九、同人活動≒托鉢
ミツイは沸騰したヤカンのようにぷしゅうと煙を吐いて文机に突っ伏した。
ミツイの原動力は蒸気機関ではないし、また彼が喫煙家だという訳でもない。彼の吐いた煙はステージマジックなどで使われる手品道具によるものであり、タネも仕掛けもしっかりと存在するのである。
力尽きて魂が抜け出た漫画的演出を一人で楽しんでから、体を六畳間の畳に投げ出して大の字に寝転がった。なおも口からはもうもうと煙が立ち込めている。
「一人遊びはそこそこにして、さっさと文に戻るのである」
文机の向かいで冷ややかに言い放つのは、天狗面をつけてジャージを着た通称、天狗仮面である。彼はミツイが文を書く六畳間に存在し、あの手この手で屁理屈をこねるミツイに付き合わされる天狗である。
「労ってくれてもええんちゃうの。
臨界運転真っ最中ぞ?」
「お主がやると決めたのである。勝手にするがよい。
限界ならば休めば良いではないか」
「阿呆天狗めが。
仕事とちゃうんやぞ。休める訳あるか」
むくりと起き上がって口の中から手品のタネを吐き出したミツイは大きく伸びをした。そして文机に置かれた麦茶をぐいと飲み干してから天狗に向かって一言、「おかわり」と告げた。
乱暴に突き出されたコップに麦茶を注ぎながら、天狗仮面はふと首を傾げる。
「ミツイよ。どうにもお主の言っていることが分からぬ」
仕事を休むなというならばまだ分かる。一社会人たる筆者としても、分かりたくないが分かってしまう。しかしミツイの言い分は"仕事でないなら休むな"というものである。これは確かによく分からない。
「ふむ。これは持論なんやけどもな?」
「また屁理屈であるか」
「んー、結構一般論やと思うんやけど……」
そう言うとミツイは差し出された二杯目の麦茶を一息にごくりと飲み干して立ち上がった。座布団を三枚重ね、その上に屹立する。
そうして述べられたのは、ミツイなりのプロフェッショナルの在り方、そしてアマチュアの心得である。
――仕事としてのプロの在り方っちゅうのは、対価に見合う仕事をできるかどうかや。1000円の報酬に対して、それ以上の仕事をしてもアカンし、それ以下の仕事をしてもアカン。
それと同時に、いかなる状況でも対価に見合う仕事をするのがプロや。己の体調が悪かろうと、アクシデントやトラブルに見舞われようともきっちりと仕事をやり遂げる。先人も言うとる。"切羽詰った時に出せる力を実力と言う"と。
これに対してアマチュアは対価を求めん。つまりそれは仕事とはちゃうっちゅうことや。己の意気込みの続く限り情熱を注ぎ込むことが許される。そして真のアマチュアはやると決めた事を最後までやり通すもんや。例え倒れることになっても、いや倒れたとしても這ってでも前に進む。
時には道半ばで挫折することもある。かと思えば予見しとった到達地点よりも遥か高みまで登ることもある。結果は終わってみんと分からん。ただ、中途半端にやっても後悔が残るだけや。掛け値なしに全力を出せるのがアマチュアに許された権利やからな。
ええか、天狗よ。俺は嘘をかき集めて文を書いとるけれども、自分にだけは嘘は吐かん。文で金をもらっとらん以上、俺はアマチュアや。つまり、やることを自分で決める自由がある。そして決めたからにはやる責任がある。
もしも俺が道半ばで倒れたなら、俺の右腕を切り取って机に置くがいい。たとえ腕だけになっても俺は文を書くことはやめん。
○ ○ ○
座布団の上からひょいと降り、ミツイは「以上ッ」と腕を組んで言った。しかしアマチュアといえども期限を守って事を進めなければならない事もある。プロ、アマ問わず金銭のやり取りが発生する可能性はあるので、ミツイの言葉はいわば彼の中だけでの理想論である。
特にアマチュアの中で金銭のやり取りが頻繁に起こる例の一つが同人活動だろう。同じ志を持った者たちが集い、己の思うさまに創作活動を行う。そして時にはそれを求める者たちへと、自らの創作物を販売することもある。
プロへの登竜門として考えられることもあるこの同人活動はいわばプロとアマの境目の世界である。そこに思い至った天狗仮面は同人活動の位置づけについて尋ねてみることにした。
「ミツイよ。同人活動は金銭を得ることができる。
納期もある。では、彼らはプロであると言ってよいのであるか」
それに対し、ミツイはペンの先をかちかちやりながら「いんや、ちょっと違う」と言って文机に向かってどっかりと座り込んだ。ちょうど、天狗仮面と差し向かいになる形である。
文机の上に積まれた紙束から白紙の一枚を取り出して何やら書き始めた。そして書きながら天狗仮面に向かって、
「天狗よ。お前さん、托鉢って知っとるか」
と問いを投げた。
「仏道などの僧が行う修行であろう。
最近ではあまり見なくなったのである」
鉢を持った僧が、駅前や個人の家々の戸の前で経文を読み、生活に必要なものを施しとして受け取る修行である。
物乞いといった風に考えられることもあるが、本来の意味としては施しを行う側が、"施しをした"という徳を積める機会を作る修行なのだ。
ミツイは紙に書き込んでいたものを天狗に見せた。それは、くだけた言い方でまとめられた托鉢の行を表したものであった。以下にそれを記す。
善行を積みたい?
↓
善行を積むなら相手が必要ですね。
↓
ならばその相手を拙僧が務めましょうぞ。
↓
さあ、思う存分拙僧に施しを!
↓
はい、これであなたの徳は高まりました。
↓
ついでにわたしも生きていることに感謝できます。
↓
南無南無。
こう書いてしまうと、なにやら怪しい団体の勧誘に見えてしまうかも知れないが、割とこの通りである。そしてミツイは、同人活動はこれとよく似たものであると力説する。
書きたいものを書く。創作したいものを創作する。
これは大変な作業である。苦行であると言ってもいい。仏道における回峰行(山道を毎日欠かさず、決められた距離で歩く修行。百日続けるならば百日回峰行と呼ぶ。)のように、苦悶の道を延々と進む作業に他ならない。
そして自らの血肉を分けた作品を世に送り出し、その是非を問う。世に出さねばそれは存在しないものと同じであり、文士にとって必ず越えなければならない大切な儀式である。
これもまた、行事という意味で仏道における灌仏会(仏教始祖とされる仏陀の生誕祭。いわばキリスト教におけるクリスマス)と似ているとミツイは言う。
「つまり、世に出した作品が評価された時にはやね。
お布施が発生するわけよ。決して商品代金ではなく」
「それは屁理屈ではあるまいか?」
「己の魂を込めたモンをたかが金銭に変えてたまるか。
まず"オモシロい"の言葉ありきやろうよ。
然る後に、ついでとして金が欲しい」
「金は要るのであるな」
「残念ながら金銭がなければ生き辛い世の中や。
お布施で米や味噌をもらってもそれだけやと生活に困る」
創作活動を形にするには様々な人との繋がりが必要である。縄文時代よろしく物々交換でなんとかなるものではない。それらをつなぐ役割を果たすのは、やはり金銭である。
「しかしまあ、昔に比べて文士になりやすくなったのは事実やなあ」
「それは作品を世に出すという点から見てであるか」
「それもあるし、創作の自由度っちゅう意味でも。
でもまあ、その辺りはまた今度述べることにしよか」
ミツイには今、書くと決めた文がある。それに行き詰っているが故に息抜きとしてまた別の文を書く。文を書くことで生じるストレスは、同じく文を書くことで解消する。
これがかつてよりミツイが選択しててきた逃げの方法論であり、これからも変わらず継続していくであろうミツイの文士論である。
あらかた言いたいことは言い終えたらしく、ミツイは再び文机に置いてあった書くべき文章と向かい合った。
今回の役目は終えたとばかりに、天狗仮面は六畳間の隅で胡坐を掻き、腕を組んで目を閉じた。仮面をつけているせいで傍目からはただ座ったようにしか見えないが、ミツイはその仕草を一瞥し、何も言わずに文を書き始めるのだった。