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リセット、苦き日々を超える

作者: 森山 純

第1章 どきどきの面談

 私の思想の原型は、本多信一先生にあります。先生は、100冊以上の 著作を持っていますので、どうかその2、3冊でも眼を通してみてください。地域の図書館やネ ット、古書店などでもかなり流通していますので、ぜひ。この本では、収集した有意義な情報とともに、私の経験等を、お伝えしたいと思っています。ゆっくりと、お気楽に。多分、この本を見てくださった方は、大なり小なりの悩みのある方、なのでしょう。私は、日々のビタミンとして、笑いの大御所、明石家さんまの「生きてるだけで、 まる儲け」という言葉を、心のどこかに置いておくといい、と思っています。真に、人生を的確に突いていて、多くの悩みを和らげてくれるのです。いつでも利用できます。

 本多先生には、25年程前に一度お逢いした事がある。都心のある駅から12分ほど歩いたところの、古びた3階建ての建物。細い階段を上っていくと、踊り場の左右にドアがあり迷っていると、先生の声が奥の方から飛んできた。「いらっしゃい。こちらですよ。」私の姿を見ていないのに、分かったらしい。靴を脱いで部屋に入っていくと、陽に焼け古びた畳の間に、コタツが置かれ、そこで先生は重ねた厚い座布団に座って、書き物をされていた。ほぼイメージどうり(著者写真や本の内容からの)の、白髪を頂いたはにかんだ笑顔で、私を迎えてくれた。挨拶を済ませると、さっそく相談が始まった。私はその頃、職場での人間関係に悩みつづけていて、あと1年余でその法人の年金の資格が取れるので、そこまでは何があっても頑張るが、その先の進路について教えを受けたかったのだ。事前に手紙を出して予約を取り、この日の夕方に決めたのだった。100分程でほぼ相談は終わり、もう一度生きてお逢いする事は難しいな、と思いながら退室した。予約を取れば逢えるのだが、私は、私よりもっと悩んでいる人達のために、先生の時間を、あまり奪いたくなかったのだ。最後のほうで、先生は私に言われた。「貴方も将来、出来るときがきたら、お仲間を助けてあげて下さいね。」と。その頃の私は、自分ひとり生き抜くのがやっとの日々だったので、まったく自信がなく、最後までハイと答えることが出来なかった。あれから25年が経ち、私はようやく自己実現にいそしむ日々を送っている。けれど、好き嫌いが激しく、小心で神経質な私は、いまだに自分ひとり生き抜くのがやっとで、先生の願いをまったく叶えていない。器のひどく小さい私には、他者の苦悩を受け止めることなど、これからも出来ないことだろう。他力本願になるが、先生の助けや教えを受けた方のなかで、その意思を少しでも継げる方は、ぜひチャレンジして欲しい、と切に願うのだ。先生の活動も、年齢を考えると、あと何十年という訳にはいかないだろう。ぜひ、志を継ぐ方を。*本多 信一(ほんだ しんいち、1941〜 )は、日本の著述家、コンサルタント(中小企業診断士)。東京生まれ。1965年、中央大学法学部卒。時事通信社を経て、1971年、現代職業研究所を設立。「内向的な性格の人は繊細でよく考える点や、他人の気持ちを思いやることの出来る点などを利点として活かせば、周囲からは誠実な人間として信頼を得られるものである」と、内向型人間のプラスの面を説く。趣味は散歩。

*主な著作

食べていくための自由業・自営業ガイド 岩波書店

内気な人の生き方にはコツがある!  PHP研究所

話べたな人の自己表現の本  成美堂出版

◎先生の提唱など

*ほら、人間ってね、どのような人も三要素があります。息をして生きる。食べて排泄して生きる。それと、もう一つは愛情を求めたり与えたりする気持ち。これは赤ちゃんも老人も、日本 人もアフリカ人も同じことです。ですから、人生ってこの三要素、イキをしてメシを食べて、他の存在を大切にして、そのうえで自殺しないで生き抜けば、それで百点満点の八十点ですよ。社会的にエラくなって成功すれば、そう八十一点かな。失敗して挫折しても、生き抜くなら七十九点くらい。大差ないんですよネ。

*いつもいつも自分のことばかりを考え続けたとしても、例えば、(自分とは・・・)(自分の 本当の適職とは・・・)と具体的な自己像に迫ろうとすると、ワケが分からなくなる。分からないから、無我夢中で目前の行動に就くけれど、うまく行かぬことが多い。恋人探しや友人 づくりでも、うまく行かぬのが、内気な二十代男女の特性。自分と考え方の一致する友人を、望んでも無理ということを知ろう 。

*無理に性格を変えなくていい、内向型のいいところを生かしていけばいい。外向的、積極的が善で内向的は悪という風潮はあるが。

*先生の考え方は仏教と老荘思想がメインにある。自力で行なう。つまり、自分で立派になる考え方です。釈迦もイエスも孔子も老子も同じという考え方、ニューエイジ思想に立っている。

*職業研究や人間関係について、いろいろな見方を教えてくれる。

第2章 自分の終点を知れば、すこし楽になる。

 ニート、ひきこもり、この状況に、陥ってしまったときの、出口のない暗闇。あるいは、深海の底でもがくような、誰の助けも得られぬような苦しみ。かつて、私も経験したことがあるだけに、他の方々にも、すこしでも楽になって頂ければ、と願う。 私は、神はさまざまな実験をこの世で試し、行っているように感じるときがある。そこで、私 の体験から得た以下のことを、例示してみたい。 1人の寿命は、現在でも一般的には、長くても100歳ていど、といっていいと思う。新聞の毎日の死亡記事欄には、著名な企業家や文化人、芸能人がいまでも90歳前後までに多く逝去する。さらに詳しくみると、その方々の多くは、85歳前後までに、その社会的生命を終えている。つまり、いま30歳の人なら、人生の終点まで長くても、あと60年から70年と考えていいのだ。親族の寿命が短い方は、40年から50年、と考えていい。苦しみのなかにいると、一週間でも長いが、まず自分の終点を思って、終わりまでの時間をゆっくりとみつめて欲しい。 そして、これをときどき繰り返して欲しい。すると、やがて自分の人生でいちばん大切なものが、分かってくるのではないだろうか。私の場合は「時間」だった。あなたの場合は? 「時間」と分かっても、生きてゆくためには、当然ながらその前提条件をクリアーしなければ ならない。主なものだけでも、あるとおもうが、そのなかのひとつが、生活費を得る、ということだろう。これは、この関連の本をたくさん読んで、自分なりのノウハウを作っていくし かないだろう。本多信一先生の著作には、この類の本が30冊前後あるので、図書館・古書店な どでチェックを。

*お勧めの本。ネット・図書館・古書店でも可。

「ニートの歩きかた」 pha(ファ)著 技術評論社

 「ニート」でも「無職」「ひきこもり」でも、会社を辞めても仕事してなくても、幸せに生きることはできる。こんなに文明や技術が発達した世の中、インターネットさえあれば、昔ながらの固定した生き方に縛られる必要なんてない。(私も、かなりそう思う。)日本一有名なニートが語る、お金がなくても無理なく楽しく暮らすための生き方と考え方、会社や国やこれまでの常識が信じられなくなった、今を生き抜くためのヒントが満載。(私は、この方をテレビで2、3回見ている。地味な眼鏡に、四角っぽい並レベルの顔。ニ ート・ひきこもりに理解のある言動。イメージよりはがっちりとした、中肉中背。外見は、私たちのお仲間に、数多いるタイプ。だが経歴を見れば、エリートの範疇の方であることは明白。人脈を作る才能や、ビジネスのアイデアも多くあるようだ。)

*「ありのままの自分に気づく」角川新書・小池龍之介 著

 何者かになりたい欲求は、自分を承認してほしいという希求と同じという。そして、承認を得るためのトライや克服が称揚される。現代社会は、諦めさせてくれない社会だという。「弱い自分がいるんだなと、少しでも認めてあげると、心に変化が生まれます。」ありのままの自分を、自分で承認すること。見たくない自分の姿を、認める。50%ていどの、自己承認てよいという。

自分の道を探せばいいのだ。その道しるべとして、本多先生や、佐藤愛子(やや賑やか)、加藤泰三(やや幅せまく、浅いが)、寂聴(規範が、宗教だが)、などが用意されているのだ。まず、好きな人、自分に合いそうな人を選べばよいのだ。

◎スヌーピー、な生き方?

 普通、一般常識的に、華やかな学歴がなくて分を心得ている人に、あまり手を出さないものだが。私の場合は、なぜかそれが適用されなかった。私のようなナイナイ尽くしから、次々と利用価値を作り出す(私の内容が、かなり空っぽなので、主に外付けの形で。)その手腕とノウハウに、嫌味ではなく、私は本当に驚嘆していた。やがてそこに、すこしでもメリットを見出さねばと、私はそのノウハウをしかと見つめ、頭のなかで学んでいくことにした。後々、何か書くときの多少の参考にはなるだろうと。 私にとって、勤めは、浮世を渡る、主に経済的なための、ひとつの手段に過ぎなかったのだが。リタイアして、約10年。今は、音信も途絶えているが、あのころの人たちは、いまどのようにして暮らしているのだろうか。あらたなターゲットに、ピラニアのように喰らい付いているのだろうか。今となっては、あんた達お止めなさい、ということも出来ないし。 まあ私の場合、私がお間抜けで脇が甘かったのであろう。そこを、ピラニアのように喰らい尽くした、彼等の勝利といえるだろう。しかし、私は彼等を、災害のように憎んでいるわけではないのだ。私が、もし逆の立場であれば、私の立ち位置も、彼らと五十歩百歩であったろうし、けしてキレイなことはいえないのだ。私には、ある程度の距離の知人や、遠い距離の知人は、合わせて20人くらいいるが、交流レベルの友人となるとほんの2、3人。これまでに、別れて来た知人は、30人、友人は、5、6人。まあ、知人のときは、ちょっとくらいだが、友人との別れとなると、やはり背中から崩折れそうな感じにはなった。 私の長い経験からいって、人はいつか去ってしまう、または別れてしまうものなのだ。その人自身の事情もあるし、社会学的な諸事情もあるだろうし。そして、生物学的な限界も万人にある。だから、まずじっくりと事態を受け止める。それから、泣きたければどこまでも泣きつづければいい。恨みたければ、恨みつづければいい。まあ、秘法を学んで呪ったりするのは、考えなければいけないけど、ね。

◎ライフ オブ スパイラル

私の、60数年までの人生で、生き生きと生きられた日々は、わづか200日たらず。けれど 世界中の、他の人や有名な人でも、そういう至福な日々は、けして多くない。私の、8倍前後 ではないだろうか。有名な芸能人や、スポーツ選手であっても、一握りの人々(美空ひばり・タモリ・たけし・さんま、王・長島・イチローなど)をのぞいて、輝ける日は短い。5年前後、と いえば、ほぼ近いだろうか。つまり、同世代が、100万人いるとしたら、99.9万人の 人は、それほどは大差ないのだ。そう考えると、当面の状況に、そう落ち込む理由はないはずだ ろう。私が、テレビなどで過去に見た、成功者(IT関連企業の社長たち、ラーメン・チェーンの社 長たち、雑貨チェーンの社長たち、マネーの虎の社長たち、など)で、その後、事業につま ずき、5千万から数億円以上の負債に追われているという人が、7割近くいる。それぞれ、そ の当時は、お決まりの、高級外車、高級マンション、プール付き邸宅、などをにこやかに披露し ていた。でも、ほとんどの方の人柄は悪くなかった(むしろ、お人好し)ので、何とか再起し て欲しい、と思う。 一生を、成功者として過ごすのは、困難をきわめる。私のように、成功に縁遠い人はなお、困難をきわめてしまうのだが。ここから話はスタートなのだが、私は、別に成功しなくてもいいのでは?と考える立場だ。平穏に、つつましく生き、自分のしたい仕事を出来るだけ遺していけば 、人としてそれで十分ではないか、と思うのだ。 私は、若くして亡くなった、有名・無名の人々の死を、いままでにかなり見てきた。有名人 では、同時代を生きた、赤木圭一郎(享年21)、夏目雅子(27)、尾崎豊(26)、最近ではその身仕舞いが素晴らしかった、流通ジャーナリストの金子哲雄(41) など。無名人では、子供の頃、隣に住んでいた姉弟の姉で、レントゲンの技師をしていたのだが、白血病で30歳で。登山中の事故で亡くなった男子学生(27)、職場の知人で自殺した男子( 29)、などなど。予期された死もあれば、突然な死もある。そのうちの多くの方々は、道半ば志半ば、であったろうと思う。そして、さまざまな事情や状況が、それぞれにあったのだろう。ふだん私は、さまざまな(そして、巨大な)試練を与えてくる、神仏を憎むことがあったが、 これら夭折した方々のリストをみるたびに、ああ頑張らねば、と思い返す。時間だけは、これらの方々より、十分与えられているのだから、と。

生きてゆくうえでの、私の唯一の強味は、誇れることではないが、それは他者への関心が、一般的よりもずっと低いことだろう。こればかりは、後付けはほぼ不可能なことだろう。私が、何とか生きてこれたのも、この面での鈍さがあったからでは?と、いまは思っている。勤めて(世間的には、職場としては準一流)いたとき、私はとても不思議だった。あるある尽くしの人や素敵イナイ尽くし(低学歴・低身長・低容姿?・ノン人脈・低世渡り術、などなど、ほぼすべてのカテゴリーで)の私に、どうしてこん なにも過剰にと。数人の知人に、さりげなく聞いてみたことがあるが、あなたの個性が強い から、とか、人に恵まれていないから、無駄に目立つから、など、私には直す術もないことを、口ごもりはばかるように言う

だけだった。真実というのは、どちらの当事者にも、把握しにくいものなのだろう。その当時の人々が、いまどう生きているのか、いまも交流のある2人を除いて、私はほとんど知らないのだ。少しは興味があるのだが、特に知ろうとも思わない。テレビのドラマに登場する人のように、男女を問わずウノメタカノメの人もいるようだけれど。とまれ、私はいまディレッタントとして、それなりに楽しく生きている。チープな成功ではあるが、年金に倒れこみゴ ール出来たことが、最大の恩恵だったのだ。仕事も、目標の80%は何とかクリアしているし 。

*この所、世の中の人の見る、ニート・ひきこもり等についての反応も、21世紀になってからすこし改善してきたが、現在でも否定的な見方をする人が大半だろう。私でさえ、初めの頃は、もうすこし頑張って欲しいなとか、自分で対策を考えなきゃ駄目じゃん、などと思ってしまった。まったく見当違いの、パルスだったのだが。世の中の、風潮を変えていくのは、並大抵のことではない。それこそ、有力者総動員の、国家レベルの策動がいるだろう。もちろん、そんな事を期待しても、無駄な事は言うまでもないけれど。ポーコアポーコ、という言葉がある。すこしづつすこしづつ、という音楽用語だ。私は、40歳の頃から、この言葉を、頭の片隅に置いてきた。この頃から、すでに仕事の70%は、コンピュータを通さなければ成立しなくなっていた。そして、半年(短い時は、1ヶ月)ごとに、 操作・運用法が変化・進化していく。機械オンチの私は、10回レッスンしてやっと、初歩的概要を理解する、という有様だった。ので、それを身につけ消化するだけでも、大変だった。が、マスターしなければ、仕事は処理できなかった。それだけでも必死なのに、さらに、それまでのハードな人間関係は、根深くますます拗れゆき、ノイローゼにならなかったのが、不思議なほどだ った。

◎自分の終点を知れば、すこし楽になる。

*成人後の45年間を、勝負と捉える方は多い。それはそれで、リスペクトしていいことだと私は思う。 実際、日々の仕事やバトルに、生きがいを見いだし、生き生きと生きている方は多い。そのように生きれる方は、それに越したことはないだろう。

 世の中には、自分の終点を意識せずに、生きている方がとても多い。私は、まじかに若くして亡くなった方々を、10人ほど見ているので、誰でもある程度は意識すべき、とは思うが。現代では、今のみを楽しく生きるという人が多数派といっていい。その人の自由なのだから、それでもいいのだが。私の提示を、ほんのすこし参考にして頂ければ、ということ。地球上の多くの人々が、自分の生命体としての終点を、意識して生きるようになれば、かなりの社会問題が、ある程度は解決していくのではないだろうか。

◎あせらずに、はじめに整理してゆくもの。

得する片付け術、よく判る整理整頓、断捨離、捨てる技術、などこの10年、お片付けや整理 術が、流行っているようだ。特に、慌てる理由はないのに、つい焦って失敗したり、反対に、つ いつい後回しにしつづけたり。私は、整理整頓が苦手なほうだが、下記の事項は、リタイアの あと、私がほぼすべて経験したことである。

 まず、身近な不要品から片づけてみる。勤めをリタイアしたあと、私は背負ってしまった数々のトラウマを癒しながら、しばらくの間 、休養と充電(読書・テレビ放映の舞台や映画、ドラマを見る・親族や友人との買い物やお喋り、など)に努めていた。しかし、半年経っても身体中が重く、精神のダメージもなかなか回復の兆しをみせなかった。自分の想定以上に、傷が深かったのだ。 一年が過ぎたころ、ようやくすこし何かしようという気力が、私にも出て来た。まず自分の周囲を見渡すと、書棚や衣装ケースにあふれる、ガラクタともいうべき品々が山のように。そうだ、まずこのガラクタを、すこし減らすことからはじめてみよう。私は、そう思った。さっそく、大きなゴミ袋を、とりあえず5枚用意した。そして、衣装ケースの重い引き出しを開けてみた。 そこには、買ったまま読まなかった本、忘れていたコップやお皿のキャラクター・グッズ、 100円ショップの数多の雑貨。10年以上も前に買った家電の説明書や、古いレシート、メモ 、保証書のたぐい、などがひしめいていた。取捨の選択がラク、ということで、ここからはじめることにした。ゆっくり、気ままに、やったので、一日3時間ていど。7日間で4つのゴミの大袋が誕生した。それを、ゴミの日に出してしまうと、すこしスッキリして、快い感じが 。まあ、気のせい、ということもあるが。

2 次に、勤めていたときの、頂いたお土産や、仕事に関するノート類。捨てがたい記念品や、思 い出の品など。これらをセレクトし、保存しておく物は、空になった衣装ケースに収めることにした。3日で片付く量だったが、やはり勤めていたときの忌まわしい思い出が、亡霊のように次々と現れるので、なかなか進まなかった。途中、苦しくて作業を放棄し、4、5日後に再開する、といったスピード。結局、3週間もかかってしまった。廃棄品は、思い切って整理したので、何と大袋2つ。

3 次に、衣料品。私は、必需品の予備をたくさん用意しておくタイプなので、勤めに必要な衣類も、かなりたくさん買ってあった。しかし、リタイアしてからは、ポロシャツにホームウェアのズボン(裾先がゴム系で窄まった、オジジ・ルック)が定番となり、買い溜めてあった物が、そのまま持ち越しという形になっていた。ここでは、使えるものは多少場所を取っても、これから長い時間をかけて、順次使用してゆく、という方針。まず、明らかに草臥れた服や、色あせた物、これらは雑巾などに転用することにして、結果、それらは大袋ふたつになった。あと新品で、他の人が使えそうなものは、選んでもらってプレゼントした。 これらの整理によって私は、すこしスッキリした気分と、まだ物を置けるスペースをある 程度、確保した。そして、物が減ったことで、過去の亡霊に苦しむ時間が、大幅に減っ てきたのも事実。しばらくして(4ヶ月後くらい)、私はリタイア後のプランの実行に、ようや

く取り掛かることができたのだ。

 ニート、ひきこもり、この状況に、陥ってしまったときの、出口のない暗闇。あるいは、深海の底でもがくような、誰の助けも得られぬような苦しみ。かつて、私も経験したことがあるだけに、他の方々にも、すこしでも楽になって頂ければ、と願う。 私は、神はさまざまな実験をこの世で試し、行っているように感じるときがある。そこで、私 の体験から得た以下のことを、例示してみたい。1人の寿命は、現在でも一般的には、長くても100歳ていど、といっていいと思う。新聞の毎日の死亡記事欄には、著名な企業家や文化人、芸能人がいまでも90歳前後までに多く逝去する。さらに詳しくみると、その方々の多くは、85歳前後までに、その社会的生命を終えている。つまり、いま30歳の人なら、人生の終点まで長くても、あと60年から70年と考えていいのだ。親族の寿命が短い方は、40年から50年、と考えていい。苦しみのなかにいると、一週間でも長いが、まず自分の終点を思って、終わりまでの時間をゆっくりとみつめて欲しい。 そして、これをときどき繰り返して欲しい。すると、やがて自分の人生でいちばん大切なものが、分かってくるのではないだろうか。私の場合は「時間」だった。あなたの場合は? 「時間」と分かっても、生きてゆくためには、当然ながらその前提条件をクリアーしなければ ならない。主なものだけでも、2、3あると思うが、そのなかのひとつが、生活費を得る、ということだろう。これは、この関連の本をたくさん読んで、自分なりのノウハウを作っていくし かないだろう。本多信一先生の著作には、この類の本が30冊前後あるので、図書館・古書店な どでチェックする。

第3章 先生の基本理念など

 本多先生は、すでに何万人という相談者の魂を、極力、救われてきた方です。先生に敬愛の念をもって日々を送っている人は、全国にたくさんいると思います。勿論、いちぶに、先 生の提唱(アドバイス&人生訓・哲学など)を、まっすぐに受け止めずにいる人もいるようですが。ここで先生の、要となる言葉をいちぶ引用します。

*無理せず、いつでもありのままの自分で居て(暮らしていて)いい、ということ。 *ありのままの自分で生きて、寿命まで全うできれば、基本的にはそれで十分、ということ。そ れだけでも、神と親から、生命を頂いた責任は果たしたことになる、ということ。

*四苦八苦(生・老・病・死+愛別離苦(愛するものと分かれなければならない苦しみ)・怨憎 会苦(おんぞうえく:憎んでいる対象に出会う苦しみ)・求不得苦(ぐふとくく:欲しいものが 得られない苦しみ)・ 五蘊盛苦(ごうんじょうく:心身の機能が活発なため起こる苦しみ )は、ほとんどの人間に、平等に与えられているもの。それらと、うまく付き合っていく智恵やノウハウを知れば、苦悩はかなり軽くなる。

*欲望は人間であれば、誰にでもあること。恥と思わずに、じょじょに飼い慣らしていくこと。

*小さな動物でも、自分で餌を採って生きている。人間であれば、生きていくために、ある程 度の、努力は必要ではないか?

*反社会的なことでない限り、思いついたことは、色々と試して(ただし、お金はあまりかけ ずに)みるといい。たとえ失敗しても、そこから得たもの(ノウハウ・考え方・人間観察など )は、真に身につく。

*詳しくは先生の著作を。新刊を買うのが辛い方は、図書館などでの利用か、ネットか大きめの古本屋で200円前後でたまに見かけますので、そちらを。

 先生は自分でもよく言っていますが、「私は、聖人でも宗教家でもなく、ただの市井の凡人に過ぎない。多くのことを期待されては、本当に困る。基本的な提唱を理解して貰ったあとは、それぞれがそれなりの自助努力で、自分の道を見つけていって欲しい。」と。勿論、ゆっくりと、でいいのです。先生の要点は、たとえもしも何も見つからなくても、それはそれで結構。反社会的なことをしない限り、ありのままの自分で、寿命までひっそりと生きていけばいいのだ、ということ。どうでしょう?ここまででも、ほんのすこしだけれど、気が楽になっていませんか。とはいえ、この20年、ニート・フリーター等が、社会問題になっているのは、自立して(つまり親から巣立ちして)食べていくのが難しい、という懸念が主因であるのも確かだ。先生は、サラリーマンやOL、ひきこもり、ニート·フリーターなどの人々に、幾つかの生き方を提唱している。それは、まずは、今ある自分のありのまま(精神的・物理的な、見栄や装飾と、我欲を捨 てた後の、ほぼ素直な自分)で生きていくのを基本とする。反社会的なことをしないのが、前提 だが。そして、コンプレックスやつまらない優越感は、徐々に捨てていく。これは、根本的に持 つ必要のないものだから。人生は長くても、わづか100年前後。そのうち生産的・社会に貢献的に生きれるのは、普通レベルの人は70年程度(15才までと85才以降を除く)。この70年を、華々しく生きれる人もいるが、それはごくごく一部の人。100万人に、1人もいないだろう。それらの

人々の、参考になる部分は取り入れても構わないが、引け目を持つ必要はまったくない。それよりも、自分のあるがままに、他者に出来るだけ迷惑をかけないようにして、寿命まで生きれば、それだけでもう十分に素晴らしいことなのだ、と。勿論、趣味として、絵や書 、イラストを描いたり、文章を書いたり、陶芸や工芸、ボランティア等に取り組むのは、さらに OKということである。私の推定では、現在の日本には悩み多き人が、1000万人以上いるであろう。全世界では、何億人以上という悩み人が。その一人一人の悩みを考えると、まさに気が遠くなるが。

 さて、あるがままに生きる、というのは判ったが、困るのは人間はカスミを食べて生きていくことは出来ない、ということだろう。2014年・現在、医療費を除いても、衣食住のすべてを超シンプルに生きても、月に10万円は掛るだろう。つまり、基本生活費だけでも、年に120万円、30年で3600万円、必要ということだ。

*家に、ある程度の資産がある人。この立場の人は、そう悩まなくていいだろう。親が亡くなっても、ごく質素に生きる限り、年金 が貰えるまでを凌ぐのは、そう難しいことではないからだ。ただし、多少のノウハウは必要だが 。

*困るのは、自分の経済力で生き抜かねばならない人。私も、経済的には頼れる人がほとんどいないという状況だったので、その辛さ、悩みの深さがよく判るのだ。勤めに出てみると、驚くほど底意地の悪い人が、何十人といた。すこし意地悪なのは、数多といっていいほどに存在する。果てしなく悩んでいるときに、偶然手に取った雑誌で出会えたのが、本多信一先生である。図書館や本屋で著書を探して、むさぼるように20冊位を読んだ。そして、ある程度の精神的安らぎを得ることが出来た。それは嬉しいことだったが、当然ながら勤めを辞めることはできなかったから、悩みは続いた。本多先生を批判する人の多くが、具体的な進むべき道の指示・明示に乏しいことをあげている。これは、先生の基本理念に 、一定の教え(提唱)を理解したあとは、出来るだけ自力救済を心がけるもの、という信念があるからだが。私は、どちらがベターなのか、いまだに判断出来ないでいるのだが。

◎現実の対応として

先生の教えで、その基底をなすひとつが「すべてに無理をしない」ということ。例えば、努力 は必要だが、出来るときに出来る範囲でいい、というような。これは民間の企業では、通用しない論理だけれども。民間企業は当然ながら、雇い人に、少しでも売上げや利益を持ってくるように、要求する。これは、企業の論理としては、当然のことで、非難は出来ないだろう。  先生も、これについては、反社会的なことや、特別の無理じいでない限り、否定していない。このせめぎ合いには、多くの問題が含まれていると思う。そして、その多くは解決出来ないことでもある。それをすこしでも解決する、ひとつの方法として。それは、自分の持っている、(全部でなくていいから)幾つかの何かを捨てることによって、すこし目的の達成に近づくことができる、ということ。例えば、世間体(世間的な価値観や貧富の立場、金銭の多寡など)やプライド(人間としての最低限の、矜持等は除く)など。衣食住についても、命をつないでいく程度のものであれば、それほど無理せずに、世間から獲得してくることが出来るであろう、という。職業は何万種類もあり、誰でもその一つ位は、何とかこなせるものがあるのだから。神は、人間をそのように作っているのだから、という。先生は、それをほぼ実践してきているのだから、強いリアリティーがあるだろう。私自身、この主張を知ったとて、少し気が楽になった程度で、現実の悩みはまったく解決されたわけではない。それどころか、日々、私の周囲の状況は悪化していくばかりだった。ただ、こういう考え方をするという、本多先生の主張を知り、少しだけ気が楽になったということ自体が、重要な事実なのだ。それは長い間、常に私の心の糧となり、救いとなって、ごく小さなものだが灯りとなってくれた。 そして、8年後、私は、本当に、出来るときに出来る程度の努力を重ねたところ、運よく中型 公的資格のひとつを取ることができた。その後も、さまざまな意地悪や苦難はつづいたが、やは り資格というものは強く、それからは、年に2、3センチという感じではあったが、少しづつ周 囲の状況は好転してきた。最近になって、先生の教え(というか理念・主義・提唱)に、反発している人々の、批判的な ブログもたくさん読んだ。けれど、それはそれでいいのでは、と私は思う。先生自身、人は百人百様どころか、万人万様であり、それぞれが、出来るときに出来る努力をしていけば、それでOK 、という主義なので。先生は、何より平穏に生きつづけ、与えられた寿命をただ生き抜くだけで、人間として合格なのだと説いているのだから。

  私は、ある時期、新聞や雑誌に、茨城や福島、伊豆や山梨などの、大衆むけ別荘(高級とはほど遠いが)の広告がよく載っているもの。いわゆる、田舎暮らしのお勧めをメインにした、70 0万円前後で、100坪前後の敷地と築15年前後の小さな家が買え、庭畑やガーデニング、海や山の遊びが楽しめるという。写真では、まあまあよく見えるが、実際はどうなのだろうか? 20年ほど前、私はこれらの物件を、かなり真剣にチェックしていた時期があった。勿論、全身アレルギーで、花粉症がひどく、虫が超苦手で、暑さにもひどく弱い私が、現実に移住できる訳がないのは、うすうす分かってはいたが。これらの別荘情報は、私にとって一種のトランキライザー(30年前には一般的だった、精神安定剤)のような役目を果たしてくれていた。悩みがあまりにも重いときは、保存しておいたこれらの広告を読み返す。すると、何の根拠も無いのだけれど、そこでなら、生命力の乏しい私でも、何とか生きていける気がして、すこしだけ安らぎと希望を得られたのだ。 現代、その置かれている状況は様々だが、深刻に悩んでいる人は多い。すでに医者の手によらなければ、という方もいる。けれど多くは、適切なカウンセリングや、サポート団体(首都圏の青年ユニオン、ニュースタート、などの適切なNPO法人等)の支援、豊富な人生経験のある方のアドバイスや参考意見などで、多少は光明を見出せる状況なのでは、と感じる。この所、世の中も、やっとこの問題に本腰をいれて動き出そうとしている。まあ、遅ればせというよりも、遅れすぎ過ぎるけれども。勿論、これらの活動は、個々の問題の根本的な解決にはならないが。本多先生の場合、教えを受ける立場の私たちの礼儀として、もとより他者に多くのものを期待してはならない、と私は思う。私が相談に伺ったのは、40才の頃。100 分ほどの面談で、1ヶ月後、振り返っての感想は、やはり根本的な問題解決はあまり無かったという事実。しかし、先生に直接お話できたという喜びと、先生がいまこの激しい世に存在するという安堵感、それだけでもかなり励みとなった。見ず知らずの者の悩みを、何の見返りも求めずに無料で聞いてくれる人がいる。それは、この世知辛い世の中で、とても有難いことではないだろうか。先生は、多くの知識も、豊富な人生経験も持っていらっしゃる。先生とのご縁、それを有効に生かすには、私たちの側の進化・成長も不可欠であろう。ただし、現実の社会で、それがどんなに困難なことであるかを、私は実際に経験してきた。だから、悩みのある方は、けして無理はしないで欲しい。先生の持論のように、この世に生まれた者の基本的な義務は、あまり人に迷惑をかけないようにして、あとはただ寿命を全うすれば良いのだから。あえて自分を晒すが、私も、さえない外見と、慢性病(主にアレルギーによる、呼吸器系、 皮膚系等)、ひどい社交下手というハンデに、青春と中年のほぼすべてという長い時間もがいて来た。が、そうこうする内に、なぜか名のある新聞や雑誌に、たまにではあるが、自分の作品が載るようになって、ほんのちょっぴり自信がついて来た。そして、多少の努力で、公的中型資格も手にすることが出来た。勿論この半分以上は、実力ではなく運が良かったのだ、と私は思っている。それまで、ほとんど運に恵まれなかったので、神様がまとめて下さったのかも知れない、とあとになって思ったりもした。ここで、つまらない私史を語ったのは、いま深い悩みを持っている方に、すこしでも参考にして頂ければという思いから。私の約64年の経験では、世の中には、犯罪者のような人や、驚くほど底意地の悪い人も多いけれど、たまに驚くほど優れた人間性を持つ方もいる。そのような方に、稀に出会えたとき、私はこの世に生きる喜びを感じるのだ。私は、実社会では一人前の仕事をこなすのがやっとだったけど、二人前の仕事をスマートにこなせる方も、わづかではあるけれど、実際に見て来ている。生まれつき人に与えられたものは、確かにあって、無いものを得るには山のような努力がいる。それらを知って、それはそれとして、自分のいま持っているもので、静かに自分の道を歩いていく。そこを人生の基本として、これからの自分をゆっくりと考えてみる。そのような生き方を、先生は推奨しているのだ。私を含めて、ひどく世渡り下手・ひきこもりがち・生きていく能力に乏しい人、そんなエキセ ントリック?な人たち。この方たちに向けて、私のお伝えしたいこと。

*私たちの悩みの多くは、子供の将来に悩んでいる親も含めて、経済的なことと、それに関することだろう。自分(子供)は、世の中や親族、公的援助にあまり頼ることなく、寿命をまっとうできるのであろうか?けれど人生は、延びたとは言え普通約100年とみていい。現在(2014 )は、保険料を25年以上納めた方は、65才から死亡までは国の年金があり、ごくシンプルで基本的な生活は、まずカバーできる。つまり経済的なゴールは、取りあえずそこと見ていい。つまり貴方がいま35才であれば、あと30年の世間(この世)との勝負(戦い)なのだ。そう認識することで、すこし気が楽にならないだろうか。悩みにはまっていると、その悩みが果てしなく終りがないように感じるから。終りの時期を知ることによって、ひとつの目やすが出来るはずだ。頼れる人がいてもいなくても、出来れば自力でその権利を獲得する。世の多くの人たちが、それを推奨し、お尻を叩くのは、それが正道であるだけに、仕方のないことであろう。私は、 世渡り下手な人等にとって、それがどんなに大変で、困難を極めることなのかが、お仲間であるだけによく分かるのだが。といって、自助努力以外に、この世に、これといった対処方法はないのも確かである。ただ、一時的に生活保護等を受けることは、けして恥ずべきことではない。隆盛を誇った人でも、華やかなスターだった人でも、誰であっても、そのような状況に陥ることはあるのだから。現実に、そういう方を、私は何十人も見てきている。私の経験では、経済的な問題に見通しがつくと、他の悩みもぐんと軽くなるし、自己実現に取り組む気力も徐々に出てくるものだ。

 ここからは、グループ分けして、それぞれのケースについて考えていこう。

*まず、親の財産が、ある程度ある方。 ごく少数派であろうが、こういう方は、先行きをそう悲観することはないだろう。まずは、国民年金の保険料を最大限納付しておくこと。次に、親がアパートや駐車場等を持っている人は、 運営のノウハウを聴いて(保護者は、教えて)おくこと。出来れば、習っておくこと。今は、嬉しいことに7%前後の 手数料を払えば、管理のほとんどすべてお任せできる会社が、たくさんあるので、その利用もいい方法であろう。ただし、信頼できる会社でなければならないが。業界の大手数社に絞ること。

*次は、かなり困難なケースで、該当者は多いケース。 親がすでに亡くなっていたり、破産者だったりして、頼れる人が乏しく、自分で生きていくしか道がないという方。ともあれ、年金の支給がはじまる年齢まで、そこをゴールとみて、ライフプランを立てること。俗に言ういわゆる、その年まで食い繋ぐということ。言葉で綴るのは楽だけれど、それがどんなに困難を極めるか。すこし勇気を出して、公的窓口やサポート団体等に相談して、公的な援助等を知ることから、はじめてもいい。本多先生は、この世には数万の職種があり、誰でもそのひとつやふたつは何とかこなせるようになるものだという。だが、事実を見たわけではないので、私も確信はもてない。が、ともかく生きていく意思があるのなら、反社会的 な仕事でない限りは、何百でもいいからあれこれと試してみていいと思う。そして、出来るだけ努力してみて、それでも駄目だったら一度退いてみる。すこし休んで、また気力が出てきたら 、次の出来そうな仕事にチャレンジしてみる。それも駄目だったら、また他の出来そうな仕事 にチャレンジしてみる。私は、それでいいと思う。勿論、周囲には「根性なし」「そんな事で、 どうする?」とか、何やかんや意見する人は、多いと思うが。それは、気にしなくていい。そういう人には、「よかったら、これを見て」と、本多先生の本を渡して読んで貰うといいだろう。

*いま定職や、それに近い職をもっているが、毎日が辛く暗く憂鬱で、出来れば辞めたいという人たち。 私もかつてそれらを、溺れそうになるほど、永く深く経験したことなので、出来れば楽観的なことを言って励ましたい。でも、辞めて新しい道を探したら、などと無責任なことは絶対にいえない。日本の社会のように、ほぼ完成に近づいている社会では、エリート級の頭脳や才能、高学歴、大型資格、水準以上の対人交渉力などがなければ、いま手にしている仕事や職場を越える持続的な職を得られることはまずない。よほどの幸運がない限りは。多くは、ビックリするほど惨めな境遇に陥ってしまう。現に、大型公的資格をもっていても、収入を得るのに四苦八苦している人を、私はたくさん知っているのだ。では、どうするべきなのか。まず、ごく普通レベルの頭脳をもっている人たちのケース。ひとつの選択肢として、自分に出来そうな資格を取ること。まともなものだけでも、何千とあるが、現実に食べていけるものは極めてすくない。その中で、ブリザーブドフラワーの販売・作成・教習等は、すこし有望 だろう。通信教育(がくぶん、ユーキャンなど。全用具付きの総合コースで、8万円前後。)もあるし、集中講義なら、カルチャーセンター(NHK、朝日カルチャー、よみうり文化センター等)などで 、10日くらいで基本的ノウハウを得られる。見本のグラビアがたくさんあるので、普通ていどのセンスがあれば大丈夫。花の需要は、一年を通してあるし、訪問・お見舞い・冠婚葬祭等に欠かせない。きちんとした商品なら、生産後2年は販売(美しさの寿命は、2014現在・7年前後とか)できるから、焦らずにすむ。店は自宅の玄関やサンルームを、自分ですこし改装したり、安く済むなら2坪前後のスペースを借りてもいい。ただし、利益率は低いので、基本は食べて行くだけと心得たほうがいい。用具・飾りなどは、出来るだけ自分の持っている物でカバーするか、リサイクル品を利用すること。(あとは、個性等に合わせて、このケースのアレンジで。なお、必ず並行して本多先生の著作を参考に。)

 次は、公的中型資格をとること。ここではA税理士、B行政書士、C宅地建物取引主任者が、ベ スト3。現実の求人はあるし、ノウハウを身に付けたら、注意深く管理すれば、自営もできる。ただしAは、脱税などの違法行為をする企業に注意がいるし、Bは相手を行政関係等にしぼること、Cは賃貸の仲介にしぼること。私達にとって、土地の取引はリスクが大き過ぎるので。A、 Bも相手によっては、違法行為を強要されるリスクがあるので、注意が必要。まだあるのだが、あとは上記のアレンジと、本多先生の職業関係(30冊以上ある)の著作を読んで、研究して頂きたい。

*10年間(さらに、10年)、早く引退する方法

 勤めていたとき、定年以降も働きたいという人は、周囲に思ったよりずっと多くいた。 また、政治家などで、70歳を過ぎてもエバっていたい、という著名人も多い。私は、選択定年に たどり着くのも、やっとこさという感じだったので、色々と感心した。けれど、何かやりたいこ と(田舎暮らし、海辺の町暮らし、カフェオーナー、ギャラリー、作家、画家、木工作家、陶芸 家など)がある人は、出来るだけ早く引退したいだろう。しかし、先のことを考えると、年金にたどり着くまでの資金が不可欠。それについて、考えてみたい。ただし、不可欠で共通する基本費でもある、生活費(食費・水道光熱費など)に限る。

◎医療費と住居費は除く。基本費として、大きい位置を占めるので立案のときに注意がいる。 *住居費の参考:不動産会社のネット等で調べてみると、2014年現在、大都市郊外で、築1 5年以上の、1Kか6畳程度のワンルームなら3万5千円前後で、まともな物件は多数ある。築25年前後なら、3万円以下でも結構出ている。詳しくは、ネットで調べること。 *医療費の参考:年収の額による規制や、他の規制もあるので、ここでは、ごく一般的なケースとして。(2014現在。月収53万円以下の人について。)月に約8万円を超える高額医療費(保険適用のもののみ)は、超えた分はあとで(通常、4ヶ月前後)返ってくる。詳細は、ネットの検索ですぐに調べられます。ワードは、医療費、介護費など。

*安心のため、万一のとき「ある程度のフォローのある」、主に医療・傷害をカバーする掛け捨ての保険は、不可欠。掛け金は、月に3千円前後と低額で、私の経験では、なかなか良心的。 別に、貰えなくてもいいのだ。この、提供される「ある程度の安心」が重要なので。県民共済、 都民共済、全労災などがお勧め。すでにどこかに入っている人は、そのままでいいし、余裕のある人は、そのままでもいいし、大手保険会社でもOK。

◎すでに所有している物で、出来るだけ間に合わせる。どうしても新たに必要な物は、仕方がないが。出来るだけ、リサイクル、フリマ、100均、激安店等を活用する。 ◎私の場合で、概算してみる。(物価水準は、主に2013年前後の実勢とする。) 食費は個人差が大きい。高価な食材好きや、大食いの方は、量を減らす努力が必要だろう。 私は、多くのものにアレルギーなので、食べれる物は、割と安いものが多い。これは、助かる? 昼と夕飯のどちらかは、ガスト、王将、サイゼリア、満州、回転ずし、マック、ドトールなどが 御贔屓、というとってもエコノミーな食生活を過ごしている。支払いは、平均700円前後。 朝は、昨日の残り物か、菓子パンかトースト。それに、コーヒーか紅茶。これだと、平均100 円ていどで済む。残り一食は、玉子いりの即席ラーメンか、残り物やありあわせを添えた、そば 、うどんなど。これらから計算すると、一日、平均1000円ていど。つまり、月約3万円ていど。 次に、水道光熱費。私は、寒さ暑さに弱いので、ついエアコンを使うし、水も豊富に使うタイプなので、毎月かなり掛かっている。平均1万5千円ていどだろうか。これは、すこし節約すれば、1万円以内で済むかも。 通信費が、月に1万円前後。本や新聞などが、やはり1万円前後。ほかに、雑費として1万円。これらから推計すると、月約7万5千円となる。年額では、約90万円になる。これだけでも、10年間で、900万円が必要となる。もっとも、あと30%は絞れる、という方も多いだろう。その場合は、630万円。こんなチープな暮らし、やってられんわ、という方は、お小遣いとして年額30万円足し、1、200万円。この数値に、医療見込み費(個人差が大きいが、一般的には10年間で500万円くらいだろう。丈夫な人は、その半分くらい)と、住居費を足す。総合的に、住居費が安く済む、実家暮らしの人はぐんと有利だろう。これが、いちおうの概算予定費用。まあ、人生には、予定外の費用も、ときにあるが。その場合は、この予定費用から、削るしかないだろう。お金については、人はまったく当てにならない、という事実を肝に命じておく必要がある。それぞれの、才と節約で、何とか年金にたどり着くしかないのだ。頑張って、というより辛抱をつづけて、ぜひゴールを目指して欲しい。私のようなナイナイ尽くしでも、ギリギリたどりつけたのだから、それを励みとして。 あと、これは普通、言及しないことだけれど、宝くじが当たったり、思いがけず遺産や補償金などが入ったときなど。この自己計算から、その分を引いてみる。つまり、その分だけ早くリタイアしてもいい、ということ。ただし、社会から身を引くときは、出来るだけ、あなたの居る場 所の規則どうりか、労働基準法の決まりどうりに。これは、立つ鳥あとを濁さず、の諺が私は正しいと思うから。でも、もう心身の限界がきていて、という人は、辞表提出時の話し合いでいいだろう。

*補追 さらに、あと10年早く、リタイアしたい、という方に。基本は、上記の予定額の2倍でいいだろう。ただし、長期化の場合は、必ずインフレ、デフレの問題がでてくる。私の、長い人生経験からいって、デフレは、収入は減るが物価も下がるので、そう心配することはないが、問題はインフレである。庶民の給料はあまり上がらないまま、お米やうどん、ラーメンが、5%、10%と、次々と、当然のように値上がりしてゆく。医療費は、3年で30%も上がり、家賃も同様、そんな時がいままでに、7、8度あった。こんな時は、私は人知れず恐怖を感じた。それらを考慮すると、予定額の15%増しで考えたほうがいいだろう。

*「さらに、あと10年早くという方へ。」

 この場合、さらに難しさは、増してゆく。現在、ごく一般的なコースとして、20歳前後から定年の60歳まで、40年前後、働くという、社会的なコンセンサスがある。(一部のエリートは除いて)これは、年金の支給開始年齢や、世代間の交代の円滑化などを考慮した、社会の暗黙のルールと言っていい。けれど、これはあくまで私見だが、お金の準備が出来ているならば、そう心配することはないだろう。10年の予定額に、3を掛け、それの30%増しの金額。それが、見込み予定額である。もちろん、これは私の長い経験から割り出したものだから、あくまで参考として活用して欲しい。

 私は、勤めで悩んでいたころ(というより、初めから、選択定年の2年前ごろまで)、ときどき宝くじを買った。そのころ、一等賞金がすでに1億円になっていたが、私は、一等よりはずっと当たりやすいであろう、2、3等か、組み違いの2000万円前後の賞金で十分だった。というのは、私は45歳でのリタイアを考えて、準備を進めていたからだ。退職金も多少は出るし、何とか年金にたどり着けるだろう、という甘い考えだった。その先の、自由な日々を、陶酔するように夢みることによって、何とか辛い現実を耐えていたのだった。宝くじで当たったのは、なんと最高で3千円。現在までのトータルで、マイナス4万円程度。私が自由を手にしたのは、他の諸事情もあって、実際はそれから10年もかかってしまったが。ともかく、世間の人は危ぶみ続けるけれど、そう深刻に考えることはないと思う。ただし、働いてお金を貯めるというのは、予想以上に困難をともなう。それを、しっかり認識してゆくのも、有意義な経験となるだろう。

第4章 私に出来たことは唯ひとつ、そして。

 我慢をしつづける事、だけだった。アレルギー系の中度の持病が、あれこれとあり、学歴も人脈も体力もまったくない。まるで、ナイナイ尽くしが、服を着たような、わ・た・し。職場を変えたら、たちまち路頭に迷ってしまうだろう。と言うより、確実にホームレス予備群に、編入されてしまう。それ故に、我慢しつづけるしかなかったのだ。人は、いつか去ってしまうもの。60数年の体験から得た、わたしの持論である。死による別れ、愛の終わりによる別れ、仕事上の都合による別れ、卒業(学校以外のものも、含む。)に よる別れ、引越しによる別れ、などなど数多。だから、すべてに深刻に対処していたら、とても生き抜 いていけない。この「数多」のなかから、貴方のボルテージがあがる3個前後を選び、それら には思い切り泣き、ほかはボルテージを抑えて対処する、といったノウハウを提示しよう。

◎リセットという概念を身につける。

 勤めていた頃、わたしの周りの50%(辞めたときには、70%)くらいは、日本でベスト2 0に入るような大学を出た方々だった。残りは、私同様な、短大卒者とか、高卒の方だったが。わたしが勤め始めたころ(昭和46年頃)は、社会が、いまだ戦後の激動を引きずって( 内包して)おり、高卒で課長(に辿りついた)という人も、まだかなりの人数が居た。つまり、 有名大学を出た人たちを、高卒の方が支配・指示している訳。平成の今では、人の3倍働くか 、特別な才能がないと苦しいと思うが。 わたしは基本的に、勤め先に、経済的なものしか求めていなかった。そりゃあ、そこで友情とか信奉者とか恋とかも得られれば素敵だが、わたしにはほとんど(まったく、というと微妙になるので)縁がなかった。ただ、神様の配慮なのか、奇跡的に2人の友と、5、6人の知人は得られたが。これは、とても有難いことだった。長い宮仕えから得た、私の体験感。人というものはその見かけによらず、結構、その日常 でも、ひとつやふたつの小賢しい策略を、考えている場合が多い。見かけが、ごく普通のOLや 、平凡なサラリーマンでも。私は、そのことに心の何処かでいつも驚嘆していた。もちろん、その策略の70%は、そう罪のない悪だくみなのだが。あとの20%は、ポジティブな良いもの。問題は、残りの10%。これは、人間として、出来ればして欲しくない、醜悪で恐ろしい悪だくみ。その何十%くらいが、実行に移されるのかは、よく分からないが。私も、勤 めていたとき、多くの嫌がらせを受けた。しかし、判っていても、反撃できない状況があった。 乏しい人脈、低学歴、肉体的ハンデ、等々。我ながら、辛く、歯痒い。私は、振り向けば何千回と、その状況に耐えたのだろうか。貴方達は、たんなる職場の知人(お互いに)なのにと、私はいつも不思議だった。いま目の 前で、金魚のフンのようにくっ付いている、同じ職場の人達。けれど、勤めを辞めて5年もす れば、(大多数が)もうあまり逢う事もないだろう。これは、すべての職場や、学校や、さま ざまな組織・機構・施設など、というシーンでも同じこと。それを、なぜ認識できないのだろう 、頭のいい人たちなのにと。私との関係も、私が勤めを辞めれば、それまでのこと。人は、 誰もやがて去ってしまうものなのだ。定年や転職などで、職場を去る以外にも、事故や病気による死亡、田舎や外国への移住、留学などもある。それは、「勤め」や「学校」だけでなく、人生 のすべてのシーンにおいて、同じことなのだ。これは、リセットのひとつといえるだろう。それを、まず認識すること。そうすれば、あなたの生きてゆくステージは、間違いなく、ワンランク、アップするだろう。それから、もうひとつ覚えて頂きたいこと。それは、いつでもどこでも(ドラエモンか) リセット、という考え方。これは、学者系の方々は、言い出し難いことなので、私が言うことにしている。たとえば、失敗しても何があっても、反省や謝罪を済ませたら、ゆっくりとスタートの場所に戻ってゆく。すみやかにリセットすることは、別に、特に恥ずかしいことではない。この考え方を持つことによって、悩み多き人々は、すこしだけ気が楽になるだろう。もちろん、根本的な解決になる訳ではないが。まあリセットしていいのは、前提として、かなりの努力をそれなりにしたあと、ということだけれど。

このところ、私が若かったころに、有名だった方たちが、病気や、自殺などで、次々とこの世を去っている。藤圭子(62)、長門勇(81)、小田普(79)、牧伸二(78)、佐野洋(84)、田端義夫(94)などなど。

追加・島倉千代子、渡辺淳一、宇津井健、淡路恵子、など。 だから、という訳ではないが、人や人との関係に、そう拘らなくて(憎悪・執着・嫉妬など) いい、と私は思う。50年たてば多くの人間関係は、自然と終了するし、100年たてば、貴方の存在さえ知らない人が、多数派になるのだから。

◎現代は、さまざまな生き方が、もっと許されていい。

 私は、フリーターはもちろん、ニート・ひきこもりなども、現代のひとつの生き方として、広く認められていいと思う。まあ、暴言と取る方も多いだろうが。21世紀になって、すでに14 年以上が経っているのだ。新しい、(一般的な規範をエスケープした)プライスレスな生き方が 出てきてもいいと思うのだ。そこに「ただし、すべて自己責任でやること。」という前提を、付けなければならないが。これは、世間ではごく一般的な常識であろう。次に、私の提唱したいこと。気に入ったら、すこし参考にしてください。

1.さまざまな情報を、ゆっくりと幅広く収集すること。

2.集めた情報を吟味し、自分との距離感の分析や、参考としてファイルしておくものをより分ける。

3.他者との共同作業がひどく苦手な人(もちろん、私も。)は、自営業(クレープ・たい焼き屋、 お好み焼き・たこ焼き屋、おやき・まんじゅう屋、プリザーブド・フラワー屋など)を考えてみ ること。つまり、10日前後の集中的修行でスタートにつけ、初期費用があまりかからず、難しいノウハウがいらず、リスクが一般的には低い仕事。この場合は、まずノウハウを習得するのが 絶対条件になる。独学でも、70%くらいは習得できるけど、それだけだと、耐え難い多くのト ラブルが予想される。親族や、その知人、そのまた知り合いでもいいから、店を持つ方にお願い して、一ヶ月か二ヶ月でもいいから、実習をさせてもらうこと。無料でも使われるのはどうしても苦手、という人はノウハウを絞りに絞ってもらい、かつお金を少し払って、5日間前後で何とか基本を身に付けること。

4.世間話やとりとめもない話でもいいから、たくさんの親族・知人に、あれこれ話してみる こと。たまに、有用な知識・情報を、教えてくれる人がいるから。

◎棘のある日々を生きて、35年余。

現在から、若い頃を振り返ると、私が日々(主に仕事系で)無理無理に社会に出ると、赤面するようなことや、重いショックなことが、毎日数回はあった。だから、絶対に家でのんびり好き なことをしていたかった。けれど残念ながら、私の周囲に、経済力のある人は皆無で、頼れるようなお金と度量のある人は、まるでいなかった。かといって、ルンペン(現在のホームレスに近似の存在)は、私の心身では3日で死人になってしまうし。周囲の、冷たい眼にも、神経が耐えられないし。いくら考えても、私は泣く泣く、働きに出ざるを得なかったのだ。恥も外聞も、振り捨てなければ、私の生きる道は開かなかったのだ。世の中には、羨ましい人たちがいて、 親の持っている、アパートや駐車場、貸家のあがりが貰えるといったような。しかし、羨んでも 、私に1円のお金が入ってくる訳でもないのだ。東京のターミナル駅から80分ほどの実家は親の所有だったが、その敷地はなんと30坪。これでは、50年後(?)の私の取り分は、300万円にもならないだろう。こういう状況では、どんなに辛くても、勤めを辞めることは不可能だった。私は、昔、親の借金のために、無理やり売春をさせられた、女性たちを思い浮かべ、それよりははるかにましと思って、日々を耐えていた。それにしても、長い社会生活の間には、何度も、もう駄目という危機があった。数人の、 知人、友人が、ときどき話を聞いてくれたが、すこし気分が楽になるだけで、根本的な(というか、軽めの問題さえも)解決には、まったくならなかった。車窓の美しい景色も心に見えず、 庭や花屋の、青いハーブや色とりどりの薔薇を見ても、心は虚ろだった。 私は、いつの頃からか、親しい数人の人以外とは、出来るだけご挨拶だけで済ますようにしていた。彼等の陰口を、知っていたから。もちろん、仕事であれば、必要な会話はしたし、共同の作業があれば、一緒に仕事をしたが。外見(自分では、ポーカーフェイスのつもりだった)からは、判断できにくかったろうが、バラやピラカンサスの鋭い棘で、チクチクといたぶられているような心理だった。

◎現代は、身の程を知らぬ人々が多い。

 私は、基本的に、すべての人に(もちろん、私に関連する人だけだが)まず挨拶だけをしている。普通、そのあと二言三言、世間話をするのだろうが、私は話題がまるで浮かばないのだ。相手が、何か話しかけてくれれば、何とか合わせるのだが。そうは上手くいかないのが、世の中と いうものだろう。まあ、話題もないのに無理に喋る必要はない、というのが私の、基本的なコンセプトなのだ。この本を読んでくださる方には、私に近い方が多いだろう。若い時には、辛いことだったが、還暦も過ぎたいまは、さまざまな事に、そう深く囚われなくていい、ということが自然に判ってくる。そう、言ってもなかなか実行できない事だが、すべての事に、そう神経をすり減らす必要はないのだ。若い方々は、このことを知って、すこし安心して欲しい。さて、人はその外見で80%以上の判断をされてしまうらしい。私のような外見弱者の人には、とても困る慣習だが、変える実力などないので仕方あるまい。

◎人生は未勝利でも、新たな入り口が。

 97敗3勝。100で例えると現在までの、私の人生の星取り表である。ただし、30年以 上前、私が30歳過ぎまでは、100敗0勝、つまり未勝利だった。一度も勝てたことのない、人生。数人の親しい人はいたが、私は日常的に孤独で、味方もごくすくなかった。だが、沢尻エリカではないが、私は別に、特に悩んでいたわけではなかった。私は不遜にも、そんな彼等をずっとみていて、あんたら、そのエネルギーを内側にむけて、自分を磨いたら?と、いつも思っ ていた。私の感覚では、彼等の多くは、センスが悪く、素敵とは言いがたい容姿で、飛び抜けた 才能もなくて、下世話でお喋り好きで、といった感じだったのだ。いま気がついたが、そう、こ れは鏡の理論に似ている、ではないのか。私は、基本的にどの方とも、はじめはご挨拶だけ、にしている。これは、同じ方も多いだろう。違うのは、次も、その次も、相手から声のかからない限り、私は基本的に挨拶のみ、というのがセオリーなのだ。これは、気取っているわけではなく、まったく反対の理由なのだ。人見知りで、拒否されることへの恐れもあるが、真の理由は、あろうことか、なんか面倒くさい、ということなのだ。判ってくださる方は、2%足らずだろう。ここで強味を発揮するのが、私の性格。つまり他者への興味が、ほかの方よりもすこし淡い、ということ。ただし、このバリューは、生来のものでなければ、本当の強味にはならないけど、皆様にもすこし参考にはできると思う。私は、学校や職場の知人が陰で、私のプロフィールや、 容姿、仕事ぶりなどについて、論うのがとても不思議だった。彼等は、私にとって、単なる知人であって、それ以上でも以下でもない存在だった。彼等にとっても、お互いさまだろうと思っていたのだ。このあとのドロドロは、ここでは省略するが。

*30歳で1勝に、たどりつく。(文学系で、ごく小さな賞がひとつ取れたり、人間関係がほんのすこし好転したり。) 40歳で2勝に、たどりつく。(ひとつの小さな努力が実ったり、勤務先の年金の資格が取れたり。) 55歳で3勝に、たどりつく。(選択定年に、たどりつく。最後の1年は、抜け殻状態で、担当の仕事をこなすのがやっと。)

 残念ながら、勝数は、その後ほとんど増えていませんが。 以上の記述は、他の方が思案するときに参考に、ということです。私は、 たまたま3勝したが、すこし思案の方向を変えれば、未勝利であっても、まったく構わない、ということ。

◎深い悩みから生まれてくるものは、銀の価値がある

 現在までの私の周囲で、またはマス・メディア等で、私が見ていた方たちのなかで、突然のようにこの世を去っていった人が、たくさんいる。登山中の事故で、26歳で亡くなった男子大学院生、夜勤明けから帰宅後、昼ご飯を済ませて眠りにつき、そのまま逝ってしまった34歳の 青年。いわゆる、突然死だったよう。何だか、とても儚い感じ。有名大学を卒業後、教育機関に勤めて半年、心臓の発作で急死した24歳の男子。メディアでは、優れた容姿と華やかな経歴を持ちながら、死を選んでしまった、戸川京子、古尾谷雅人、清水由貴子、古尾谷雅人、川田亜子、田中実、などなど。私のようなナイナイ尽くしでも、何とか生きのびているというのに、もうすこし考えて欲しかった、と思う。まあ、それぞれ表明しがたい、深い事情があったのだろうが。人という生物は、その表面からは測り知れない、何かを持っていることが多い。色恋をはじめ 、言い難い欲望だったり、怨念だったり、反社会的なものだったり、するのだろうが。私も60数年のなかで、周囲にいる方のなかに、ふとそれらを垣間見ることがあって、驚くことがあった。そして、恐れた。けれど、それらの体験は、やがて自分の人生を深化させる、導入路となってくれた。そして、自身の悩みとともに、ままならぬ日々や、新たな悩み。私も、一時期、ニッチもサッチも立ち行 かない、暗く長い日々があった。しかし、年月の経過とともに、それらの体験は、私に深い哲学をあたえ、創作にすこし深みをあたえた、ような気がする。そこから、メタルを取り出すのも、銀や金を取り出すのも、その人の意志(姿勢)とテクニックが決定するのではないだろうか。

第5章 保護者、またはサポート的立場の方へ

 テレビなどで、東日本大震災の惨状を見ていると、「無常ということ」などという言葉が、自然に浮かんでくる。人々の営々とした努力も、大津波は、わずか20分足らずで、ほとんどの物を破壊し、2万人近くもの尊い命を奪っていく。天災なので、抗う術はないが、人間は、ただ 茫然とたたずむしかない。節約を重ねて、やっと手にしたであろうマイホームも、自然はあっけなく破壊し、連れ去ってゆく。人間は、生きている限り、労働や努力を求められるものだが、こういう現状を見ていると、何だか馬鹿らしくなってしまう。そう言わずに、そこから立ち上がってゆくのが、これまた人間なのだが。

 こう書いてきたのは、そう、これから取り上げる問題について、大きく被さってくることだから 。今回の、大震災によって、人生観が変わった人は、かなりいらっしゃるのでは?概念や、頭の中だけの仮想体験では、人はその本質が、なかなか変わらないものだ。けれど、これだけの天災に遭遇すると、多くの人は、体内に化学変化を起したように、その人生観や思考法が、微妙に変化していく。ニート、ひきこもり、フリーターなど、1990年頃から、一般的になったフレーズといっていいのだろうか。その親族の方たちの、不安や心配について、私も、かなり判るつもりだ。というのは、私自身も長い間、社会との軋轢に深く悩んでいたし、生活の不安や心配ごとは絶えず、 暗く長いトンネルを歩くように、苦悩は年ごとに巨大化していくばかりだった。私はその後、かなりの我慢を、延々と重ねて、何とか年金生活にたどり着いた。いまようやく、好きな仕事が存分に出来る日々。現在、やりたい仕事の、80%前後は出来ていると思う。だから、出来ればひとりでも多く、自由に生きれる日々に、たどり着ける方が増えて欲しいと願う。まあ、現実的には、さまざまな困難があるけれど。

先日のY新聞の、人生相談の欄に、アラフォーの息子を心配する、母親の相談が載っていた。大学を卒業して以来、たまにアルバイトを2週間くらいしては、あとは家の中で、ゲームやPCに明 け暮れていたという。この5年はアルバイトもしなくなり、ほとんどを家で過ごしていると いう。両親は、すでに70歳代。自分たちの亡きあとの息子の行く末が、心配でならないと いう。まあ、この問題の標準的な実例の、ひとつといえるだろう。私は、この問題について、5つのカテゴリーに分けて、考えている。4つめは、専門的事例で、5つめは、特殊な事例、これらは多様な分野の学者の方が、力をあわせて扱うしかない世界。 なので、ここでは、3つめまでを取り上げる。仮に、A、B、Cとする。

Aグループ。

保護者の方に、これといった財産がなく、自己の年金で、自分たちが生活してゆくのでいっぱい、という方々。このケースは、確かに心配は多い。両親または保護者(そして、サポートの方々)の亡いのち、子供たちはどうやって生きていくのだろう?出来れば、世間とのトラブルや、生活保護は避けさせたい。当然の願いで、多くの人の持つ、不安と苦しみであろう。 深刻な事例に接するたびに、何とか有益なプランを、と思うのだが。すでに創 案されているものを超えるプランが、今の所なかなか探し出せないのだ。

*私が提唱している、廃校・廃施設等を利用した、技術習得所の設置プラン。本書の「これからの日々に」を参照のこと。まずは、基本となる、国民年金のプラン(Cグループ欄内・参照のこと)を、実行すること。

Bグループ。

AとCのグループの、中間あたりに位置すると、思われる方々。実は、このグループの方への、プランの提示が一番難しいのだ。まずは基本となる、国民年金のプラン(Cグループ欄内)を、実行すること。

Cグループ。

これは、ある程度(そして、それ以上)の財産(土地、家、預金、国債など)が、家にある方。そして、その多くを子供(ニート、フリーター等の)に残せるであろう、という方。ほかでも 書いたけれど、このグループの方は、適切なノウハウを知れば、そう心配することはない。

*まず、子供の国民年金保険料を、必要年数(2014現在では、60歳まで。ただし、今後延びる可能性大なので、最後まで払えるようにしておくこと。)払う手続きをしておくこと。統一したフォームはまだないと思うが、各銀行や郵ちょ銀などで、自動振り替えが自動継続できる、という手続きがあると思う。10年限度、の規定がある場合も、多くは期限のすこし前に送られてくる書き換え書類に、名前を書き印を押して送り返すだけで済むはずなので、記録しておけば簡単に出来ると思う。

*社会保障の下限ネットのひとつとして、10年払いの基礎年金プラン(一括払いが出来ると、なおいいと思う。消費税10%実施と同時に、実行される予定という話もある。金額は少ないが、生涯支給の予定。)も出て来ている。反対論も多いが、私は社会的に有益なプランだと思う。理由は、ふたつ。ひとつは、現在のニート、フリーター等の親の世代が、すでに高齢化して来ていること。この年金制度が出来れば、すこし安心を得られる親達が、何十万人もいると思う。あとひとつは、この年金制度が成立しない場合、生活保護に頼らざるを得ない方達が、今後、たくさん出て来ることが予想される。金額的には、生活保護のほうが有利かも知れない。けれど、生活保護では、人間としての矜持を保ちにくい、というのも事実ではないだろうか?金額は安くても、年金生活であれば、誰にでも堂々と表明できるし、社会活動のうえでの実質上の制限もないのだから。

*このことに限らず、すべての事案は、本人への教示とともに、面倒ではあるが必ず、親族とサポートの方々、知人等の複数(出来れば5人以上)の人々に頼んでおくとこと。情報の収集とともに、相手に、私達はこういう事を考えている、という事を知ってもらうのが大切なので。これからは、金融機関の倒産、といった事態もありえるので、出来れば「メガ」のつく機関やゆうちょ銀、がお勧め。年金は、すべてのプランの基本となるので、絶対に忘れずに。 その他、マンションやアパート、駐車場などの、子供に残せそうな財産があるという方。これらは、現在、売り上げ収入の7%前後の手数料で、運営のほぼすべてを代行してくれる会社がたくさんある。はじめに契約すれば、あとは不都合がない限り3年前後の自動継続が普通。また、アパートやマンションなどを新築・購入する際に契約する、30年一括借り上げなどの利用もいい。これらの大手の会社に委託するのが、トラブルに巻き込まれずに済むのでいい。実名をあげるのは無理なので、ネットでの検索(不動産 賃貸 管理・駐車場 管理、などのキーワ ード)や、公的機関への電話(トラブル等で行政処分を受けた事はないか?など)周囲の友人・ 知人(この場合、面倒でも必ず5人以上に聴くこと)に、評判を聞いてみること。ここでも、倒産のリスクを考えて、その業界の3位までがお勧め。ただし、賃貸業務の委託であって、所有権は自分が保持したままなので、きちんとした業者であれば、そう心配はないだろう。ただし、不快を感じる業者は、避けること。

◎生きることの意味と実例

 現代では、本多先生の理想である、山里でひっそりと静穏に暮らす、ということは、精神的にも経済的にも難しい。が、現代でもごく一部、ほぼ実現している方が、存在していらっしゃる。2名、紹介したいと思う。(2005年前後の例。細部は加工。)

 まずは、北海道の森のなかで、廃材を貰ってきて小屋を建て、暮らしていた70歳くらいの方 。45歳くらいで勤めを辞め、妻子と別れて、日本のあちこちを放浪。52歳くらいで、知人の所有するこの森にたどり着いたとか。哲学が好きで、その関係の本を読んだり、著述をしたりして、ゆったりと日々を過しているそう。生活は、小屋の周囲の菜園での自給自足が基本。近所の農家の収穫期に手伝いをし、バイト代代わりにその作物を貰う。現在は、月約6万の年金を貰っていて、半分は貯金できるという。その後の情報で、この方はなんと、近くの街の未亡人と再婚してその方の家で、円満に暮らしているとか。 次は、屋久島に住んでいる、アラフォーの陶芸家。隣家まで500メートル、夜になると人け がなく真っ暗な、超田舎である。彼は京都出身で、高校卒業後、有名陶器メーカーに7年勤務。 貯めたお金(推定、200万円程度)を持って、1990頃、来島。ある村のはずれに、約1, 200坪の土地を90万円で購入。そこに残っていた、農機具収納のためのボロ小屋に住み着く。以来、囲炉裏で作品を焼く傍ら、小屋の増築や、菜園での自給自足をのんびりペースで続けて いるという。1995年頃から、テレビや雑誌などの各メディアで、ときどき紹介されるよう になったので、茶碗や花瓶がたまに売れ、それが貴重な生活費になるとか。 それにしても京都のような大都会に住んでいた人が、よくこのような暮らしが出来ると思うが、それには理由があるようだ。彼が子供のころ、父親の店が破産し、一家は離散。彼は、祖母に引き取られたという。そのときに体験した、苛烈な取立てや脅迫が、強いトラウマとなり、人への恐怖心がいまだに取れないのだという。だから、彼にとっては、ここが一番心地がいいとのことだ。私は、とても感心した。我慢して勤める内に、必要なお金を貯め、生業のノウハウを 身につける。大きなトラウマを抱えながらも、自力で道を開いたのだ。

 私は、あと80人位のケースを知っているけれど、また別の機会に。ご紹介したのは、多少でも参考にして頂ければ、ということ。この方々の生き方を、自分にあわせてアレンジしたり、応用・改変すれば、かなり利用できるのでは。

 現代では、自分の引退の時期を見極める、ということはとても難しい。情報が溢れ、また親族の思惑が重く、自分自身もまた将来を見通す自信などまるで無い。私もまた、かなり悩んだ。結果的には、あと5年早くリタイアできていれば、新しい取り組みも、もっと迅速にもっと広く深く、実現できたのではなどとすこし悔やんでいる。でも、その場合は経済的に危うく、落ち着いて自分の活動に取り組めたのか?という不安は残ったろう。だから、良し悪しの判断は、いまも出 来ないでいる。サブプライム問題、それによる世界的金融危機、世界的不景気、ギリシャ危機、派遣り、政権交代、激しいリストラ、各業界のトラブル、などこの10年ばかり、日本も世界も打ちひしがれ困迷している様子だ。弱者的立場にある人々にとって、いっそう辛い時代といえよう。さらに、近頃の世相を見ていて嘆かわしいのは、日本のマス・メディアは、叩くばかりで、育てることを知らないということ。折角芽生えたものも、完膚なきまでに摘み取ってしまう。さて私は、地味でいいから出来れば楽しく生きたいし、自己実現もやり遂げたい。だから、ほかの人達も、ぜひそうあって欲しい。でも現実というものは無情にも、平凡な願いをも拒否したり壊したりする。本多先生は、このような小なる悩みも、政治・民族などの大なる悩みも、すべてを平静に受け止め、日々の流れるままに、あるがままの自分で、必要なときに必要なことに対処していけばよい、という。私も基本的には、それがベストと思う。もちろん、細かくはケースバイケースになるだろうが。カウンセリング、内観法、セルフコントロール、森田療法、ノート記述法、など。悩み多き日は、私も何十というノウハウを試みた。いずれも決定打にはならなかったが、それぞれそれなりの、小さな安らぎは与えてくれたし、その技術や方法を知ることは、その後の人生にとって大変勉強になった。これらの方法論は、その後の人生の指針となったし、悩みをこれらに当て嵌めて(置き換えて)みることで、ほんのすこしではあるが、心が安らいだ。まだ残りある実人生に、あれこれと応用もできるし。だから、いま悩みの深い人は、これらの内、自分に向きそうなものを一つか二つ試してみたらどうだろうか?やってみて向かなければ、そこで止めればいいのだし。ひとつでもそのノウハウを知ることで、人生の扉はほんのすこしではあるが、ちょっぴり開けやすくなると思う。私の在職中、知人のひとり(仮にE氏)が、職場の人間関係に悩んで、死を選んでしまったことがあった。まだ29歳の若さだった。職場が離れていたので、私はEがそんなに悩んでいることは、まったく知らずに、訃報を聞いたとき、てっきり原因は失恋か哲学的な苦悩だったのでは ?と感じてしまった。ところが、あとから噂を聞くとまったく違う理由(いわゆる、職場の古株たちによるイジメ)で、ただただ驚いた。Aは知人といっても、仕事上の4、5回のやり取りと、その流れの短い雑談が2、3回と、知人とはいえ近い存在ではなかった。Eは私の見る限り、精神の強い、頭のいい、しっかりした人であり、ナイナイ尽くしが服を着たような私と違って、一流大学出身のエリートで、容姿もまずまずと、悩みは少なくて当然の人のはずだった。 噂では、私の書く物に懐疑的で、けして私のファンではなかったという。あるとき、発信者の無い白い封書が届いて、開けてみると、私の書いているものへの懐疑的なオマージュだった。私は、誰が手紙を寄越したのか、その時は見当がつかなかったが、ややムッとしてしまった。私は、訳が分からなかったので、その手紙は間もなく破り捨ててしまったが。遠い知人であったEが、ここまで心に残っている理由。それは、彼が亡くなって間もなく、忘れていたある事を思い出したからだった。彼は、自殺する7日ばかり前に、私に会いに来ていたのだ。私が遅番で外に夕食を取りに出かけ、職場に戻るため、坂道を降りて来たとき、ふと私の名前を呼ぶ声を聞いたのだ。その時は、すでに薄暗かったし、Eが入り口横の壁に寄り過ぎていて、誰だかよく分からなかったので、いちおう片手を挙げて「今晩は」と応えたが、私に用事がある人がいるなどとは思いもせずに、そのまま職場に入ってしまった。これがEとの、最後の邂逅である。私は、あとから話を聞いて、ひどく後悔した。あの時、たとえ5分でも話を聞いてあげていたら、と。その頃の私は、職場に数人の友人はいたが、人間関係には全く自信がなく、自分ひとり日々を生き抜くのがやっとの心身、といった塩梅で、私を頼ってくる人がいるなんて、全く考えられない状況だった。しかし、私は後悔した。不遜な考えかも知れないが、自分の殻を破れずに、その事で、もしかしたら救えたかも知れない若者を亡くしてしまった、と。ご両親の心中を思うと、いまだに残念でならないのだ。

 人生を、勝ち負けで構成しようとする人は多い。というより、大半といっていいだろう。受験戦争、就職戦争、会社や自営業での、出世・拡大・上昇戦争。これは、日本だけではなく、世界的にもかなり共通することだろう。神の与えた、人間の性と言ってしまえば、それまでだが。私は、生きていくならそろそろ、世界の多くの人々が、自分とは何かを追求すべき時期では、と思うが。本多先生は、そういう人は、そういう生き方でよいのだ、という。反社会的なことでない限り、人はどのように生きてもよいのだと。勝ち負けの視点から見ると、恥かしながら私は10万戦3勝くらいの、かの未勝利馬ハルウララもビックリの戦績である。だから、という訳ではないのだが、私は基本的には、人生は勝ち負けにそうこだわらなくてもいいのではという主義である。未勝利でもいいし、何とか食べれるだけの収入があれば、あとはひっそりと自分の好きな生き方をする。それで、基本的にはよいのではないかと思う。もちろん、それが軌道に乗ったあとは、若い人であれば、それぞれの夢や自己実現にむかって、準備しゆっくりとノウハウを学び、トライして欲しいが。私は、やっと年金生活に辿りついたので、人間関係の戦いはほぼなくなったのだが、アレルギ ーが悪化していて、自然との戦いに毎日苦労している。皮膚が常に荒れていて、花粉症の時期になると、まさにボロボロになる。呼吸器が急に反抗しはじめて、吸入器が手放せない。またときどき、勤めていたときの嫌な思い出が、急に甦り、悔しかったり苦しかったり。現実は、予想以上の苦味や波乱、障害を含んでいて、お気楽に、消しゴムで消すようにはいかないのだけれど。私は、20歳くらいまでは、普通の人の5分の1くらいしか、なぜか人に興味(親近感)を持たれない人だった。いわゆる、影の薄い人。ところが勤めはじめると、私自身は進歩も変化もないのだが、なぜか多くの人に興味を持たれはじめた。いつかしら80人(多くは、ある団体系の方。)以上と思われる方々に(友人が聞いた話では、主因は私が幹部のコネで入ったためとか、名もない短大を出ているためとか。)常に監視されているような感じを、受けるような日々になった。その 息苦しさと言ったら、経験のある方にしか理解できないことであろう。私はそのとき初めて、2 0歳までの状況が、どんなに有難いことだったことに気づいた。多少、寂しくはあるが、ひとりでコントロールできる静かな日と、その大切さとを。そう、失ってみないと、人はあまり気づかないものなのだ。いま悩んでいる若い方に、私が出来る唯一のアドバイス。それは、人間は何百年も生きる訳では無い、通常は、長くても100歳前後までということ。普通、成人までは親を頼ってもいいわけだし、65歳の年金に辿りつくまで、自力で生きなければならない期間は、40年前後。基礎年金は、確かに少額(2014年現在、年額77万程度)だけれど、贅沢をいわなければ、郊外の古いアパートでひっそりと暮らすくらいは、何とか賄える額である。遊びたい人は、その分社会に出て働くか、持っているものを売ればいいのだ。つまり40年前後を何とか乗り切れば、多くの悩みや問題は、かなり解決してしまうということ。もっとも、哲学的苦悩や愛や恋の悩みは解決しないけれど、それは個々人が何とかすべき問題であろう。しかし、その40年前後が、どんなに困難を極めるかは、私自身の経験から、あまりにもよく判るのだ。私は、基本的には、勤めに経済的なもの以外求めたことは無いのだが、それでも組織(非営利の教育法人なのだが)のあらゆる思惑に利用されて、リタイアの頃には心身はもうボロボロだった。ある年、10日過ぎの遅めの初詣に、地元のお寺に行ったときなど、つい無意識にフラフラと夢遊病者のように歩いていて、ハッと気づくと、周囲の初詣の人々が、訝しげに私を見ていたことが、ときどきあった。もう、心身の限界が近づいていたのだろう。だから、いまひきこもっている人や、ニート、フリーター、失業中の人々の、状況も心理もかなり分かるのだ。頑張れ、など月並みなことはとても言えないし。とはいえ、成人は衣食住を自分で調達するのは、古来、当然のことであるだろうし。私は、精神的な延命はすこしサポートできるが、物質的なフォローは出来ない。この命題は、本当に難しいのだ。現在の世の中は、精神的にも肉体的にも、人を急がせ、大きなノルマを与え、周囲と競わせ、過剰な期待で煽りたてる、といった圧迫的・脅迫的手法が多い。それが、いかに有為な人を(また、普通の人々をも)破壊していくかを、私は数多く見てきた。今の私なら少しは、歯止めをかける事もできるが、その頃の私は、日々を生き抜くのがやっとという状態。で、志は有っても、傍観者という立場の確保さえ、ままならぬ毎日だった。人間は、長くても100年前後で、この世から去っていくのだから、そんなに必死にならなくてもいいのでは?私が、人に投げかける、第一の疑問である。勿論、人生のなかで1度や2度は、誰も懸命に必死にならざるを得ない、ターニング・ポイントはあると思うが。それ以外は、人に譲れるものは譲り、避けれる競争は避け、人生の長期的な計画を練る日々を持つことこそ、全人類的に有意義で、社会にも役立つのでは、と厳として思うのだ。

*成人後の45年間を、勝負と捉える方は多い。それはそれで、リスペクトしていいことだと私は思う。 実際、日々の仕事やバトルに、生きがいを見いだし、生き生きと生きている方は多い。そのように生きれる方は、それに越したことはないだろう。

 世の中には、自分の終点を意識せずに、生きている方がとても多い。私は、まじかに若くして亡くなった方々を、10人ほど見ているので、誰でもある程度は意識すべき、とは思うが。現代では、今のみを楽しく生きるのが、多数派といっていい。その人の自由なのだから、それでもいいのだが。私の提示を、ほんのすこし参考にして頂ければ、ということ。地球上の多くの人々が、自分の生命体としての終点を、意識して生きるようになれば、かなりの社会問題が、ある程度は解決していくのではないだろうか。

◎幸福は、誰にも遠い

 私の、60数年までの人生で、生き生きと生きられた日々は、わづか200日たらず。けれど 世界中の、他の人や有名な人でも、そういう至福な日々は、けして多くない。私の、8倍前後 ではないだろうか。有名な芸能人や、スポーツ選手であっても、一握りの人々(美空ひばり・タモリ・たけし・さんま、王・長島・イチローなど)をのぞいて、輝ける日は短い。5年前後、と いえば、ほぼ近いだろうか。つまり、同世代が、100万人いるとしたら、99.9万人の 人は、それほどは大差ないのだ。そう考えると、当面の状況に、そう落ち込む理由はないはずだ ろう。私が、テレビなどで過去に見た、成功者(IT関連企業の社長たち、ラーメン・チェーンの社 長たち、マネーの虎の社長たち、など)で、その後、事業につま ずき、5千万から数億円以上の、負債に追われているという人が、7割近くいる。それぞれ、その当時は、お決まりの、高級外車、高級マンション、プール付き邸宅、などをにこやかに披露していた。でも、ほとんどの方の人柄は、悪くなかった(むしろ、お人好し)ので、何とか再起して欲しい、と思う。一生を、成功者として過ごすのは、困難をきわめる。私のように、成功に縁遠い人はなお、困難をきわめてしまうのだが。ここから話はスタートなのだが、私は、別に成功しなくてもいいの では?と考える立場だ。平穏に、つつましく生き、自分のしたい仕事を出来るだけ遺していけば、人としてそれで十分ではないか、と思うのだ。 私は、若くして亡くなった、有名・無名の人々の死を、いままでにかなり見てきた。有名人では、同時代を生きた、赤木圭一郎(享年21)、夏目雅子(27)、尾崎豊(26)、金子哲雄(41) など。無名人では、子供の頃、隣に住んでいた姉弟の姉で、レントゲンの技師をしていたのだが30歳で、登山中の事故で亡くなった男子学生(27)、職場の知人で自殺した男子( 29)、などなど。予期された死もあれば、突然な死もある。そのうちの多くの方々は、道半ば志半ば、であったろうと思う。そして、さまざまな事情や状況が、それぞれにあったのだろう。ふだん私は、さまざまな(そして、巨大な)試練を与えてくる、神仏を憎むことがあったが、 これら夭折した方々のリストをみるたびに、ああ頑張らねば、と思い返す。時間だけは、これらの方々より十分与えられているのだから、と。

生きてゆくうえでの、私の唯一の強味は、誇れることではないが、それは他者への関心が、一般的よりもずっと低いことだろう。こればかりは、後付けはほぼ不可能なことだろう。私が、何とか生きてこれたのも、この面での鈍さがあったからでは?と、いまは思っている。勤めて(世間的には、職場としては準一流)いたとき、私はとても不思議だった。あるある尽くしの人や素敵な容姿の人へ、人の関心や興味が集まるのはわかるが、ナイナイ尽くし(低学歴・低身長・低容姿?・ノン人脈・低世渡り術、などなど、ほぼすべてのカテゴリーで)の私に、どうしてこん なにも過剰にと。

◎人間関係など、について

 私たち、ニート・引きこもり系の人間にとって、とっても難しく、切り抜けるのが因難なのが、この人間関係なのだ。私は、現在は、数人の友人と、6人の親族、そして20人くらいの知 人(関係の深さは、さまざまだが)がいる。社交的な人であれば、何と少ない数だろうと思うか も知れないが、私にとっては、必要十分で有難い人々なのだ。勿論、この先、疎遠になる人もあるだろうし、新たな近づきもあるだろう。けれど、以前の私は、もっと薄い人間関係しか持っていなかった。小学生の頃はずっと、友人というより知人(それも、週に2、3度、会話する程 度の)が、5、6人だった。中学生のときも、同様。でも、今もそうだが、私はいつも、様々な ことをあれこれ考えているような人だったので、あまり淋しさは、感じなかった。高校に入っ ても、2、3ヶ月は同様だったが、理由は今でもハッキリしないが、いつの間にか、4,5人の 友が出来ていた。ポツンとぼんやりしているのを、哀れに思ったのかも知れない。友人と言える レベルの人を、ほぼ初めて得た日々だった。ただ、今度は、それを維持して行くことの困難さを 、ときどき経験した。有難いことに、徐々に疎遠になりながらも、卒業まで何とか維持出来た のは、今から考えると、私にっとって奇跡的なことだったかも。 ここまでは、スポーツや色恋には縁遠くても、何とか普通の学生生活だったといえる。そして 、進学の季節。4年制大学に行きたかったのだが、私は家の経済的な都合で、推薦の短大に進 んだ。苦学( アルバイト等)して4年制大学を卒業するという道も、そのころすでに一般的にな っていた。けれども、平凡な年月さえ、日々を生き抜くのがやっと、という私の心身では、それ はまったく無理な話しだった。そのことは、周囲の人の思いよりも10倍、自分で判っているこ とだった。 家から、凄まじいラッシュのなかを、2時間半(当時、順調に行って)もかかる、東京の無名 の短大に通いはじめてみると、4、5人の知人は出来たが、高校のときと違って、それ以上の知 り合いが、なぜか出来なかった。まあ、私も不遜な部分があったし、やや郊外とはいえ大都市の 一部という環境、さまざまな境遇を経てきた学生たち。と、未知なものが驚くほど不得手な私 には、すべてが心身に過剰な負担で、1学年目が終わる頃には、私は体調をすっかり崩してしま っていた。そこに、慢性の盲腸の悪化による手術が重なり、私はとうとう2学年目を休学をする ことになった。どう明るく考えても、敗北感は拭えなかったが、間もなく私は、この1年を、それなりに有効に使ってみよう、と思いはじめていた。まず、本命である、文学のための素養作り。多くの本を読み、視野を広げてゆくこと。そして、他人の言動に流されがちな、生活態度の見直し。その、 主要ないくつかへの、自分なりの対策を考えてみること。 軌道には、なかなか乗らなかったが、それでも幾つかは、多少の成果が見えてきた、と思う。 また、怖気づく心を叱咤して、アルバイトも2、3してみたが、体力もなく、サービス精神に乏 しい私には、お恥ずかしい結果ばかり。すっかり、自信を喪失して、残りの8ヶ月は、はじめに 決めたプランに、力を注ぐことにした。 こうして、人生の厳しさ・過酷さを知り、短大に戻った私は、(授業ごとに、教室が変わるシステムなので)席を出来るだけ前にとるように心がけ、熱心に授業に参加するようになった。新しい知人は、2、3人出来たが、やはりそれ以上の交流にはならなかった。私は、すべてにすっかり自信を喪失していたし、また人間関係の面倒な部分がうざいこともあって、私から特に交流を持とうという気にはならなかった。私の略歴は、今回はここまで。凡庸な過去をあえて披瀝したのは、このようなナイナイ尽くしの生き方でも、何とか生きてきた私のような者がいる、ということを知って頂きたかったから。私が、すこし浮上出来たのは、何とここから15年も経ってからのこと。半年くらいの間のことだったが、いまから思えば、そこが私のターニングポイントだった。運よく、あるまずまずの公的中型資格が取れた。そして、その4ヶ月後くらいに、思いがけず、私の作品を、ある有名な文学誌に載せて頂いた。出来ない人、駄目な人の、見本のようだった私への、周囲の評価は 激変した。音を立てて、という言葉があるが、その形容が、ゆっくりと静かに拡がっていくのが 、側頭葉に感じられる日々だった。私はなぜか、特に嬉しくもなかったし、そのことに動揺していたわけでもなかった。それは、見下されているのよりは、よほど良かったし、ホッとした気持ちや、多少の嬉しさはあったが。この主因としては、私は多分、他者の状況に、あまり左右されない人なのだろう。私は、自分で言うのも何だけれど、基本的に、あまり他者への興味の淡い人で、あまり意識したことはないが、これが生きていく上での、私の唯一の強味なのだろう。私は、どちらかと言うと(言わなくも)、他者よりも、自分をじっくりと磨いていくことに、興味のある人なのだ。かなり以前(1995年頃)だけれども、テレビの昼番組の司会で有名なT氏が、友人や友 情について、Y新聞のインタビューで答えていた。「終生の友情、なんて不気味。現代に、有り得るのだろうか?小学生なら小学生、青春期なら青春期、晩年なら晩年、その時々に、楽しくやれる、それなりの友人が何人かいれば十分では。」私は、T氏のような社会的大成功者が、このような生活哲学を持っていることに、感動した。私も、無理に友人や恋人を求める必要は、全くないと思う。メディアには、親友に借金を背負わされたり、金銭のトラブルで恋人に殺されたり、という記事や報道が数多出てくるではないか。評価につい ても、同じこと。人は人なり望みもあるがというが、自分は自分らしく、でいいと思うのだ。ただし、そこは本拠地であり、いつ戻ってもいいけれど、自分に役立つと思われることや、自分を取り巻く状況からのステージアップにつながることは、あれこれと試してみるといいのでは。行き詰ったら、すぐにリセットする。スタートに戻ればいいのだ。多少でも、学んだり覚えた技術などは、私の経験からいってその30%くらいは、その後の人生に有益となっているから。人によっては、80%も役立っている、ということもあるようだ。費用対効果的には、とても優秀。まあ 、0%の人もいるかも知れないけれど。このように、いま友人・知人があまりなく、周囲の評価が低いという方でも、あわてる事は無い。私は、無理に浮上したいとは思わないが、もうすこしアップを望む方へのお勧め。とりあえず、じっくりと、自分を育て、ゆっくりと磨いていくこと。そして、そこが、この先の人生への、リ・スタートなのだと思う。その辺りのアドバイスは、親族か、周囲の信頼できる人に、相談して求めること。ただし、面倒でも必ず5人以上の方に、求めること。人によって、さまざまなノウハウや、考え方があるので。

◎現代の世相など

 新聞やテレビで、毎日のように報道される、自殺や人間関係のトラブルによる殺人。私はい つも、何とか半分でも、うまく解決できないものだろうか、などと思ってしまう。 さえない外見と、ナイナイ尽くしを絵に描いたような私。育った年代が、あと5年遅れてい たら、私は30歳までも生きてはいけなかっただろう。私の子供から高校時代までの頃は、街や 社会が、戦後の名残りを、まだあれこれと引きずっていた時代。まだガキ大将や番長が、各学校 や地域(町内や隣接の町など)に、本当に存在していた。そして、ワル餓鬼たちの縦社会が出来 ていて、目立たず、礼儀をかかさず、彼等の利益を害さない限り、そう酷いことはされなかった 。私も、全部で4、5回は、ごく少額のお金を取られたことはあったが、友達からよく聞いてい たし、いわばお布施のようなもの、と割り切っていた。現代のように、残酷に暴行されたり、 何万・何十万円も、取り上げられることなど、ほとんど無かった。もっとも、社会全体がお金も 物資も、乏しく貧しく、街という共同体を、皆が見渡せるような時代だったから、とも言えるけ れど。現代は、驚いたことに、頭脳や容姿、体力が優れている人でも、イジメや殺人に遭っている。たとえば、千葉県のある消防署では、新人を訓練にかこつけてしごき、耐え切れなくなった4、5人が辞職したという。この方たちが労働関係の行政局に訴えて、問題が明るみに出たとか。そもそも、消防官の試験って、人並み優れた体力と、強い精神がなければ、受からないはずだけど。そんな、明るく熱い日々を送ってきた方々でも、そのような理不尽なめに遭うとは。すこしでも気を抜くと、すぐに餌食にされるような怖い時代に、なったものだ。

 私の勤めていた、教育法人BD。2003年前後、私は選択定年までの最後の5年ほどを、ここの付属高校の図書室に出向していた。いわゆるエリート高校で、外から見れば、お金持ちの子供で頭もいい、幸福なお坊ちゃんたち、というのが通り相場。でも中にいると、それが、あくまでイメージに過ぎないのを実感する。バブル(1988 年前後)崩壊後の成り行きで、親の会社が潰れ、学費を払えずに、退学していく生徒たちが、毎 年4,5人いた。(この子たちは、いまどうしているのだろう?)そこまで行かなくても、家庭が窮迫しているのを感じさせる生徒も、かなり居た。そして、一番、印象に残っていること。その生徒Aは、私が出向して間もないころ、資料について質問してきた。まだこの職場のノウハウを、あまり把握していなかった私は「えーと、これは、えーと、あそこにあったっけ。」などと言って、何とか質問に答えていたが。このAは、私同様に小柄でさえない外見。そして、その1年後くらいに、退学して行った。Aとは、彼が去るまでに、何度か(たしか5、6回)質問に答えたことがあった。3度目くらいのときに気づいたのだが、彼がいつも、ひとりで居ること。その雰囲気から、どうやら彼は、クラス内で孤立しているらしいこと。そうと気づいてから、私は自分から声を掛けたり、質問を処理したあとに「今度、ここに、新しい鉛筆削りがきたんだよ。」などと、差しさわりのないようなことを、話し掛けていた。ただ、この学校では、生徒を指導するのは、教員の仕事という不文律があり、私もそれ以上踏み込むことは出来なかった。肉体的なイジメは、幸い、ほぼ無かったようだし。彼の「孤立」は、当然、担当の教員が、私の百倍も把握しているだろうし。大学に行けば、自由もぐんと増えるのだから、あと1年半、何とか我慢して、ここを卒業しようよ、という思いだった。ときどき、彼を思い出すのだが、いま元気を取り戻しているといいのだが。まあ、頭がいいのだから、大検(現・高卒程度認定試験)や通信制の高校を経て、大学へ行ってくれたと思うのだが。このような世相のなかで、私の出来ることは、本当に小さな事だけ。でも、それが私の、いま の役割なら、それはそれで良いと思う。時間の余裕のあるときに、すこしづつ積み上げていけば良いのだ。


◎現実の危うさと脆さ。人間関係に、そう重きを置くことはない。

 人間関係というのは、誰にとっても困難が付き纏うものだと思う。そして、一般的に信じられているよりも、ずっと壊れやすく、はかないものだと思う。私は、幼年時代を除いて50年余り、たくさんの人間関係を周囲に見てきた。私自身の経験は、わずかしかないので、そこがちょっと何だけど。私は、9年前まで、ある教育法人に勤めていた。もっとも、短大卒者なので、仕事のほとんど は下働き、あとは、いわゆるドサ回りだった。人間関係は、私の限界を超えたハードさで、在職中、その苦悩は、増すことはあっても軽減されることはなかった。それでも、自分にムチを打って、何とか選択定年に倒れこんだ。そのあと、心身のある程度までの回復に2年かかった。そのお陰?で、たくさんの人間関係を間じかに受け止め、また数多見聞した(させられた?)のだ 。ここから、実際に2、3例を再現してみよう。 1 37歳で、結婚のため退職したOL。彼女は、同じ高卒の多くのOLたちと、職場でグルー プを作っていた人だった。職場への入り口付近で彼女を見かけたのは、その1年半後くらいだ った。何と、乳母車に赤ん坊を乗せていた。3、4人の、かつての同僚OLに囲まれ、彼女は幸 福そうだった。通りがかりの知り合いも、にこやかに赤ん坊を覗いていった。次に、彼女を見か けたのは、その1年後くらいだった。やはり、乳母車に赤ん坊が乗っていた。ひとりのOLが、 彼女の相手をしていたが、明らかに困った感じで、早く職場に戻りたい様子だった。通りがかる 人たちは、挨拶は軽く交わすが、足も止めずにそそくさと職場に戻っていく。そして、あとから 聞いた噂が。赤ん坊の泣き声が、煩かった。職場に、赤ん坊を連れて来るなんて。といった、非 難の数々。それ以来、彼女の姿を見たことがない。彼女が20年近くかけて築いた、と思われた ものは、3年足らずで消えてしまったのだろうか? 2私は、わりと草花やハーブが好きで、近くの3、4軒の花屋さんに、天気の良い日などは散歩がてら訪れることがあった。まあ、買うのはときどき安いものを2、3点ていどだったが。その 内の一軒の花屋の店頭で、私はある日、紅葉の苗やミニ薔薇の花鉢を選んでいた。すると、店の中から2人の店員の会話が。「Aさん、辞めたんだって。」すると、突然涙声で。「送別会もなかったんだぜ、5年も勤めたっていうのによ。」相手は、無言。「Aさん、笑顔で帰っていったけどよ。俺、悲しくってさ。」 気に入った物がなかったこともあって、そのあと1、2分で、そこを立ち去ったが、私は気が重くなっていた。その頃、私は、職場の人間関係に苦しんで、ノイローゼ気味になっていた。生きてゆく厳しさと悲しさを、また新たに突きつけられたようで。

 私は、人間関係が乏しく薄いのだが、それでも私の周囲で、長年付き合っていて、あるとき関係が拗れ、それ以来犬猿の仲に、という方達が何組かいる。すこし前まで、まるで金魚のフンのようにくっ付いていた人たち(4人〜5人程度)が、顔をそむけ合うような仲に。当時は判らなかったが、こういうケースの半分くらいは、誰かの隠れた画策によるものでは、と考えるようになってきた。まあ、私もそれなりの人生経験を重ねて、という事だが。

第6章 これからの日々は

 ある物はあるがままに、無い物は無いがままに、あまり拘らずに、取りあえずは、穏やかに平凡に生きていけばいい、というのが、本多先生の教えの根幹にある。読むだけで、すこし気が楽になる、といった効用があるのが、本多先生の特徴なのだ。勿論、多くの人が求めている、その先の救い、といったもの。それらについて、先生は他の論者と違って、取るべき方法や、具体的な道をあまり示していない。それは、出来るだけ自助努力・自力救済すべき、という先生の確とした基本理念なのだ。雑誌やネット上で、その点に反発する方々が多いのは確かだ。私は、すべてを教えに頼るのではなく、そこから先は、自分の考えや意志を、先生の教えに取り混ぜながら、ゆるやかでいい、ポツポツと歩いて行けばいい、と思うのだが。 人をサポートしようという、あらゆる仕事(特に、精神面)のなかで、一番デリケートで難し いのが、この「その先の救い」なのだ。多くの人々は、日々の暮らしに疲弊し、あるはずが無い こととは分かっていながら、ハウツー本のような簡単な救いを求めている。しかし、長い時間を ともに過した親族でさえ出せないものを、他人が出せるはずがないし、また出すべきものでもな いのが正しいだろう。 テレビや雑誌などで、時々特集される、ニートやフリーター、さまざまな悩みをかかえる方々の、レポートや対談。私も、自分が辿ってきた道なので、その苦悩はかなり分かるのだが、それにしても、言動や自己プランに、人頼りの方が多い、というのが実感だ。現実の世の中は、「 頼ると逃げていく人」がほとんどだ。まず、それをしっかりと認識して欲しい。勿論、それはそれとして、落ち込む必要はなく、そこから(そこをスタートとして)また歩きはじめればいいのだ。本多先生も、そのような笹や竹に似た、揺り戻しの出来るしなやかな強さを持つことを強く薦めている。 いままでの人生で、私は数多のいわゆる「業の強いひと」を見てきた。仕事上関わった方で、 そのような方も数多い。その方が、ずば抜けた実力を持っているとか、優れた容姿を持っているとか、ならば我慢もしやすいが。実力もないのにえばり、人を貶める碌でもない人間だったり、 ヒステリックで教養も浅く、センスのまるで無い方だったり、という人が98%以上だった。けれど、現実の社会では、これらの人に、ペコペコしなければならないときも山のようにあり、針のように気を使いながら仕事を進めなければ埒があかないときも数多ある。更には、罵りや屈辱に耐えなければならないことも、たびたび。 私は、60代になって実感として分かってきたことだが、人生は、本当にそう長いものでは ない。だから、いま貴方が置かれている状況が、果てしなく暗く思えても、そう落ち込むことは 全く無いのだ。20歳前後から60歳までの40年間前後、ここを何とか乗り切れば(気が乗らなくても、急ぎのものを優先的に済ませる、など。)また、多少の貯金などが出来たときは、終点を55歳、50歳、と繰り上げてもいい。万がいち、遺産などが入った場 合は、さらに繰り上げられる。国民年金等は、必ず納付しておくこと。2014年現在、支給開始は65歳からだが、5年間まで前倒しできる。(ただし、1年当り6%増で、終身減額・3年間の前倒

しならば、18%の減額。5年で30%の減額される。)

 年金と多少の貯金があれば、誰でも、ごくつつましくなら世間並みに生きることは出来る。病気がちの方などは、医療費のみの扶助申請、という方法もある。また、日常のなかで、あと一歩が踏み出せないときは、まず身の回りの自分の不要品を、片付けることから始めること。私の場合、リタイア後1年余休養したあと、思いたって、身の回りの片付けをはじめた。ホコリの積もった雑貨品、古いレシート、カタログ、古雑誌、古ノートなど、ゴミ用の黒い大袋に、4袋も出た。少しづつでいい、作業しつつ、過去にサヨナラを告げながら、進めてみる。そういった作業を、あれこれ自分で見つけながら進んで行くと、いままで見えなかった道が見えてくることもあるのだ。私の、体験からいって。広い世界の状況などを見れば、日本に生まれた人は、それだけでかなりラッキーなのでは?人間としての役割は、それを有難く受け止め、そこからスタートしていくこと。高速で飛び出していく人もあれば、私のようにゆるゆるノロノロ、右へいったり左へいったり、の人生もある。どういう生き方をするか、実際にはどう生きれるのか。といった事は、誰にとっても本当に苦しく難しい。でも、本多先生の持論によれば、けして急がなくていいという事だ。人は、反社会的なことをしない限り、どう生きてもいいのだ、と。かなり以前になるが、関西の方で、自然酵母を使ったパン屋を開いた夫婦の、日常を描いた作品を読んだことがあった。そこの夫(当時35歳ぐらいの方)が、サラリーマンを辞めて、知人 の自然酵母パンの店に、頼み込んで2ヶ月ばかり住み込ませてもらい、一応のノウハウを習得。 1ヶ月後、200万円を元手に、何とか小さな店の開店に漕ぎ着けたという。築30年以上の古家で、一階が改装した3坪ほどの店と、奥にパン工房など。2階が住居で、2間と納戸。たしか貸家で、頼み込んで特別に安くして貰い、家賃が当時5万円くらいだったか。ということは、生活費も入れて最低限、月に35万くらいの売上げがないとやっていけないことになる。粗利益は 、40%くらいということだから。けれど半年たっても、売上げが20万くらいの月が続く。売れ残りのパンをアレンジして食事を賄い、両方の両親に、交代で泣きつき、何とか遣り繰りを続けたという。そうこうする内に、近隣の人々に、だんだんと自然酵母の良さが認められて、1年半後にやっと35万前後の売上げを確保できるようになったという。ここの奥さんが、明るくたくましい精神の持ち主で、お店を開きたいけれど、うまく行かなかったらと、二の足を踏んでい る人達への、贈る言葉。「開店にさいしては、必要なものを、出来るだけリサイクル品で揃えること。店の飾りなどは、いま自分のもっている雑貨を並べれば十分。」「やってみたかったら、 始めてみればいいじゃない。失敗したら、やめればいいだけのこと。やってみたぶんだけ、必ず智恵が身につくし。それで、またお金が貯まったら、もう一度チャレンジしてみたらいい。」

 この件の事案となるが、全国で毎年のように20前後出る廃校。自治体や、ゆとりのある篤 志家、富裕者等の方々に。ここを利用して、いわゆるB級グルメの、訓練と実践の施設を作って欲しいという、お願いである。ここに1ヶ月間、このプランに賛同する、失業中の方たちやニ ート、フリーターなどの人々に集まって貰う。そこで初めの1週間、お好み焼きやタコ焼き、タイ焼き、各地方の、ソバ、うどん、おやき、焼きソバなどの、作り方やノウハウを、その

道のベテランから指導して貰う。また、簡易なアクセサリーや、ブリザーブドフラワーなどの作成・販売等も。1回の訓練期間につき、ひとり2種類まで。次に、施設内に設置した大型フードコーナーのミニ屋台店(20台前後以上)で、世間相場の50%程度で、実際に販売させる。勿論、4、5人の指導者(経験のある定年退職後等の方々に、ボランティア料金でお願いするといい)に、 管理をお願いして。超不器用な私だが、予測では、約80%の人はここで一応、商売と言うもののノウハウを、ある程度掴むことが出来るであろう。いまいち身に付かなかった、という方は、もう2、3回申し込んで、訓練を受ければいい。家に戻った研修者たちは、さっそく何処かで試してみるといい。募集があれば勤めてもいいし 、商店街や公的施設などの、2坪前後のスペースを借りたり。一軒家の方なら、小屋を建てたり、軒先を改造したりしてもいい。ここで肝心なのは、開店に際して、けして見栄を張らないこと。指導者に相談して、どうしても必要なものだけを、リサイクル等で安く揃える。ただ最低限の飾りは要るので、自分の手作業(ニスやペンキ塗り、フック、吊りカギ、無料配布のポスターなど)で行い、自分のすでに持っているものですべて済ませること。当たり前すぎて、かえって守り難いことなので、特に肝心なのだ。この基本が守れない人は、他もきっと不可。私は、物事に対して欲望の果てしない人は、あまり好きではない。勿論、私とて人のこは、そう言えないのだけれども。ただ、すべてに対して、あまり拘りがないのは確かだ。そう、自然は何億年という月日を経ようとも、基本的にそう変わらない。けれど、人は長くても100年前後で、この世を去っていく。自然や流れて行く日々に抗っても、勝てるはずがないのだ。それよりも、一応の見通しがついたら、次のステージに進むこと。まあ「見通しがつく」までが、ひ弱な私たちには、あまりにも辛く過酷なのだけれど。普通の人々には、想像もつかないくらい。先生は基本的な教えの先は、なるべく自助努力でやっていくべき、という考え方で、基本的には、私もそれでいいと思う。しかし世の中には、そこで困惑して立ち竦んでしまう人々や、その先の救いにも具体的な指導が欲しい、という方が圧倒的に多い。また、実践となるとただ足踏みになってしまう人や、機転や応用のまるで利かない方も、私は実社会でたくさん見てきている。私も含めてそのような人々の、半分くらいは、ちょっとしたアイデアやノウハウ、物事の進め方をマスターするだけで、5、6歩は進むことが出来るのではないだろうか?前にお願いした、廃校等をリサイクルした施設での、実践的なノウハウの伝授は、この点で即効性があるだろう。勿論、この程度の施設でも開設には、最低数千万円はかかる。自治体や富裕者、大きなNPOでない限り、無理な話ではあるだろう。そして、そこで学んでも、なおも足踏み状態という人も、数多出てくるだろう。けれど、そこで毎年、何千人もの人々に、明日を開くノウハウを与えられるメリットを考えれば、有効な予算の使い方のひとつとなるのではないだろうか。実人生は、必要でない限りけして急がないこと。何事も、優先順位をあらかじめ決めて対処していけば、誰でもやりやすいし、トラブルも減っていく。これも先生の教えのひとつである。

 人生や人生論・哲学論を突詰めていくと、心が空中分解しそうになる。私は、最近では否定論者も多いが、「マズローの欲求段階説」はいまだに有効だと思っている。この下から2、3段目前後を、私は長い間さ迷っていた訳だが。まあ、70%位の人間は、この段階の前後で終わるのだから、私はまず焦らないことを決めた。私に与えられている身心では、無理や過度は絶対に出来ない。お金を貰っている以上、まず勤めを最優先し、勤めの休みの日だけ、しかも元気のある日だけ、各種の勉強や創作活動をしてみる、ということ。私に最もむく戦略は、長い時間をかけて、じょじょにステップ・アップしていくこと。それからは、上の段階を望みつつも、私はまず徐々に実力を養っていくことを考え、大まかなプランを立ててみるようになった。まず多くの本を読み、多くの音楽を聴き、テレビも出来るだけ見て、さまざまな知識を得ること。とはいえ、現実のハードさのなかでは、そんな淡いプランなどたちまち壊されてしまうのも事実だ。私もまた現実に何度も溺れそうになり、長い日月、一進一退を繰り返した。光明はまったく見えず、果てしない暗い年月が、先に続いていた。

*自己実現理論とは、アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したもの。

 私の場合、60数年も生きていると、リアルタイムで色々な人や世相をみて来ている。若い頃 、美くしく可愛かった女優や歌手が、今では大半がコメディアン風のタレントになっている。あるいは、ミイラや骸骨を連想させるオババに。わづかに、吉永小百合が健闘しているが、あと1 0年は苦しいだろう。男のほうも同じで、とろけるようなハンサムだった俳優が、いつしか変哲もないオジジに。太陽のように華やいでいた歌手が、いつしか小太りのオッサンに。と、これから先は、言わずもがなだろう。これは容姿についてだが、次は経済格差について。これはまあ、 時間の流れが平等でない分野。格差は、リアルに響いてしまう世界。それでも、恵まれた人が富や地位を享受出来るのは、普通40年前後、長くても70年がいいとこだろう。15歳までは、誰でも子供、と言っていいし、85歳を過ぎれば、ほとんどが単なるオジジとオババだ。差はぐんと縮まり、どんな人であっても、実質的にそう大差はなくなる。なかには奇蹟的に、それらをクリアーする人もいるが、そんな人は、1億人に3、4人くらいだろう。この世で、主要と思われる2要素についてお話ししたが、つまり初めに戻るが、大局的にみれば、格差はそう気にしなくていいということなのだ。それは、誰しも出来れば、社会的にいい地位にいたいし、経済的にも豊かでありたいだろう。容姿だって、出来ればイケメンや美人にこしたことはない。それは、優越感を味わいたいという気もあるだろうが、無意識のより強いリビドーは、自己の生存に有利だからだろう。動物としての人間は、無意識のうちにそれらを敏感にわきまえているのだ。けれど、そんな恵まれた人は、この世に0.1%もいないだろう。大半の人々は、与えられているものが、アラフォーならぬアラ平凡かアラ凡庸。でも、これらは神から与えられたもの。私は、修行と思って受け止めている。というか、それしか対処法が、浮かばないから。

 ニュースやドキュメンタリーでみる、ニートやひきこもり、フリーターの人々。多くの人が、けなげに努力しつつ、この40年、いっこうに希望や出口は見えてこない。私も、かつての途方もなく弱い立場だった私を思い出して、辛くなってしまう。けれど、こればかりは、自己の運と力量で、切り開いていくしかないことだろう。ただ、私が言えるのは、何があってもそう焦ることはない、ということ。日本には、不完全でも、セーフティネットがある程度はあるし。家族関系に頼れる人は、ある程度は甘えていいと思う。アジア諸国では、昔からの大家族制が、いまでもまだ機能しているのだから。速成・即戦力が喜ばれる時代、累積してゆくような苦しみが多いが、私は誰でも、ゆっくりと力を蓄えて、ゆっくりと飛び立てばいいと思う。ぼんやり過ごし、じっくり悩み、自己ととことん向き合ってから。そして、無理と思ったら、無理に飛び立たなくてもいいのだ。

◎次なるステージのために

 人生というものには、誰にとっても、生きている間に、次々と難問が降りかかってくるものなのだ。これは、当たり前のことと思っていい。いま、たまたま順風で生きている人にも、長い時間の間には、いつか難題が降りかかってくるときが必ずある。何億人かにひとりは、それをスルーする人もいるかも知れないが、99.9%以上の人々は、実は大差はないのだ。私たちは、それを自覚することが、ときに重要となる。日常のどこかに、そういう意識を潜めることによって、私達は、自己に降りかかる難題に、すこしうまく対処できるのでは、ないだろうか。

 前に書いたことだが、多くの方々の人生論を読み、瞑想法、内観法、森田療法、ノート記録法 、などの数十の理念と実践を、「試し」でいいからひとつづつ実行してみる、ということ。これは、ぜひやってみて欲しい。明日へのドアが、もしかしたら潜んでいるかも知れないから。気乗りしたものの、ひとつか、ふたつでもいい。きっと、多少の手がかりは掴めると思うから。もちろん、何も共鳴出来なかった、という方もいるだろう。その場合も、試した経験と、そこからの知識は、多少身に付いたのでは? いま自分がいる場所、いる立場、まずは、そこを確認(100%は疲れるから、90%前後でいい。メモ・ノート等への記入は、あとで役立つ)すること。そこから、すべてはスタートする 。そこが、どんなに居たくない・居づらい場所であっても、そこを見据え、検討し、分析することから、すべてははじまるのだ。 上記の2つが済んだら、いまいる場所からの、引っ越し(脱出ではない。理念上の住み替え、 でもいい。)を考えること。この先も手助けを求める方が多いが、ここからは、手探りでいい、 出来るだけ自分ひとりで道を歩いていくべきだろう。ゆっくりでいいのだ、年に1、2歩でも いい。小さな動物でも、自分の力で生きているのだから、チョッピリの勇気は持とうではないか 。 この辺りのノウハウは、対象が万人万様のため、有能な専門家・人生論者であっても、非常に 難しく、また定型も確立していない。私にとってもまた、未知で漠然とした領域、というしか ない。だから、自助努力・自力救済を、すこし試みて欲しいのだ。焦らなくて、いい。すこし歩 いて駄目だったら、すぐにスタートに戻ればいいのだ。そして、また2、3歩けそうになったら 、心や気分をリセットして、試してみればいい。そう、この「リセット」「試す」という言葉は重要で、いま までの学術系テキストに乏しかった概念で、本多先生の基本的提唱・理念にも、深く理解しないと得られない概念といえよう。皆様においては、ぜひ前向きに活用して欲しい、と思う。さて最後に、この10年で私のもっとも感動したエピソードを、ひとつ。

◎10年程前だったか、テレビの深夜のドキュメンタリーで、浅草の隅田川べりに住むホームレスの特集がありました。4、5人の人の生活を紹介したのですが、その内の一人が、カラスを一羽ぺットにして暮らしていました。隣接する公園で、巣から落ちたらしい3羽のヒナを拾って、餌を与えて育てたとか。その内の2羽は、すでに少し前に巣立っていったとか。残ったこのカラスは、大きさはすでに普通のカラスに近いのですが、飛ぶのが下手で、高く上がることも、遠くへいくことも出来ないのだ、と。

*女性のインタビュアー「この鳥、これから、どうなさるんですか?」

ホームレスの男性(60才前後?)「いいじゃないの。自由に飛べるようになるまで、ここにいれば。追い立てるように、巣立ちさせなくても。飛べるようになるまで、俺のそばにいればいいさ。」

 私は、深く感動した。ホームレスという厳しい状況を生き抜いているオッチャンが、こんな素晴らしい人生哲学を持っているなんて。そう、飛べない小鳥(大鳥もOKです)は、けして巣立ちを急がせてはならないのだ。

あとがき

 私はいま、目標の80%は活動できているし、その結果にそれなりに満足しています。しかし 、この所、メディアが煽る、孤独死、高齢ニート、老老介護、無縁死、無縁社会、エンディングノートなど、 やはり考えさせられることが多いのです。若い頃は、歳をとったらヨーロッパにロングステイしようなどと、私としては途方もない夢を持っていたのですが。 さて、読んで頂いた方達に。私に出来るのは、ほんの少しのお手伝い。けれど、この本の刊行 によって、すこしだけ本多先生に、ご恩返しが出来たように思っています。他の方へ、バトンを つないで頂ければ、と切に願っています。

 逃避、悩み、絶望、コンプレックス、家出、ホームレス、自殺など、いま私たちを取り巻いている状況は、年々悪化しているように感じる。公的に示されるデータは、実質の50%足らずの ような感じを受けるが。現代という時代のなかで、人生の重荷は、誰にとっても、すこしづつ増していく。次第に、追いつめられていく方も多いだろう。ゆえに、遊び感覚でいいから、好きな ことを色々試してみたり、あれこれ学んでみたり、ぜひトライして欲しい。私の経験では、その内の10%前後は、多少、役にたった。生き抜くのが、やっとの(心身の)私には、抗いようもない日々だが、出来ればわずかでも前進したい。そういう日々を、私はいまやっと送っているようだ。現在、初め(勤めを、リタイア時)の予定の80%くらいは、目標を達成しているが。あせらずに、すこしづつ進んで行くつもりだ。ときに遅れても、まったく構わないだろう。今回、過去の体験を交えて、あれこれと書いてみた。まあ、宜しかったら、多少の参考にして頂ければ、と思う。

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