五十嵐玲奈~危機的状況は突然に~
あれ……。私、今まで何を……してたんだっけ。
立川に兄さんと買い物に出かけて、色んな場所で遊んで、それから……。
というか、今私はどういう状態なの?
意識はある。
けど視界は黒一色で音も全く聞こえない。
寝ているのか、起きているのかすら分からない。
極論を言えば生きているのかどうかすら今の私には見当がつかない。
全身を動かそうとしても、四肢を何かで押さえつけられているみたいに身体の自由が利かない。
これが俗にいう金縛りというものなのだろうか。
ひどく頭がボーっとしている。
そうだ。この痛みの原因を思い出した。兄さんと一時的に別行動をとることになった後、一人で歩いているときに後頭部に強い打撃を受けた。
何者かに何かで殴られたんだ。
推測に過ぎないが、その現場は人目につかない場所だったのだと思う。
首輪狩りの影響でただでさえ警察の監視が強化されている立川においてそのような大胆な行動を取る悪党はまず居ないだろう。
私がまだ生きていると仮定するならば、今私が居る場所は運が良ければ病院、運が悪ければ全く知らない場所。
まだ頭部には痛みが残っている。血とか出てそうなレベルだ。
そのせいで、判断能力に支障をきたしていたのかもしれない。
しかし、まだ痛むということは殴られてからそんなに時間が経過していないってことだ。
少なくとも日付が変わってしまっているということは無さそう。
微睡の中で十分に分析を行った後、私はようやくゆっくりと目を開けた。
ピンボケした映像が眼前に広がり、同時に私は願った。
目を覚ましたこの場所が自分の部屋のベッドかもしくは病院であってほしい。
結局、それは私の願望でしかない。事実とはもっともっと無情なものだった。
自分が今いるこの空間が何処であるのかを確認するよりも前に蛍光灯の無機質な白い光が真っ先に視界をジャックし、思わず目を細める。
私の部屋の電気はこんなに眩しくない。そもそも電球の形自体が違っている。
目線の先にある長方形の蛍光灯、そしてその周囲に広がる天井に全く見覚えがない。
というかかなり異質な天井だ。
一言で表すなら不透明な水色に染められた卵パックの容器が全体に敷き詰められた天井。他に説明のしようがない。
防音の目的でもあるのだろうか。卵パックが防音に役立つなんて聞いたことないけど。
とにもかくにも、状況は最悪。知らない場所だ。
起き上がろうと身体に力を入れる。
けれど、上手くいかずに一瞬身体がガクッと震える。
頭に疑問符が浮かび上がるのとほぼ同時に、私の目は自らの右手首を捉えていた。
瞬時に、自分がふかふかのベッドの上で両手足を縄(だと思われるもの)で拘束され、大の字で寝かされているという事実を認識した。
だから、身体が動かないのか。
と妙に冷静に納得し、再度目を瞑る。
ほぼ間違いなく、私は何者かにさらわれている。
気を失っている間に何かをされたという可能性は今のところは無さそうだ。
衣類が剥がされているわけでもなければ後頭部以外に痛む箇所もない。
では何故大の字で拘束されているのか。
ただ単純に監禁をするのならこのように全身の動きを封じる必要はないはず。
私の首に装着された首輪を見て超能力の存在を恐れたのか、あるいは性的な欲求を満たすためなのか。
現状何もされていないということは前者の可能性が高い。
そういえばこんな状況を作り出した犯人はどこに居るの?
目を覚ましたということがバレてしまうと自分の身が危険に晒されると思い、私は気絶したフリを継続している。
この部屋から人の気配は感じ取れないが、もし犯人が超能力者で、気配を完全に消すことが出来る能力を持っていたら等と考えると迂闊に周囲を観察するべきではない。
後頭部を殴られたときのことを振り返ると尚更そう思える。
人間が気を失ってしまうほどの打撃を与えるためにはそれなりのモーションが必要になってくるだろう。
いわゆる予備動作。少なからず気配が剥き出しになる瞬間が存在するはずなのだけど、私はそれに全く気が付くことができなかった。
首輪では制御できないほどの力を持っているか、あるいは首輪を付けなければならないという法律に違反している犯罪者か。
まぁこんなことをしている時点でどちらにせよ犯罪者には違いない。
憎むべき悪に違いない。
このまま時間が過ぎるのを待つのが正解なのか。私は自問した。
誰かが助けに来てくれるだろうという甘い考えは最初から抱いてはいないけど、正直なところ再び目を開くのが怖かった。
もし私の予想通り犯人が超能力者であれば、目を開いた瞬間に貞操を奪われるかもしれない。
どうすればいい?最善の一手は?
尚も思考を巡らせ、考えに考え抜くうちに後頭部の痛みが激しさを増していく。
痛みで自然と涙が零れそうになり慌てて脳内をリフレッシュしようと無心を意識した時、ガチャリと扉が開くような音が下方から聞こえた。
ゾロゾロと足音が近付いてくる。その数は恐らく三人分。
「まだ寝てるみたいだな」
「どうします?」
「こいつはただの人質だ。無闇に手を出すのは禁止」
足音の数と見事に一致する三種類の声が聞こえ、確信した。
犯人は複数人いる。三人だけとは限らないけど。
と、そんなことはどうでもいい。人質? 私が?
どういうこと……?
「峯田ー、あんま固いこと言うなよー。逆に考えると寝てる間しか好き勝手できないってことだろー?」
「そうっすよ! チャンスは今しか!」
「お前らは毎日豆乳を飲んだ方がいい。性欲を抑える働きがあるそうだぞ」
「そんなの効果ないだろー」
「ないっすね。俺試したことありますもん」
いや、そんな無駄な会話しなくていいから本筋に触れてほしいんだけどな。
しかし、有力な情報は着々と暴露してくれている。
この三人は多分首輪を付けた人間をただの差別対象としか考えていないタイプの人間だ。
警戒心が全く以て足りていない。
「ほら、伊藤もこう言ってるしさー」
「蒼汰。お前は龍之介の言葉を真に受けるな。こいつは基本何に対しても適当なんだから」
会話から察するに、峯田という人物がリーダー格なのかな。
さらに注意深く彼らの会話に集中する必要がありそう。
「酷いっすよ峯田さん! あんまりだ!」
「伊藤に謝れよー!」
「謝らない。大体お前らは普段から適当すぎる」
「俺は関係なくないー?」
「……あのなぁ」
峯田がわかりやすく一呼吸置くことで会話の間を作り出す。
それと同時に他二人がごちゃごちゃと騒ぐのを止めた。三人の間に緊張感が走っているということが目を瞑った状態でもわかる。
「ふざけてるのなら殺すぞ?」
「……すいませんっした」
「……わかったよー」
鬼気迫った低い低い峯田の声に対して他二人は消え入りそうな小さな声で応答する。
この三人の関係性が見えてきた。
峯田という人物がリーダーということで間違いは無さそう。
始終敬語を使っている伊藤という人物は二人の部下か後輩。
蒼汰という人物は峯田と立場は同じだけど、かなり峯田のことを恐れている。
ってとこかな。
当然会話から判断しただけの力を持たない推測に過ぎない。
でもこの関係性が正しければ
彼らの人間性が私の想像するものと一致していれば
この状況を打開できるかもしれない。成功する可能性はかなり低いけど。
「わかればいい。そもそもな、この女が本当に目を覚ましていないのかなんてわからないんだぞ?」
「はい?」
「眠ったふりをして俺たちの会話を聞いている可能性もある。だから無駄口を叩くんじゃない」
峯田の言葉にギクリとする。まさにその通り。絶賛盗み聞き中なのだから。
それでも身体を微塵も動かさないように徹する。
「えー? でも目を瞑ってるしー」
「眠ったふりってのは基本目を瞑ってするものなんだよ」
「なるほどー」
「はぁ……。いいか?決して手を出すな。その女が目を覚ましてもな」
数歩分の足音の後、ガチャリという扉の開閉音が聞こえる。
「あれ? 峯田さんどこか行くんすか?」
「煙草を買ってくるだけだ。10分で戻る」
まずい。唯一常識人っぽい峯田がこの部屋を出て行ってしまったっぽい。
扉が閉まってから数十秒が経過した頃、無音と緊張感をぶち壊す下卑た声が聞こえた。
「よーし、それじゃ早速やっちまいますか! ね!」
伊藤の声だ。
「まずくないかー? もしばれたらー」
「ばれなきゃいいいんすよ。簡単な事じゃないっすか」
「お前、天才かー……」
ふむ、なるほど。どうやらこいつらはとんでもなく知能が低いらしい。
わなわなと下衆い気配が近付いてくるのを感じる。
「服は脱がすかー?」
「流石にそんなことしたらばれますって……あ、でもすぐに戻せば大丈夫か」
私は分かり易く貞操の危機というやつに陥っている。
そのおかげだろうか。私は別の作戦を瞬時に考え付くことが出来た。
人間は危機感を感じた時アドレナリンを放出するため一時的に身体能力が向上すると聞いたことがある。
どうせならこの拘束具をぶっ壊せるくらいの筋肉馬鹿になれたらよかったんだけど。
そんな非現実的なことはあり得ないか。
数分ぶりに目を開き、目の前まで接近していた二人を見据えた。
「へへ、やっと起きたのか……」
「ずっと起きてましたよ本当は」
正直にそう白状すると、外見的特徴がずば抜けている痩せ型の男は目を丸くして驚き、ニヒルな笑みを浮かべる。
「へぇ。それで?」
こいつが伊藤か。
鼻ピアス、アロハシャツ、首から下げられた大量の貴金属。
日焼けサロンで焼いたような茶色い肌、細い目、全体が真っ赤に染められホストのようにセットされた毛髪。
想像を遥かに上回るど派手な容姿に気圧される。
こういう輩に直接絡まれたのは初めてだからか、妙に恐ろしく感じる。
だけど、隙を見せちゃだめだ。
「それでって……峯田さんって人にこのことがばれたらまずいんじゃないですか? もし私に何かしたら、普通に報告しますよ?」
至って冷静に、堂々と。怯えを悟られてしまわぬよう、目的へと向けて言葉を紡ぐ。
「だから、それで?」
伊藤に続き、蒼汰も口を開く。
「赤の他人のお前の言うこととー、俺らの言うこと、流石の峯田さんも俺らの言葉を信じると思うんだけどなー」
「しらを切ればいいんだよ。それに、これくらいのオイタは見逃してくれるはずなのさ、あの人は」
「そうですかね? 命令無視を見逃してもらえる程ゆるい関係性とは思えませんでしたが」
言葉の持つ力には限界がある。当然私が今発している言葉は詭弁に過ぎない。
崩されることを前提としたロジックだ。
「心のどこかで彼を見下しているんでしょう? でなければ今の状況で私を襲おうだなんて考えな――っ!?」
「無駄口がすぎるぞ」
伊藤の手のひらが私の口を塞ぐ。同時に彼の両膝がベッドにめり込み、ベッドの揺れに連動して私の身体も揺れた。
この男、思いの外行動に移すのが早い。
「蒼汰さん。見張っていてくださいね。すぐに替わりますから」
この言葉を皮切りに、胸に強い力が加わる。
気が付くと伊藤の右手が私の胸をまさぐっていた。
彼のボルテージと比例するように、その手に加わる力がぐんぐんと増していく。
興奮状態にあるからか、私の口を塞いでいた伊藤の左手は既に私の左胸の上に置かれていた。
となるとここはやはり防音室なのだろう。
そもそも、そうでなければ私の口が自由に声を発することが可能であるという状況に説明がつかない。
口を塞ぐ必要性がないと判断したから、私は自由に声を発することができる。
等と考えている間に、伊藤は私の制服を脱がせようとワイシャツのボタンに手をかけている。
制服越しでは満足できなかったのだろう。
「気持ちよかったら声を出してもいいんだぜ?」
「うわぁ、胸触っただけで声出すわけないじゃないですか。童貞ですか伊藤さん」
私の挑発は恐らく彼の耳に届いていない。ボタンを開けるのに必死だ。
というより、三つ目のボタンにかなり苦戦を強いられているようだ。
「ボタンを開けるのにも一苦労ですね、さっすが童貞さん」
「今にそんなこと言えなくしてやる……」
ようやく会話が成立したと思ったら、目が血走っていて正気の状態に見えない。
完全に冷静さを失っている。
これは好機。感情に身を委ねて衣類の一部を破ったりしてくれることを願いつつ、私は更なる挑発を上乗せする。
「無理だと思いますよ? 服の上からでもわかりましたもん。この人下手くそだなって。人は見かけによるって言いますけど、あなたには当てはまらない言葉かもしれませんね。毎日女遊びをしてそうな見た目なのにテクニック皆無だなんて」
「……」
「伊藤さーん、聞こえてます? 女の子を無視すると、童貞に更なる拍車がかかりますよー?」
「がああああああああああ!!」
伊藤の右手が服から離れ、上方へと掲げられる。そこで握りこぶしを作り、加速をつけて私の顔を目掛けて落ちてくる。
そう、それでいい。
私は目を瞑り、痛みに備えた。
それから数秒待っても、伊藤の拳は私にぶつからない。
違和感を感じ、ゆっくりと目を開くと蒼汰が伊藤を制止していた。
片手で伊藤の腕を掴み、呆れたような顔をしている。
「伊藤ー。殴るのはダメでしょー。冷静になれってー」
こんな状況でもゆっくりとしたペースで喋る蒼汰の声が伊藤の心に落ち着きを与えたのか、伊藤は振り上げた拳を下ろした。
私は期待した通りの展開にならなかった不満と、多少の安堵感に満たされる。
「そうですね。すみません」
「というかそろそろ十分くらいになるぞー。服を元に戻しとけよー」
「はい。すみません蒼汰さん。ずっと俺が楽しんじゃってて」
「いいってー別にー」
伊藤本人の手で、はだけていた服を丁寧に戻される。先程までの行為を完全に無かったことにするつもりらしい。
そうはさせない。
と言いたいところだが、手足を拘束されている以上何の抵抗もできない。
成されるがままに衣服を元通りの状態に戻され、伊藤はその上で再度私の胸を揉んだ。
「名残惜しいな……」
「……」
兄さん以上に低俗な男だ。ここまで来ると掛ける言葉も見当たらない。いや、言葉を掛ける必要性はそもそも存在しない。
もう十分、私は我慢した。
あとはささやかな反抗に備えて頭の中にある数少ない情報を整理するだけだった。