第一章 1 『黒野育治』
「だぁー!うるせぇ!!!」
目覚まし時計を乱暴に止めると、黒野育治は真冬の寒さを回避するため布団の中に潜り込み、安堵のため息を零す。近所迷惑とはこの事だ。
七海第一高校に入学してから半年以上が過ぎ、今日で二学期の終業式を迎える。
あと一日で学校が終わるにも拘らず、育児は疲れたと口走るだけで布団から出ようとしない。高校生ならではの『病み期』という奴だ。
何でも嫌な事や上手くいかない事があれば何でも『病み期』と言う。全く『病み期』と言う言葉はなかなか便利なものだ。
ただ、その嫌な事は外で起きた事とは限らない。その元凶は内にもある。
「いーくーーーん!今日で学校終わりでしょ?!早く起きないと遅刻しちゃうよ?!なんなら、玲子さん直々のお目覚めのキスでもする?!」
唖然とする育治の目の前に背が女性にしては高めの人が立っていた。腰まで届く髪は見る者を吸い込んでしまうような黒色である。
「……起きてるんで遠慮します。それよりなんで鍵閉めてるのに侵入出来るんですか?」
身体を横にしたまま育治は大河原玲子に向けて嫌味を込めて質問した。
「なんでって、大家だからよ!」
回答を聞くと毛布を足で跳ね上げ、育治はベッドから身体を起こす。
「ちげぇよ!普通のガキは愚か、もう1つ自分でつけた鍵もあった!しかも、チェーンだってかけたんですよ?!」
反発するようにベッドを叩くと埃が舞い上がり、育治の鼻を擽る。
くしゃみをして肩を落とし頭を垂れると、玲子が意地の悪い笑みを浮かべ言う。
「んー。まぁ大家だし」
玲子は人差し指指で自分の頬を押しながら大げさにターンをしてみせた。ふわっと浮いた髪からシャンプーの香りが漂ったが生憎育治は鼻を詰まらせていた。
「わかりました。わかりました。他にも手が無いか探してみます」
「残念だけど私には通用しないわよ?」
「……分かってますよ。もう、無理だって事ぐらい」
玲子はクスクスと笑うと机の椅子に腰掛け、手に持っていたスマホを育治に向けると前振りも無く写真を撮った。
「何のつもりですか?」
「記念写真よ」
何も言わずに育治は跳ね上げた毛布を手に取り、身体に覆い被せると玲子へ顔を向ける。そして怪訝そうな顔でため息を吐いた後、記念について尋ねた。
「……一体何の記念ですか?」
「いーくん誕生日でしょ?今日」
一瞬だけ育治が固まる。そして、目を見開きそうだったと手を叩く。
子供の頃は自分の誕生日が近づくだけでソワソワしていたものだが16歳にもなるとそういった高揚感が無くなるんだなと実感する。
「……完全に忘れてました」
「あらぁ、本人が忘れてるのに私が覚えてるって……やっぱり夫婦ね!」
「何言ってるんですか?からかうだけからかって。違いますし、それに年配の方にはきょ……」
刹那、育治の頭を掴まれた。因みに掴まれたと言うより指の握力で押し潰している、という表現が正しい。
「なぁに?よく聞こえなかったなぁ?私まだ27歳よ?年配って聞こえたんだけど?」
命の危機を感じたのか額から謎の汗が流れ出す。
そして、震える声で弁解する。
「い……いえっ。聞き…まち…が…いです……よ」
「よねー!」
玲子の発言と同時に育治は苦痛から解放された。頭に凹みが無いか確認すると安堵のため息を吐く。
涙目で玲子を伺うと隣から居なくなっていた。見渡すと台所に居た。
「……何やってるんですか?」
育治が昨日スーパーで買い物をした時に買った紙パックのオレンジジュースを直飲みしている所だった。
「ぅく……ぅく……。ぷはぁー。うんまい!」
「うんまい!じゃないですよ!せめてコップに注いで下さいよ!」
すると食器棚からコップを出し、注いでいく。
「待てよ!!洗い物増えんだろ!!」
玲子はコップを片手に不平をこぼし始める。
「コップ使えって言うから使ったのに。洗い物増えるだろなんて……いーくんどSで玲子さん困っちゃうー」
「どSはお前だ!ったく。特に用がないなら帰って下さい!」
頭を掻き毟りながら言うと、ベッド上に置いてあった小説を手に取り読み始める。
すると、玲子は育治を一瞥すると持って言ったジュースを一気飲みをして玄関へ向かう。
「じゃあ、私は玄関の掃除しに行くから早く学校へ行きなさいよー?」
そう言うと、靴に履き替えそのまま部屋を出て言った。嵐が去ったにも拘らず育治の心は晴れて無かった。
読んでいた小説を閉じると、スマホを操作しボヤく。
「疲れた。ここに引っ越してきてから毎日これだからな。流石に体力が持たない」
愚痴を言いながら出しっ放しのジュースを冷蔵庫に入れるため台所へ歩く。
その時、スマホのバイブが鳴った。電話だ。
慌てて相手を確認すると『五十嵐』と表されている。
五十嵐とはクラスメイトの五十嵐将星の事だ。長身で細身。眼鏡が知的に見えるが馬鹿である。
電話に出るといつも通りの低い声が聞こえる。
「育治」
「何ですか?朝っぱらから」
「小説今日返せよ。休みが入ったら返ってこないかも知れないからな」
「……信用されてるないみたいだな」
「当然だ。貸した金も帰ってきてないからな。何でもいいから持って来いよ。じゃ」
一方的に電話を切られた。
呆気を取られ耳からスマホを離すと待受画面を直視する。とてもシンプルな待受。そして、画面には現在時刻が表示されている。8時20分。
「……おぉ。遅刻じゃん」
呟くなら育治は、立て掛けてある制服に手を取り着替え始める。
着替え終わるとすぐに玄関へ向かった。
幸い今日は終業式。こういった授業のない日は特に持ち物が無い。それをいい事に鞄を持たずに手ぶらで自分の部屋を出る。
そして、プレートに203と書かれた部屋の鍵を閉めると階段を滑るように降りて行く。そこで、枯れ木の掃除をしていた玲子と会う。
「じゃあ、行ってきますね」
足踏みしながら挨拶をすると、返事を待たずにそのまま走りだした。が、玲子に呼び止められる。
「いーくん」
「はいはい。何でしょう!急いでいるんで、めっちゃ急いでいるんで」
育治は全力で玲子を急かすが全く通用していない様子だった。
玲子は歩いて育治に近付くと自分の首に巻いていたピンクのマフラーを取り、育治に巻く。満足そうに微笑むと咳払いしてから、呼びかける。
「今日はだいぶ冷え込むから使ってね」
「ありがとうございます。じゃあ、遅刻するんで」
軽く会釈すると走って行く。玲子が見えなくなるところまで走ると時間を確認する。
「走っても間に合わないなぁ。あ、近道使えば良いか」
道の真ん中に立ち尽くしていた育治は寒風に頬を凍らされる。それを揉み解す様に叩くと、人通りの少ない道に向かって走り始めた。