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手を引かれて

 鬱屈とした梅雨のある日に、僕は彼女と出会った。青空の欠片もない曇天を見上げることもなく、極めて日常的に、半自動的に電車に乗り込む数分前。ぽつりぽつりと立つ人影の間で、イヤホンから流れ込むノイズに耳を閉じていた僕。空虚な目でどこか遠くを見ていたその時、慣れない感触に手を引かれた。振り払う思考が動く前に、聞き覚えのない声が思考に割り込む。

 駅のホームで、僕は先頭に立っていた。嫌になるほど変わらない景色は、もう見る気にもなれない。惰性で、ただ惰性で、日常を消化していく感触は好きではないけど、もう慣れ切っていた。僕は、そういう人間だった。今日も、何も変わらないで順調に、ゴミクズみたいな道を進む、ハズだった。


「落ちるつもり?」


 突拍子もないその言葉に、息を呑む。無駄に明朗な声の所為か、周囲の視線が集まるのを感じた。人違い、の一言が口から出る前に、強く手を引っ張られた体がよろける。バランスを取ろうと踏みしめた足は間に合わず、ふらついた体はそのまま後ろに倒れ込んだ。


『墜ちる』


 程遠いはずだった、そんな事象。だけど言葉になってぶつけられたその瞬間、妙な重々しさを孕んだそれに、僕は動揺していた。


 耳からイヤホンが抜け落ちて、途端に流れ込む外の雑音が酷く不快で。築き上げたプライベートな世界が崩れていくのを、嫌と言うほどに感じさせられた。視線が集まる数秒間を嫌と言うほどに感じて、尻もちをついたまま史上最悪の凶悪犯とゆっくり顔を見合わせる。


「──!」


 怒鳴り散らそうとして喉元まで出かかった声が、その真っすぐすぎる視線に射竦められた。僕らを取り囲んだリアルが一瞬で背景へと変わり、その瞳の奥に妙な既視感を見出していることに気づく。誰? 何? 答える者も交わされる言葉もないままに、奇妙な邂逅の時は止まる。

 目を逸らし、眼鏡を直す素振りで顔を隠す。見ていられない、見せていられない、どちらだろうか? 軽く掴まれたままの手を振り払って、僕は立つ。


 日常を運ぶ列車が轟音を立ててホームに停まり、まだ立ち上がらない少女を尻目に僕はそれなりに混んだ車内から、値踏みするような視線を感じながら無表情に空いた席へと向かう。『ココ』でいい。硬い椅子の感触に危うくなった日常を取り戻した。

 ドアの閉まるタイミングに、少しのためらいを感じたのは気の所為だと信じたい。運転手は優しい人間なんだろうか、とどうしようもなく下らない一抹の感情を、はめなおしたイヤホンから流れ込む耳障りなノイズで殺す。考える必要はどこにもないのだから。僕が考えなくてはいけないことは、他にもあるから。


 どこに。


 動き出した電車の窓を一瞬見てみれば、呆けたような少女の顔が目の奥にこびりつく。あの瞬間覗き込んだ瞳の奥の色が、異常な鮮明さでフラッシュバックした。とても誰かと共有し難い音楽を耳から脳に流し込んで、僕は不快感に酔っておく。そうでもしなければ、何かが壊れていくような恐怖があった。

 僕が、必死で逃げ出して築き上げた何か。今を、この先を、それなりにこなしていくための準備。それの意味も、この先を生きる価値も見出せないままに、ただ怯えて──違う、違うはずだ。


 悪い夢は、また現れる。


吐き出してしまいたいような8時間を過ごした後、平穏な日常を打ち壊す怪獣の様に、少女は駅にいた。

夕方の日差しが明るめの茶髪を照らし、どこか既視感のある彼女の瞳は遠くを見ていた。そぐわない、というのは僕の偏見であることは間違いない。だけど、その服装や顔つき、外見から感じる印象と余りにもかけ離れた雰囲気を放つ。少なくとも、僕はそう感じた。


 シャットアウトのままで通り過ぎれるとは思っていなかったけど、とりあえず改札へと足を速めた。でも、知ってた。逃げきれないなんて、そんな直感は綺麗に的中する。


「あのさ」


 無遠慮にかけられた声が自分あてだということは、僕がよく知っている。後に続く数人の『他人』ではない、僕に向けられた意志ある声。欲しくなかった。面倒だった。だけど、このまま通過することは出来ないような気がして僕は速めた足を止める。ぎこちなく振り向いた先には、古びたベンチから立ち上がった彼女がいた。

 何か言うべき、だとは分かっていた。ただ、言葉が見つからず、結局僕は直立のまま向き合うことしかできない。背後から感じる視線が痛かった。慣れていない。誰かにとって、日常を彩るイベントになることに、慣れてない。僕は、ずっと背景の一片で生きているのだから。


「朝は、ゴメンなさい」


 勢いよく振り下ろされた頭、ポニーテールが揺れた。見慣れない制服は他校のものだろう。あまりの素直さに、いつもなら数百通りは思いつくだろう嫌味も追い払われる。奥歯で苦虫を噛み潰して、僕はまた目を逸らした。


「気にしてないんで、大丈夫です」


 それだけ言って、改札へと踵を返す。何と言うか、ペースが崩される、という感触をダイレクトに感じていた。恐れている、といえば近かったかもしれない。僕は、僕を崩しかねない何かと対面していた。


「ひとつ、聞かせて」


 聞かせてくれる、でもなく聞いてもいい、でもなく、有無を言わさぬ命令形。顔を上げた彼女の言葉に、足は動かなかった。次に来る質問は予想できたのに、スマートに返せる自信を完全に失っていた。


「本当はどうだったの。あたしが引っ張らなかったら、どうするつもりだったの?」


『死にたいの?』

 

 脳内で、ストレートに変換された問いの答えを、僕は持たない。心に留めておいたはずの余裕の二文字が名前のない暗闇に掻き消される。


 現実問題、僕は今日死ぬつもりはなかった。多分。腐りかけの日常を過ごすために、電車に乗って座って、実際に過ごした今日とほとんど変わらない日常を過ごしただろう。今日、は。今日のところ、は。

 明日は? 明後日は? いつかは死ぬ、分かり切った答えだけど、それに僕の意志が関わるのならば話は変わってくるだろうか。僕は、明日の僕も死ぬつもりはないと自信を持って言えない。答え、られない。


『僕には、分からない』


「そんなわけないじゃないですか」


 だからそっけなくこう答えるしかない。例え語尾が震えていようと、不自然に顔を背けていようと。深入りされないためには、『普通』でいられるためには、僕が、誰よりも僕を疑って居ることを隠し続ける為には。誰よりも、僕から。


 数秒間、僕は次の言葉を待っていた。逃げ出す足は動かない。待つべきではないと確信していながら、待たずにはいられなかった。見えてもいないまっすぐな瞳を背中に嫌と言うほど感じながら、傾いていく太陽から目を逸らし続けて。ああ、もっと便利な言葉があったなら。


「まぁ、いいか」


 数時間の数秒間、その後に掛けられた言葉で、喉の奥から空気が漏れ落ちた。振り返る、その前に擦れ違っていた。少女の通った一瞬から、柑橘系の香りが鼻孔を掠める。不快ではなく、でも好きにもなれず。


「あたしの前なら止められる。あたしの前じゃなければ──」


 不自然に切られた語尾の後は想像もできなくて。何かを飲み下した後に少女は続けた。


「だから、ね」


 振り向きかけた顔を細い指が挟みこんで捻じ曲げる。十センチの距離に近づけられた鋭い眼が否応なく突き立てられた。隠し通したかった一番奥まで、見透かされるような強さで。


「大事にして」


 気圧されるように頷くと、満足げな顔が離れていく。何分間、そこにそのまま立っていただろうか。次の『日常』を運んでくる轟音で、僕はようやく歩き出し家路についた。多分救われないであろう自問を胸に深く撃ちこまれたまま。



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