9.娼館の生活
アイリスたちと別れたアルベルは、馬車に乗りヨーションカの街を後にする。
マリーナ、サンドラだけならあまり心配もないが、今回は新人のアイリスもいるため、少し苦労することがあるかもしれない。と、いうことをこれまた無表情で考えているアルベル。
それを見透かしたようにサリアが主人に声をかける。
「あの娘たちが心配ですか?」
「いや、そんなことよりも、今後の資金繰りのほうが問題だ。予定外の出費がいくつも増えたからな」
「フフフ、またそんなことおっしゃって。素直じゃないんですから。」
従者の言葉を受けて「フン」と鼻を鳴らす主人。付き合いも長い二人ならではの会話である。
「でもよかったじゃないですか。アイリスに社会勉強までさせてくれるっていうんですから。」
「ギルダも、あれで情けの深い女だ。奴隷として流れた過去のある年端もいかない女を見ると、思うところがあるのだろうよ。」
「言ってみれば、アイリスの数ある未来のうちの一つでしたものね。」
「ああ、己がいまどのような道を歩もうとしているのか。青臭いことをいえば、生きて飯を食うのがどういうことかというのが、少しでも見えてくるかもな。」
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アルベル様と別れた後、私たちはそれぞれの部屋に案内されました。なんと個室です。このような厚遇をうけてしまって大丈夫なのでしょうか?
「そりゃ大丈夫なわけあるまいよ」
「そーね~。夜食や、朝ごはんのお世話位はしてもバチはあたらないわよね~。あと掃除とか」
わたしたちはこれでもメイドの端くれ。「何もしなくていい」と言われて本当に何もしないほど、落ちぶれてはおりません。
あまり他人の仕事を奪わない範囲で、お手伝いをさしていただきましょう。
「案内の方にお手伝いのことは伝えておいたわ。あと、大体皆さんのお仕事が終わるのが朝の4時くらいだそうです。
なので、3時に起床して、お夜食を作ります。普段のスケジュールより大分早起きだから、これから仮眠をとります。サンドラもアイリスも寝坊しちゃダメよ〜?」
これからの予定をマリーナさんが教えてくれます。サンドラさんは「ケッ、余計なお世話だっての」なんて言っていますが、実際に朝に弱いのはどちらかと言うと、マリーナさんだというのは内緒です。ちなみに、“比較的”な話であって、皆さん寝坊したりなんかはしませんよ?勿論わたしもです!
「はいはい、じゃあわたしは一足先に失礼します〜おやすみ〜」
瞬く間にマリーナさんは自室のベッドに潜り込んでしまいました。
「あたしらも寝るか」
「はい、そうですね。おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
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娼館の朝の厨房は、まさに戦場でした。
一般的な規模の娼館なら、近くの酒屋などで皆さん食事をするそうなのですが、こと大淫婦の娼館ともなると施設が充実していて、食堂なんていうものがあります。でも、利用する人数も膨大で、大皿に盛りつけるだけでも一苦労です。
スープや飲み物を皆さんに取りに来てもらう形で配膳をし、ようやく食事の席に着こうとしたところ
「あなたがアイリスちゃん?」
私に声がかかります。振り返ると、髪の長いおしとやかな雰囲気の、同年代くらいの女性が立っていました。薄く透けたネグリジェといった服装からすると娼婦の方のようです。
「はい、私がアイリスです。」
そう返事をすると、その女性は穏やかな笑みを浮かべて、私に声をかけた理由を話してくれました。
「あら、よかった。私はクローディア。あなたのお世話係をギルダ様から頼まれたの。よろしくね。あと隣いいかしら?」
「あ、そうなんですね。アイリスと申します、よろしくお願いします、クローディアさん。どうぞこちらにお座りください。」
「ありがとう。食べながらでいいから聞いて頂戴ね。このあと、メイドの方々には今日1回目のお風呂に入ってもらいます。そのあと昼まで自由時間、お昼のあとまたお風呂。このことは多分最初に案内してくれた受付のほうから、先輩たちに話があると思うわ。で、そのあとも自由時間で、夕方ぐらいになったら、アイリスちゃんと私で娼館と街の見回りをします。見せたいものもあるから楽しみにしておいてね?」
「はい!わかりました!よろしくお願いします!」
連絡事項を話し終えると、クローディアさんもご飯をたべはじめます。
私たちにとっては朝食でも、皆さんにとっては夕食。今日のメニューはがっつり系です。
鶏肉のソテーにサラダ、鶏がらで出汁をとった野菜の煮込みスープ、それから、香草がまぶしてあるパンが食卓に並んでいます。
しかもこのソテーと野菜のスープ、鶏を共通素材にしてスープの出汁にも使うというのは私のアイディアだったりします。えへん。
「あら?今日のスープ、なんていうか味が深いわねぇ」
「はい!昨日から鶏がらをじっくりと煮込んで出汁をとりましたからね!お野菜の味もスープに溶け出してて風味を豊かにしてくれてます!」
「へえ…あなたが作ってくれたの?」
「はい!おいしくできたようで良かったです!」
「本当においしいわアイリスちゃん。これは明日はしっかり案内してあげないと罰が当たってしまうわ」
「ところで、明日はどんなところを見て回るのですか?」
「街のようすとか、準備中と、その後お客さまを受け入れ始めてからの娼館とかかしらね。」
娼館の中、とくにお客様がいると聞いて少し気になることができました。
「お客さまがいる状態の娼館もまわるんですか…?私なにかお仕事するんでしょうか…?」
「アッハハハハハ!! いえ、笑ってしまってごめんなさい。さすがにギルダ様のお客さんにそんなことはさせられないわ。『こういう世界もある』っていうのを見てもらうだけよ」
「あっそうなんですね。もし任されちゃったらどうしようかと思っちゃいました。」
クローディアさんの手前、すこし言いづらいですが、ホッとしました。
安心したのもつかの間、クローディアさまはさらに踏み込んで聞いてきます。
「アイリスちゃんはこういうことしたことないの…?」
「うぇっ!?な、ないですそんな!!」
「あらそうなの?好きな人もいないの…?」
「は…はいぃ…そういう人が現れる前に奴隷としてさらわれちゃいましたから…」
結局、村の男の子たちも「気になる」という人はいませんでしたし…今の職場、アルベル様しか男性はいませんし…あれ?実はわたし、いき遅れのピンチに片足を踏み入れてしまっていませんか?
「そうだったの…。私も奴隷として商人を転々としたあと、ここに流れ着いたの。私たち似てるわね?」
そいういうとクローディアさんはニコッと微笑みかけてきます。わたしにはその笑顔が、少しさみしそうな顔に見えました。
「そうですね…。でもギルダさんは素晴らしい方だとお聞きしました。娼婦のみなさんをしっかり守ろうとしてくれるって。お互い、いい主人巡り合えてよかったですね」
「ええ。ギルダ様のおかげで、理不尽な暴力からは遠い日々を送れているわ。こうしておいしいごはんも食べられるしね」
よかった…。娼婦というお仕事はきっとわたしの想像を超える大変さがあるお仕事なのだと思いますが、話を聞く限りギルダさんの働き掛けのおかげで、理不尽に働かされてるわけではなさそうです。
「ふぅ…ごちそうさま。おいしかったわ。じゃあこのあと夕方ね?」
「はい!お粗末さまでした!夕方はよろしくお願いしますね!」
クローディアさんとご挨拶をすると、私も後片付けに参戦します。
お仕事を終えた皆さんはこれから就寝とのこと。しっかりとからだを休めていただきたいです。
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夕方。アイリスは周囲の案内のためクローディアと合流していた。
アイリスはいつものメイド服であるが、クローディアは、薄紫の薔薇の意匠が施された、ドレスのようなネグリジェのような、所々が透けていて、身体のラインを強調するような薄手の服に、これまた薄手のカーディガンといった出で立ちだ。
「これからアイリスちゃんには、軽く街を見てもらうわけなんだけど…」
「はい!よろしくお願いします!」
「実はこの街って、『化粧のメッカ』って言われているのね?それはどうしてだと思う?」
「それは…やっぱり化粧品がたくさん売っているからでしょうか?」
「そうね、それは間違いではないわ。でもそれだとちょっと不足があるの。あ、ほら見えてきたわ」
「うわぁ、すごいですね!」
アイリスの目には、色とりどりの化粧品が並ぶ露店が多く軒を連ねているのが映っていた。
「色々なお店と化粧品が並んでキレイです!あれ?でも、これだとさっきの私の答えは何が不足なんですか?」
「フフフ、あそこの店を見てみて?」
「あ!お化粧をしてくれる店なんてものがあるんですね!あれ?しかもお店で働いているのは、娼館の方じゃないですか!?」
露店風ではあるが、椅子と簡単な仕切りで区切られたその店内では、店員が客である女性に化粧を施している様が見て取れる。そしてどうやら、店員はギルダの娼館のメンバーのようだ。
「そう、この街はね?店で化粧品を買った上に、それを使って娼婦が化粧を施してくれるの。もちろんナチュラルからちょっと派手目な化粧まで、オーダーは自由だし、やり方も教えてくれるわ」
「すごいですね!並ぶ人ならぶ人、皆さんきれいになっていきます!」
「あの人たち、きっとこれからデートなのよ。好きな人のためによりきれいな自分を見せたい。そんな願いをかなえてくれる街でもあるの。そしてこれが、この街が『化粧のメッカ』と言われる所以よ。」
「素敵ですね!でもどうして娼婦の方がこのようなことを?」
「新しい道を見つけるため…かしらね。ギルダ様は私たちが将来的に生きていける力を付けられるようにってこの商売を整えてくれたの。もちろん娼婦として殿方の相手をしていれば、それなりのお金が入ってくるわ。でもそれもいつまでも続くものじゃないし、一人で生きていくにはその収入だって心もとない。だからある程度動ける今のうちに、手に職をつけなさいってことね。」
「そうだったんですか。ギルダさんもみなさんのことをしっかりと考えられてるんですね。」
「ちなみに、この話をギルダ様に持ちかけたのはアルベルさんって話よ?」
「え!?アルベル様ってそんなことまでしていたんですか!?」
およそ10年前、ヨーションカの街はギルダの奮闘もあって、娼婦の暮らしていきやすい娼館街に発展してきていた。街にこのような突出した特徴があることは、観光などのために金が動くことになり、行政側も潤うことにつながっていた。しかし彼らも、人的資源のみによって成り立つ娼館というシステム一本に財源を頼るほど勝負人ではなかった。街を、ひいては自分たちを潤す、あたらしいビジネスを彼らは求めていたのである。
そこに現れたのが、当時9歳にして“親の手伝い”の名目で商売を手掛けていたアルベルである。彼もまた、買い付けた化粧品を流す場所を探していた。その辺の適当な街に流してしまってもよかったが、もう二、三うまみを乗せられる売り場はないものかと探していたところ、このヨーションカの街に目を付けた。
アルベルは、街の商会とギルダに話をもちかけ、化粧品と、それを施す店を同時に展開させることで、「化粧の街」としての顔を作ることを提案した。
なぜここでギルダの名前が出てきたのか。それは、アルベルも事前情報として、この街に起きた変革の首謀者がギルダだと知っていたし、そうでなくとも街の有力者であったからだ。街で商売をするにあたって何らかの横槍を入れられるのを防ぐというのも目的の一つであるが、この機会に何か恩を売っておこうとも考えていた。
実際、アルベルはギルダの存在を重くとらえており、行政や商会に話を持っていく前の段階でギルダには街の構想を打ち明けていたほどだ(もっとも、化粧を施す人員をギルダの娼館から出せるかどうかを打診するという用事もあって、先に話を持ちかけたのもあるが)。
彼女も、娼館のメンバーの今後のためになる策を考えていた時期で、娼婦たちに技術を付けさせることができるこの構想は渡りに船だったため、人員を動員するというアルベルの話を承諾した。
新しい商売を求めていた行政は、商会にもこの話に乗るよう働きかけたし、ギルダが起こした変革の際に登場したマフィアたちも、用心棒をする店が増えたおかげで、結果的に懐が潤うことになり、おとなしくしていてくれた。こうしてヨーションカの街は、化粧の街という新たな顔を持つようになったのである。
アルベルの経験上、序盤の交渉や準備を含め、かなりスムーズに進行された例である。
「こんなとこにもアルベル様の手が…。私のご主人様はいろんな人を助けてるんですね…。」
アイリスが、何処かホッとしたような表情でつぶやく。
「そうね…。次の道を見つけられている娼婦もたくさんいるし、まあ間接的には人助けになってるかしらね。アイリスはご主人様が好き?」
「はい。アルベル様は色々な人の助けになってます。私も、早くそのお手伝いができるようになりたいです。」
言いながら、アイリスは少し遠い目をする。一連の騒動のせいで話が複雑になってしまったが、今回のシルクの販売はアイリスにとって、言うなれば初陣となる。別に商売自体がこの一回で終わってしまうわけではないが、やはりしっかりと成功を収めて、アルベルに報いたい気持ちもある。だが現状、商売の新しい道筋はアルベルが自身で考案し、交渉にも出張ってきている。アイリスは、自分が役に立てるのはいつになるのか、少し途方に暮れていた。
「そう…やっぱり私たちって似てるのね…。さて、アイリスのご主人様への愛も判ったし、次に行きましょうか」
「あ、愛ってなんですか!?ちょっとまってくださいよークローディアさーん」
化粧施術の露店を見た彼女たちは、娼館のほうに向かっていく。
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娼館に帰ってきたアイリスたちを待っていたのは、ギルダの呼び出しだった。しかし、クローディアは客が待っているとのことで、ギルダのもとにはアイリス一人で行くことになる。
階段を上がって4階、一番奥の部屋。ノックをして扉を開けると煙管をふかした妖艶な女がそこにいた。
ギルダ・マクネアである。
「やぁいらっしゃいアイリス。街はどうだったかな?」
ゆっくりと耳にしみこませるように問いかける。
「は、はい。化粧のメッカと呼ばれるだけあって、たくさんの化粧品が並んでいました。それと、娼館の方々がお客様に化粧を施しているのもみました。」
「おお、そうかいそうかい。それは良かったねぇ。ところでアイリス、この街を見渡しただけでも様々な立場の人間がいるね?私たち娼婦、その娼婦を抱きに来る男ども、その男たちと暮らす女たち、商人、役人。実に様々だ」
「…はい」
ギルダが何を言いたいのかわからず、困惑するアイリス。なにか不穏な空気を感じる。
「その時その時で、選べるかどうかは変わってくるが、人には色々な道が開かれている。これからお前はこの世にどのような立場の人間がいるか、自分にどんな道が開かれているか、他人にはどのような道が開かれているかを知る必要がある。」
そこまで話すと、ノックの音が部屋に響く。
「入りな」
ギルダが入室を促すと、受付にいた女性が入ってくる。
「ギルダ様、始まりました。」
「そうかい。アイリス、ついておいで」
「は、はい!」
これから何が始まるのだろうか。階段を下りていくと、娼婦が客をもてなす部屋が密集しているフロアにつながっている。
薄暗いながらもほのかに赤い照明、豪奢な飾りのベッド、男を待っている娼婦の姿。これらが見えるのは、各部屋に小窓がついているからだ。娼婦の身に何かあった時のために、一応の監視ができるようになっているらしい。
いくつかの部屋を通り過ぎると、今まさに事に及んでいる娼婦がいた。彼女が床に脱ぎ捨てている服に、アイリスは見覚えがあった。薄紫の薔薇の意匠が施された服である。
はっとベッドに目を向ける。シーツに流れる美しく長い髪。男を受け入れているのは先ほどまで案内をしてくれていたクローディアである。
「!?」
アイリスは目を見開いた。彼女は知っていたはずである、クローディアが娼婦であることを。しかし、目の前に広がる光景に、衝撃を禁じ得ない。
クローディアの甘い嬌声が響く中、ギルダがアイリスの耳元にささやきかける。
「どうだいアイリス?キレイだろう?」
問いかけられても、アイリスには応えられなかった。さっきまで共に行動していた者の、このような姿を見せられて混乱が深まるばかりである。
「アイリスは奴隷だったところをアル坊に拾われたんだったね?だがもし、あいつが来る前に別の人間があんたを買ったらどうなっていただろう?あそこにいるのはお前の可能性の一つだ。」
「…………」
アイリスは、かつて自分より先に買われた少女のことを思い出していた。タチのわるい主人に買われ、無残に命を散らした少女のことを。
もちろんクローディアは別に命にかかわるようなことをしているわけではない。だが思い出さずにはいられない。そして、自分の今の境遇がいかに恵まれていたのかを改めて認識した。
アルベルはアイリスに目の前のようなことをさせようとはしない。
「人は生きていくために糧を得なければならない。糧を得るためには働かなければならない。ではどのような働きを以って糧を得るか。あの子は娼婦、お前はアル坊の召使い。」
彼女ら二人の運命を別ったのは完全に運だ。アルベルは動けるときにという注釈つきではあるが、ほぼ無差別に奴隷の少女を買い漁っている。
だがやはり、手の届く範囲での行動に過ぎない。場所が、タイミングが、出会った主人が、似た立場にあった両者を分けることになった。
「ク…クローディアさんはこのお仕事が好きなのですか…?」
「あの子に直接聞くと、もしかしたらそう答えるかもね。とてもそうは見えないけど」
「では何故この仕事を!?それこそギルダさんからアルベル様に口利きしていただければ…!!」
「ただ単純に娼婦に身をやつした子ならそれもできたかもね。」
「どういうことですか…?」
「借金だよ。あの子は一応良家の出ではあるんだけど、家そのものが絶賛没落中でね。あの子を売ったお金でも返済に足らず、家族に代わってあの子が金を稼いでいるわけさ。身を売り渡されてなお借金の返済、家族の扶養、自身の生活をその手で賄う。そんな荒業を可能にするなんて、それこそ娼婦か、玉の輿にでも乗るしかない」
「そんな…」
「あの子を買った奴隷商が借金を引き継いで、あの子を逃さないようにしている。アタシが守ってあげられるのはたちの悪い客からだけ。アル坊のところに言っても、あの子の事情を支えられるだけの稼ぎをさせてやれない。」
私たちは似ている、と言ったクローディアの言葉をアイリスは思い返していた。
どこが?わざわざ彼女と同じ境遇になる必要もないが、彼女のほうがよほどひどい境遇のなかで頑張っている。
「アイリス、街で化粧の露店を見ただろう?アル坊が手を差し伸べるのは、何も日中表を歩っている人間だけじゃない。アタシらのような日陰者もその中には含まれている。生きるために何をしてでも金を稼がなきゃならない弱者、心の休まらない者たちの存在。それを今日、よーく刻み付けておきな」
「…はい」
アイリスは返事をするのが精いっぱいだった。
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夜になり、アイリスはマリーナたちに今日あったことを報告していた。
「うひー!ギルダさんもスパルタだなあ…。アイリスにゃ刺激が強すぎただろうに」
「そうね~…かわいそうなアイリス。こんなに落ち込んじゃって…久しぶりにギューってしてあげるわ」
先輩たちの慰めにされるがままのアイリスだったが、おもむろに口を開く
「少しショッキングではありましたけど、もう大丈夫です。クローディアさんだって普通にお仕事していただけですし…」
「そう?でも確かに、こういうところに来ないと、なかなか見ることができない光景ではあるかしらね。」
「そうだな~……。ま、ちょっと過激な社会勉強ってところかもしれんね。ところでよアイリス。」
「はい?」
「クローディアさんのことを知って、お前はどう思った?」
ギルダの行動は、はっきり言ってしまえば、わざわざする必要のないことではある。社会勉強だという方便はありつつも、見方によっては、いたずらにクローディアのプライベートを暴露し、かつ取引相手の身内であるアイリスを無用に傷つけただけに見えるかもしれない。
だからこそ、サンドラの“問い”、そしてアイリスの“返答”をもって、ギルダの行動の意義が果たされなくてはならない。お前はギルダの行動から、見てきた光景から何を読み取ったのかと。
サンドラの言葉を受けたアイリスは、静かに口を開く。
「私、早く一人前にならなきゃ、役に立たなきゃって思ってました。一人でも生きていけるようにならなきゃって。もちろんそれは大事なことだと思うんです。でも、クローディアさんやギルダさんに出会って、周りが全然見えてなかったんだなって思い知らされました。世の中には色々な立場の人がいる。その人たちに、何らかの形で寄り添ってあげることが、アルベル様の言う『世の中を変えていく』ってことなんじゃないかって思えてきました。自分だけ見てちゃダメなんだって。」
「そうね~。前にアイリスの手が荒れてた時の話もそうだけど、ちょっと肌をいたわれるようにしてもらえただけで、私たちの作業のしやすさは断然上がったわ。クローディアさんの目の前の日々は大変なものかもしれないし、私たちじゃ根本的な解決をしてあげられないかもしれない。けど、お仕事をしやすくしたり、疲れを癒す手助けはできるかもしれないわ。私たちのシルクはそれができるものよ」
「だな。なんたって『肌にやさしい石鹸』なんだから。何べんも身体を磨かなきゃいけないあいつにとっちゃ、肌の負担を減らす必需品だぜ」
「相手の立場を思いやることができれば、きっといろいろな人の生活を良くしてあげられると思うわ。ギルダさんは、今日の出来事を通じて、アイリスの見える範囲が全てじゃないってことを言いたかったのかもしれないわね。」
「少し話題はそれるけど、相手のためになることをするから、アタシたちもクローディアさんも人からお金を受け取れる。お金の話をしだすと、顔をしかめるやつがたまにいるけど、生きていくための重要な手段だ。特に、”金に人生を振り回されてきた”アタシらみたいな人間にとってはな。人を助けるってことは、ひいては自分を助けることに繋がる。さっきアイリスは『自分ばかり目を向けていた』って言ってたけど、自分に目を向けることも決して悪いことじゃない。相手のために何かしようと思ったとき、自分は何ができるのかを見つめなおして、長所を伸ばそうとするのだって大切なことさ。結局は視野を広く持って、色々な方面をみようって話だわな。」
先輩たちの言葉をきいて、アイリスも頷く。
「はい。これからの仕事を通じて、もっといろいろな人たちに寄り添えるようになります!!」
「それじゃあもう寝ましょうか。明日もまた館のお手伝いと石鹸の試験をしますからね~。」
マリーナの言葉と共に、各々がベッドにもぐる。
アイリスは、目まぐるしいくらいにイベント目白押しだった一日を振り返りつつ目を閉じた。