1. 黒
窓際から木漏れ日が差し込んでいる。
三倉志樹は構内にある古い図書館の読書スペースの隅に腰かけていた。この古い図書館は構内にあるとはいえキャンパスから少し離れた場所に併設されている。そのうえ校舎内に新設された図書室が出来たため、生徒や教師が図書館を使うことはほとんどない。志樹はこの常に静かな図書館で古書を読むことを日課にしていた。しかし、この日志樹は古書を読んでいなかった。静寂に包まれた古びた建物の中で声を殺して泣いていた。
「どうかしましたか?」
静寂の中に丁寧な口調が特徴的な低い声が響いた。自分以外に人がこの図書館にいることに驚いた志樹はその声の主を探した。志樹が座っている場所から少し離れたところに、黒縁の眼鏡をかけた少し年配の男性が立っていた。背丈は高く、体の線は細い。猫背とは無縁であろう真っ直ぐ伸びた背筋とは反対に、若干着崩されたワイシャツと緩められたネクタイが目についた。志樹を見据える彼の手には志樹が所属している学部の教科書が抱えられている。志樹はこの男に見覚えがあった。征木壮典、確か職階は准教授だ。
「……いえ。何でも、ありません」
「何でもない、と君が言うのなら何も聞きません」
征木は柔らかく微笑みながらそう言うと、そのまま志樹の隣から2席ほど空いた椅子に腰かけた。そのまま何も言うわけでも、何をするわけでもなく、その微妙に開いた距離を保ったまま時間は過ぎていった。志樹はただひたすら涙を流し、征木は図書館の本棚から取った古書を読んでいた。そんな沈黙の時間を破ったのは、十分に涙を流し切った志樹の方だった。
「……父親を亡くしました」
征木は志樹の方を一瞥したあと、再び古書に視線を戻しながら呟くように返答する。
「……そうでしたか」
「ここは、滅多に人が来ないから泣き場所に最適だと思っていたんですけど……失敗でしたね」
志樹は自虐的に笑いながらそう言った。征木はようやく古書を閉じ、志樹の方へ体ごと視線を向けた。
「三倉さん」
「はい?」
「もう少し傍に寄っても構いませんか?」
「どうぞ」
征木はすぐに志樹の隣の席に移動し、浅く座った。志樹はそんな征木の動きを一部始終見ていた。無駄のない整然とした動き、その中には気品すら漂っていて、思わず見入ってしまう。征木は座ってすぐ志樹の視線に気付いたのか、照れ臭そうに笑った。
「そんなに見られているとさすがに照れますからあんまり見ないでください。三倉志樹さん」
「えっ」
「君は僕の講義を取っているでしょう。君は優秀な成績ですし、僕の講義をきちんと聞いてくれている。あんなつまらない必須講義なんて誰もまともに聞いてくれませんからね」
名前呼ばれたことにも驚いたが、それより驚いたのは少なからず100は超えている人数が受けている講義であるのにもかかわらず、自分がその講義を取っていることや講義中の態度を把握されていることだった。確かに彼の講義は興味を抱かなければ非常につまらない講義と感じる者もいる。それでも彼の講義は評判がいい。彼の講義を興味を持って受けているのは私だけじゃないはずだ。
「僕が聞いても構いませんか?君のお父さんのことを」
志樹はゆっくりと話し出す。自分が物心ついた頃には母親はいなかったこと。父親は再婚すらせず男手ひとつで自分をここまで育ててくれたこと。その父が先日病気で亡くなったことを。
「……立派な父親だったのですね、あなたのお父さんは」
志樹はまた頬に涙を伝わせた。征木は志樹の頭を優しく撫でる。志樹は征木を一瞬だけ父親と重ねた。きっと同じように私が泣いていたら父さんはこうしてくれただろう。征木先生より少し荒っぽく、ぐしゃぐしゃと撫でまわした後にヘタクソな笑顔を見せただろう。そんなことを思うとまたさらに溢れてくる涙を志樹は抑えようとしなかった。征木は何も言わないままそのまま頭を撫で続け、その優しい触れ方に安らぎを感じていた。
それから少し時は流れ、志樹は相変わらず旧図書館にいた。資料も古く、空調設備もない、校舎塔からは遠く、解放されていることすら知られていない古びた旧図書館は、相変わらず志樹しかいない。あの一件から変わったことといえば決まった曜日にだけ征木が現れるようになったことだ。
「三倉さん」
「こんにちは、征木先生」
征木は当たり前のように志樹の隣の椅子に腰かけた。誰もいない無駄に広い図書館はもちろん空席だらけなのに肩を並べて座るとは何とも滑稽である。ましてや恋人でもないのに、と志樹は少し寂しげな表情になった。
父親を失ったことで元気がなかった志樹は大分明るさを取り戻していた。それは紛れもない征木のおかげであり、志樹自身も心を許していた。そのうえ征木は非常に魅力的な男性であった。知的なのはもちろん、過去に陸上をやっていて地方大会で優勝したことがあるなど運動神経もそこそこで、会話の内容も志樹に合わせながら楽しく話してくれる。変わらない敬語口調に距離を感じつつも、他の学生よりは志樹は共に過ごす時間が長いという変わった優越感に浸り、日に日に征木に惹かれていった。しかし志樹は心の奥底で固く誓っていた。絶対に征木には恋をしない、と。
「三倉さんはいつもこちらで本を読んでいますが、いつも君と一緒にいる彼女とは過ごさないのですか?」
「彼女?」
「確かお名前は…神尾心晴さんでしたね」
「ああ、心晴のことですか。心晴は基本的に講義がない時はバイトに行っていますから」
神尾心晴は志樹の唯一と言っていい親友である。また志樹自身が征木の存在や征木への感情を唯一吐露することができる相手でもある。心晴の存在を征木が把握していたと知った志樹は少し残念そうに息を吐いた。やはり私だけでなく受講している生徒の大半は名前を憶えているのだろう。私は特別ではないのだから、期待をしてはいけない。そう、私は彼にとってただの学生の一人でしかない。
「私もバイト始めたんです。生活費稼がないといけないですからね」
「そうでしたか。どこでバイトするんですか?」
「家の近くのレンタルショップです」
そう言いながら志樹は征木の左手に視線を落とした。不自然に見られないように本当に一瞬だけ。薬指には誰かと永遠の愛を誓った印である何の装飾もない銀色の指輪がある。その愛を誓った相手は絶対に自分ではない。分かりきっている現実は志樹の胸の奥を疼かせる。すぐに指輪から視線を離し、話題を切り替えようと口を開いたその時、物憂げな表情をしている征木に目を奪われた。
「三倉さんがバイトを始めてしまうと、僕はこうやって君と話す時間が少なくなってしまうんですね。ちょっと寂しいです。」
志樹は自覚した。無理だ。この人に恋をしないなんて、無理だ。征木が放った“寂しい”という言葉に志樹は耐えきることができるわけがなかった。
自分の中で結びついてしまった感情を隠すかのように志樹は立った。征木は不思議そうな顔をして志樹の腕を掴もうとした。それに気付いた志樹はあからさまにその手を振り払う。
「あ…」
「三倉……さん?」
「さ、触らないで!」
そして志樹は逃げ出した。呆然としている征木を置いて、図書館から足早に出て行った。志樹は走りながら後悔する。どうしてあんなことをしてしまったのか、どうしてあんなことを言ってしまったのか。手を振り払った瞬間に見えた征木の顔が脳裏にこびりついている。志樹は図書館から出てすぐのところで一度立ち止まり、図書館を一瞥した。そして再び前を向き歩みを進めていく。その足取りは重く、自己嫌悪と後悔という錘を引っ提げているようにも見える。