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早春の風、爽やかに  作者: ダイ
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現実と真実



 慌ただしく深まった短い秋はあっと云う間に過ぎ去り、北の大地に長い冬がやってきました。

 さびれた緑の野に真っ白な霜が降りたかと思えば、鉛色の空から吹きつける風はそのことごとくが冷え切り、一つ、また一つと、同じものが二つとない雪の結晶が降り続けていきます。

 そうして村や町はもちろんのこと、森や丘、山々に至るまで、全てのものが余すところなく白一色で覆い尽くされていきました。


 村では、みんな自分の家から出られなくなっては大変と、家の屋根やドアの前、そして通りにかけて必死になって雪かきをしています。

 幸い、まだ雪はそれほど降り積もってはいませんでしたから、みんな小一時間外で雪かきに精を出した後、意気揚々と家にこもり、ぱちぱちと燃える暖炉の火で暖まりながら、お話をしたり、ハチミツ酒をちびちびとやったりしていました。


 さて、そんな村の中でただ一件だけ、屋根の上の雪も落としていなければ、ドアの前も通りへの道の雪も除けていない家がありました。

 家のすぐそばに立っている松の木の枝には小さな傷がいくつもついた足の太さくらいの木の的が、荒縄で吊るされています。

 風が吹きつけるたびに寂しくぎぃぎぃと音を立てているその凍りついた的は、もう長い間使われた様子がありませんでした。


 とうの的の主人であり家の住人でもあるのは、ご存じのとおり我らがステヴァン君です。

 宙を舞うホコリですら凍ってしまいそうな部屋の中で、唯一暖かい小さな暖炉の前で毛布をかぶってうずくまり、まつやにでぱちぱちとはじけていくオレンジ色の火を、ステヴァン君はぼおっとした様子で見つめていました。

 そうしてたまに冷たくなった両の手をじっと見つめたかと思えば、はあっと白い息を吐きかけるのです。それは、深いため息にも似ていました。




 二度目のオーガとの会話以来、あわれな我らがステヴァン君はどうにも何かをする気が起きなくなってしまっていました。

 だから寒い冬に備えるための家の整備も中途半端でしたし、あれほど頑張っていた弓の稽古すら、やらなくなってしまったほどです。

 初めはそんなステヴァン君を心配してくれる人もいたにはいたのですが、何を聞いても生返事しかしないステヴァン君に愛想を尽かせたのか、彼にかまう人はほとんどいなくなってしまっていたのでした。


 北の大地は冬になると朝が遅く、昼が短く、夜が長くなっていきます。

 この日も灰色の雲の屋根の上から輝いていた太陽は短い夕焼けの明かりを残して、さっさと山の向こうへ引っ込んでしまいました。途端に、ろうそくの火を吹き消したように、北の大地は長い夜を迎えます。

 雪の中で遊んでいた子供たちはみんな家に帰り、雪に覆われた村はしんと静まり返って行きました。


「……はぁ」


 これでもう何度目になるのやら、ほけっとした調子でステヴァン君が息を吐きました。

 部屋にはランプも灯っておらず、明かりと云えば小さくなった暖炉の火だけです。他の家と比べるとどうにも辛気臭い感じですが、それは今のステヴァン君がどうにも辛気臭いのですから仕方のないことだといえるでしょう。



 ぐう、と大きく、ステヴァン君のお腹が鳴りました。

 日がな一日何をするでもなく、ただただぼおっとしていただけなのに、しっかりとお腹だけは空きます。

 薪も足りなくなってきていたので、仕方なくステヴァン君はかぶっていた毛布をとり、膝の下まである古いコート(これはかつておじいさんがきていたものですが、ステヴァン君にはまだちょっとおおきいものでした)をはおると、くすんだ色をしたランプに明かりを灯し、風でがたがた揺れるドアを開けて外へでました。


 風も強いのでどこの家にも松明は掛かっていませんでした。風で火が飛んで行って火事になると大変だからです。空は雲に覆われているらしく、お月さまも見えません。

 ステヴァン君は家の脇に積んである薪を小脇に抱えながら、地面の雪を巻き上げていく風が、ランプの明かりの外へと逃げていくのを見つめました。

 小さなランプはすぐそばまでしか照らしてはくれず、加えて辺りがとても暗かったこともあって、ステヴァン君はなぜかここには自分しかおらず、もう誰とも会えないのではないかと思ってしまいました。

 そして、そんなことをふと思ってしまうと、今の今まで何ともなかった夜の暗闇が、なんだがとても恐ろしいもののように思えてきてしまったのです。

 背中がぞくぞくするのを感じながら、ステヴァン君は足早に家に入り、乱暴にドアを閉めると、どさどさっと屋根の雪がしこたま落ちてくるのが聞こえてくるのでした。




 家の地下に掘ってある小さな倉庫の中から塩漬けにした肉やロープでごろごろと吊るしてあるタマネギを取り出し、怖いのを我慢してもう一度外に出て、きれいな雪を選んでそれをすすで真っ黒になっているお鍋の中に入れ、薪を足して勢いを取り戻した暖炉の火にかけると、ステヴァン君は遅めの食事を作り始めました。

 雪はじきにとけて水になり、やがてゆらゆらと湯気を立てました。

 そこに、ナイフで切り分けた肉とタマネギを入れ、残り少ない小麦粉とライ麦をひいてつくった粉を混ぜて入れ、時間をかけて煮込んでいくと、少々お粗末ではあるものの、暖かいシチューが出来上がりました。


 お腹と背中がくっつきそうになっていましたから、木をくりぬいて作ったおわんに出来立てのシチューをよそい、神さまに手早くお祈りを済ませると、ステヴァン君は舌がやけどしそうになるのもお構いなしに一杯目を平らげてしまいました。

 本当はもう少し塩気が欲しいとか、油でもう少しトロリとした感じが欲しいとか、そんなことを思ってはいたのですが……。

 空っぽになっていたステヴァン君のお腹にとっては、どんなに味気ないスープのようなシチューでも結構なご馳走とあまり変わりありませんでした。


 なので、ちょっとやけどした舌を犬のようにぺろっとだして冷まし、二杯目のシチューをおわんによそおうとしたのですが、ちょうどその時、ドンドン、ドンドン、とドアが鳴る音が聞こえてきました。

 風がドアを叩く音にしては、その音は少々大きすぎるものでした。


「こんな夜に誰だろう、村長さんかな」


 そういってステヴァン君はランプを持ってドアへ向かいました。

 ここのところ村の人とあまり会っていなかったので、もしかしたら村長さんが心配してきてくれたのかもしれないと思ったのです。

 なんといって挨拶したらよいものかとも考えましたが、自分のことでもし迷惑が掛かってしまっているのなら、素直に謝らなければならないなとステヴァン君は思いました。


 ドンドン、ドンドン。

 ドアはひっきりなしに鳴っています。

 あまり立派なドアではないので、今にも壊れてしまうかもしれません。


「はいはい、今開けますよ! こんばん……」


 急いでドアを開けたステヴァン君の夜の挨拶は、最後まで続きませんでした。 代わりに、ステヴァン君の灰色の眼は大きく見開かれ、新雪を踏みしめているその大きな足から、見慣れない毛皮の服を纏った大きな身体、そして敷居で見切れてしまっているその顔があると思われるところまで、ゆっくりと視線が動きました。


「……わ」


 それが驚きからでたものなのか、それとも挨拶の続きなのかは微妙なところでしたが、そんなステヴァン君に、


「ぬ、夜分遅くにすまんな」


 と、敷居の上にある高さから、声が返ってきました。

 太く、低い声です。


 そうしてその人よりもかなり大きな身体がすっと屈んだかと思うと、雪の積もった茶色いかぶり傘を頭に乗せた浅黒い顔がのぞきました。


「やはり、あの時の狩人か。このところとんと姿を見ないんで心配したが、元気そうでなにより」


 そういって、かぶり傘をとり、ニヤリと不敵に笑うその顔の上の方、すなわちおでこのあたりには、小さな二つの角が生えています。


「お、お、おお、オー……」


「……ぬ?」


 なにやらけったいなしゃっくりをするようになってしまっているあわれな我らがステヴァン君ですが、やっとのことでそれを言葉にすることができました。


「お、オーガ、……さん?」


 ちなみに、最後のさんについては、なんとなく呼び捨ては無礼かなと思ったからでした。


「ど、どうしてここに? なんで僕の家がわかって……」


 他にも色々聞きたいことが山ほどありましたが、残念ながら突然のことでステヴァン君の頭はうまく回りませんでした。

 そのせいもあってか、


「まぁまぁ、寒い中で立ち話もなんだ。暖炉の燃える部屋の中で、色々と話ができると嬉しいのだがな」


 というオーガの言葉に、ついいつもの調子で、


「あっはい、どうぞ」


 といってしまったのです。

 しまったと思った頃には、オーガは身体を屈めて敷居をくぐり、さっさと家の中に入ってきてしまったのでした。

 愚かなる我らがステヴァン君は、我ながらなんて馬鹿なことをしてしまったんだろうと一人、頭を抱えながらも、他にどうすることもできなくて、いつまでも風が入ってくるドアを閉めたのでした。







 さて、首尾よくステヴァン君の家に上がり込んだオーガはと云えば、ホコリがすみの方で凍りついている床板をぎっしぎしと軋ませ、壁と壁とにかけて渡してある長い梁に頭をぶつけつつも、つい先ほどまでステヴァン君が食事をしていたテーブルへとたどり着いていました。

 ステヴァン君は一人者でしたので、椅子ももちろん一つしかありません。

 第一、その大きな身体を預けられるような椅子なんて、そんじょそこらにあるはずがありません。それこそ王様が座るような大きくてふっかふかなやつくらいでしょうか。


 後から部屋に入ってきたステヴァン君はどうしたものかとおろおろしていたのですが、大した案も浮かばぬうちに、とうのオーガはさも当たり前のように、冷たい床に持っていたボロを敷き、その上にどっかと腰を下ろしてしまったのでした。

 なにぶん、その身長がステヴァン君の二倍はあろうかというほどなので、床に座ったままでも丁度良いあんばいにテーブルが使えそうでした。


「ふぅむ、やはり冬の身に染み入るは火の暖かさよ」


 すすだらけの暖炉の中でぱちぱちと爆ぜていく薪と火とを見つめ、オーガは目を細めてそういいました。


「そ、そうですね。外、寒いですもんね」


 なんとも情けない返事しかできない我らがステヴァン君は、なるべくオーガから距離をとるように、まるでカニみたいに壁伝いに横歩きしながら、ようやく自分の椅子に辿り着きました。

 胸はどきどきして、足は少し震えています。

 ふるふるしながらも腰かけ、身体を椅子に預けると、まるで一晩中歩いたかのようなあったかくて重だるいものが身体中を駆け巡って行くのがわかりました。


 目の前のテーブルには、食べようとしてそのままになっていた二杯目のシチューがありました。幸い、まだ薄い湯気を立てていたので、冷めてはいないようでした。

 ほんのりとただようその匂いに、ステヴァン君は我知らずほっと息をつこうとしました。ところが、


「――腹がへったな」


 太くて低い、そんなオーガの一言を聞いて、吐きかけた息をステヴァン君は音を立てて呑み込んでしまったのでした。

 固いパンを丸呑みしたみたいに、ステヴァン君の顔がどんどん青くなっていくのを見て、オーガは灰色の眉をひそめました。


「ぬ、どうした」


「い、いいいえっ。あ、あの、よかったら、その、し、シチューでも?」


 ほとんど何も考えずに、ステヴァン君は目の前にあった自分のシチューのおわんをオーガの方へ差し出しました。

 オーガが物珍しそうにおわんに入ったシチューを見つめている間、ステヴァン君は身体の中でどくんどくんと暴れまわる心臓と、我慢していてもどうしようもなく溢れてくる涙を抑えるのに必死でした。

 オーガは人間を食べてしまう鬼だということを、すっかり忘れていたのです。あの恐ろしい吸血鬼バンパイアでさえ、家の中には招かれないと入っては来られないというのに、同じくらい恐ろしいオーガをほいほい家に招き入れてしまったのですから、ステヴァン君の胸の中は「自分はなんて馬鹿なことをしたんだろう」という気持ちと「食べられたくない、まだ死にたくない」という気持ちとがぎゅうぎゅうづめになっていたのでした。



 一方オーガの方はといえば、木のスプーンをまるで爪楊枝みたいにつまんで、シチューを一口すすったきり、目を閉じて何も言いませんでした。何かをじっと考えているのか、浅黒くいかついその顔にはほんの少し眉間にしわが寄っていきます。

 その様子をステヴァン君が固唾を飲んで見守っていると、オーガは不意にかっと目を見開きました。




 それを見たステヴァン君が「ひっ」を息を呑むのと、

 オーガが「あたたかいなあ」と息をつくのとがほとんど同時でした。



 ぽかんとしているステヴァン君が聞き返そうとするより先に、和らいだ様子のオーガはもうスプーンなど使わずに、おわんの中身を一気に飲み干してしまいました。


「ふむ、やはりちと塩味に欠けるか。それに、具も少ない」


「す、すみません、貧乏なもので」


 穏やかな様子のわりに少し痛いところをつかれてしまい、ステヴァン君は少し唇をひきつらせました。

 オーガは床に置いてあった自分の袋を、なにやらごそごそとやっていました。 そうしてすぐに、袋から手のひら大の小箱を出してテーブルの上に置きました。


「どれ、それでは一つ、家に挙げてくれたお礼をしなければな」


「え」


 今度は袋からぺらぺらしたなめし革で包んだ何かを出して、それを自分の前に置き、包みをとりました。

 テーブルの下を覗き込んだステヴァン君ですが、不意に漂ってきた血のにおいとランプの光に反射する銀色のナイフの輝きを見て、心臓が数泊飛んでしまうほど驚きました。

 しかしどうやら包の中は肉で、オーガがナイフで肉を切っているのだということが分かると思わずホッと息をついたステヴァン君だったのですが、今度は「もしかしたらそれは人間の生肉なのではないか」といった思いが頭を駆け巡り、またも顔を青くしてしまいました。


「あ、あのぅ」


「ぬ、そういえばまだ、名前を聞いていなかったな」


 オーガが肉から目を離さずにそう言いました。

 たった今ステヴァン君が聞こうとしていたことと比べて、あまりにもその質問がふつうのものだったので、ステヴァン君は思わず、


「あ、僕ステヴァンっていいます」


 と、応えてしまいました。

 そして言ったそばから後悔で床にうずくまってしまいました。


「ふむ、ではつかぬことを聞くが、ステヴァンよ」


「……はい」


「酒はあるかね?」 


 またもや、少し意外な質問です。

 ここまできたら、もうステヴァン君も半ばやけになっていましたから、


「……ええ、ハチミツ酒なら少しは。とってきましょうか?」


 そう応えてやりますと、オーガは喉の奥からドラ猫みたいなごろごろというような音を立てて、


「ぬ、上々。一応、俺も持参してきたのだがな、なに、酒は多いに越したことはない。コイツが出来上がったら一杯やろうじゃないか」


「はぁ」


 オーガは三度、袋をごそごそやって、それから首を荒縄で締めた小さなかめを出しました。中には今言ったようにお酒が入っているようです。

 オーガはおもむろに口に含むと、

 それを弱まっていた暖炉の火の中にぶぅっと吹きかけました。



「う、わ!」




 まるでオーガがドラゴンのように口から火を噴いたようでした。だって中に入っていたお鍋を丸ごと呑み込んでしまうほどに、小さな火が一瞬で巨大なものになってしまったのですから。

 一瞬ですが、きっと外からステヴァン君の家を見れば、煙突からぼおっと火が出るのを見ることが出来たでしょう。それくらい火の勢いは強いものだったので、部屋の中も一瞬昼と同じくらい明るくなりましたし、たちまち炎の熱気がぶわっと広がって、宙を舞っていたホコリが丸焼けになってしまったような焦げくさいにおいがしました。


「さぁてと、これでよく煮えるわな」


 背中越しでも、オーガがニヤリとしたのが分かりました。

 そうしてオーガ小箱のふたを開け、入っていた白っぽいものをつまんで、切った肉にそれをふりふり、お鍋にもふりふりし始めました。

 激しい炎が文字通り目に焼き付いていたステヴァン君は、不意に我に返って首をふりふり、手と足を一緒に出すようなぎくしゃくした動きで蔵にハチミツ酒を取りに行ったのでした。






 飲み口に向かってくびれただるま瓶を持ってステヴァン君が戻ると、オーガはどうやら具材をみんなお鍋に入れ終えた後のようで、そのあまりにも大きな両手をぱんぱんと大儀そうに払っていたのでした。


 暖炉の炎はオーガが吹きつけた火酒のおかげでゆらゆらと大きく立ち上り、中にかけてあるお鍋もろとも燃やしてしまうのではないかと思われるほどです。 

 もっとも、そんな大きな炎のおかげで部屋の中はさっきまでとは打って変わって大変暖かくなっていました。


「さて、そんなところにいつまでも立っていないで、こっちに来たらどうだね」


「は、はいっ」


 ここは確かにいつも暮らしている自分の家のはずなのに、今は感じるものすべてがみんな初めてのもののように感じてしまっているステヴァン君は、そう言われて思わず声を弾ませていました。


 オーガの鋭い瞳には暖炉の炎がどこか楽しげに踊っています。


「ここはお前さんの家だろう。そんなにかしこまる道理はないんではないかな」


「そうです……そうか、な」


 ほんの少し勇気を出してステヴァン君がそういうと、オーガは初めて会った時のようにニヤリと笑い、


「そうともさ。さあ、何はともあれまずは一献。今日という日に乾杯だ」


 そういって自分のかめに巻かれた縄を握り、高々と振り上げました。

 ステヴァン君も急いでだるま瓶を片手で振り上げます。


「か、乾杯」


 二人はそれぞれのお酒をあおりました。

 緊張しているステヴァン君は唇を湿らせる程度でしたが、オーガはかめがひっくり返るほど傾けてごくごくと呑みました。

 そうしてやっと口を離したかと思えば、こんどは持っているかめをステヴァン君のほうに差し出してきました。少しおっかなびっくりしながらそれを受け取ると、代わりにステヴァン君はハチミツ酒の入っただるま瓶をオーガに手渡しました。


「ほぉ、これは……ぬ、なかなかどうして悪くない」


「それはよかった」


 少し機嫌の良さそうなオーガがニヤリと笑うのを見て一瞬気持ちが和み、ステヴァン君もまた、少しだけ微笑みました。


 しかしふと、そんな自分をいぶかしむような気持ちもまた、他ならぬ自分の中にまたふつふつと湧いてきて、ステヴァン君を悩ませていきます。

 オーガに手渡された火酒はにおいだけで酔っぱらってしまいそうなほど強いものでした。

 たちまちぼんやりとし始めてしまったステヴァン君は頭をふるふると振ってみましたが、そんなことで暗い考えが吹き飛ぶわけでも頭が冴えることもありませんでした。


「あの、聞いても……?」


「ぬ」


 我らがステヴァン君としては、聞きたいことは山ほどあったのですが、果たしてどれから聞いてよいやらステヴァン君でさえ判断がつかず、口を突いて出た質問はとたんに宙ぶらりんになってしまいました。






「ステヴァン、年若き狩人よ。お前さんの弓のことだが」


 あれでもないこれでもないと考え込んでしまったステヴァン君に代わって、オーガの方が逆に問いかけてきました。


「えっ」


「初めて俺を撃ってきたときのことを覚えているか?」


 オーガの眼が、何かを思い出すときのようにスッと細まります。

 そんな鋭さを増した眼差しに見据えられたステヴァン君はどうにも恐れおののいてしまいました。


「あ、あのときはごめんなさいっ」


「いやなに、怒っているわけじゃあない。ただ、なんだ、あの矢はよかったぞぉ」


「は?」


 思わぬ褒め言葉に目をぱちくりしてしまうステヴァン君でしたが、オーガはそれ以上先を続けることはしません。

 座った場所から手を伸ばして(これはオーガが大きいからこそできることでしたが)お鍋のふたをとると、炎に混じって白い湯気がゆらゆらと立ち上り、よいにおいが部屋中に立ち込めていきます。

 どうやら暖炉の方でシチューが完成したようでした。



 猟犬のようにフンフン鼻を鳴らすとオーガはとても満足そうで、今度はまたドラ猫みたいなゴロゴロという音を喉から響かせました。

 ステヴァン君でさえ、そのこってりとして美味しそうなにおいをかいだだけで口の中がよだれでいっぱいになる程でした。

 オーガは大きめの木のさじで(といってもやはりオーガにしてみればほんの小さじ程度なのでしょうが)二人分のシチューをよそい、一つをステヴァン君へ渡してくれました。


 ステヴァン君はお礼を言い、オーガがおわんをテーブルに置いて目を閉じるのを待ちました。一緒に食べるなら、もう一度お祈りをした方がよいと思ったからです。

 けれどオーガはといえば、自分の分をテーブルに置くと、四度自分の荷物をごそごそやりだしたのです。

 まるでおあずけをくらった犬のような気持ちでいたステヴァン君でしたが、オーガはようやく荷物の中から、なにやら茶色くて細長くて四角いものを二つ取り出し、おわんのそばに置きました。


「それは?」


「ぬ、これか。少々固いがなかなかうまいぞ」


 オーガがそういって一つすすめてくれましたので、結局よくわからないままステヴァン君はそれをもらいました。


「ええと、それじゃあいだたきましょうか」


「ぬ」


 これでやっと食べられる。そう思ってテーブルの上で肘を立てて手を組み、目を閉じたステヴァン君でしたが、祈りの言葉は続いて出てきませんでした。

 ずずずぅっというオーガの思いっきりシチューをすする音が聞こえてきたからです。

 おかげで立てていた肘が思わずガクリと滑ってしまいました。どうやらオーガには、食事の前にお祈りをする習慣はないようでした。

 

 ステヴァン君はちょっぴりため息をつきましたが、どうしようもないので自分もシチューをいただくことにしました。

 ゆらゆらと楽しげに踊る湯気の上から目をこらしておわんの中身を見ると、ところどころ肉のかたまりのようなものや、なにやら白くてゴロゴロしているもあります。

 木のスプーンですくうと、自分で作ったものよりもとろとろとしていて、とてもよいにおいが鼻をくすぐりました。


 そんなシチューを一口すすった後のステヴァン君の顔といったら、誕生日が二日続けてきたかのようでした。

 はじめにびっくりが。続けて嬉しいとか、幸せだとかそういったものが、一気にステヴァン君の身体を駆け巡ったのです。


 それはまさに夢のシチューでした。

 一口でのお酒なんかよりもずっと身体が暖まるのが分かりましたし、塩加減や油のとろみも、ステヴァン君が望んでいたよりもずっと上等なものだったからです。

 こんなにおいしいシチューには、貧乏に生まれてこのかた出会ったことがありませんでしたので、ステヴァン君は文字通り夢中になってスプーンを行ったり来たりさせました。

 一口、また一口と、口に運ぶにつれてステヴァン君の顔は明るい笑顔になって行きました。


「ぬ、やはりこれくらい塩味があったほうがよい」


「うんうんっ」


 口いっぱいにシチューを味わっていると、はじめに見たなにやら白くてごろごろした具材がスプーンに当りました。

 食べてみるとほくほくとしていて、それがまたとてもシチューにピッタリな味だったのでステヴァン君もほくほく顔になりました。


「やはりウサギの肉は柔らかくて美味い」


「うんうんっ」


 生まれて初めて食べる最高のシチューは、


「やはりこの葉の粉末はよい風味づけになる」


「うん、うんっ」


 とてもとてもおいしくて、おいしくて、


「ぬ、おかわりはどうかな」


「……」


「ぬ」


「うん……うんっ」


 オーガの満足そうな声に、ステヴァン君は鼻声になりながら必至で頷きました。

 オーガが怖かったからではありません。

 なんだかよくわからないけれど、とっても暖かかったのです。

 それはシチューだけでもなく、部屋の中だけでもなく、ましてお腹の中だけの話では、なかったのでした。







 オーガに二杯目をよそってもらうと、ステヴァン君はふうふういいながらそれを平らげ、オーガにもらった四角いものもかじりました。

 これもまたおいしいもので、表面を二度三度焼き固めて作った保存用の焼き菓子に似たほんのりと甘くて苦い味がしました。


 食事をしている間、二人とも別に大した話はしなかったのですが、互いに少し目が合うと少しずつですが笑い合えるようになっていきました。

 楽しげに燃える暖炉の炎と暖かい部屋の中にいることで徐々に気持ちは和み、その上とびきりのごちそうをお腹いっぱい食べることができたということもあって、食べる前よりもどこかお互いのことを知ったような気持ちになっていたからです。たとえオーガにとってはそうではないかもしれなくても、少なくとも、我らがステヴァン君はそう思ったのでした。


 そうして、とうとうシチューもお鍋の底の方に焦げ付いたのが少しだけになりました。

 最後の一杯を名残惜しそうにつついていたステヴァン君が、食べ始めてから大好きになりかけていた白くてころころほくほくしたもののとびきり大きなやつを口いっぱいに頬張りました。

 ステヴァン君が顔中を動かしてそれをもぐもぐするのを見て、オーガは可笑しそうに笑いました。


「やはり、シチューにはじゃがいもがよくあうものよな」


「うんうんっ……うん?」


 オーガのその一言で、ほくほくをもぐもぐしていたステヴァン君の動きが、しだいにゆっくりとしたものになって行きます。

 自分の耳が間違いをしたのだろうか、いや、けれど確かに今そういったような。







 じゃ、が、い、も。ジャガイモ……そう、じゃがいも!







 自分が美味しく食べていたものの正体について、理解が後からゆっくりとついてくると、それまでほんのり赤く蒸気していたステヴァン君の顔がみるみる真っ青になって行きました。


「ぬ、口に合わなかったかね」


 涙目になっているステヴァン君を見て、オーガは首をひねりました。

 あわれな我らがステヴァン君としては、とても「うん」とはいえず、かといって呑み込むこともできません。


 このまま食べてしまうか、それともじゃがいもと分かった以上吐き出すべきか。

 そんな自分自身との戦いを繰り広げるステヴァン君は、しばらくの間うんうんと唸っていました。


 もっとも、そうやって唸っていたのが運のつきでした。

 オーガが怪訝そうな顔でステヴァン君の背中をばしりっ、と叩いたからです。 それがあまりにも強い力だったので、大いにびっくりしたステヴァン君は「むはっ」とも「ぬわっ」ともつかぬ変な音を喉の奥から出して、思わず口いっぱいのじゃがいもを呑み込み、ついでに大いに咳き込んでしまいました。


「げほっ、げほっ、な、なにを」


「ぬ、てっきりのどにつまったのかと思ってな。じゃがいもが」


「じゃが……いも」


 力なくステヴァン君は呟きました。

 じゃがいも! なんということでしょう。あまりのショックでステヴァン君は幼い頃からの思い出が川の流れのように過ぎ去って行くのを感じました。死んでしまうその時まで優しくしてくれたおじいさんが微笑みかけてくれます。しかしおじいさんは急に神父様に変わり、笑顔は怒る顔に変割っていくのが頭の中で感じられました。



 さて、ついさっきまで幸せそうだったステヴァン君が真っ青になって頭を抱えているのを、オーガは不思議そうに見つめていました。

 ステヴァン君は食事の前にオーガがお祈りをしなかったこと、する習慣がなかったことを理解したその時に、このようなことが起こることを注意しておかなかった自分を心の中でせめました。


「どうしたのだね、ステヴァン」


 深いため息をついたステヴァン君は、オーガにじゃがいもについて自分の知っていることを重々しい口調で話しました。

 教会の神父様たちがじゃがいもを不純なものだとしていること。

 だからじゃがいもは育てることも食べることも禁止されているということ。

 そういうことは宗教裁判で厳しく決められているということを。


 オーガは目を丸くしてその話を聞いていましたが、ステヴァン君がすっかり話し終えるや否や、もう一度火を噴こうとするかのように大口を開けてガラガラと笑いました。

 傍にいたステヴァン君のお腹の中がぶるぶる震えるほど、笑い声は低く深くとどろきました。


「私のじい様が若い頃に、確かコーヒーが同じように裁判にかけられ、しかるのちに洗礼を受けたという話は聞いたことがあったが。

 いやはや人間というものは、未だにそんなことをしておったのだなぁ」


 今度はステヴァン君の方が目を丸くする方でした。

 コーヒーといえば、都の方では貴族や一部の人達しか飲むことができない飲み物です。

 行商人のおじさんが都の人は高級なワインと同じくらいコーヒーを飲みたがっていると話していたことをステヴァン君は知っていましたから、かつてじゃがいもと同じように禁止されていたなど信じられませんでした。


「心配せんでもよいぞステヴァン。一つや二つジャガイモを食べたところで、その芽を食べたわけでもなし、そう簡単に死にはしないから」


「で、でも神父様が禁止しているのに? 食べても死なないのはオーガだけかも……」


「ぬ、そうでもないと思うがね。なにせ俺のひいひいじい様の頃の人間は、畑でじゃがいもをつくり、それをいつも食べていたと聞いている」


「えっ」


「そもそも、俺達がじゃがいもを育てるようになったのは、人間のそれがきっかけでもあるからなぁ」


「でもオーガはその、人を食べるんじゃ……あれ?」


 ステヴァン君は目の前にいるその巨大な姿を、まるで今初めて見たかのようにまじまじと見つめました。

 小さい頃から繰り返し聞かされてきた恐ろしい人食い鬼としての姿とは、目の前のオーガは大分違うことに気付いたからです。


 考えてみればそうでした。

 一緒にうさぎとじゃがいものシチューを食べましたし、四角い焼き菓子ももらいました。

 お酒も飲みましたし、自分たちで畑を耕していることを知りました。

 それになにより、人間であるステヴァン君なんかよりも、よっぽど人間のことを知っているようでもありました。


「ふむ、知らなかったとはいえすまないことをした。このことは秘密にしておこう」


 やっとニヤニヤするのを止めたオーガは、素直にあやまりました。

 しかしステヴァン君の眼は、相変わらず地面のアリの行列を見つめるようにジッとオーガを見つめていました。


「ぬ、そういえば、食べ始める前に何か言いかけていたなステヴァンよ」


「……」


 ここへきて、ステヴァン君の心の中には俄かにオーガというものについての興味がふつふつと湧きあがってきました。

 そうした思いは、自然と色々な質問になって口から出てきたのでした。











 さて、そこから大きな一人と小さな一人は、長い間話をしました。

 話をしていく中で、ステヴァン君はオーガという種族について色んなことを知りました。

 これから書くことは、ステヴァン君が聞いたことのほんの一部ですが、だいたいこんなものでした。中には人間とは違う物の見方や考え方があって、ステヴァン君はそういったものを知る度にもっともっと話を聞きたくなりました。




 そもそも、オーガという呼び方は、昔の人間の言葉で「人食い鬼」という意味を持っているということ。

 でもオーガたちの方はといえば、確かに昔人間を食べたりしたこともあったけれど、なにも人間しか食べないのではなくて、しいて言えば何でも食べること。

 主に狩りや木の実採り、キノコ採りなどをして暮らしているが、山の奥の方では大きな山羊を飼ったり、じゃがいもを育てたりしていること。

 種族の価値観としては、見事な太鼓腹を持っている男こそが立派な男だとされていて(人間の方も偉い人はお腹が出ている人が多いですが、こちらは順序が逆ですよね)、このオーガのように筋肉隆々な男はまだまだ若造の証拠だということ。

 オーガにも女性はいて、女性の美しさの基準は人間とあまり変わりなく、鹿の角や鉱石などを飾りに作り変えて着飾ったりするということ。

 種族みんなが、やはり戦うことに秀でた力を持つ者たちで、大きな身体は種族みんなに共通しているということ。

 その中でもこのオーガは割と背の高い方だけれども、一番大きなオーガはトロルと同じくらい大きいということ(大抵それは種族の長老様で、あまり自分で動くことはできないくらいお腹が大きいそうです)。

 男はみんな戦うことを喜び、戦で武勲を立てることを何よりのほまれとすること。

 女性もまた、男たちの留守を預かり、村や子供を守るための力を身に着けているということ。

 戦いになると、体中の皮が石のように固くなり、鎧を着こんだように強く丈夫になるということ。

 その際には、この前落ちてきた大岩をこなごなに砕いたときのように、身体中が熱を帯びて、浅黒い身体が真っ赤に染まること。

 基本的にみんなお酒が大好きで、一族みんなが大変な酒豪ぞろいであること。





 そして最後に、たとえ相手が異なる種族であったとしても、強い者には敬意を払うということ。


「なに、俺はどうにもお前さんの撃つ矢がちょいと気に入ってな」


 そういってオーガはニヤリと笑って、かめの中の火酒をあおりました。

 話しながらもたくさん強いお酒を飲んでいたので、どんどん機嫌がよくなっているようです。


「でも、オーガをやっつけるなら、僕なんかの矢じゃどうしようもないでしょう? どんなに頑張っても、矢が岩を貫けるはずがないもの」


 ステヴァン君の何気ない一言に、ほほぉ、とオーガは息をつきました。


「なに、そうでもないとも。俺達も狩りで飛び道具を使うことがある。大抵はこう、革のひもに石をくくりつけてな、グルグル回してびゅんと投げる。一言でいえばパチンコだな。しかし中にはお前さんのように弓矢を使う者もいるのだよ」


「オーガが弓を? きっとものすごく強い弓なんでしょうね」


「そうとも。俺達は力が強いから、生半可な木じゃあ弓の方がダメになってしまう。だから俺達は弓を木では作らんのだ。使うのはさっき話した大きな山羊の角さ」


 ひっく、とオーガは小さくしゃっくりをしました。

 皮は硬くなっていませんでしたが、浅黒い顔は少し赤くなっています。


「角? そんな弾力のないものじゃ、弓は……」


「ふふん、それはものの扱い方を知らんからさ。やり方がある。まず角を縦二つに割る。そうして外側に巻きがかかっている所は、ちょうどいい具合に整えておく。それを煮沸して平らに伸ばし、しっくりくる形になるまでやすりをかけるのさ。そして、魚の鱗とマスの上あごの粘膜でつくったにかわを張り付けて、弓の裏側には獣の腱を何層も重ねて補強する。そうすとほうれ、弾力が出てくるというわけだ。

 俺達の弓はきっとお前さんが思っているよりもずっと小さい。それこそ俺達にゃあおもちゃみたいなものだが、こうやってつくると弦の引きはとても強い。飛び具合も力も、お前さん方のそれより強いこと請け合いというわけだ」


「そんな風に手間をかけて作る弓があるなんて、全然知らなかったなぁ」


 感心しているステヴァン君を見てまたニヤリと笑い、本物を見せてやれればいいんだかなぁ、といってオーガは残念がったのでした。


 ところで、そうやって知らないことを教えてもらってばかりのステヴァン君の方も、自分のことをオーガに色々と話すようになりました。

 ステヴァン君の話はオーガのそれと違って、あまりためになるような話ではなかったかもしれません。

 例えば、ある日村の井戸に子ぎつねが落ちてしまって、水を汲みに来たステヴァン君がそれに気づき、村の人達と力を合わせて一生懸命にそれを助けたこと。ほかには畑をいくら耕しても必ず石が出てくることから、もしかしたら石というのは地面のなかで育っているのではないかと考えたことがあることなどです。

 そのどれもこれもが全くといって良いほど大したことではありませんでしたが、オーガはそんなステヴァン君の話を、水を飲むように火酒をぐびぐびやりながら、うんうんと聞いてくれました。

 ステヴァン君はその度に、自分がその時どう思ったのか、どう感じたのかをオーガが分かってくれているような感じがしました。


 大好きだったおじいさんが死んでしまった時の話をした時も、オーガはそのちょっと怖い顔に染み入るような哀しさを見せてくれたような気がしました。

 そういうところを垣間見ることができると、ステヴァン君はもっともっとオーガと話をして、時に笑い、時に染み入り、時に考えていたくなっていくのでした。








 そうしてたくさんたくさん話して、夜も大分更けていきました。

 そのうち、お酒も飲みきったオーガは床にあぐらをかいたまま、ぐうぐうと寝息を立て始めてしまいました。

 部屋で起きているのは、まだ小さく燃えている暖炉の火とステヴァン君だけになりました。


 ステヴァン君はオーガに毛布を掛けてやろうとして、ふと怖い考えが頭をよぎりました。





「もしかしたら、今ならば、簡単にオーガを殺してしまうことができるかもしれない」、と。





 討ち取った者には広い自分の土地や馬が、もしかしたら騎士の栄誉まで与えられるかもしれません。

 それらは、ほんの少し前までは、それこそ毎日のように夢に見ていたようなものばかりでした。

 それを思って、ステヴァン君はごくりとつばを飲み込みました。



 少しの間、部屋には小さな火の燃える音だけが、わずかにするだけでした。



 ステヴァン君の少し震える手が、ベッドの脇に置いてあるナイフに伸びました。

 けれどその手は途中で方向を変えて、ナイフではなく毛布の方を選んでいました。そしてそれを眠っているオーガの肩にそっとかけてやると、ステヴァン君は一人、ほぉ、とため息をつきます。



 夜更かししたその灰色の眼は、ちょっぴり赤くなっていました。

 


「おやすみなさい」


 ささやくようにそういって、優しき我らがステヴァン君はベッドに横になりました。

 重くて暖かい泥の中にいるような感じで眠りにつくその時まで、ステヴァン君の胸の中を満たしていたのは、美味しかったシチューの味と、楽しかったお話のことでした。







 明くる朝、当然のように朝寝坊したステヴァン君が目を覚ますと、


「ん……あ、れ?」


 部屋にオーガの姿はなくなっていました。

 あれだけ大きな身体がなくなると、どうにも部屋が今までよりも随分広く感じられました。

 それに昨日があまりに突拍子もないことばかり起こった夜だったので、寝ぼけているステヴァン君は、もしかしたら夢を見ていたのかもしれないとさえ思っていたのですが、それもテーブルの上に置かれたものを見て、夢ではなかったという確信を持ったのです。


 テーブルには三羽分のうさぎの毛皮と、塩とスパイスが入った小箱、それに茶色くて四角い焼き菓子が置いてありました。

 きっとオーガからのお土産なのだろう。そう思うとステヴァン君は一人、クスッと笑いました。

 気持ちが明るくなり、外に出てお日様に当りたいと思ったステヴァン君は、おじいさんのコートを羽織り、はぁっと白い息を吐いて家のドアを開けました。


 途端に、真っ白な雪の照り返しで、目がくらむほどの光がステヴァン君の目に飛び込んできました。

 ぎゅっと目をつぶり、肺をちくちくとさすような冷たい空気をすぅっと一つ吸い込むと、たちまち目が覚めていきました。

 そして意識がはっきりとして初めて、何やら辺りが騒がしいことになっていることに、ステヴァン君は気付きました。


 眩しいのを我慢して目を開けると、通りの方で村の人々が集まって何やら話しています。離れたところからでも、その大きな話し声は聞こえてきました。


「見ろよこの足跡を! どう見ても人のもんじゃねえ、でかすぎるっ」


「おい、やっぱりステヴァンの家の方から続いているぞっ」


 思わずステヴァン君はドキリとしました。

 急に身体が冷えて、心臓がぎゅっとなるのと同じような感じがしました。

 確かに下を見ると、雪かきをしていない家の前には、オーガのものと思しき大きな足跡があったのです。


 その内大きな毛皮の帽子をかぶった村長さんまで出てきて、村のみんなは一緒になってステヴァン君の所へ来ました。


「おはようステヴァン。いきなりで悪いが、この足跡はなんだね?」


「え、えっと……」


「人のものにしては大きすぎると思うのだが」


「そ、その……」


「おいステヴァンっ、もしかしてこいつぁオーガのもんじゃあないだろうな」


「う、う~ん……」


「お前まさか、オーガを家に入れたんじゃなかろうな?」


「そ、外は寒いだろうと思ったので……あ」


 ついそうこぼしてしまうと、村の大人たちが怒ったような、けれどどこか冷たい目で自分を見つめているのにステヴァン君は気付きました。


 そしてその目はどこか、以前森で見た若者たちのそれと似通ったものであるように、ステヴァン君には思われたのでした。



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