四、おやつの持つ可能性とその起源について
バナナ三部作、その2。
おやつとはいったい何者なのか。
三衣は言った。
――もしも、幸福というものが目に見える形をしているならば。それはあんまんであり、またさつま揚げである。おでんの大根かもしれない。いや、ビールも悪くないな。もちろん、アサヒのスーパードライだ。
天狗仮面は言った。
――お主、甘味を控えねばならぬ体であろうが。しかも下戸である。
○ ○ ○
このような会話がなされたのは、お盆を少し過ぎた頃合いの、蒸し暑さが強くのこる六畳間でのことだった。
この日は"おやつ"について論じており、そこから話は三衣の好物へと逸れていった。
「下戸が酒を好いたらいかんか。
好きなもんは好きなんや」
「阿呆めが。話を本題に戻せと言っているのである」
『バナナはおやつに入るか否か。』この論題に結論を出すべく、二人はあれこれ調べものをして議論を続けていた。バナナについて論じ、そしておやつについて論じ、それから結論を出すつもりのようである。
前回はバナナについて論じた。では、おやつとは一体なんだろうか。
一般的には甘味のことを指し、食事の間に摂られる間食の事を指していると言える。
「おやつは即ち、"八つ時の間食"なんやから、
何を飲み食いしてもええやないか!」
おやつの語源を調べ、それが時刻を表す”八つ時”からきている事を知った三衣はそう主張する。
さかのぼって江戸時代。時刻を表すために使われていたのは、現代の表し方とはまったく異なる"不定時法"と呼ばれる方法だった。夏と冬では一時間の長さが違うのだ。これは日の入り沈みを基準に時を測ったためである。
およそ二時間を一刻とし、干支に合わせて時を読む。中国の易学に由来する呼び方も併用されており、九つ時、八つ時、七つ時と下がっていく。そして四つ時まで下がり、また九つ時に戻る。一日の中で九つ時が二回あり、それが夜中の12時と昼の十二時にあたるのだ。
八つ時とは、今の時刻になおしておおよそ1時から3時の間にあたり、江戸時代の庶民の生活習慣ではこの時間に小昼と呼ばれる間食をとることが多かった。食事は基本的に朝と夜の二回だけだったからである。
それが時代を経て。一日三食の食生活になった今でも間食という意味合いだけは残ったものがおやつである。現在では、八つ時でなくとも間食をおやつと呼ぶのだ。
「しかし、お主は江戸の者ではない。
時代を見据え、言葉の意味を変えていかねば」
「むう。
確かにその通りではある」
三衣が普段から言っていることでもある。
言葉は生きている。時代と共に、その意味を変えていく。元の意味を捉え、その上で変化を見極め、文の上で表現してこそ文士であると。
語源や由来にばかり気を取られてはいけないのだ。三衣は言語学者ではなく、あくまでも文士なのだから。
「しからば何をもっておやつとするんや。
甘味限定やっちゅう訳でもあらへんやろ」
「うむ。やはり間食の意味合いでよいのではないだろうか」
「せやけど、よく言われんかったか?
"アンタ、またおやつでゴハン済ませてホンマー!"とか」
この場合のおやつとは、軽い食事、栄養素の行き届いていない簡素な食べ物を指すことが多い。三衣はかつてこのセリフを幾度となく母親から聞いていた。大学時代、一人暮らしをしていた三衣青年の食生活は非常に荒んでいたので、親に心配されたのは当然である。
ある時を境に彼は料理、および製菓に目覚めるのだが、その辺りは本稿の趣旨から外れるので語ることを差し控える。
「お主だけであろう。
コンビニ弁当の方がよほど健康的であったぞ」
「美味いのになあ。ロッテのアーモンドチョコレート」
「主食にするものではなかろう」
「甘すぎなくてうますぎるんやぞ。
三食あれでもええわい」
「それを実践した結果が今のお主だ。
しっかりと養生せよ」
三衣はチョコレートを食事とする時期があった。これは主にカロリー面での満足感を考えてのことであり、腹が膨れたらとりあえずそれでよしとしていたのである。
しかし、本来食事とは必要な栄養素を摂る事が理想である。間食とは、そのための補助的な位置づけにあるというのが今の健康学での主流であるので、栄養を度外視していたことは理に適わぬ行動であった。現在の三衣はこれを反省しているらしい。
○ ○ ○
日本語とは、非常にあいまいなものである。いや、日本語に限った話ではないかもしれないが特に日本語という言語にはその特徴が強く見られる。
言葉の持つ意味が文脈により、また話す相手により変わってくるのだ。今回の場合であれば"おやつ"という言葉が持つ意味は非常に多岐にわたるのである。
間食であり、軽食であり、また不十分な食事、という意味合いでも使われる。甘味を意味することもあれば、仕事の合間の小休止を意味することもある。
ならば、語源が全て正しく、語源通りに使われていないならば間違いだとしてしまうのは言葉を狭くしてしまう行為ではないだろうか。
「おやつは、軽食であり、間食であり、食事の代用やな。
好きに意味をとったらええ」
「時間を空けることを意味する時もあるだろう。
おやつとは何か、に絶対的な意味を持たせることは難しいようである」
「やー、それで片付けてしもたら話が終わる。
なんとか屁理屈をこねようやないの」
屁理屈も理屈のうち、空元気も元気のうち。これは三衣の持論である。このままでは"おやつ"に敗北を喫すると悟った彼らは素直に負けを認めるよりも難癖付けて悪あがきをすることを選んだようだ。
「とりあえず、ものを食うことは確定やろ」
「待つのである。最近では"かふぇおれ"とやらを飲んでおやつとする
"あらさー女子"も多いと聞く。飲み食いに広げた方がよかろう」
天狗仮面は手に持っている紙切れを見ながらたどたどしく外来語を発音する。お忘れかも知れないが、彼は天狗である。一介の妖怪である彼が最近のオフィス事情に詳しいはずもなく、手に持っているのは彼が事前に入手した情報を書き記したものだった。
「どっからそういう情報を仕入れてくるんや?」
やや呆れがちの三衣に、天狗仮面は鼻を高々と逸らして言った。
「天狗たるもの、これくらいは知っていて当然なのである」
「ま、ええけど。確かに飲み物もいれるべきやのう」
しかし、飲食を最低限のラインに定義づけてしまうと、食事でさえもおやつの従属になりえてしまう。
「逆に、おやつには決してならんモンはなんやろか」
「懐石料理などはどうであろうか。さすがに八つ時に食うと言えども、
あれはおやつと呼べる雰囲気ではあるまい」
「ほな、洋食のコース料理なんかもそうやな。
あれか?畏まって食べられるかどうかが基準か?」
「なるほど、食材うんぬんではなく、場に対する考え方であるか」
「結構いいセン行ってるんちゃうか?
同じアイスでも、コンビニで食うアイスと、コースの最後に出てくるアイスとでは
なんちゅうか、アイスとしての格が違う気がするわ」
二人はここに光明を見出した気がした。
そしてなおも話を進めていく。
「何かしらの会合で出される軽食も、おやつというにはそぐわぬのである」
「舞台の合間の幕の内みたいなもんか。あれは幕の内を食うと言うのが
一番しっくりくるしのう」
「つまり、食事その他、飲食をすることに意味を持たせる行為なしに
飲食をおこなうことを"おやつ"と呼べばよいのではないか?」
「儀式的でなく、かつ、意義を持たせないもの。
それらは全ておやつになり得る、と」
食事とは、人間の本能である。三大欲求の一つである。それを満たすだけでなく、さまざまな場面において人間はそれらに意味を持たせてきた。
神々に感謝を捧げる食事であったり、五穀豊穣を祈る晩餐であったり、また礼儀作法を重んじる本膳料理であったり。テーブルマナーという言葉からも分かるように、ただ食すだけではなく、いかに食すかという点において"おやつ"と"食事"は区別されるのではないだろうか。
つまり、栄養を摂ること以外のことを目的に付け加える時、そしてそれがなにかしら形式的な意味を持つとき、その行動はおやつから昇華したものになる。そう三衣は結論を付けた。
文机に積んである紙を一枚取り、そこにさらりと一文を記した。
『おやつとは、大層な食事ではないものを指す。』
まとめてしまえば、そういうことだろう。
「うむ。これやったら反論も沸くまい」
「そもそも反論を示す者自体がおらぬのではないか?」
「細かいことをい気にしたらあかん。
俺はこれで満足した。せやから、それでええ」
「自己満足、自己完結であるか」
なんともワガママな男である。しかし、それが三衣という男なのだから、そこに異を唱えても仕方の無いことだ。天狗仮面も、その事は十二分に分かっているので、あえて口を挟むような真似はしなかった。ただ、仮面の下でそっとため息を吐くに留まった。
○ ○ ○
三衣は小豆色の座布団から意気揚々と立ち上がり、ぐっと拳を固めてみせた。
「次回でこの話題も終わりや。
"バナナはおやつに入るか否か"
ついに結論を出す時が来た!」
「しかし考えれば考えるほど、どうでもよい話題であるな」
「阿呆。それがええんやろうが」
固めた拳から人差し指をにゅうっと突き出し、真っ直ぐに天狗の仮面のその先端、赤々と塗られた天狗鼻の先端を指差した。
三衣は言った。朗々と。そして堂々と。
「生きるとは、前に進むことである。
前を見とらんでもええ。ただ、前方に進めばええんや。
ほな、前に進むとはいかなることか。
一歩を踏み出すことや。今の自分を越えることや。
アスリートはそれを記録に置き換える。
企業家はそれを金銭の多さに置き換える。
俺にそれができるか。否、断じて否ッ。
俺の体は100メートル走で心肺破裂するポンコツボディや。金もない。
世間での成功なんぞ、望むべくもあらへん。
せやけど、それでええんや。
合理性も、利便性もすべてを取り払ってなお、俺には欲がある。
新しいことを知りたい知識欲がある。
役に立つかどうかはたいした問題ではないのだ。
金になるかどうかも問題ではないのだ。
俺は、何かもっと、恐ろしく大きいものの為に文を書いているのだ。
ついて来い、天狗仮面よ!」
興が乗ってくると、三衣はよく好む文を引用する。
今回は『走れメロス』からの引用らしい。
「ああ、お主は気が狂うたか。それでは、うんと書くがよい。
ひょっとしたら評価されぬものでもない。書くがいい」
やれやれといったように、天狗仮面もそれに合わせる。こうした遊びは常に三衣の気まぐれで行われる。言いたいことを言い切った三衣は、たいへんゴキゲンであった。
役に立たない話題であるが故、誰の利益にもならない話題であるが故に、それを追求することは純粋に三衣の知識欲を満たすことに繋がっている。そう考えるからこそ、彼らはあえてどうでもよい話題を肴に議論を重ねるのだ。
そして、堂々と人生の落伍者宣言をする辺り、三衣はどうやら底抜けの阿呆のようである。
そのような男の打つ弁論であるので、読者諸賢は決してこれらを人生の指針にしようなどとは思ってはいけない。反面教師として、粛々と人生を精進なされるべきである。
次回でこの議題は決着であるが、それが終わっても、次から次へと不毛な話題が沸き、それらを精査していくことに変わりはないのである。
いつか、その無駄ともいえる知識の山で書棚を埋め尽くすのが三衣の望みなのだから。