夢と現実
北の方から吹き込んできた冷たい風が、人が少なくさみしい村の家々を撫でていきます。
空は久しぶりに晴れたというのに、なんだかいつもに増して肌寒い日でした。 周りが松ばかりなので、あまり変わり映えがありませんが、いつの間にか季節は秋になっています。我らがステヴァン君が記念すべき初めての狩りからほうほうの体で帰ってきた日から、もうたくさんの日々が流れたのです。
村ではライ麦とひょろひょろとした小麦をみんなで収穫して、次にまた畑にまくための種もみの分と、冬の間みんなで食べるための分、そして役人さんに租税として渡す分をそれぞれ分けているところでした。
今年はいつもの年と比べると、どうも実のなり方が悪いようでした。いつもなら余った分は行商人のおじさんと取引するために使うはずなのですが、量が少ないので今回はそれもできそうにありません。
村長さんをはじめ、村のみんながどうしたものかと首をひねって考えている間、我らがステヴァン君はというと、自分の持ち場の畑の外れで一人、今日もせっせと弓の練習をしているのでした。
のんびりとした顔で黙々と矢を射続けるそんなステヴァン君を見て、村の人たちは文句をいうことはありませんでしたが、何人かは首を横に振って苦笑いするようになっていたのでした。
「……よしっ、良い感じだぞ」
放った矢の十本中九本が離れた木に吊るされた的に命中したのを見て、ステヴァン君はぐっと拳を握りしめて喜びました。
吊るされた的は一度矢が命中すると、ぶらぶらとあっちこっちに動き回るようになっていたのですが、ステヴァン君はあれから一生懸命練習を重ね、そうやって動く的にもしっかりと矢を当てることができるようになっていたのです。
これならきっと、いつぞやのように獲物に逃げられっぱなし、ということにはならないはずです。
「これなら、今度は鹿をしとめられる。みんなきっとよろこぶぞっ」
そう、ステヴァン君がこうして弓の腕を磨いていたのは、もう一度森へ狩りをしに行くためでした。今年の収穫が少なかったのはステヴァン君も知っていましたから、今度こそ自分の力でみんなの役に立ちたいと思っていたのでした。
それに、もう一つ。
「……オーガ、か」
あの日からずっと、ステヴァン君の頭を離れなかったのが、オーガの事だったのです。
オーガを倒した者には、自分の土地と馬が与えられる。行商人のおじさんが言っていたことは、どうやら本当のことのようでした。
というのも、村一番の年寄である語り部のおばあさんが、ステヴァン君が聞きたかった話をみんな教えてくれたからです。
おばあさんは言いました。
「その昔、オーガと人の間に争いが起こった時にな、兵隊さんがたくさん食べられてしもうた。
そのうち戦う兵隊さんがいなくなってしもうての、王様が国の端から端までお言葉をかけたのじゃ。腕に自信のある者、我こそはと思う者は身分の貴賤に関わらず、王の軍団に加わるようにとな。
その声に応えて、北の果ての熊のように大きな男たちやら、西の森の狼のような勇敢な男たちやらが集まり、立派にオーガと戦こうたのよ。
長く続いた争いがやっと終わったとき、王様はこの二つの部族に感謝の気持ちを示して、決して税にとらぬと決められた土地と、働き手の馬やロバ、たんと肥えた豚と山のような銀貨や宝石を与えてくださったそうじゃ。
そうしてそれまで蛮族とまで言われていた二つの部族は、今では国の騎士様たちの間では名門と言われるほどの名家になったそうじゃよ」
「……おばあさん、もし僕がその、お、オーガを倒したとしたら……僕も騎士になれるかな?」
小さな子供たちと一緒になって最後まで話を聞いていたステヴァン君が尋ねました。
その目があまりにもきらきらと輝いているのを見て、おばあさんは、
「さての。なれぬこともないかもしれんが、そのためにはまず、お前さんの自慢の弓矢が、石をも貫けるほどに強くならねばのう?」
とだけ言うと、落ちくぼんだ目を見開き、しわしわの口をすぼめてひょっひょっひょ、と笑ったのでした。
麦の脱穀や仕分けが終わった次の日、ステヴァン君は再び森へと出発しました。
今度はケープや頭巾のような贈り物はありませんし、宿に泊まるお金も一泊分だけでした。けれどステヴァン君は気にしませんでした。それほど、みんなに余裕がないのだと分かっていたからです。
田舎道を一人で長いこと歩き、町に辿り着いたのは夜のことでした。
歩き通しで足は棒のようになってしまっていたのですが、一泊分しか持ち合わせていない宿代のお金は帰りに使いたいと思っていたので、その日ステヴァン君は宿をとることを諦めました。
代わりに路地を縫うように進むと、ステヴァン君は酒場に行きました。
ドアを開けると、前のようにベルが鳴りましたが、今回聞こえてきたのはそれだけではありませんでした。陽が沈んでからしばらく経っていた酒場はもうお客さんでいっぱいで、みんなの話し声が一斉にステヴァン君の耳に飛び込んできたのです。
人がたくさんいるところが苦手なステヴァン君は、少しびくびくしながらカウンターのご主人のところに行きました。
あまり立派とはいえないステヴァン君の姿と、その手に持った弓を、お客さんがじろじろと見てきます。
「おっ、珍しいなぁステヴァン。懲りずにまた狩人ごっこかい?」
ご主人がそう言うと、近くにいたお客さんからどっと笑いが起こります。
みんな顔が赤く、もう酔っているようでした。だからステヴァン君も怒りませんでしたし、馬鹿にされたとも思っていませんでした。
「ちょっと聞きたいことがあったんだ。あれから、その……例のアレの話はあった?」
他の人の声にかき消されそうになるほどの、小さな声でステヴァン君が尋ねました。オーガのことをみんなの前で話したら、みんな怖がってしまうと思ったからです。
けれどご主人は、
「例の? ああ、オーガのことかい。あった、あったとも!」
どういうわけか大きな声でそう言って笑っていたのです。
ステヴァン君が変だと思って辺りを見ると、近くのお客さんがみんな自分の事を見ていることに気付きました。ぎょっとして思わず後ずさりしたステヴァン君の肩に、でっぷりとしたおじさんの腕がなだれかかってきました。
「う、わ」
「兄ちゃんかい、オーガに獲物横取りされたってぇのは?」
近くに来たおじさんの酒臭い息に、温厚な我らがステヴァン君もさすがに顔をしかめます。
けれど酔っているおじさんはそんなことなどお構いなしに、おしゃべりを始めました。
「安心しなよお! 町長さんが都に手紙を書いて、近いうちに兵隊さんが来てくれるんだと。まぁ、今までどこかの村が襲われたってぇ話もねえしな!」
「兄ちゃんの他にも、森で姿を見かけたっていうやつがいるんだぜ。そいつらも兄ちゃんと同じように、ちゃあんと生きて帰ってきてる!」
「そおそお、とんだ腰抜け野郎だぜ、オーガなんざぁよ! もしかしたら兵隊さんがいなくても俺たちでやっちまえるかもしれねぇよなっ」
「え……え?」
みんなの言葉にステヴァン君は目を丸くして驚いていました。
酔っぱらっていることを差し引いても、どうやら町では、みんなもうあまりオーガを怖がっていないようでした。
結局、酒場の納屋にただで泊めてもらえることになり、ステヴァン君は藁のベッドで少しだけ眠ることにしました。
ちくちくする藁の中で丸くなって数時間。
できるだけ疲れをとると、夜明け前には藁の中から出てステヴァン君は森へと向かうため、町を出ました。
半日かけて森に着いたのは、もうお昼ごろのことでした。
ちょうどよく、お腹が音を立てて鳴りました。
「のども乾いたし、近くの沢まで降りて一休みしようかな」
ステヴァン君が近くの沢を目指して歩いて行くと、ぬかるんだ日陰の地面の上に足跡があるのを見つけました。
もしかしたらオーガかもしれないと一瞬どきりとしましたが、どうやら違うようです。まぎれもなくそれは人の靴の足跡でした。しかも見たところ、足跡は一人ではないようです。
「だれか、他に森に来てるのかな?」
なんとはなしに足跡の向いている方へと進んでいくと、遠くの方で話し声が聞こえてきました。
近づいてみると、どうやら町に住んでいる若者たちのようでした。どういうわけかみんな泥だらけになって、なにやら話し込んでいます。そんな若者たちのそばには、どこから運んできたのやら、大人の人と同じくらい大きな岩が置かれています。
「なぁ、本当なのかよ。ここで見たって」
「間違いない。ここから見てみな。ちょうど真下で水を飲んでたそうだ」
そんな声を聞いてステヴァン君が首を伸ばすと、どうやらここは切り立った崖の上で、下には水がさらさらと流れる沢がありました。
どうやら足跡を追っているうちに、いつの間にか崖の上に出てきてしまっていたようでした。
「運ぶのは大変だったけどさ、これで俺たち、全員金持ちになれんのかな?」
「それだけじゃねえって、もしかしたら騎士様の御付きにしてもらえるかもしれねえぞ」
「うわぁ、すっげぇなぁ」
「何の話?」
「何っておま、え?」
自然に話の中に入ってきたステヴァン君の質問に応えそうになり、次いで若者たちはみんなびっくりした顔になりました。
「誰だよお前! もしかして獲物を横取りする気か?」
「こいつ知ってるぜ、向こうの村に住んでるやつだ」
「弓なんか持ってるぞ。こんなにちびのくせに」
「もしかして、君たちも狩りにきたのかい? その岩はなにかの罠?」
馬鹿にされている中でしゃべるにしては、ステヴァン君の質問は少しおかしな感じでした。実際、馬鹿にしたほうの若者たちのほうが、拍子抜けしてしまったくらいです。
中でも一番偉そうな若者が一歩前へ出て、ステヴァン君と向かい合いました。 背も体つきもたくましく、ステヴァン君よりも強そうに見えます。
「町の大人たちには言うんじゃないぞ。これは俺たちの手柄なんだからな」
「だから、一体何を」
そこまで言いかけたところで、ステヴァン君の口はぱっと塞がれてしまいました。あまりに急だったので、ステヴァン君は「むぐ」としか言えませんでした。
「来た、来た来た、来たぞっ」
若者たちはみんなで人差し指を口にあて、一斉にこそこそし始めました。
やっとこさ手を離してもらうと、ステヴァン君もなんとなくみんなと一緒になってこそこそしなければならないような気持ちになってしまい、結局こそこそすることにしました。
みんなが崖の端から下の沢を見下ろしていたので、ステヴァン君も覗いてみます。そうして、ステヴァン君はびっくりして目を見開きました。
若者たちが一心に見つめる先にいたのは、他ならぬオーガだったのですから。
とても大きな姿でした。
どんなに背の高い人間でも、きっと彼の肩くらいまでしか届かないでしょう。 ステヴァン君たちとは違う浅黒い肌に、綱を巻いたようにごつごつした筋肉。 長い灰色の髪に雄々しい顔つき。
そして極めつけは、おでこに生えた二つの角。
間違いなく、あの時のオーガでした。
オーガは沢のそばで片膝をついてしゃがみこむと、沢の水を手ですくって飲み始めました。
それを見た若者たちは一斉に立ち上がると、みんなでそばの大きな岩に手をかけました。
こうなってはもう遅すぎるくらいですが、我らがステヴァン君はようやく若者たちが何をしようとしているかに気付いたのでした。
「君たちまさか、この岩でオーガを殺すつもりなのか?」
一瞬、下で水を飲んでいたオーガが、顔を上げました。
そこにいる全員が、慌てて口に人差し指を当て、「シーッ!」という動作をします。
面喰ったステヴァン君が少しの間黙っていると、オーガはまた水を飲み始めました。
(静かにしろよ! 気付かれたらどうするんだ!)
声には出さず、口を大きくぱくぱくさせてそう言っているのがステヴァン君にはわかりました。
けれど、ステヴァン君は声を落とそうとはしませんでした。
「こんなの卑怯だよ。騎士の名誉がほしいなら、なんで正面から戦わないのさ?」
若者たちは音をたてないように気を付けながらも、必死に身振り手振りでステヴァン君を黙らせようとします。
その内の一人は、真下のオーガの様子を息を呑んで見張っていました。
(わかった! わかったよ! こうなったらお前も仲間に入れてやる。手柄も山分けだ、それで良いだろう?)
一番偉そうにしていた若者が、冷や汗まみれの顔でそう持ちかけました。
ステヴァン君が何も言わないまま黙っていたので、みんなホッと胸をなでおろしました。
幸い、まだオーガは水を飲んでいる所でした。若者たちは力を合わせて、大きな岩を押していきます。
しかし、その岩が崖っぷちまで差し掛かったところで、みんなにとってとんでもないことが起こりました。
「そんなことをしてもらえる騎士の栄誉なんて、僕は欲しいわけじゃない!」
愚かな我らがステヴァン君が、珍しく怒ったようにそう叫んだのです。
今まで黙っていたのは、彼の中でなにやら激しい感情がふつふつと湧き上がってきていたからでした。
今ここでオーガに気付かれたら、たまったものではありません。
さすがに頭に来たのでしょう。一番偉そうな若者が、とうとう身振り手振りをかなぐり捨てて大きな声で怒鳴りました。
「なんなんだよお前は!? みすぼらしいチビすけが英雄気取りやがって。だいたい、狩人が野獣をしとめるのに罠を使うことの何が卑怯だっていうんだ?」
若者の言葉に、周りも「そうだそうだ」と口をそろえます。
一応狩人の端くれでもあるステヴァン君にも、その言葉の意味がわからないわけではありませんでした。
オーガは人の手にあまる生き物です。力で劣っているのなら、その分頭を使って相手をやっつける。そのことをそのまま狩りに当てはめるなら、若者のいったことは正しいことでした。
「騎士の栄誉なんざ二の次、三の次だ。金が手に入るんだよ。ここから岩を落とすだけで、一生食うのに困らないくらいの金が! お前も狩人の端くれなら、せめて他人の狩りの邪魔はするな!」
お金が欲しい。
食べていくのに困らない生活がほしい。
それもステヴァン君には痛いほど分かりました。分かりすぎて、思わず渋い顔をしてしまうくらいです。
それでもなぜだかステヴァン君は、どうしてもやりきれない気持ちで胸がいっぱいだったのです。それがなぜなのか、ステヴァン君自身もよく分かっていませんでした。
「でも、でも、オーガはただの野獣とは違うよ。僕――」
そこまで言いかけて、ステヴァン君はそれ以上話すことができなくなりました。若者がステヴァン君のほっぺたに、きつい一発をお見舞いしたからです。
喧嘩などしたことのない我らがステヴァン君は、「みゅっ」という声にならない声を漏らして、地面に放り出されてしまいました。
「よせよこんなときに!」
「いいぞ、やっちまえ!」
「あ、あのみんな、オーガが……」
「ほら立てよう、チビすけ!」
もう半ば投げやりになってしまった若者たちが、始まった喧嘩をやんややんやとはやし立てました。
とうのステヴァン君はと言えば、一発げんこつをくらっただけで、もうぐったりしています。まさか人相手に弓を使うわけにもいきませんし、力では若者の方が完全に勝っています。どうにも勝ち目はありませんでした。
若者は真っ赤な顔をして、ステヴァン君の襟を掴んで無理矢理立たせました。
「言ってみろ! 俺は卑怯者か? 貧乏人のくせに、同じ貧乏人が金を欲しがったら、そうやって聖人君子を気取るのか? どうなんだ!」
どうなんだ、と言われても、首が締まっているのでステヴァン君は何も言えません。 目に涙をいっぱい溜めて、苦しそうに唸る以外に、出来ることはありませんでした。
若者は力任せにステヴァン君を放り投げました。
少しの間、宙を舞ったステヴァン君の身体は、大きなものに当ってようやく止まり、それからずるずるとへたり込んでしまいました。
痛くて体中がひりひりとします。きつく閉じていた目をゆっくりと開けると、涙でぼやけた視界の中で、若者たちがみんな口をあんぐりと開け、自分を見ていることにステヴァン君は気付きました。
何事かと思うより前に、ステヴァン君の目は空の色を映していました。
何が起きたのかも分かりません。
ただ、ステヴァン君は上と下が逆さまになったことは分かりました。だって、どういうわけか自分の足が、空の方を向いているのですから。
そう、投げられたステヴァン君を受け止めたのは、崖っぷちにあった大岩だったのです。
ぐらぐらとしていた大岩が、ステヴァン君が当たったことで遂に崖から落ち、ついでに我らがステヴァン君も崖からまっさかさまに落ちてしまったのです。
痛めた身体に、風が少し気持ち良い。
死んでしまうかもしれないというのに、一瞬ですが、ステヴァン君は、そんな呑気なことを考えました。
土砂崩れのような大きな音が、その場にいるみんなの耳を打ちました。
ステヴァン君は、もう崖の下まで落ちてきていました。
不思議なことに先程の傷の他は、どこも傷むところがありません。
どうしてだろう?
そんな気持ちは、閉じていた目をおそるおそる開けた瞬間、どこかに飛んで行ってしまいました。
自分の目と鼻の先にオーガの雄々しい顔があったからです。
というより、ステヴァン君は今、そのオーガに抱きかかえられている格好になっていました。
ばしゃばしゃ、ばらばらと、大小いろいろな石や岩が小川や地面に降っています。
「……えっ、は?」
わけがわからず、意味のある声も出ませんでした。
オーガの身体はさきほど見たときとは違い、全身が真っ赤で、湯気を出していました。
ただでさえ大きな身体も、立派な筋肉も、より拍車がかかったようにも見えます。
オーガと、目が合いました。
とても鋭く、力強い者が持つ目が。
食べられてしまうんだ。絶対そうだ。
フクロウに狙われたリスのように、ステヴァン君は「ひっ」と小さく声を漏らし、縮こまってしまいました。
「お前さん。この前会った狩人か?」
低く、太い声でした。
「えっ?」
ステヴァン君はそこで初めて、自分が胸に弓を抱いていることに気付きました。殴られている間も、投げられたときも、ずっと手放さなかったのです。
「弓を手放していないところからすると、この岩は、お前さんの策ではないわけだな」
「あ、あの……えっ、岩?」
そう言えば、ステヴァン君より先に落ちた岩がありません。周りには石がごろごろしているだけです。
その時、上の方から、声が聞こえました。
「おい、見た、か?」
「あいつ……あいつ、あの大岩を砕きやがった……」
若者たちです。
みんな崖から首だけ出して、こちらの様子を見ていました。
「ふぅむ」
「あ、あの……あっ」
オーガは服の襟をつまんで、ひょいとステヴァン君を地面に降ろしました。
確かに彼は同じ年の者たちと比べて小柄でしたが、それでもそれを指先一つで摘み上げるというのは、とんでもない力でした。
オーガは、目を丸くしているステヴァン君をちらりと見ると、今度は崖の上にいる若者たちを仰ぎ見、すぅっと息を吸い込みました。
そして、
「グオオオオオオオオオオオオオオォォォォォ!!!」
小川の水が震えるほどの、それはそれは大きく吠えたのです。
近くにいたステヴァン君は、そのあまりにも大きな音が、風になって直接体に当ってきたので、全身がびりびりとして動くことができないほどでした。
「ヒィッ」
「ば、化け物!」
「たすけ、助けて!」
若者たちは腰を抜かし、それからほうほうの体で、われ先にと逃げていきました。
そんな様子を見て、オーガは大きく鼻を鳴らし、呆れたような顔をしていました。
しばらくすると、そこには小川のせせらぎが、ちょろちょろと聞こえるだけになりました。
「……」
「……」
オーガも、ステヴァン君も、どちらも口を利きませんでした。
もっともステヴァン君の方はといえば、単純に怖くて動くことができなかっただけなのですが。
「さて、と」
オーガの声に、ステヴァン君は思わず肩をびくっとさせました。
足はこんなときにがたがた震えて、まるで使い物になりません。
そんな緊張したステヴァン君の思いとは裏腹に、オーガの言葉は気楽なものでした。
「どちらかというと、俺は岩より矢の方が好きでね」
「……はっ?」
それだけいうと、オーガは身体からふっと力を抜いたように見えました。
すると真っ赤で盛り上がっていたオーガの身体はみるみるうちに萎んでいき、最初と同じ浅黒い肌に戻って行きました。
その光景に目を瞬かせているステヴァン君に、オーガはニヤリと笑いかけると、
「まぁ、せいぜい頑張ることだ」
最後にそう言って踵をかえし、のっしのっしと森へ消えていってしまいました。
「…………」
足から力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまった我らがステヴァン君。
今の彼の頭の中にはもう、オーガを倒そうという気持ちなど、すっかりなくなってしまっていました。
人間というものには絶対に、超えることのできないものがあります。勝つことができないものがあります。
若者たちはそうしたものをまざまざと見せつけられて、戦う気をなくしたのです。
そして、ステヴァン君もまた、どうしても理解することができないオーガの姿を間近で見て、呆気にとられてしまっていたのでした。