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マヤ・ファンタジー  作者: 三坂淳一
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時空を超えた冒険

この物語は、一の巻から始まり、十の巻で完結します。

『 マヤ・ファンタジー 』

一の巻


 「竜王丸さま、ぼちぼちそこらへんで今日はお止めなされ」

 重蔵が庭先で手裏剣打ちの鍛錬に没頭している若者に声をかけた。

 「まだ、夕方まで時間はたっぷりあるぞ」

 手持ちの棒手裏剣を打ちつくした若者は笑顔で振り返りながら、答えた。

 年齢のころは十六、七といったところであろうか、笑顔からこぼれる白い歯が眩しい。

 重蔵は目を細めて若者を見詰めた。重蔵はこの若者が好きだった。

殿がご存命であれば、どんなにか誇らしげにお思いになられたことか。

 「そのように仰せられても、あまり根を詰められますると、夜の学問の時、うとうととされ、金明さまに怒られまするぞ」

 「余計な心配じゃ、重蔵。それに、金明の講義にうとうととする余裕はないわ。まして、今日からは孫子の兵法の講義が始まるのじゃ。孫子の兵法、楽しみじゃ」

 「と申されますると、四書五経は、はやお済みで?」

 「丁度、きのうで終わった。今日から、いよいよ、孫子さま、呉子さまの兵法を学ぶこととなる」

 若者は手裏剣が刺さっている板に近寄り、手裏剣を抜きながら、答えた。

 「しかし、それにしてもこの棒手裏剣は打つのが難しい。先月の十字とか八方手裏剣は簡単に刺さっていたが、この棒手裏剣はなかなか上手に刺さるものではない」

 「十字剣、八方剣は相手をひるませる程度のものでしかござりませぬ。殺傷力となりますと、この棒手裏剣の方が数段上でござる。棒手裏剣の場合は、何と申しましても、相手との間合いが大事でござる。間合いが短かすぎても、長くても、棒手裏剣の先端が正しく正面を向きませぬ。そのためには、棒手裏剣自体の出来具合も修練によって正しく掴み、適正な間合いに敵を置いて、即座に打たなければなりませぬ」

 若者は歩数を測り、また棒手裏剣を打ち始めた。カツッ、カツッという快い音を響かせて、板に突き刺さっていく。竜王丸さまは武術の天才であろう、と重蔵は目を細めながら思った。若者は武芸に稀有な天稟を示した。武士の表芸である剣術、槍術、弓術はおろか、重蔵の忍びの術もことごとく修得していった。五遁の術、忍びの体術、火術、忍薬、骨法術、拳法といった重蔵が修得している術を天性の資質で容易に修得していった。

 「大将となるべきお方に忍びの術はふさわしくないとのお考えもござりましょうが、古くは、大伴細人という忍びをお使いになられた聖徳太子、多古弥という忍びをお使いになられた天武天皇の御喩えを出すまでもなく、忍びを活用され、治世の用に立てられた貴人は多うござりまする。甲賀流の祖となられました天慶年間の武将の甲賀三郎さま、あの源義経さま、楠木正成さまなぞはご自分も忍びの達人でござりました。竜王丸さまの今後のためにも、忍びの術、覚えておいて損はござりませぬ」

 重蔵は口癖のように繰り返し、この若者に語った。


 「お茶が入りましたよ。竜王丸さま、重蔵さま、少しお休みになられたら」

 振り返ると、小袖、かけ湯巻姿の春日が微笑んで立っていた。

 「ほい、竜王丸さま。春日さまのお茶だで。いただきましょうぞ」

 「義清、弥兵衛はいずこに? 昼から見ておらぬが」

 「昼から、村に野菜なぞ求めに行っておりまする」

 「竜王丸さま。噂をすれば何とやらでござる。ほら、南部、北畠ご両人とも、あそこに戻られてござるわ」

 重蔵が目で知らせた。

見ると、野菜を入れた竹網を抱えて門をくぐり抜け、入って来る二人が見えた。

 「義清さま、弥兵衛さま。お帰りなされませ。今日はどのような菜を購われましたか?」

 春日の問いに義清が竹網の中を見せて、笑いながら答えた。

 「良い椎茸がござった。それに、里芋と葱も買うてまいった」

 「それなら、今夜は芋汁にでも致しましょうか」

 「おお。それがよい。春日さまの芋汁は美味しうござるによって。味噌は身共の味噌をお使いなされ」

 「いやです。重蔵さまのお味噌は塩辛いばかりで体には毒ですもの」

 「ちと塩辛いことは塩辛うござるが、大蒜、葱など体によいものも混ぜてござる」

 「重蔵さまが何と仰せられても、味噌はこの春日自慢の味噌を使いまする」


二人の会話を竜王丸はお茶を飲みながら聞いていた。ふと、耳を澄ました。

重蔵に言った。

 「重蔵。お主の仲間が参ったようだ」

 言われて、重蔵も耳を澄ました。

 「確かに。少し、お待ちを」

 重蔵は裏庭に歩いて行った。やがて、一人の行商人を伴って戻ってきた。

 「弥平次と申す者でござる。笠のままでご無礼をつかまつる」

 「弥平次でござる。忍びの常とて、面体を露わにすることは平にご容赦下されたく」

 「弥平次には諸国の情勢を探らせてござる。話の中に、妙な話がござっての。申せ、弥平次」

 「かしこまってござる。数日前に立ち寄った村の村人から聞いた話でござるが、龍神沼という沼がござって、時折り、龍が出るとの話でござる。夜、沼から龍が出て、天に駆け上り、明け方、天から沼に戻る、との話でござった。目撃した村人もござるが、恐ろしく、その後は二度と沼には近づかないとのことでござる」

 「はて、玄妙な話であることよ。神代の頃ならともかく、今の世に龍などとはのう。竜王丸さま。竜王丸さまはいかがお考えで?」

 「重蔵の言はもっともである。龍は迷信の世界での話であり、今の世に居るとは思われぬ。何かの企みでもあるのか。時に、その龍神沼のある周辺の村で何か変わったことはないか?」

 「恐れながら、竜王丸さまに直に申し上げまする。この弥平次が調べた限りでは、近在の村に龍によるものと思われる被害なぞは出ておりませぬ」

 「無害な龍ということか。龍が本物であれば、何か吉兆の異変が出るはずであろうが」

 「その龍神沼はここから遠いのか?」

 弥兵衛が訊ねた。

 「いえ、それほど遠くはござりませぬ。たかだか、二十里あるかなしかの距離にござりまするが、なにぶん山の奥にござれば、三日ほどはかかるかと存じまする」

 「行って、退治してやりたいものぞ。近頃、腕がむずむずしているところじゃ」

 義清が刀を引き付けながら言った。

 「まあ、義清さま。東郷さまが聞いたら、お怒りになられまするぞ。お家再興という志を忘れたのか、と」

 「春日さま。それはそれ、これはこれ、じゃ。もう、竜王丸さまも元服を済ませ、武芸に関してはとうに我らを抜いてござるによって。竜王丸さまの腕試しの良い機会かとも思われまする。春日さまと重蔵殿の手前味噌の話を聞いているよりは、ましでござる」

 義清の言葉を聞いて、竜王丸も思わず膝を乗り出して言った。

 「腕試しの良い機会、と申すか。義清もそう思うか。実は、この竜王丸もそう思っていたところだ。龍退治、何と面白そうではないか」

 「されど、竜王丸さま。東郷さまのお許しが出るかどうか。恐らく、お許しは無理でござろうなあ」

 重蔵は、東郷金明の謹厳な風貌を思い浮かべ、溜め息を吐きながら呟いた。


 その夜のことである。

 「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。戦さをせずに、敵の国を勝ち取ることを最善とす。情報を集め、時には計略を用いて、簡単に勝てる状況をつくること、竜王丸さま、孫子のこの言葉、ゆめゆめお忘れなきよう」

 東郷金明は第一回目の孫子の兵法講義を終えるにあたり、このように竜王丸に語り聴かせた。

 「あい分かった。時に、金明。この竜王丸も、はや十七となった。そろそろ、諸国を行脚し、修行の旅に出たいと思う。金明、そなたの考えはいかに?」

 「早い、とは申しませぬ。竜王丸さまは既に文武両道に優れた武士になってござる。そろそろ、諸国を巡る修行の旅に出る時かと思いまする。が、もう少しお待ちなされ。せめて、この孫子の兵法、呉子の兵法の講義が済むまでは辛抱なされ」

 「心得た。そなたの講義が済むまでは待つことと致そう」

 「ただ、お一人の旅はいけませぬ。お家の再興を志す大切なお体でござりますれば、南部、北畠の両名をお連れなさいませ。それならば、この東郷金明、安心にござりまする」

 「それはようござりましたなあ。あと、たかだかひと月のご辛抱でござりまするな。義清殿、弥兵衛殿、その間ゆるりと旅の支度を整えておかれた方が宜しかろう」

 満面に笑みを浮かべて、重蔵が言った。

 「重蔵はいかがする?我らと共に行くつもりは無きか?」

 「はっ。ありがたいお言葉ではござりまするが、はや重蔵めは年を取り過ぎましてござりまする。家と旅では異なりまする。何かと足手まといになりましては、心苦しゅうござりますれば、ここにて東郷さまと共に、お留守を預かることと致しまする。さりながら、万一の場合もござれば、先日の弥平次を陰供としてお付け致そうと存じまする」

 「弥平次は手だれか?」

 「はい、竜王丸さま。この重蔵が保証致しまする。重蔵若き頃の忍びの力をはや備えておりまする」

 「おう、それなら、心安いことじゃ。さて、手裏剣の修練に戻ることと致そう」

 竜王丸は棒手裏剣を打ち始めた。その様子を眺めながら、義清と弥兵衛は嬉しくてならぬといった表情をしていた。

竜王丸との諸国行脚の旅を想うと、自然と笑みがこぼれてきた。

 「重蔵さま。先ず、旅の初めは、龍神沼の龍退治となりまするな。時に、龍に刀は通用するものでござるかのう」

 「義清殿。刀より、むしろ矢の方が宜しかろうと存ずるが」

 「弓か。それがし、弓はあまり得手ではござらぬ。弥兵衛殿、汝はいかに?」

 「それがしも、あまり得手ではござらぬ」

 「ご両人、ご心配めさるな。弥平次はなかなかの弓の得手者でござる。あッ、忘れており申した。ほれ、この目の前に名人が居り申した。竜王丸さまほどの弓の名手は未だ見たことがござりませぬ」

 「何と申される。竜王丸さまは弓もお上手か」

 「まさに、武芸百般に秀でておられる。お家再興という大願が無ければ、武芸者として一流を開かれるお方でござるよ」

 竜王丸が打つ棒手裏剣は糸を引いたように板に突き刺さっていった。

三人はその光景を躍るような心で見詰めていた。


 それから、一ヶ月ほどが過ぎた。このひと月は長かったものよ、と竜王丸は東郷金明の講義の最終を聴きながら思った。

いよいよ、明日は旅に出る。旅は竜王丸にとって初めての体験となる。

その日の宿が無ければ、樹の下か洞穴を探して仮の褥とする、その場合の野営の仕方はこう、寝方はこうでござる、と重蔵からの教えも聴いた。

このひと月の間、夜の学問は除き、朝の武芸鍛錬、昼の忍びの修練、全て実践に即していた。戦国の世の倣いで、夜盗も横行している。物騒な世情である。武者修行と称して、武芸の決闘に名を借りて、敗者から金品を奪う輩も居るとか、いろいろな噂話も聴いた。

 「竜王丸さま。いよいよ、明日から諸国修行の旅にお出かけになりますること、まことにおめでとうござりまする。明日お召しになる烏帽子、直垂、袴、足袋の類、ここにご用意致しましてござりまする」

 春日が去った後、部屋で竜王丸はわくわくする思いで、明日の旅立ちの品々を見ていた。太刀、腰刀、扇子も揃えてあった。重籐の弓と矢も用意されていた。

 はッ、とした。人の気配を感じたのである。

 「弥平次であるか」

 「はッ」

 「襖を開けて、こちらに来よ」

 襖が静かに開けられ、農民姿の弥平次が現われた。

 「面を上げよ。明日からは主従となる身じゃ。もう、遠慮は要るまい」

 弥平次は面を上げた。存外若かった。二十四、五の若者であった。

猿に似た、ひょうきんな顔をしていた。

 「随分と前から、隣に居たのであろうが、気付かなんだ。わざと気配を出すまではのう」

 弥平次はにこっと笑った。笑うと少年みたいな顔になった。

 「そちと重蔵の関係を尋ねてもよいか」

 弥平次は少し躊躇したが、思い切ったように言った。

 「父でござる」

 言われて、竜王丸は弥平次の顔を見詰めた。

よく見れば、なるほど、重蔵の面影をどこか残している容貌であった。

 「重蔵に子が居たとは。して、忍びの術は重蔵に習ったのであるか」

 「いえ、忍びはおのれの子に術は教えませぬ。あまりに苛烈な修行故。父の弟弟子に習いましてござりまする」

 「なるほど。明日からは四人で旅をすることとなる。力を合わせて、愉快な旅としようぞ」

 「承ってござりまする」

 弥平次がまた隣室に消えた。襖を閉めた途端、弥平次の気配は絶えた。

見事な忍びよ、と竜王丸は感じた。


 翌朝はよく晴れていた。朝の食事に、鯛の塩焼きが付いた。

麦と米を混ぜた飯に、茄子の煮物、大根の漬物、ひじきの煮付け、大根の汁が付いた。

 「ご馳走でござるな」

 義清が嬉しそうに言った。

 「弥平次さんとやらは、いずこに?」

 春日が弥平次の膳を置きながら問うた。

 「弥平次は陰供でござれば、膳は不要にてそうろう」

 重蔵が春日に言った。その言葉を押し止めるように、竜王丸が庭先に向かって言った。

 「弥平次。これへ参れ」

 竜王丸の言葉に、弥平次がためらいがちに庭先に姿を現し、ひざまずいた。

 竜王丸が縁側に立った。一振りの短刀を弥平次に差し出した。

 「弥平次。陰供は不要。本日以降は我が家臣とする。主従の誓いとして、この短刀を与える」

 弥平次は驚き、思わず重蔵の顔を見た。重蔵が軽くうなずいた。

 「はッ。ありがたき幸せ、この弥平次、粉骨砕身し、お仕え致しまする」

 弥平次は眼を潤ませながら、本当に嬉しそうな顔をして、その短刀を恭しく拝領した。

 「さあ、竜王丸さまの家臣となった以上は、我らと同輩でござる。されば、こちらへ参られい、弥平次殿」

 弥兵衛が膳の方に手招きをして、弥平次を招じ入れた。

「重蔵。弥平次のことを話してよいか?」

 重蔵は一瞬怪訝な顔をしたが、竜王丸の意図を察し、みるみる頬が紅潮した。

 「されば、身共から申し上げた方が宜しきかと思いまする。弥平次は身共の子でござる」

 「おう、何と。重蔵殿にお子が居られたとは」

 義清が驚いたような声を発した。

 「まあ、それはそれは。重蔵さまもなかなか隅にはおけませぬな」

 春日も驚いた様子であった。

 「重蔵殿、晴れて親子の名乗りも済んだわけじゃ。思いがけないことではあったが、竜王丸さまに仕える者が一人増えたわけであるから、めでたい。これはめでたいことである」

 東郷金明も謹厳な顔を崩して破顔一笑、大きな声で言った。


 朝餉を済ませた竜王丸一行四人は東郷金明、西田重蔵、そして春日に見送られて、諸国行脚の旅に出た。南部義清は鹿島の太刀の流れを汲む剣の達人であり、年齢は三十歳であった。北畠弥兵衛は槍の達人で年齢は二十八歳であった。西田弥平次は二十五歳とのことであったが、どうも本当の年齢ではなさそうな感じであった。或いは、三十近くになっていたかも知れないが、生来の童顔故、二十歳と称しても通用したと思われた。

 「忍びの修練は厳しいものと聞いてござるが、まことか?」

 歩きながら、義清が弥平次に訊ねた。

 「さようでござる。それがしの場合は、五歳の時から始め、もうかれこれ二十年になりまするが、父重蔵の目から見たら、まだまだという修行の身でござるによって」

 「重蔵殿の若き頃の働きは、春日さまからいろいろと聞いてござる。敵方の陣中に紛れ込み、弓の弦を全て切り捨て、合戦の役には立たないようにした武功とか、屋敷に忍び込み、天井裏から部屋に下り立ち、秘密の書状をまんまと盗み取った話とか、いろいろと聞いてござるよ。まことに優れた忍びであったと春日さまはおっしゃっておられた」

 「ありがたいお話ではござるが、優れた忍びには逸話無しというのがそれがしのような忍びの者が理想とする忍びでござる。誰にも知られず、仕事をして、ひっそりと生き、ひっそりと死んでいく。逸話は残さず、武功は全ておのれだけの胸に秘めて死んでいく忍びがそれがしの理想の忍びでござれば」

 「そのようなものでござるか。それがしのような武士の生き方とは反対でござるなあ。武士は合戦において人に知られた武功を立て、名を残し、死ぬ時は華々しく散っていくというのが理想でござるによって」

 義清の言葉に、弥兵衛も我が意を得たりとばかり、頷いた。

 「ただ、恥ずかしながら、それがし未だ武功を立てたことはござらぬ。竜王丸さまとお家再興で武功を立てるのが今のそれがしの夢でござる」

 「それがしも、義清殿と同じ夢を持ってござる。竜王丸さまをお助けして、いつかは天下に北畠弥兵衛の名を轟かせたきものでござる」


 竜王丸は微笑みながら、三人の話を聴いていた。名を挙げることに関しては、竜王丸とて南部義清、北畠弥兵衛の二人と何ら変わることは無かった。幼くして父母を喪った竜王丸に父母の面影として残る記憶は無かった。東郷金明、西田重蔵、春日によって語られる父母が全てであった。父は家の再興を果たす前に流行り病に罹り、若くして世を去った。

 母も同じく疫病に罹り、幼い竜王丸を残してこの世を去った。父母の無念を晴らし、宇多源氏名流の佐々木の家名を再興することが竜王丸の夢となっていた。そのためには、おのれ自身が文武両道の武士棟梁となることが肝要であった。優れた棟梁の下には、優れた武士が集まる。今は、南部義清、北畠弥兵衛、西田弥平次という三名の従士しか居ないが、おのれを磨くことにより、おのれの為に奉公してくれる武士を十倍、百倍集めたいものと竜王丸は思っていた。佐々木・京極氏の家名を再興して、国を樹て、領民を安穏無事に暮らさせること、おのれの使命はそこにあると思う竜王丸であった。


 道中、いくつかの村を通り過ぎた。戦乱の世とて、村は疲弊していた。どうにも宿が見つからず、神社の社の軒先で一晩過ごした。商いで旅をしている行商人も見かけた。

中に、陸地から遠い、山深い里ながら、魚を売り歩く行商人が居た。

晩の野営の菜として買おうとした義清を弥平次が止めた。

 「どうして、止めるのじゃ。かなり、生きも良さそうじゃぞ」

 「お止めなされ。魚の肉ではござりませぬによって」

 「それならば、何の肉であろうか?」

 「くちなわ、でござる」

 「くちなわ。蛇のことか」

 「さようでござる。時々、あの者は道を外れ、野原に入って行くはずでござる。野原で蛇を捕らえ、その場で皮を剥ぎ、ぶつ切りにして魚の肉と称して売るために」

 「そういうものか。蛇の肉ということであれば、それがし、ご免こうむる」

 「弥平次。よく知っておりゃるな。そなたも売り歩いた方か」

 弥兵衛が冷やかした。弥平次は笑って答えなかった。

これが弥平次の答えかと竜王丸は思い、微笑を口元に湛えた。

 その夜は、運良く、百姓の家に泊まることが出来た。こんなものしか、出せませぬが、と用意してくれた夕餉は玄米粥と梅干、高野豆腐とふきの煮物であった。

 「時に、あるじ殿、龍神沼を知っておりゃるか。このあたりと聞いておるが」

 「知っておりまする。山を二つばかり越したところがその龍神沼でござる。はて、そこに行かれるおつもりでござろうか」

 「さよう、龍神沼の龍を見に」

 義清の言葉に、百姓は滅相も無いという顔をして頭を振り振り話した。

 「おやめなされ。悪いことは申しませぬ。おやめなされ。龍を見るなぞと酔狂なことは」

 「あるじ殿は見てござるのか?」

 「おのれは見てはおりもうさぬが、もう少し先の村にて見た者がおりもうす」

 「その者の話を聞いたことがござるか?」

 「はい、聞いておりまする。何でも、明け方、ふと目を覚まして、庭に出て、用を足していると、空で妙な音がする。そこで、見上げてみると、長いものが空を飛んでおったと。びっくりして腰をば抜かしていると、その長いものは龍神沼の方に飛び去り、見えなくなったということですじゃ。暫くして、ばちゃっという水音がしたとのことでおりゃる。明くる日の夜、龍神沼にその村人は出かけたということでおりゃるが、今度は沼からその長いものが飛び出して来たということでござった。光るものが二つあり、丁度、龍の眼であったそうな。その者は確かに見たものは龍であったと話してござるが。今どき、龍なぞというのは、信じられないものよと村人は話しておりゃったが。果たして、どうしたものでござろうか。さりながら、龍神沼に龍を見に行くなぞという酔狂な真似はおやめなされよ」

 「明日は、ここのあるじが言った龍の目撃者の居る村に行くこととなる。実際に見た者の口から龍の実際の姿を聴きたいと思うが如何であろうか?」

 「竜王丸さま。それが肝心のところと存ずる。あるじが語ってござる、長いものとか眼のような光るもののもっと詳しい話が必要でござれば」

 枕を並べて、雑魚寝をしながら、竜王丸たち四人はいろいろと龍のことを語り合った。

天を天翔けているというのは事実であろうが、そのようなものは鳥以外では見たことが無い。また、沼から飛び出たとも云う。鳥でも無さそうだ。一体、何者であろうか。そんなことを語り合っている内に、ここ二日間の長旅での疲れもあったろうか、いつしか四人は眠り込んだ。


朝になった。

四人は玄米飯に干しいわし、昆布とごぼうの煮物、大根汁といった心づくしの朝餉を済ませ、龍神沼へと旅立った。弁当は梅干を握り込んだ姫飯(白米)であった。

「いろいろと世話になり、かたじけのうござった。それと、この手紙、旅の行商人をつかまえて、この宛先のところへ持参させてはもらえないだろうか」

弥平治が礼金と一緒に、重蔵宛の書状を主に託した。

「これは過分に過ぎてござる」

「いや、せめてもの心づくしでござる。気持ちよく、受け取って下されい」

「それならば、ありがたく。手紙の件も、確かに承ってござる」

百姓一家の見送りを受けて、竜王丸たちはこの村を去った。

険しい山をひとつ越え、小さな村に着いた。弥平治が道を歩いていた村人をつかまえ、龍を見たという村人のところに案内をしてもらった。

見たという村人は実直な若者で嘘をつくような男には見えなかった。

「仕事中のところ、すまないが、龍神沼の龍のことを話してはくれまいか」

その若者は昨日の百姓家の主が語ったことと同じような内容の話を竜王丸たちにした。

「あい分かった。して、そなたが見た、長いものとはどのようなものであったのか?」

「長いもの、と申しましたが、今となってはどうも自信が持てませぬ。長く見えたのかも知れませぬ。何と申しましても、飛んでいく速さが速すぎて、本来よりも長く見えたのかも知れませぬな」

「それはありうる話でござるな」

弥平次が大きく頷いた。

「龍ならば、ほれ、蛇のようにくねくねと飛ぶはず。この点は如何であったか?」

「いんや、くねくねとした飛び方ではござりますなんだ。一直線に飛んでござったわ」

「これはまた、妙な話であることよ。して、二つの光る眼ということであったが、これは如何であったか?」

「これは、確かに二つござって、おのおの光ってござった」

「光りかたで妙なことはなかったかのう?」

「それよ、それよ、妙なことは。その光は眼から出て、龕灯のように前方を照らしてござった。このような妙な光がござろうか」

「それも妙なことであるなあ。龍の眼は輝くことはあろうが、照らすという話は過去に聞いたことはござらぬな」

弥平治とその若者の会話を聴いて、竜王丸たちは一様に首を捻った。

「竜王丸さま。どうにも合点がいきませぬな」

「そうじゃ。どうも、龍ではなさそうな感じを受けるが」

「そのものは、夜現われるとのことでござった」

「なれば、義清、今夜龍神沼にて見張ることと致そうか」

「それがようござりまする。龍神沼に着きもうさば、直ちに野営の支度を致しましょうぞ」

龍神沼は周囲を鬱蒼とした森に囲まれた沼であった。いかにも龍が棲みそうな神秘的な佇まいを見せていた。昔、日照りが続いた時があり、一人の娘が雨乞いをしながら入水して命を絶ったと云う。その後、娘は龍となって昇天し、雨を壮大に降らせたという伝説がその名の謂れであった。険しい山道が上り坂となって、上りきったところが龍神沼であった。竜王丸たちは額に滲む汗を拭きながら、龍神沼を眺めた。水は殊の外澄んでおり、弥平次が少し飲んでみた。飲めるとのことであった。沼の水で喉を潤し、握り飯で腹ごしらえをして夜を待つこととした。

「弥平次殿。そなたの忍びの術には流派がござるか?」

義清が薪を抱えて戻ってきた弥平次に訊ねた。

「ああ、ござりますとも。戸隠流でござる。始祖は仁科大助というお方でござる。別名、戸隠大助とも名乗っておられましたようで、そこから、流派を戸隠流という名になったのかも知れませぬな」

「昨日から気にはなっていたのであるが、そなたの足音は聞こえぬな。これも術の一つでござろうか?」

「お気づきでございましたか。最初の修練に、足並み十法という修練がござって、これが忍びの体術のいわば基本でござる。抜き足、摺り足、片足、小足、大足、刻み足、足り足、狐走り、犬歩み、うさぎ歩みといった技でござる」

「いわゆる、ぬきあし・さしあし・しのびあし、といったことであるな」

「隠れる術にもいくつかござる。狐隠れ、狸隠れ、木の葉隠れ、観音隠れ、鶉隠れといった術がござって、それぞれに必要な体術がござる」

「狐隠れとはいかなる術か?」

「狐は狩人に追われると、水中に飛び込んで、水草や蓮の葉や藻をかぶり、鼻先だけ出して隠れ通すという知恵を持っていると云われておりまする。忍びの術の場合は、潜水し、竹筒だけ空中に出して呼吸する術を言いまする」

「して、狸隠れとはいかなる術か」

「これは、木に登る登法の修得が必要でござる。狸の場合は狩人に追われると、狐とは異なり、樹に登って、樹の枝と木の葉の繁みに姿を隠すと云われておりまする。すばやく、大木に登り、姿を隠す術でござる」

弥兵衛も焚き火の支度をしながら聴いていたが、興味のあるところと見えて、弥平次に訊ねた。

「時に、弥平次殿、そなたは忍び道具を持参してござるか」

「いかにも、持参してござる。手裏剣、撒き菱、くない、しころ、錐の類でござるが」

「あまり、龍退治の道具とは思えぬが」

「いかにも、弥兵衛さまの仰せの通り、龍に通用する武器とは思えぬでござるな」

三人はからからと笑いあった。


夜が来た。

四人は早めに夕餉を済ませ、焚き火の火も消して、目を凝らして沼の様子を窺った。

夏のことでもあり、虫が多かった。弥平次が懐から皮袋を取り出した。中から細い棒のようなものを取り出して火を点けた。それを四人の潜むあたりに何箇所か置いた。不思議と虫が寄り付かなくなった。虫除けの忍薬と思われた。

時折り、夜の鳥が鳴く他は音とて無く、沼は静謐さを保っていた。静かな夜であった。このまま、無為に時が過ぎていくのかと思われた、その時であった。

静寂が破られた。沼の中央が急に盛り上がった。ザアッという音と共に、飛び出すものがあった。それは一直線に天に駆け上り、一瞬の内に闇空に姿を消した。

「見たか?」

「確かに、見ましたぞ。竜王丸さま!」

「あれは、龍ではない」

「仰せの通り、龍ではござらぬ」

「大根のような形をしてござった」

「白い色をしてござった」

「二つの眼から光が放たれてござった」

「一直線に空に駆け上りましたぞ」

「何という、すばやさ。とても、この世のものとは思われませぬ」

四人共、今見た、この世のものとは思われぬ光景について口々に叫んだ。

茫然自失の四人とは別に、沼は微かにさざなみを漂わせながら、元の静謐さを取り戻し

つつあった。四人は、不思議なものが沼に戻ってくるのをひたすら待った。目を皿のようにして、周囲の空を見上げた。その不思議なものはなかなか戻って来なかった。

 明け方になって、漸くその不思議なものはキーンという音と共に戻って来た。

 姿を見せたと思った一瞬、それは斜め上方から沼の中央にざんぶと飛び込んで、あっという間に姿を消した。竜王丸たちは興奮してそれぞれに見たことを語り合った。

 「やはり、龍ではござらぬ」

 「白い大根でござるわ」

 「長さは二十尺ほどでござった」

 「頭は五尺ほどもあったかと」

 「尻の方に、小さな出っ張りがござった」

 「翼のような出っ張りでござったわ」

 「やはり、眼から光線を発しておった」

 「しかし、それにしても素早い。一瞬の間でござるわ」

 「沼に潜って、調べようではござらぬか」

 「おう、それは良い。潜んでいる姿をじっくりと見たいものじゃ」

 「身共は、水練はどちらかと言えば、苦手の方でござる」

 「義清さま、安心めされい。この弥平次、魚でござる」

 「それでは、皆の者、沼に入る支度をせよ」

 「竜王丸さま。畏まってそうろう」

 やがて、四人は褌姿となって、沼の水に体を入れた。夏のこととて、沼の水はさほど冷たくはなかった。それぞれ、水中に潜り、不思議なものの探索を始めた。藻が生え、魚が泳いでいる他は別に異常は見受けられなかった。

 「弥平次、何か、あったか?」

 「いえ、竜王丸さま。何もありませぬ」

 「あちらの方も調べよ」

 「承ってござる」

 「義清、大丈夫であるか?」

 「はっ、何とか無事でござる」

 「弥兵衛、そちらはどうであるか」

 「それがしも潜ってはおりまするが、特に何もござりませぬ」

 一刻も探したであろうか。

 弥平次が竜王丸を呼んだ。

 「竜王丸さま。こちらにおいでくだされ」

 「何か、あったか?」

 「別なところに繋がる抜け道のような口がござる」

 竜王丸たちが弥平次のところに近づいた。その口は水面から十五尺ほど下がったところにあり、幅は二十尺ほどはあった。この口ならば、先刻見た不思議なものはたやすく往来できるものと思われた。

 「よし、この口を潜り抜けてみることとしよう。弥平次、義清を手助けせよ」

 「承ってござる。さ、義清さま、この綱におつかまりなされ」

 「すまんのう、弥平次殿。世話をかける」

 竜王丸たち四人は弥平次を先頭に潜り始めた。口を潜り抜け、上方に向かった。


一の巻 終わり


二の巻


竜王丸たちが出たところは闇の中であった。徐々に目が慣れて、竜王丸たちは立ち泳ぎをしながら周囲を見渡した。


「竜王丸さま。どうも洞窟のようでござりまするな」

傍らに浮かび上がった義清が驚いたように小声で囁いた。

「二箇所ほど、灯りが燈ってござるよ」

弥兵衛が呟いた。

弥平次も周囲を怪訝そうに見渡していた。

「しかし、洞窟にしては少し妙でござる」


「ともかく、水から出るのが先決であろう。あそこから上がることとしよう」

四人は静かに泳いで、岸辺に近づき、そろりと岸辺に這い上がった。

立ち上がり、周囲を見た。鍾乳洞とは異なっていた。未だ、見たことはなかったが、昔東郷金明から諸国話として聞いた金山の坑道と似ている、と竜王丸は思った。しかし、それにしては、壁に掘った痕跡は無く、つるつるとしていた。まるで、何かに溶かされたような滑らかな表面をしていた。


四人は茫然と立ち尽くし、奥へ続く洞窟の道を見詰めていた。壁に二箇所、灯りが燈されていた。四人は灯りに近づき、仔細を観察した。驚いたことには、油の臭いもしなければ、蝋燭の芯も無かった。炎が無く、ただ小さく光っていた。竜王丸はその光を触ってみた。熱いだろうと思っていたが、意外に熱くは無かった。ただ、球体があり、それが光っているだけであった。四人は黙って、その光るものを見詰めるばかりであった。


“お前たちには不思議であろうが、それは蝋燭でも無ければ、油も使ってはおらぬ”

どこからか、声がした。四人はお互いに顔を見詰め合った。四人の声ではなかった。

警戒しながら、周囲を見回した。


“それは、熱を持たぬ灯りである”

心を鷲掴みにするような厳かな声であった。


「何者! 姿を見せよ!」

竜王丸は油断無く身構えながら、鋭く言った。


“どこを見ておる。ここじゃ、洞窟の中じゃよ”

四人は洞窟の奥に目を凝らした。

やがて、白い影が見えた。その影は竜王丸たちに近づいてきた。


老人であった。

ゆったりとした白い服を着ていた。古代の貫頭衣のようにも思えた。

背が非常に高かった。竜王丸たちの中で一番背が高く、六尺近い大男の義清ですら、びっくりするような身長であった。七尺近い身長であった。細長く彫りの深い顔に口髭と長い顎鬚が目立った。


“私を見て、驚いている様子だな。しかし、驚くことはない。お前たちに危害を加えるつもりは毛頭ない。安心するように”

驚くべきことに、老人の口は動いてはいなかった。しかし、老人の言葉は不思議な響きで竜王丸たちの耳に響いてきた。まるで、耳の中で言葉が発せられているような思いがした。

これが噂に聞いたことのある腹話術であろうか。竜王丸はそう思った。

「そなたはこの洞窟の主か?それがしたちは沼に出没する怪しきものを追って、ここに参りし者でござる」

竜王丸がこの老人に正面から相対する形で語った。

“お前がこの者たちの主人か。なかなか立派な若者だ。私はこの洞窟の主で、人々からはククルカンと呼ばれている者だ”

「それがしは竜王丸と申す。では、ククルカン殿にお訊ねしたき儀がござる。この洞窟の中で怪しきものを見ざるやいなや?」

“お前たちが探しているものは、あれであろう”

ククルカンは微笑みながら、おもむろに洞窟の奥を指差した。

そこに、紛れも無く、竜王丸たちが見た巨大な大根のようなものがあった。

それは、白くつるつると輝いて見えた。

「あっ、あれこそ紛れも無く、それがしたちが探し求めていたものでござる」

“あれは私の乗り物である。決して、怪しいものではない”

「乗り物と申されたか。はて、合点がゆかぬ。一体、どのような乗り物か?」

竜王丸たちから見たら、乗り物と言えば、馬か輿か駕籠といった乗り物であったが、今目の前にあるものはそれらのいずれでも無かった。

“はて、説明するとなると難しい。竜王丸と申す若者よ。乗ってみるか? 乗ってみればすぐ分かるぞ”

「竜王丸さま。およしなされ。捕らえる計略かも知れませぬぞ」

義清が竜王丸の手を引いて、囁いた。

“心配することは無い。私はお前たちの敵ではない。この乗り物でお前たちを案内してやろうと思っているだけだ”

「義清、このククルカン殿はそれがしたちの考えていることが全て分かるようだ。無駄に、時を過ごしても仕方があるまい。乗り物とやらに、乗ってやろうではないか」

「竜王丸さま、いざとなれば、相手は一人、こちらは四人でござりまする。組み打ちでよもや後れを取るとは思いませぬ」

弥兵衛が言い、弥平次も大きく頷いた。

「あい分かった。ククルカン殿、それではご好意に甘えようと存ずる。その乗り物にそれがしたちを乗せて下され」

“竜王丸、そなたの名前は覚えた。姓は佐々木か京極であろう。他の者の姓名を教えて欲しい”

「それがしの右に居るのが、南部義清」

ククルカンはじっと南部義清を見詰めた。ふと、微笑んだ。

“剣に自信のある者とみた。ただ、惜しむらくは猪突猛進”

南部義清は驚き、且つ、むっとした顔でククルカンを睨んだ。

「南部義清の右に居るのが、北畠弥兵衛」

“槍に自信のある者とみた。ただ、惜しむらくは優柔不断”

北畠弥兵衛もあっけに取られ、苦笑いをするばかりだった。

「その右に居るのが、西田弥平次」

“忍びの達人と見た。ただ、惜しむらくは親の愛情を知らぬ”

西田弥平次は少し嫌な顔をした。


「乗り込む前に、ククルカン殿、それがしたちはこのように裸である。今一度、洞窟の外に出て、服なぞ持参致したいと存ずるが」

“それもそうであろう。しかし、今一度、潜るのは大儀であろう。地上に出る道を案内してやろう。”

こう言って、ククルカンは洞窟の壁に近づいた。何やら、呟いた。今度は、ククルカンの唇が動いて言葉が発せられた。呪文のような響きであった。

驚愕したことに、壁の一部が扉のように開いた。中は空洞で上に上る階段があった。

ククルカンを先頭に階段を上った。行き止まりとなった。また、ククルカンが何か呟いた。すると、突き当りの壁の一部が開き、外界の眩い光が洪水のように押し寄せ、竜王丸たちの眼を眩ませた。

一行は外に出た。

眼下に、龍神沼が神秘的な水を湛えて広がっていた。

“ここから、下に降りて、服を着替えたらどうか。荷物は全て、持参しても構わない。勿論、武器も含めて。私にはお前たちの武器は意味を持たないから。私はここで待っている”


四人は旅の姿に戻り、荷物を携えて、先ほどの場所に戻った。すると、岩の扉が開き、ククルカンが待っていた。

“おお、その姿がお前たちの本来の姿か。実に素晴らしい服だ”

ククルカンは暫く、竜王丸たちの直垂・袴姿を見ていた。

“竜王丸、お前は大望のある身だな。貴人の血が色濃く流れている。流浪の貴公子であるか”

ククルカンは少し感傷的な顔になった。

また、ククルカンを先頭にして階段を下りて、洞窟の中に入った。

“これから、洞窟の道を通って、私の館に案内しよう”


ククルカンはその巨大な大根のようなものに近づき、指を鳴らした。

戸が開いた。中に座席があった。座席は一列に二つ、四列で八人が座れるような造作となっていた。

“順番にお入りなされ”

ククルカンに促され、竜王丸たちは乗り込んだ。

「ひどく、柔らかい床机でござるな。座り心地はようござるわ」

弥兵衛が感心したように言った。

中は白一色で座席の他は何も無かった。窓も無かった。

最後に、ククルカンが乗り込んだ。

ククルカンが何やら呟いた。戸が閉まった。また、何か呟いた。その乗り物がそろそろと動いた。動いたと思った瞬間、凄い速さで洞窟の中を走り出した。体がすごい力で背もたれに押し付けられた。


“さて、ゆるりと語ることとしよう”

“私は先ほども申したように、これから行くところではククルカンという名で呼ばれている”

“しかし、他では別な名前でも呼ばれている。これから行くところは中央の地方であるが、北部の地方ではケツァルコアトルという名前で呼ばれている。ケツァルというのは綺麗な羽毛を持つ鳥の名前で、コアトルというのは蛇のことだ。つまり、羽毛のある蛇ということになろうか”

ククルカンは少し微笑みを浮かべた。


“そうそう、説明するのを忘れておった。ククルカンのククルはケツァル鳥のことで、カンは蛇のことよ。従って、ケツァルコアトルもククルカンも同じ意味で、羽毛のある蛇ということになる。地方によって、言葉が異なっているのだ”


“名前の由来となると、私にも実は分かっていないのだ。現地人の名前の付け方は独特だからな。ケツァル鳥はその地方の神話では神の子の化身とされている。罰を受けて鳥に姿を変えられた神の子の化身という伝説もある。私がほんの気紛れで行ったことが神の仕業とされたのかも知れない。また、蛇はおそらく私の高い身長が蛇のように長いということでそのような名前がつけられたのかも知れない。私自身はこの名前が気に入っている”


“また、南部の国ではビラコチャという名前でも呼ばれている。私も忙しい男でな、いろいろと昔は活躍していろいろな国を動き回ったものだ”


“もう気付いていることと思うが、私はお前たちの住む星とは別な星からやってきた者だ。異星人とでも言うのであろうか”

「別の星、と仰せられたか。別の星とは一体どのようなものでござる?」

弥兵衛が眼を丸くしてククルカンに訊ねた。

“平たく言えば、今私を含め、お前たちが住んでいるところとは別なところと言うことじゃ。夜になると、いろいろな星が見えるであろう。その星の一つから飛んできたということじゃ”

竜王丸以下、愕然とした思いでククルカンを見た。


“私の住んでいた星は高度な文明を誇っていたが、自分たちの作った武器で争いが始まり、滅びの道を辿った。私はその愚かさが嫌になり、その星を飛び出した。偶然、この星に降り立ち、ここが気に入って住んでいるということだ”


“私の寿命はお前たちの百倍はある。私はもう三千年以上、この星に暮らしておる”

“時々は地上に出て、私を探しに昔の星の敵が来ていないかどうか、見回りをすることにしている。たまたま、お前たちの住んでいる国の村人に見られてしまったが”

“恐怖を持たせ、村人が近寄らないように、沼から出没するという派手なことをしていたのであるが、あにはからんや、お前たちのような向こう見ずの無鉄砲な若者がいたとは、少し私の計算違いであった”

ククルカンはまた微笑んだ。


“とは言うものの、実際のところは、私はお前たちを気に入っている。竜王丸、汝は若い頃の私を思い出させる。私も若い頃はお前のように、大望のある身でありながら、命知らずで無鉄砲な若者であった。はや、故郷の星を捨てて、四千年が経つ。どうも、年齢を取ると感傷的になるものだ。今のお前に、私はどうも郷愁を感じているようだ”


“さて、それはともかく、話を進めよう”

“前にも話したように、この星に来たのは三千年前であった。それから、五百年の間、私は住むべき館の建築に没頭した。と同時に、今通っているような道もこの星のいたるところに館から直接繋がるように造った。”


“館造り、道造りも一段落した後で、私は地上に出て、現地人と交流を始めた。これは、無論私の気紛れによる。何も、現地人と交流する必要はなく、現地人の発展をただ見てれば良かったのであるが、少しでも速く発展させてやりたいという私の善意と退屈しのぎの暇潰しという二つの気持ちから私は時折現地人の営みに介入した”


“しかし、その内、私を激怒させるようなことが起こってしまった。”

“竜王丸たちは思いもよらないであろうが、宗教儀式の中で、生贄という恐るべきことが行われ始めたのだ”


“農業が始まると、これはどこの国でもそうであろうが、天候に対する関心が最重要の関心となってくる。種を蒔くべき時を知り、種を蒔いた後は、太陽はちゃんと明るく地上を照らし、雨はちゃんと降ってくれるという状態が一番農業には良いのだ”

“いつのまにか、太陽を確実に上がらせるためには人にとって一番大切なもの、つまり人間の命を捧げなければならない、という考え方を採るような馬鹿な神官、祭司が増えてきた。また、旱魃が続けば、雨の神にやはり人間の命を捧げるという馬鹿げた思想がでてきた”

“その結果、身の毛もよだつような生贄の殺人儀式がはびこるようになってしまった”


“生贄を得るてっとり早い手段として、部族間の戦争が常態となり、花の戦争と称して捕虜獲得のためだけの戦争が定期的に行われるようになってしまった”

“生贄は生きたまま、捕らえなければならない。殺す戦争ではなく、捕虜を得る戦争で狙うは相手の王か貴族か勇敢な戦士ということになる。高位の捕虜を獲得したところで戦争は終わる。一般の農民は捕虜としての値打ちは無いと見なされ、戦争の対象からは外された”


“捕らえた捕虜は、竜王丸たちの国でもそうであろうが、儀式の時に斬首される。或いは、生きながら、胸を切り裂かれ、心臓を抉り取られる。その後、皮を剥がれる時もあれば、人肉を儀式の中で食べてしまう、ということも頻繁に行われるようになった”

“私は、捕虜を殺した後、その皮を剥ぎ取り、神官が剥ぎ取った皮を被って狂ったように踊っているという光景を何度も見た。まさに、吐き気を催す光景だった。また、人肉喰いということも耐え難い慣習だ。生贄となった人体は神と通じ合った人体であり、聖なるもので、その肉を食べるということは神と通じ合う、という妙な理屈で食べるのだ。馬とか牛とかいった大型の家畜のいない国では人の肉が手っ取り早い蛋白質補給源となるのか。これも私には耐え難い慣習であった”

“止めさせようとしたが、出来なかった。私は絶望し、現地人とは接触を持たないことに決め、彼らの前から姿を消した。それから、今に至っておる”


竜王丸たちも、ククルカンの生贄の話には思わず背筋が凍る思いをした。

「それがしたちの国では生贄の風習はありませぬな。神代でのことはともかく、今の世では、そのような野蛮な風習はござらぬ。ただ、今は戦国の世でござれば、戦場での首取りは常のことでござるが」

竜王丸がククルカンに言った。


“おお、はや着いたようだ”

“始めに、断っておくが、お前たちはもうお前たちの国を離れ、この星で言えば丁度反対側のところに居る。お前たちは知らないであろうが、この星は丸い形をしており、お前たちの国と今居るところは丁度反対側なのだ”

竜王丸たちはきょとんとしていた。ククルカンの話は竜王丸たちの理解をはるかに越えていたのであった。ククルカンは竜王丸たちの心の内を読み、微笑みながら言った。

“まあ良い。後で説明してやろう”

“さあ、我が家に着いた。降りることとしよう”

ククルカンがまた呪文みたいな言葉を呟いた。

扉が静かに開いた。

竜王丸たちが降り、最期にククルカンが降り立ち、扉は閉まった。


竜王丸たちは周囲を眺めた。今まで見たこともない光景が広がっていた。岩の洞窟では無く、白一色のつるつるした壁に覆われた部屋に居た。広大な部屋であった。千畳敷もありそうな、と竜王丸は思った。壁に穴が何本か開いていた。その内の一本の穴を通って、ここに辿り着いたものと思われた。


「ククルカン殿。壁の穴は今の乗り物のための穴でござるか」

“その通りだ。今、お前たちが乗ってきた乗り物は八人乗りの高速飛行自動車であり、壁の穴は全部で十本あり、お前たちの国の他、この星のいろいろな国に繋がっている”


“そう、先ず、この星のことを教えてやろう”

ククルカンが何か呟いた。床の一部から箱のようなものがするすると上がってきた。

箱には小さなものが付いていた。小型の硯箱のようなものだった。ククルカンがそれを外し、指で表面を触った。箱の中央が光を発し、丸い球体が映し出された。

竜王丸たちは茫然とその映し出された球体を見詰めた。


“これがこの星の実際の姿であり、空に浮かんでいる。美しい星だ。お前たちの国はこの小さな島だ。そして、今お前たちは反対側のここに居るのだ”

その球体はゆっくりと回転し、ククルカンは指で示した。


“お前たちの国を拡大して見ることとしよう。この島の・・・、この地方の・・・、ここが龍神沼だ”

ククルカンの説明に合わせ、地図が拡大されていき、龍神沼がようやく視界に現われた。

竜王丸たちは茫然とした思いで、小さな島が大きく拡大され、龍神沼の全景がその画面に徐々に出現してくる様子を見詰めていた。竜王丸は信じられないという表情をして、ククルカンを見た。


“この星も他の星と比べたら、それほど大きな星ではないが、お前たちの島もこのように海に浮かぶ小さい島だ。まして、龍神沼なぞはこの縮尺では目にも見えないほどの大きさでしかない”


「ククルカン殿。今、それがしたちはこの星のここに居ると申されたが、俄かには信じがたい話でござる。乗り物にて、ほんの少しの間、乗ったばかりでこのようなところに居るとは、まことに信じがたい」

“龍神沼から出て、夜明けに戻ってくるまでに、あの高速自動車はこの星の空を十周ほど回っているのだ。それほど速い乗り物なのだ。驚くには値しない”

“そうだ、ここの外界の様子を見せてやろう。ここは暑いところだ”

ククルカンはまた硯箱をいじり始めた。画面が変わり、鬱蒼とした森が現われた。

“どうだ。お前たちの国の森とは大分違った森であろう。もう少し、拡大してやろう。どうだ、この紅い花は。お前たちの国には無い花だ。ほら、ここに動物が居る。この動物は肉食の大型動物だ。南部義清と言えども、剣でこの動物を退治するのはなかなか難しい”

黄色い肌に黒の斑紋を持つ動物が大きく拡大された。その獰猛そうな顔に、竜王丸一同は思わず身構えた。

“そう身構えずとも良い。ここから相当離れた場所の画面に過ぎない。この地方では、この動物が一番強い動物だ。その強さ故、現地人には尊敬されており、この動物を倒す者は勇者中の勇者としてさらに尊敬されるのだ”

「この動物はそれがしたちの国にはおりませぬ。まことに、今それがしたちは異国に居るということでござるなあ」

義清が感嘆したように呟いた。


竜王丸たちは穴堀りに使われたという自動人形も見せられた。竜王丸たちと同じような身長の自動人形であったが、全身が金属で作られていた。お前たちの剣よりも強い金属で出来ているとのククルカンの説明であった。また、奇妙な部屋も見せられた。線香一本が燃え尽きる程度の時間で全身の疲労が回復するとの説明であった。ククルカンの説明によれば、この部屋に毎日入ることによって、長い寿命が保たれるとのことであった。その他、ククルカンの武器も見せてもらった。握りの付いた筒状のもので、筒の中から光が出て、敵を貫通し倒すとの説明であった。

“この武器を使ったことはほとんど無い。千年過ごした中で数回といったところだ。現地人はこの武器のことをシウコアトルと名付けて恐れている。シウは火、コアトルは蛇のことであるから、まあ、火の蛇といった名前か”


“竜王丸、少しこの国で過ごしてみる気はないか。このまま、元の国に帰ったところで面白くもあるまい。少し、この国を体験してみるのも悪くはないだろう”

「もとより、それがしたちは諸国を行脚し、いろいろと修行をするつもりでござるによって、この国で修行するのもよかろうと存ずる」

竜王丸は義清たちを振り返って言った。

「そなたたちの考えはどうじゃ?」

義清たちはお互い顔を見合わせていたが、考えは同じと見えた。

「それがしたち三人は同じ考えでござる。竜王丸の行かれるところ、それがしたちも喜んで参りまする」


“よし、それならば、お前たちに旅の土産として、三つのものを進呈しよう”

“一つは防御服である。実は私も着用している”

ククルカンは膚を覆っている透明で薄い布のようなものをつまんで示した。

“これは極めて薄いが極めて丈夫な防御服である。これで、頭から足の指まで着用すれば刀はおろか、矢も通さない。頭部用、上半身用、下半身用、手袋、足袋と全身を覆うことが出来る。頭部用は呼吸も出来るように作られてある。着心地も良い”


“二つ目はお前たちの武器をより頑丈に強くしてやろう”

“刀、槍、矢といった武器に特殊な合金を蒸着してやろう。刀なら斬鉄剣となり、何でも斬れ、しかも折れない刀となる。槍、矢の場合も何でも射抜く強度を持つようになる。私が進呈する防御服が唯一この斬鉄剣に対抗しうるものである”


“三つ目は携帯用の食料である。”

“小さな粒であるが、一日に一粒服用するだけで十分である。空腹感は感じない。水だけ飲んでいればよい。便は出ないが心配することはない。まあ、一ヶ月ほどの滞在で十分であろうから、三十粒ほど進呈しよう”


“どれ、お前たちの武器を貸してごらん”

ククルカンは竜王丸たちの武器を取り上げ、刃を剥き出しにした上で、四角い箱の中に入れた。これも線香一本程度の時間で済んだ。刃は何の変化も無かったように感じられたが、よくよく見ると、微かに青みがかった色になっていた。


“そうそう、大事なものを忘れていた。これじゃ”

ククルカンは小さな粒を二つ見せた。

“これは耳に入れる。表面が柔らかくなっている。これを耳に入れておけば、相手の言葉が全て分かるようになる。また、こちらのものは服の首のところにでも、このように付けておく。こちらの言葉が相手の心に伝わるようになる”

「つまり、異国の者同士でも意思がお互い伝わるということでござろうか。はて、玄妙なからくりでござるなあ」

弥兵衛がひどく感心したような口振りで話した。


“さて、それでは、一人ずつ、あの疲労回復の部屋に入り、旅の疲れをきれいに落としてから、この国の見物に出かけることとせよ”

ククルカンが竜王丸たちに言った。


直垂、袴姿より行者姿の方が動きやすく良かろうということになり、竜王丸たちは全員防御服を着用した上で、白い筒袖、股引という姿になった。一応、頭部用の防御も行った。 

なるほど、ククルカンの言う通り、呼吸もしやすかった。驚いたことに、着心地も良く、暑苦しさは微塵も無く、むしろ清涼感さえ感じる防御服であった。

ククルカンが先頭に立ち、地上に出る穴の階段を上った。


出たところは密林の中であった。鬱蒼とした密林で、草の匂い、樹木の匂いが充満していた。木陰から洩れ来る太陽の光は眩いばかりで、相当暑いはずであったが、防御服のおかげで暑さは感じられなかった。汗もかかない。竜王丸たちはいっぺんにこの服が好きになった。


ククルカンと別れ、竜王丸一行は異国の地での冒険の旅に出た。

 遠くで、鳥の甲高い鳴き声がした。また、獣の唸り声も聞こえた。不気味な響きであった。

 「みなのもの、これからが修行の旅ぞ。油断することなく、おのれを磨こうぞ」

 竜王丸たちは慎重に密林の中を歩いた。

 ふと、弥平次が立ち止まり、地面に耳を押し付けた。

 「大勢の足音が聞こえまする。方々、ご用心あれ」

 その内、人の声が聞こえてきた。

 竜王丸たちは緊張しながら歩を進めた。



二の巻 終わり


三の巻


 ボロンカルはマヤの平和な村であった。

いたるところに南国の赤い花、黄色い花が咲き乱れる、マヤの平和な村だった。

村の周囲は鬱蒼と繁る厚い密林に囲まれており、数世紀にわたり、外敵の侵入も無く、人々は穏やかに暮らしていた。

周辺に川は無かったが、豊かな水量を蓄えた地底湖が村の外れの幾つかの洞窟にあり、人々は家事に使う水を汲んだり、水浴をしたり、洗濯をすることが出来た。

 村には家畜として、七面鳥、犬が飼われており、野原には野生の七面鳥の他、鹿、うさぎ、雷鳥、うずら、土鳩、イグアナ、アルマジロといった動物がたくさんおり、人々は狩でたやすく捕らえることが出来た。

また、周辺の密林は計画的な焼畑が行われ、トウモロコシ、マメ、カボチャ、アボカド、トマト、綿花といったものを栽培し、豊かに暮らしていた。


 しかし、数年前から他の部族からの襲撃が重なり、村人はマヤパン末裔の王国の一部落として自衛のための戦士軍を組織せざるを得なくなっていた。

その戦士軍の一人の長にホルカッブという若者が居た。

屈強な体をしており、戦士ということでマヤの風習で、体を黒い染料で隈なく塗ってはいたが、その膚はしなやかで艶があり、ホルカッブの身体は雨水を綺麗に弾き、濡れないという部落の女たちの評判を取っていた。


 そのホルカッブが草叢に身を潜め、激しい雨に打たれながら、じっと前方を見詰めていた。

 その視線の先に、数人のインディオと見慣れぬ姿をした白く背の高い男が雨宿りしながら、巨木の蔭に立っていた。

 インディオは敵対しているメシーカ族の戦士だった。

 白く背の高い男が脇に居た。

あれが噂に聞いたククルカン末裔の男か、とホルカッブは息を潜めながら思った。

 その男は見慣れぬ服を着て、長大な剣を腰に差し、細長い棒のようなものを両手で持っていた。

 あの長大な剣は見たことの無い金属で出来ているとのことだ。良く切れ、そして頑丈という噂だ。あの剣が欲しいものだとホルカッブは思った。

 また、細長い棒のようなものを見詰めながら、あれが火を吐く棒か、とホルカッブは推測した。これも剣同様、部落の誰かが噂をしていた。

あの棒は稲妻を吐き、その稲妻に打たれた者は即座に死ぬという噂であった。


 微かな音がした。ホルカッブは音がした方を横目で見た。

そこに蛇が居た。

頭が三角形をしていた。五尺ほどの長さの蛇だった。汚い斑点のある蛇だった。

毒蛇だった。

ホルカッブの右手が動き、蛇の首を掴んだ。すばやい動きだった。 

蛇は体をくねらせ、ホルカッブの右腕に絡みつき締め上げた。

ホルカッブは構わず、左手で器用に黒曜石のナイフを腰から引き抜き、地上に押さえつけた蛇の頭を切り落とした。

 ホルカッブは音を立てないように行ったつもりであったが、木陰に佇んでいたインディオの一人が気付いたようであった。

ホルカッブが潜んでいる草叢を見た。そして、弓に矢をつがえようとした。ホルカッブは草叢を離れ、駆け出した。矢が右の耳をかすめていった。ホルカッブは後ろを振り向かず、ひたすら密林の中を走り、逃げた。


 ボロンカルに辿りついたホルカッブは暫く、大きな樹の下で体を休めた。

 「ホルカッブ、どうしたの?」

 ホルカッブが眼を上げると、そこに一人のウィピル(マヤの貫頭衣で、脇を縫っただけの衣服)姿の若い娘が居た。色とりどりの花を手に持っていた。

 「ああ、シュタバイか。俺は今、メシーカ族から逃げてきたところだ。あいつらはすぐ近くまで来ている。これから、アーキンマイかホルポルに知らせてこようと思っている」

 「メシーカ族なの。あの残酷なメシーカなの?」

 「そうだ。やつらは強い弓を持っている。逃げる俺に矢を射掛けてきた。それに、話に聞いたことのあるククルカンの末裔の男も一緒に居た」

 「えっ、こんな近くまで来ているの」

 驚くシュタバイを後にして、ホルカッブは村落に行き、首長のアーキンマイを探した。


 アーキンマイはピラミッドの神殿の上に居た。

アーキンマイはいつものように、ケツァル鳥の青い羽根のついた頭飾りをそよ風にたなびかせていた。

マヤのピラミッドは階段状に造られており、ボロンカルのピラミッドは五十尺(15メートル)ほどの高さで、頂上に神殿が建てられていた。ピラミッド、神殿共、赤く塗られていた。

アーキンマイは魔術師のスキアと一緒にタバコを吸って寛いでいるところだった。

 ピラミッドの急な階段を駆けるように登ってくるホロカッブを見て、少し驚いたようであった。不安が一抹の風のように、彼の心に忍び込んだ。


 「偉大なる首長アーキンマイと偉大なる呪術師ウアイ(スキアのこと)よ。私はメシーカ族とククルカンの末裔の男を見た」

 「勇者ホロカッブよ。お前はその者たちをどこで見たというのじゃ」

 「北のヤシュチェー(セイバ)の樹の下で雨宿りをしていた。メシーカが三人、ククルカンの末裔が一人居た」

 「お前はやつらに見つかったのか」

 「見つかり、矢を射かけられたが、何とか逃げてきた」

 「もう、あんなところにまで、メシーカは来ているのか。おそらく、その者たちは斥候であろう。周辺の部落はもう制圧されたものと見える。スキア、何か言うことはないか?」

 スキアは葉巻を吸うのを止めて、アーキンマイに語った。

 「おそらく、メシーカはこの村に奇襲をかけてくるだろう。神々が私に語りかけている。奇襲は明日か明後日であろう」

 「ホロカッブよ。スキアの予言に基づいて、戦士の長に伝えよ。奇襲に備え、棍棒と槍を戦士に配れ、と」

 ホロカッブが命令を持って、ピラミッドを駆け下りようとした矢先、アーキンマイが呼び止めた。

 「戦士の長に伝えてから、ご苦労ではあるが、近隣の部落にもメシーカ族の来襲を告げてきて欲しい」

 ホロカッブは駆け下りて行った。


 「アーキンマイよ。どうするつもりだ。奇襲は何とかしのぐとしても、正規軍で来られたら、部落連合くらいでは太刀打ちは出来ないぞ。マヤパンの王にも知らせておくべきではないのか」

 「スキアよ、わしもそう考えていた。マヤパンの王にも連絡をしておこう。ホルカンに命令し、マヤパンに行かすこととしよう」

 アーキンマイはあたふたとピラミッドを下りて、ホルカンを探しに行った。

 マヤの場合は、アステカ帝国を築いたメシーカ族とは異なり、王、神官の下で国家の運営にあたる官僚組織は無かった。従って、専制的リーダーである王自体の個人的資質に国家としての運営が依存していた。個人的資質に優れた王ならばともかく、資質で劣る王の在位時は、順風満帆に行っている時は良かったが、敵国の襲来といった異常な事態が起こった時はその国家は悲惨な運命を辿らざるを得なかった。

 これはボロンカルのような部落の首長にも言えた。

 スキアは再び葉巻を吸いながら、別なことを考えていた。薄い笑いを浮かべていた。


 今までは、周辺の部落と力を合わせ、何とかメシーカ族の侵入を阻止してきたが、ククルカンの末裔がメシーカ側についたということであれば、話は別だ。ククルカンの末裔たちの或る者は四足の巨大な体躯をしているということであるし、剣も特殊な金属で出来ており、わしたちの黒曜石とか火打石から作ったナイフでは到底太刀打ちが出来ない、また、稲妻を発するという恐るべき武器も持っている。到底、わしたちに勝ち目はない。それに、今の首長のアーキンマイという男は翡翠とカカオの豆を集める能力しか持っていない強欲な男だ。頼りにならない。また、これから連絡を取ろうとするマヤパンも昔の勢威はもはや無く、王の人望だけで盟主の地位を占めているだけの国だ。まして、噂では北の海からもククルカンの末裔たちは上陸しているという話だ。北の海に近いマヤパンもそちらの対応に追われているらしい。もう、わしたち、マヤも時間の問題で滅亡する時か。

 スキアはそんなことを考えていたのであった。

 ※ 筆者注記:カカオの豆は当時大変貴重なものとされ、通貨としても通用していた。

        飲み物としては、磨り潰して、水や香料、唐辛子を入れて泡立てて飲

んでいたと思われる。砂糖を混ぜ、甘くして飲んだのはスペイン人の

征服以降である。


 一方、ホルカッブはアーキンマイに命ぜられたことを忠実に実行していた。戦士の長はホルカッブも含め、十人ほど居た。それぞれ、二十人ずつの戦士を率いていた。合計、二百人の戦士がこの部落の防衛にあたる戦士だった。ホルカッブは戦士の長の家々をまわりながら、メシーカ族とククルカンの末裔たちを部落の近くで目撃した旨を告げ、スキアの予言に基づく戦闘の準備を呼びかけて行った。途中で、コチャンに遇った。コチャンは猟師で弓の達人だった。と同時に、シュタバイに恋しているということに関しては、ホルカッブの恋のライバルでもあった。しかし、二人は幼馴染であり、少年時代は若者宿で一緒に寝起きした仲良しであった。

 「どうしたんだ。ホルカッブ、そんなに急いで」

 「ああ、コチャンか。今日、部落の北のヤシュチェーの樹の下で、メシーカのやつらを三人見た。恐らく、斥候だろう。傍に、ククルカンの末裔も一人居た。アーキンマイとスキアに話したら、じきに奇襲があるかも知れないということで、今戦士の長の家々をまわって、戦闘準備を呼びかけているところだ。コチャンも矢をいっぱい作っておいた方が良いぞ」

 「うん、そういうことなら、矢をたくさん作っておくこととするよ。時に、シュタバイは見なかったかい?」

 「ちょっと前に、部落に入るところで見かけたよ」

 「ああ、そうか。メシーカに襲われたら、と思うと心配でならない。シュタバイを探してくるよ」

 ホルカッブはコチャンと別れ、また、戦士の長の家々に走っていった。


 ホルカッブと別れ、コチャンは部落に入る入口の方に歩いて行った。

コチャンは、シュタバイには自分とホルカッブの他に、求婚者があと二人居ると思い、少し憂鬱になった。ホルカッブと同じ、戦士の長で格闘技の勇者、ホルカン、そして、天文担当の神官見習いのナチンの二人も数年前からシュタバイに求婚していた。メシーカ族の神官は独身を守るという定めになっていたが、マヤ族の神官は妻帯が許されていた。ナチンの家は神官を世襲しており、家格としてはアーキンマイに次ぐ家格の貴族であった。

娘の結婚に関しては、その娘の父親が絶対的な権限を持っていた。そして、シュタバイの父親、サーシルエークはこの四人の求婚者の中で、コチャン自身の目から見たら、どうもナチンに娘を嫁がせるつもりでいるように思えた。


村の入口から少し入ったところをシュタバイは摘んだ花を両手で持って歩いていた。

赤色、黄色と色とりどりの花は可憐で綺麗だった。まるで、シュタバイのようだ、とコチャンは思いながら、声をかけた。

「やあ、シュタバイ、元気かい。早く、家に帰った方が良いよ。ホルカッブから聞いたんだが、メシーカがうろちょろしているらしいから。明日か明後日か、メシーカが襲ってくるかも知れないって」

「私もホルカッブから聞いたわ。それはそうと、コチャン。村でウツコレルを見なかった?」

「ウツコレル? いや、今日は未だ見ていない。どうかしたの?」

「二人で花を摘みに行って、森で別れたんだけれど。メシーカが近くに居るらしいから、ウツコレルが心配なのよ。さらわれたりしたら、大変だから」

「うん、それなら俺が探しに行ってくるよ。シュタバイはこのまま早く、家に帰った方がいいよ」

シュタバイと別れ、コチャンは村の入口の方に歩いて行った。

ウツコレルはシュタバイの妹でシュタバイより一歳下だったが、実の妹では無く、サーシルエークが十年ほど前に交易のために部落を離れ、西方を旅した時に孤児となっていたウツコレルを連れて帰り、シュタバイの妹として育てていた娘だった。


サーシルエークが旅の途中で、燃えている家を見かけた。サーシルエークは恐る恐るその家に近づいた。中から、泣き叫ぶ女の子の声がした。思わず、飛び込んだ家の中で彼が見た光景は無残なものだった。


頭を割られ、血に染まった白い男とマヤの女が倒れていた。その脇で小さな女の子が立ちすくみ、泣いているのだった。炎は既に屋根に移り、いつ屋根が倒壊してもおかしくはない状態だった。思わず、彼は女の子を両手で抱きかかえ、家の外に転がり出た。その瞬間、屋根が落ち、家は黒い煙に包まれた。まさに、間一髪の出来事だった。


彼は女の子を連れて、部落に戻った。その後、彼が聞いた噂によれば、ククルカンの末裔たちの仲間割れで、一人が殺され、一緒に暮らしていたマヤの女も殺されたとのことだった。殺された両親の不運な混血の子がウツコレルだった。


ウツコレルは変わった顔立ちをしていた。肌の色は白く、顔立ちもマヤの顔をしていなかった。頭の形も生まれた時のままで丸く、マヤに独特な額の変形が無く、眼も斜視とはなっていなかった。恐らく、殺されたククルカンの末裔と思われる父親がマヤの風習である額の変形と強制的に斜視にすることを嫌がったためかと思われた。子供が生まれるとすぐに額と後頭部を板で挟み、額を後ろに強制的に反らせることと、額から紐で玉を鼻のところに垂らし、その玉を見詰めさせることにより、強制的に斜視やぶにらみにするといった風習がマヤ民族には共通していた。そして、反らせた額と斜視が顕著なほど、高貴であると見なされていた。シュタバイはそのマヤ独特の観点から言えば、高貴で美人であると評価されていたのであった。一方、ウツコレルに関しては、マヤの美的観念から言えば、完全な出来損ないの少女という評価でしかなかった。


コチャンはウツコレルを探して、村の入口を出て、北のヤシュチェーの樹の方に歩いて行った。そこは、ホルカッブの話によれば、メシーカ族の斥候が徘徊しているところであり、コチャンは弓に矢をつがえ、油断無く身構えながら、歩いて行った。

村の入口と北のヤシュチェーの樹の中間あたりに来た時であった。


突然、女の悲鳴が起こった。その声の方向にコチャンが素早く走って向かった。

巨木を背にして、ウツコレルが立ちすくんでいた。ウツコレルの前に、弓矢を持ったメシーカが居た。メシーカはにやにや笑いをしていた。

コチャンが鋭く、ウツコレルに声をかけた。メシーカはコチャンの方を振り向き、弓を構えて矢を放とうとした。コチャンの方が速かった。コチャンの放った矢がそのメシーカの胸を貫いた。メシーカは断末魔の声を上げ、崩れ落ちた。

「ウツコレル、速くこちらへ。逃げよう!」

コチャンがウツコレルを手招きしながら呼んだ。そして、ウツコレルの手を握りながら、部落の方へ駆け出した。耳元を矢がかすめて行った。コチャンが後を振り向くと、別なメシーカの戦士が居て、新たな矢をつなごうとしていた。二人は全速力で走り逃げた。


部落に着いた。大きく息を弾ませるウツコレルを身ながら、コチャンが言った。

「今日、ホルカッブがメシーカの斥候を見た。お前を襲ったあのメシーカもおそらくその斥候かも知れない。ここニ、三日の間でメシーカが奇襲をかけてくるかも知れないとホルカッブは話していた。当分は、ウツコレル、部落の中に居た方がいいよ」

「ええ、コチャンが助けてくれなかったら、私はどうなっていたかしら。本当に、ありがとう。シュタバイと別れ、森の中を綺麗な花を探して歩いていたら、ふいにあのメシーカが現われて、・・・」

そこに、ホルカンが走って来た。ホルカンは腰帯(褌のようなもの)姿であったが、戦士の長らしく、マント状の肩掛け布を上に纏っていた。

「ホルカン、そんなに急いでどこに行くんだ?」

「ああ、コチャン、それに、ウツコレル。俺はこれから、マヤパン王に会いに行くんだ。アーキンマイの命令で、メシーカ族の来襲を告げに行くんだ。ホルカッブが今日近くでメシーカを見たらしいんだ」

「知ってる。そいつらがウツコレルを襲おうとしたんで、俺はそいつらの一人を矢で射殺してやったんだ」

「おお、それはお手柄だったな。俺は急いでいるので、これで行くけれど、メシーカがウツコレルを襲った件はアーキンマイに言っておいた方がいいよ。では、・・・」

ホルカンは走り去っていった。


ナチンはコパルを焚いた部屋に座って、ぼんやりと考えていた。

マヤは滅びる、と薄々感じてはいたが、この頃の天文観察を行えば行うほど、マヤ滅亡の日が近いことを痛感させられていた。天文を見れば見るほど、マヤは近いうちに必ず滅びるという暗示に満ちていたのであった。

マヤはメシーカ族と異なり、強力な帝国をつくらなかった。都市国家として昔からそれぞれが独立国として存在していた。ただ、その時々で都市国家の盟主はあった。例えば、ウシュマルが栄え、次にチチェン・イッツァが栄え、マヤパンが盟主となった。しかし、今は盟主がなくなり、小さな独立都市国家が点在しているに過ぎない民族となってしまった。

この部落も名目上はマヤパン王国に属してはいるが、マヤパン王にかつての威厳はなく、メシーカの襲来、ククルカンの末裔たちの攻撃に対して、部分的な抵抗しか出来ない国家となってしまった。

このままでは、必ずマヤは滅び、都市を捨て、かつての森の惨めな暮らしに戻ることになり、マヤ文明は消滅する。その思いがナチンの確信ともなり始めていた。

俺はどうしたら良いのだろう。

俺は、シュタバイの父親のサーシルエークには受けが良いので、このまま順調に行けば、シュタバイと結婚出来るだろう。そして、親父が死んで俺がアフ・キン(太陽の男:マヤで神官を云う)となる。シュタバイを妻とし、幸せな一生を送れるはずであるが、肝心の部落が滅びてしまったら、俺の人生設計は狂ってしまうのだ。部落が何としてでも存続するようにしなければならない。アーキンマイもそう考えているだろう。おそらく、魔術師スキアもそうだ。メシーカ族、或いは、ククルカンの末裔と云われる男たちとも、うまく立ち回らなければならないのだ。

特に、メシーカ族との関係は微妙だ。このままでは、メシーカ族に滅ぼされてしまう。と言

って、メシーカに勝てるとは到底思えない。ホルカンとかホルカッブが率いる部落の戦士がいくら頑張ったところで、多勢に無勢だ。いつかは、滅ぼされてしまう。戦えば戦うほど、メシーカには憎まれることとなる。戦って、少し強いところを見せて、メシーカと和睦し、メシーカの中で有利な位置を占めた方が利口ではないのか。

かと言って、戦わずに降伏したら、その後はメシーカの言いなりになってしまう。

やつらの儀式の都度、生贄を出せ、という無茶な要求も出てくるかも知れない。これはまず

い。一度、力を示しておいてから、有利な条件で和睦するのが賢明というものだ。この件はアーキンマイにも秘かに伝えておかなければならない。

コパル香の淡い煙の中で、ナチンはそう思いながら、シュタバイの優雅な顔をうっとりと想い浮かべていた。


「お帰り、ウツコレル。シュタバイから聞いたけれど、メシーカに遇わなかったかい?」

ウツコレルが戻って来た時、母のイシュタブが訊ねた。

「ええ、お母さん、襲われそうになって、怖かったのよ。でも、コチャンが助けてくれたの」

「ああ、そうだったのかい。コチャンが助けてくれたのかい」

「ウツコレル。良かったわ。丁度、コチャンが居て」

シュタバイも笑顔でウツコレルを迎えた。

「それに、お母さん。コチャンがこれを呉れたの」

ウツコレルはコチャンから貰った兎を二匹、母に渡した。

「まあ、この兎を。いつも、ありがたいわねえ」

「コチャンは腕の良い猟師ね。いつも、私たちに何か獲物を呉れるわ」

「それは、シュタバイ。コチャンは貴女の気を引きたいからよ」

「まあ、ウツコレルったら、おませなことを言って」

シュタバイは妹にからかわれ、少し赤くなった。そして、ウツコレルをぶつ仕草をした。

「だって、シュタバイは男の人、四人から求婚されているのよ。ナチンでしょう、ホルカン、コチャン、それに、ホルカッブ。いずれも素敵な人ばかりよ」

「ウツコレル。お姉さまをからかうのはお止し。結婚を決めるのはお父さまなのですから。うかつなことはお言いでないよ」

母から叱られ、ウツコレルは舌を出して、シュタバイを見た。

「ウツコレルも来年、十五になったら、求婚されるわよ」

「それはないわ。私はお姉さまのように綺麗じゃないから。男の人から求婚されることなんかないわ」

「また、そんなことを。ウツコレル。自分をそんなふうに言うのはお止し」

母から注意されたが、ウツコレルの顔は晴れなかった。

奥から、父のサーシルエークが現われたので、母娘三人の会話は途絶えた。ウツコレルは自分の顔、そして肌の色が部落の娘のそれと違いすぎるのを恨めしく思い、悲しかった。

普通の娘になれたら、と思い、母と姉の居ない時を見はからって、斜視になるように練習をしたのであるが、どうしても駄目だった。


「イシュタブ。娘たちとどんな話をしていたのだ」

娘たちが自分たちの部屋に戻ったのを確かめてから、サーシルエークは妻のイシュタブに尋ねた。イシュタブは少し口ごもりながら、夫の問いに答えた。

「また、ウツコレルが自分の容貌について、悲しいことを言ったのよ。シュタバイと違って、私に求婚する人はいないって」

「そうか。そうなのか。ウツコレルも可愛そうに。赤ん坊の頃に普通のことをして貰っていたらなあ」

「でも、私はウツコレルを醜いとは思っていませんよ。綺麗な肌をしているし、顔だって、額の形と眼を除けば、十分綺麗なんですもの」

「そうだよ、お前。別な地域に行って、他の部族の男とならば立派に結婚は出来るのだから」

「ウツコレルのことはそれくらいにして、あなた、シュタバイの結婚について、どう思っていらっしゃるの」

「どう思うって、お前、四人の求婚者のことかい?」

「そろそろ、決めるべき時期と思うわ」

「コチャン、ホルカン、ホルカッブ、ナチンと、全て部落の中では良い若者ばかりだ。それだけに、誰と結婚させるか、なかなか難しいのは事実だ。妥当なところとしては、ナチンと思っているが」

「礼儀正しいし、家柄も良いし、将来はお父様の跡を継いで神官になる人ですものね。私も反対はしません。そろそろ、シュタバイに話してみたらいかが。あなたの決めたことですもの、シュタバイも嫌とは申しませんわ」

「そうか。それでは、時期を見て、シュタバイに話すこととしようか」

サーシルエークの言葉に、イシュタブも頷いた。


その翌日のことである。


朝から良く晴れ、暑い日となった。ホルカッブの知らせにより、戦士たちはそれぞれ戦士の長の家に集まり、武器を受け取り、思い思いに武器の点検を始めていた。

槍の穂先及び棍棒の端面には鋭利に削られた黒曜石かフリント(火打石)が使われていた。槍はアトラトル(槍を投げるための治具)を用いて遠くに投げられる投げ槍だった。 

他、武器としては石斧、球状の石を放つ吹き筒があった。弓はあることはあったが、狩猟用であり、マヤの戦いにはあまり用いられなかった。一方、メシーカ族は弓を多用しており、これがマヤ族とメシーカ族の戦闘力の差にも繋がっていた。

それに、ククルカンの末裔たち(スペイン人)が持つ稲妻を放つ細長い棒(鉄砲)という強烈な飛び道具が加わり、メシーカ族とククルカンの末裔たちの連合軍は無敵の勢いでマヤの都市国家を次々と殲滅していたのである。

戦士の長にはそれぞれ二十人程度の戦士が割り当てられていた。いずれも、全身を黒い染料で塗っていた屈強の戦士だった。独身の若者は全て黒い染料で全身を塗るというのがマヤの習俗であった。

結婚すると、戦士以外は黒く塗ることは止めて、その代わり刺青を彫るという習俗でもあったが、戦士は結婚しても刺青は彫らず、独身の時と同じく黒い染料をそのまま塗っていた。

戦士の長はホルカッブ、ホルカンも含め、十人居り、総勢で二百人ほどがこの五千人足らずの部落の戦士軍であった。

全体の指揮は、ホルポルという中年の貴族が取ることになっていた。

ホルポルは部落の首長アーキンマイの副長であるが、小さな猿をペットとして飼っており、その猿はいつもホルポルの肩にちょこんと座って愛嬌を振りまいていた。厳めしい顔付きで笑ったことがないと云われているホルポルと、キーキーと鳴いて愛嬌を振りまく猿の奇妙なコンビは周辺の部落にも愉快な組み合わせということで知れ渡っているほどであった。

そのホルポルが巡回してきた。

「ご苦労である。武器の点検、補修が済んだら、神殿ピラミッドの前に集まるように。その際、胴着と盾も忘れないこと」

ホルポルは全員に鋭い一瞥を与えた後、次の戦士の長の家に向かった。


部落の中央に赤く塗られた神殿ピラミッドが在り、その前に二百人の戦士が武装して整列していた。

頂上の神殿の中央に、首長のアーキンマイが立ち、戦士軍を見下ろしていた。

アーキンマイの傍らには、ジャガーの毛皮を纏ったスキアが居た。

アーキンマイがおごそかに叫んだ。


「勇敢なるマヤの戦士よ。我が息子たちよ。心して聴くがよい。昨日、ホルカッブが近くでメシーカが屯しているのを見た。また、コチャンが商人サーシルエークの娘ウツコレルを襲おうとした一人のメシーカを倒した。ここに居る偉大な呪術師スキアの占いに依れば、今日か明日、メシーカの奇襲があるとのことだ。我々は全力を挙げて、メシーカを撃退しなければならない。メシーカの企みを成功させてはならない。メシーカを一人残らず、殲滅せよ。我々の戦いは記録され、我々は伝説となる。勇敢なるマヤの戦士よ。お前たちは伝説の戦士となる。お前たちは永遠となる。神々よ、ご照覧あれ! 我々の戦士の死を恐れない戦いをご照覧あれ。倒れた戦士は天の国に迎えられる。死を恐れず、戦え! 死を恐れず、戦え!」


アーキンマイの演説の後、戦士の長たちがホルポルを囲み、奇襲に備え、それぞれの防衛すべき場所を確認した。マヤパンに行っているホルカンは未だ戻っていなかったので、ホルカンの部隊はホルポル自身が率いることとなった。ホルカッブの部隊は村の背後にある洞窟で奇襲に備えることとなった。

ホルポルから少し指示があり、その後各部隊は持ち場に就いて待機した。


ホルカッブと二十人の戦士は洞窟で思い思いに寛いでいた。

やがて、ホルカッブが立ち上がり、指示を出した。

「ホルポルから、部隊を二つに分け、交代で奇襲に備えるよう指示されている。十人は配置に就き、残りの十人は待機ということになる。配置に就いた十人の内、二人は周囲を巡回し、異常があればすぐ仲間に知らせることとする。その二人は先ず、配置に就いている八人に知らせ、その後、待機している十人に知らせるように」


このホルカッブの指示により、十人が洞窟の周囲の警戒に就き、残りの十人が洞窟の中で待機した。


「ホルカッブが見たというメシーカはどうも、チチェン・イッツァを占領し、そこから出撃しているメシーカという話だ」

「ほとんど、毎日のように、あのチャック・モール(人身供犠で生贄の心臓を受ける石像)で、戦いで捕らえた捕虜を生贄にして心臓を取り出し、やつらの神に捧げているという話も聞いた」

「メシーカは残虐な部族だからな」

「捕虜は先ず、拷問で指先を潰し、部落の詳しい情報を得るということだからなあ。本当に残虐な部族だ」

「アステカがククルカンの末裔たちに滅ぼされて、アステカの主力であったメシーカ族が各地に分散し、俺たちマヤの領土を荒らしまわっているという話は聞いていたが、今度は自分たちの国を滅ぼしたそのククルカンの末裔たちと組んでいるようだな」

「ククルカンの末裔たちという話も本当かな? ククルカンの末裔にしては、やり方が残酷だ」

「そうだよ。アステカを滅ぼした時なんか、神官たちを並べておいて、あの長い良く切れる剣で次々と首を刎ねたということだ」

「それに、稲妻を発する細長い棒で撃たれて死んだ者の体はばらばらに引き裂かれているということも聞いた。見るも無残な死体らしいよ」

「本当に、ククルカンの末裔なのかなあ」

「でも、生贄を嫌っているのは事実らしい」

「ククルカンは生贄を止めさせようとしたからな」

「でも、そんなやつらに俺たちの武器で勝てるかな?」

「大丈夫だよ。槍もいっぱい作っておいたし、ほら、石だってこんなにあるし。何とかなるさ」

「そうさ、俺たちにはホルカッブという部落一番の勇者がついているんだから」



三の巻 終わり


この後、四の巻へと続きます。

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