序文
三衣は考える。
なぜならば、考えるよりほかに彼が出来ることはないからだ。そして彼の考えることはおよそ一般的な常識や世間で正しいとされているものとかけ離れることがある。
それはひとえに三衣が阿呆であるからであり、彼は決まった側面からしか物事を見ないことを嫌うからでもある。
時に道端に捨て置かれた手袋のかたわれを見て「もう片方を探す旅の途中なのだな」と妄想し、また時には座っている椅子に対して「たまにはお前も誰かを尻に敷いてみたいだろうに」と心の中で同情する。
空想や妄想が三衣の拠り所であり、そうして得られた実用性の欠片もない想像の産物を自らの手で文へと作り変える。それが彼の文の根底にあるものだ。つまり、根っこの部分からして無益なのだ。
三衣の文に有益性や利便性を求めてはいけない。無から有が自然と生まれることが無いように、三衣の無益は決して有益にはなり得ないのである。
役に立たないどころか、青少年の健全な育成を捻じ曲げてしまうおそれすらある有害図書である。
腐ったミカンのようにエチレンガスをぷすぷすとさせる文を書きながら、三衣は言う。
"毒にも薬にもならん文よりマシだ。そもそも、利益や有益だけ求めて何になる。人生には無駄道、寄り道、回り道が必要だ。いわばこれは社会に疲れた世間への一服の清涼剤だ。異論はあるか。あればことごとく却下だ"
三衣汁の染み込んだ、そんなどろりとした文章が清涼剤であってたまるか。
好んでいる小説の一節を引用して屁理屈で周囲を煙に巻く三衣は、遠巻きに見ている分にはそれなりに面白い。
○ ○ ○
部屋の中には机が一つ。
ここは三衣が心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく考える部屋である。日がな一日ここに居座ることもあるが、硯はない。あやしうこそものぐるほしくなることもない。
ただ漠然と思ったことを紙に書いたり文にしたりしている部屋である。
机は何の変哲もない文机であり、六畳の部屋の真ん中にそれは置かれている。部屋の隅には書棚が一つ。文机の上には紙とペンが置いてある。小豆色の座布団も数枚置いてある。窓はない。
これだけであればただの書斎かと思う人もあるだろう。どうにも三衣は古風なヤツだと思われるかも知れない。それは特に否定しない。
しかし、この六畳間は他の六畳間とは決定的に違う点がある。
天狗がいるのだ。
天狗は上下ともジャージを着ている。紺色で、二本線の入った農作業でよく使われるものだ。そして厳めしい天狗の面をつけ、唐草模様の緑の外套をつけている。
面をつけているならば、それは天狗の面をつけたただの不審者か。日常においてはそうだろう。しかし、この六畳間において、彼はれっきとした天狗である。
三衣は彼のことを天狗仮面と呼んでいる。
彼らはこの六畳間で互いが思うことを延々と話すのである。そして時折この六畳間には様々な客人が来訪する。
客人を交えながら無益な話を繰り返し、それらは編纂されてゆく。黒い綴じ紐でまとめられ、部屋の隅の書棚に並んだその備忘録で書棚を埋め尽くすのが三衣の積年の願いである。
そのために彼は今日も思うことを思うさま天狗と共に語る。時に客人を交えて。
これは、書棚をとりとめもない備忘録で埋めていくための話である。