感で迫ってくる。あの少女の所為だろうか。それとも、これも僕自身の持ち合わせた喜劇? 知っている、ここから二歩踏み出したらどうなるかなんて。頭じゃ分かってる。誰も喜ばない、何も産まれない、なのに、僕がそれを何度となく考えかけているのは何故だろうか。


 吸い込まれる、その錯覚が、肩を叩かれて消えた。びくりと跳ね上がったのを、自覚していた。


「ヒドイ顔してるよ」


 悪戯っぽく笑う顔、だけどその瞳は笑っていない。


「お陰様で」


 息を飲み下して三秒後、ナチュラルに吐いた嫌味に、くっくっと笑う茶髪の少女。その毛先が揺れて、何故か直感的に痛んでいるなと感じた。そんな、多分どうでもいいこと。人懐っこそうな笑みを浮かべたままなのに、妙な鋭さと冷たさを隠しきれていない目の奥。引き込まれる、なんて認めたくなかった。


「眠れなかったみたいじゃん。悪い夢でも見た?」


 心の底まで見通したかのような声が耳障りだった。聞きたくない事実を容赦なく眼前に貼りだされてしまえば、黙るしかなくなる。


「……図星かぁ」


 呆れたように、悪びれもせず言ってのける。可能なことなら彼女の存在ごと忘れてしまいたくなった。


「平穏な生活を乱されてますから。名前も知らない誰かの所為で」


 苦しい。どれだけ棘を立てようとしても、弱っている自分が邪魔をする。


「それよりさ、今日暇? お詫びになんか奢るよ」


 突飛な提案に、僕は言い返す語彙をしばらく失った。後数分すればいつも通りの正解ルートが来るというのに。そして僕は、今の僕は、それ通りに生きるべきで──。分かってる、分かってるんだよバカ野郎。誰に、一体誰に怒っているんだろうか。


「……ホントは、嫌なんじゃないの」


 見透かしたような声が、呼吸の邪魔をした。嫌に決まっている、という叫びは、まだ声にならず。でも、否定もできず。


「今の自分とか、周りとか、色々あるけど。どれもこれも嫌になってるんじゃないの」


 一言一言、胸を抉るように言葉が選ばれていく。不似合いに武骨な殻の中まで深く突き立てられる『事実』。もういらないと決めていたはずの何かが疼く、抑え込んでいた邪魔くさい何かが。呼び起こさないでくれ、と泣き叫んでしまいたくなった。

 轟音と、『日常』が目の前に停まった。歯軋りの音を噛み締めながら、僕は彼女を乱暴に押しのけてルートをたどる。僕は、僕には、もうこれしかないことをよく知っているから。『理解』しているから。逃げ込むように、この心が理性に従ってくれるうちに、僕は電車に乗り込む。窓から見えた彼女の顔は笑い、口が動く。


「マ・タ・ネ」


 音にならなくても、ダイレクトに、無遠慮に、飛び込んでくる声。嫌、なのはその声じゃない。その声に揺り動かされる、僕の中の邪魔くさい汚いモノ。


 掛け値なしの悪夢、だろうか。何故か弾んでいる息を確かめながら、両手で耳を覆う。人工の雑音以外の何も、聞きたくなんてなかった。それでも頭の中でなり続ける彼女の声から、逃げ出せない。どこにも、逃げられない。

 僕は、僕は嫌なんだろうか。自分なりに納得していたはず。自分の手のひらの大きさにあった生き方で生きて、等身大の幸せで生きていくべきだと理解していたはず。夢見ることなんて無謀で、リスキーで、そんなものは結局逃げ場所にしかならないと決めつけてまで。

 意味なんてない日常を生き続けていくことが、僕だったはず。そうしていたら多分、死ぬまでそれなりに生きられるから。でも、それならなんで、僕は生きているんだろうなんて。一生かかっても解決しない疑問。誰しも一瞬は考えて、でも諦めて、割り切って、それなりに生きていけるはずなのに。なんで、どうして、僕にはこんなにつき纏う? 邪魔くさい。


 いつ死ぬの? 死んだら終わりなの? 何も残らない、何も生み出してなどいない。僕はただ僕の寿命を浪費しているだけ、なの? 分からないからとりあえず生きている。とりあえず、とりあえず。それはとてつもなく傲慢なんじゃないかなんて考えてみたりもして。その癖惰眠だけは贅沢に貪って。

 じゃあ、僕は、どこに行きたいっていうのか。ロクな未来が予想できないっていうのに。このままなら怖くないはず、怖くないように、これまでルートを作り上げてきたはずじゃなかったのか。ここでズレてみたら、今までの、あの日以来の僕は全て否定されてしまう。


 僕は、僕、は──。


 主語に続く言葉が見いだせずに、目と耳を閉じて時を流す。ここがどこだかも知らないまま、まっすぐ進んでいたはずのレールを愚かに信じ続けて。見えない未来に涙を流すこともできないままに。ああ、吐きそうだ。電車酔いなんてなったことなかったのに。ああ、泣きそうだ。もう、子供じゃなくなったはずなのに。



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