彼女のキックは一万馬力
11月もそろそろ終わり。
熱心なやつらはそろそろ期末テストに向けた勉強を始めている頃。
「――おい若菜、聞いてるのか?」
「はいはい、聞いてる聞いてる」
あたしの前の席の椅子をこちらに向けてさっきから説教を垂れているこの男も、その一人。
「2学期も赤点とったら本当に進級が危うくなるぞ。お前、3学期でそれひっくり返すぐらいの成績取れるのか?」
たぶん、取れない。
「だからさぁ、それを回避するために貴也がいるんじゃん」
「お前が留年だなんてことになったらおばさんに申し訳が立たないからな」
貴也は溜息を吐いて黒縁の四角い眼鏡をずり上げた。
あたしのママは仕事で海外を飛び回っている。パパはあたしが生まれたころには既に死んでいた。交通事故だって聞いてる。
家で一人になることが多いあたしの面倒を小さい頃からずっと見てくれているのが、マンションの隣の部屋に住んでいる貴也の家族だった。おじさんとおばさんには感謝してる。けど、問題なのは貴也。
「昔っからギリギリになるまで何もしなくて、夏休みの宿題も毎年俺に手伝わせやがって……っていうか、9割くらい俺に押し付けてたよな」
だんだん話が逸れてきた。貴也のお説教はこれだから嫌なんだ。放っておくといつまで経っても終わらない。
「だいたいお前はいつもいつも……」
グチグチとつづく小言に、あたしはとうとう堪え切れなくなって――
「うっさいバカ貴也ッ!!」
げし、と正面の脛を思い切り蹴飛ばした。
「痛ってぇ!」
「座ってなかったらいつもの“一万馬力ック”かましてたところよ、感謝しなさい」
「ただの飛び蹴りだろ。っていうか人間に出せるのはせいぜい一馬力までだっていつも言ってるよな……」
「うっさい」
げしっ。
「痛ってぇ!」
「細かいことにこだわる男はモテないわよ」
「お前みたいな女こっちから願い下げだ!」
「こっちの台詞よ!」
「――あああぁぁぁ、なんでああいうこと言っちゃうかなぁあああ」
家へ帰るなりベッドにダイブした。頭の中で『制服が皺になるからやめろ』という貴也の声がしたけど、鬱陶しいから無視してゴロゴロする。
「……願い下げ、か」
あたしはベッドの上で天井を仰ぐ。売り言葉に買い言葉で、本気で言ったわけじゃないのは分かってる。でもたぶん、まるっきり嘘でもない。
対してあたしは――まるっきり、嘘だ。
あんたはあたしのオカンか、ってくらい口うるさくて、過保護な貴也。そんなあいつにこういう気持ちを抱くようになったのはいつからだっけ。本当に小さい頃からだった気がするけど、高二になった今になってもその想いは叶っていない。
「っていうか、貴也が悪いんだよ」
いつまでたってもあたしを子供扱いして、女の子として見てくれない。たぶん、“手のかかる妹”くらいにしか見てないと思う。“弟”だと思ってる可能性すらある。恋愛対象として見るには、あたしたちはあまりにも近すぎた。
「……なんて、そんなの言い訳だよね」
本当に悪いのは、いつまでも素直になれないあたし。それは分かってるけど、仮にあたしがちゃんと『好き』って言ったって、簡単には信じてもらえない気がする。もし信じてもらえたとしても、それで気まずくなって離れてしまうかもしれない。
「やだよ、そんなの……」
――そうなるくらいなら、このままでいいんじゃない?
臆病なあたしがぼそりと呟く。でもね、それも嫌なの。
願い下げなんて大嘘で、本当はお願いしてでも貴也が欲しい。
「頑張れ、あたし」
明日こそ、素直になるんだから。
□□□□□
珍しく早起きしたから、今日はいつもより早く学校へ来てみた。朝練の連中はグラウンドとか体育館に集まっていて、校門から昇降口にかけての道には誰もいない。
誰もいない学校ってちょっとわくわくする。もう誰か来てるのかな、なんて思いながらクラスの下駄箱へ向かって――
「――あれ、アリサちゃん?」
そこには、見覚えのある色白で小柄な女の子が立っていた。
「へっ? み、宮藤センパイ!?」
「早いねー。いつもこのくらいの時間に来てるの?」
ずり落ちた銀縁の丸い眼鏡を両手で押し上げながら、アリサちゃんが少しぎこちなく笑う。
「いえ、今日はたまたま……」
「へえ、あたしと一緒だね」
鈴木亜理紗ちゃんは、あたしが中学の時入ってたソフトボール部のマネージャーだった子だ。あたしと一緒の高校を受けるって言うからいろいろ相談に乗ってあげたりもした。まあ勉強のことはさっぱりだからほとんど貴也にぶん投げてたけど。この春無事に合格して、確か今は貴也と同じ生物部にいたはず。
「あれ、でもなんでこんなとこに? 一年生の下駄箱あっちだよね」
「そ、それはその、ええと」
「あ、まさかラブレターでも入れに来たの? なんちゃってー。あはは」
ぎくりとしたようにアリサちゃんが固まった。
「……えーと?」
「そ、そのまさかです」
「うそ、ホントに!?」
なんか様子がおかしいから適当に言ってみただけなのにまさかその通りだったなんて。あたしってもしかして天才?
「そっかぁ、アリサちゃんうちのクラスの男子が好きだったんだ。もしかして貴也? はは、んなわけないかー」
なんて笑ってみたけれど、アリサちゃんの返事がない。
「……まさか、ホントに?」
アリサちゃんは顔を真っ赤にして、こくっと頷いた。
「うそ……」
早起きして少し弾んでいた気持ちが急速に沈んでいく感じがした。
「真島センパイは中学の頃からたくさん優しくしてくれて、いつのまにか……」
「それで、ラブレターを……?」
「はい。でも、やめます」
「え?」
アリサちゃんは悲しそうに目を伏せる。
「今の私じゃ、ダメな気がするんです。真島センパイは優しくて、格好よくて……本当に素敵な人だと思うんです。やっぱり私なんかじゃ釣り合わないなって」
ああ、この子は本当に貴也が好きなんだ。そう思って、気が付いたらあたしの口は勝手に動き出していた。
「――ダメなんかじゃないよ!」
「え?」
「今のアリサちゃんじゃダメだって言うならさ、変わろうよ! もっとアピールして、そしたらちゃんと告白しよう?」
あれ、何言ってんだろ。
「あたしも協力するからさ。ね?」
どうして。あたしだって、あいつのことが好きなくせに。
「あ、ありがとうございます! センパイと一緒なら頑張れる気がしてきました!」
本当に嬉しそうに笑うアリサちゃんを見て、あたしは自分の言ったことを激しく後悔しはじめていた。
でも、放っておけないよ。恋しているアリサちゃんはすごく可愛くて、応援したくなっちゃったんだもん。この子の想いを叶えてあげたいって。
だけどアリサちゃんの恋が叶ったら、あたしの恋は――。
「センパイ?」
「あ、ううん何でもない。頑張ろ、アリサちゃん」
「はい、よろしくお願いします!」
……どうしよう。内心では頭を抱えながらも、あたしはアリサちゃんに笑ってみせるしかなかった。
□□□□□
お昼休み。いつも一緒にお昼を食べてる女の子たちに手を合わせて、貴也のグループの方へつかつか歩み寄る。
「ねえ、お昼一緒に食べようよ」
「は? なんでいきなり……」
「いいからいいから」
「おっ、真島は彼女とランチか? いいよ、行って来いよ」
「熱いねぇ、ひゅーひゅー」
いつも貴也と一緒にお昼を食べてる男子たちが囃し立てた。
「うぜぇ黙れお前ら! つか彼女じゃねーっつの」
あたしは大げさに悲しんでみせる。
「えっ、そんな……あたしとは遊びだったっていうの?」
「テメェは悪ノリすんな!」
「おー、出たよ真島夫妻の夫婦漫才」
「熱いねぇ、ひゅーひゅー」
「しつこいわッ!」
「いいからほら、行くよ」
「だからなんでお前なんかと一緒に……なぜ距離をとる」
あたしは数メートル後方へ下がって構え――
「いぃちぃまぁんんばぁりぃきぃぃぃいいいいいっく!!」
――ドカンと一発、教室の外へ貴也を蹴り出した。
「おわあああああぁぁぁぁぁああああああ!?」
はい、任務完了。
「ま、真島センパイ!」
「痛ってぇ……ん、鈴木さん?」
「あの、お、おおおお昼一緒に食べませんか!?」
「え? いや、なんか知らないけど今日は若菜と一緒に食べることになってて……」
「ご、ご一緒させてください!」
「いいよー。よーし、じゃあ中庭行こっか」
「はい!」
貴也が何か言う前に強引に話を進める。
「何なんだよまったく……」
「いいから早く来なさい」
「距離をとるのはやめてくれ。ちゃんと歩くから」
「分かればいいのよ」
よし、計画通りっと。
こんな感じであたしは『貴也にアリサちゃんをアピールしちゃおう大作戦』を次々と実行していった。なんでか知らないけど、昔からあたしの周りにはカップルが多い。話を聞いてるとどうも直接的にせよ間接的にせよあたしがきっかけで付き合い始めたって子たちがほとんどみたいで、『絶対キューピットの才能あるよ』なんて言われたこともあるくらい。狙ってやってるわけじゃないんだけどなぁ。
まあ、そんなあたしにかかればふたりをくっつけることなんて造作もない。特に、貴也のことはよく知ってるわけだし。
「アリサちゃん。他に分からないとこ、ある?」
「ええと、ここはどうやって……?」
「ああ、これはね――」
「――なるほど……ありがとうございます、貴也センパイ」
今ふたりは図書室で勉強中。さっきまではあたしも一緒だったんだけど、『買い物思い出した~』とか適当な言い訳をして抜け出して来た。貴也が『じゃあ俺も帰る』とか言い出したもんだから、そこはアリサちゃんに引き留めてもらって。
ドアの隙間から覗いてても、やっぱりふたりはいい雰囲気。落ち着いてるっていうのかな。穏やか~な感じで。まあメガネのせいかもしれないけど。
あたしといたってああはならないもんね、貴也。いつもピリピリしてばっかりで。
「……そうだよ」
あたしには、貴也にあんな優しい顔をさせることなんて出来ない。誰がどう見たって、あのふたりの方がお似合いだ。貴也からしたって、あたしみたいな我儘なやつよりアリサちゃんみたいに健気な女の子の方が可愛く思えるに決まってる。あたしだってどっちがいいか聞かれたら『アリサちゃん』って答えるもん。
でも、でもね。
「それでも貴也はあたしのそばにいてくれる、なんて……なんで信じてたんだろ」
根拠もないくせに、あたしは心のどこかで油断していた。どんなあたしでも、あいつはなんだかんだ言いながら付き合ってくれるんだって。
今まで貴也が離れたことがなかったからそう信じていられただけ。この先も同じかどうかなんて――分かるわけ、なかったのに。
「バカ貴也……」
呟いて気付いた。もうずいぶん、その言葉を口にしていない。
違う、貴也じゃない。本当にバカなのは――。
「……帰ろ」
あたしは図書室の扉に背を向けて、よろよろと歩き出した。頭の中では、幸せそうに笑うアリサちゃんとそれを優しく見つめる貴也の顔がずっとぐるぐる回っていた。
□□□□□
沈んだ足取りで家に帰る。
鍵を回してノブに手を掛けてみて――開かない。
「あれ、開けっ放しだったっけ……」
いろいろ考え事してたからかな、なんて思いながら今度こそ鍵を開けて、家の中に足を踏み入れた瞬間。
「――やぁ」
リビングのソファに、見知らぬおじさんが座っているのが見えた。
「……えっと、とりあえず今ポケットから出したその携帯を何に使うのか教えてもらってもいいかな」
「119番するに決まってるじゃん」
「その番号だと救急になっちゃうけど……通報されるのは嫌だから教えないでおこうかな」
「どっから入ってきたの」
「やだなぁ、玄関からに決まってるじゃないか。鍵、開いてたよ?」
どうやらおじさんがこじ開けたとかではなくて本当に締め忘れていたみたいだ。
「不用心だね、まったく」
「……ごめんなさい」
って、なんであたしが謝らなくちゃいけないの。
「っていうかおじさん誰? 泥棒?」
「人聞きが悪いなぁ。見てごらんよ。何も荒らしちゃいないさ」
ぐるりと部屋を見渡してみる。確かにあたしが今朝出たときのまま……だと思う。
「今真っ先にあの箪笥を見たね。なるほど、あそこに大事なものが入ってるわけか」
「えっ!?」
「はは、冗談だよ。盗ったりしないから安心しなよ」
「まだ、とかいうオチじゃないよね」
「ないない」
おじさんは苦笑して無精髭を撫でた。
「でもまぁ、お金に困ってるのは事実かな」
おじさんは全体的にかなり痩せていた。やつれている、と言った方がいいかもしれない。
「だからまあ、盗る気はないけど、貸してもらえると嬉しいね」
「一緒じゃん」
「合意の上なら盗ったとは言わないさ」
「返す気ないんでしょ?」
「まあ否定はしない」
そこまできて、あれ、と気付く。
「おじさん、なんであたしの名前――」
表札にもポストにも書いてなかったはず。まああたしの部屋を漁ればすぐわかるだろうけど、おじさんの言葉を信じるならそんなことはしていないはずで。
「あれ、まさか本当に分かってない?」
「なにが?」
自分でも不思議なくらい落ち着いていた。このおじさんと話していると、なんだか変な気持ちになる。
「……はは、あいつ僕のことをなんにも話してないんだなぁ」
「だからなに?」
「ああ、ごめんよ。ええとね、驚かないで聞いてほしいんだけど」
「もうこれ以上驚けないし」
家に帰ったら泥棒(仮)と鉢合わせ、なんて、これ以上に驚くシチュエーションがあるわけない。
「僕はね、君のお父さんだよ」
「ふうん」
「へぇ、本当に驚かないんだね。あいつだったら卒倒しそうなところだけど――って、あれ?」
そこであたしの意識は途切れた。
「あ、起きた?」
ぱち、と目を覚ますとソファの上に寝ていた。
「なんかいい匂いする……」
起き上がってテーブルを見れば、カップラーメンをすすっているおじさんの姿。どうやら夢ではなかったみたいだ。
「あー、それあたしの晩ごはん!」
「えっ、そうなの? ダメだよ、育ち盛りなんだからご飯はちゃんと食べないと」
そう言いながらずぞー、とまたコシのある太麺がおじさんの胃袋に消えていく。
「っていうか、何も盗らないって言ったじゃん!」
「まあこれは別腹ってことで。ラーメンだけに」
「面白くないから」
突っ込みも虚しく、こだわりの豚骨スープが最後の一滴まで飲み干された。
「ごちそうさまでした」
「ああもう、どうすんの今日……」
「毎日こんなご飯食べてるの?」
「ううん、いつもは貴也ん家で食べさせてもらってるから……」
「お、もう彼氏いるんだ? あいつに似て美人だもんなー、若菜ちゃん」
「お世辞はいいから。ただの幼馴染だよ」
言った瞬間自分でぐさりときた。そうだ、あたしとあいつはただの幼馴染。それ以上でもそれ以下でもない。
「おやおや、何かお悩みかな?」
「へっ?」
「一宿一飯のお礼ってことでさ、パパが相談にのってあげようじゃないか。こう見えても恋愛経験は豊富なんだから」
「今さらっと泊まる宣言したよね。年頃の娘がいる家に男一人で」
「まさか父親をこの寒空の下に放り出すつもりだったの?」
「っていうかまだその話信じてないから。パパは死んだってママが言ってたもん」
「えっ、僕死んでたの?」
「死んでたらラーメン食べたりしないでしょ。というわけであたしのパパじゃないただのおじさんは早く出ていってください」
「ちょっと待ってよ、僕ホントに泊まるとこないんだって。凍えて死んじゃうよ」
「勝手に凍えてれば?」
「わー、その目あいつそっくり。ぞくぞくするね」
「きもちわるっ」
「まあそう言わずに」
「っていうかさっきから『あいつ』『あいつ』って言ってるけどさ、せめてちゃんとママの名前言ってみてよ。そしたらちょっとは信じるかも」
そう言うとおじさんはそれもそうだね、と口を開いて。
「……」
「……おじさん?」
「……なんだっけ」
あたしは無言で携帯をすっと取り出した。
「ま、待った! 通報はやめて! 今頑張って思い出すからさぁ!」
「頑張らないと思い出せないとかおかしいでしょ!? なんで元妻の名前も憶えてないわけ!?」
「い、いや僕ら結婚してないから!」
「してなくたって子どもまで作った恋人の名前くらい憶えてるでしょ!」
「ところが憶えてないんだなこれが」
「威張るな!」
いやぁ、とおじさんは頭を掻いてみせる。
「僕ミュージシャン目指しててさ。でも全然芽が出なくて食べるのにも困る有様で。で、おじさん昔はそこそこイケメンだったから、道行くキャリアウーマンぽい人を捕まえては家に転がり込んでたんだよ。要はヒモだね」
「そのうちの一人がママってこと?」
「そうそう。まあそんな感じの子ががいっぱいいたからさ、いちいち名前なんて憶えてない――」
「ふざけないで」
「あー……ごめん。きみのママとは結構長く続いた方だったよ。確か三年くらいかな」
「ふうん。相性が良かったんだ?」
「えっ、身体の?」
「殴られたいの?」
「はは、冗談だって。まあそっちの相性が良かったのは否定しないけど、まあ単純に居心地が良かったんだよね。充分すぎるくらい稼いできてくれるから小遣いには困らなかったし、ほとんど家に帰ってこないからそんなに束縛されることもなかったし。でもたまに帰ってきたときに甘えてくるのがすごく可愛くてね」
懐かしそうに話すおじさんを見て、なぜだか分からないけれどあたしはその言葉を信用してもいいんじゃないかって気がしてきていた。他にたくさん女の人がいたっていうのは気に入らないけど、ママのことが好きだったのは多分嘘じゃないんだろう。
「……お腹に若菜ちゃんがいるのを知った時、結婚してもいいかなって思った。夢を諦めて主夫になるのも悪くないかなって。けど結局フラれちゃったよ」
「え?」
「『夢を捨てたアンタになんか興味ない』ってさ」
「……はは」
なんか、ママらしいな。そう思った。夢を追いかけてる人を見るのが大好きなんだよね、ママ。あちこち海外飛び回ってるのも前代未聞って言われるようなプロジェクトをいろいろ手伝ってるからだし。
「どう、信じてくれた?」
「うーん、まあ半分くらい」
「もう半分は?」
「名前思い出してくれたら考える」
「まあ、そりゃそうか」
おじさんは苦笑した。三年も一緒にいて結婚まで考えたくせに、なんで名前を忘れるんだろう。
「っていうか、なんであたしの名前は憶えてたわけ」
「そりゃあ僕が付けたからね」
「うそ!?」
「ホントホント。理由は忘れたけど」
「適当なんだから……」
「はは、手厳しいね」
まあでも、いいか。
「……ソファくらいは貸してあげる。一晩だけだからね」
「やった!」
我ながら甘いと思うけど、でもなんかこのおじさんは憎めない。貴重品関連は大体貴也ん家に預けてあるから、おじさんが欲しがるようなものはない。箪笥のあの引き出しに入っているのは中学生の頃のあたしの日記だ。おじさんが見たら大爆笑するだろうけどそれは……まあ百歩譲ってよしとしよう。
「その代わり」
「ん?」
「……ちゃんと乗ってよね、相談」
おじさんは笑って頷いた。
「りょーかい」
■■■■■
最近、何か若菜の様子がおかしい。
「貴也センパイ、今日はありがとうございました!」
「ああ。またあとで何か分かんないとこが出てきたらメールしてよ」
「はい!」
アリサちゃんを家まで送っていって、そこで別れた。
期末試験は明日だっていうのにあいつが勉強会を抜け出したりするもんだから、俺はやきもきしていた。しかも『今日は家でご飯食べるから』とか言ってやがったし。菓子作りだけはうまいけど、ほかの料理はからきしのくせに。家で食べるっつったってどうせカップラーメンか何かだ。っていうか今までずっとうちで食べてたくせに急にそういうことを言いだすなんて、何考えてるんだろうな。勉強させられたくないから俺を避けているのかもしれない。でも結局泣きついてきて一夜漬けに付き合う羽目になるのがいつものパターンだから、多分今日もそうなるだろう。
「――ただいま」
「おかえり」
台所から母さんの声がする。リビングをぐるりと見渡してみても、若菜の姿はなかった。
「あいつ本当に来てないのか」
「そうね。もしかしたらと思って今日はカレーにしておいたけど」
「それが正解だろうな」
「ああ、でも」
タオルで手を拭きながら母さんがリビングに顔を出す。
「若菜ちゃん家ね、今お父さんが帰ってきてるのよ」
俺は耳を疑った。
「は? 亡くなったんじゃなかったのか?」
「それは宮藤さんが若菜ちゃんにそう言ってただけ。あちこちふらふらしてたらしいけど、ちゃんと生きてるわよ」
「まじかよ……」
そんなの初耳だ。
「まあ何年も戻ってこなかったわけだし、『亡くなった』っていう表現はあながち間違ってないと思ってたんだけど……まさか帰ってくるなんてね」
「なんで今更帰ってきたんだろうな。っていうか、そもそもなんで出ていったんだ?」
「さあ? 宮藤さんその辺りは全然話してくれなかったから……でも」
母さんは眉根を寄せて溜息を吐いた。
「――『あいつの顔なんてもう二度と見たくない』なんて言ってたから……相当ひどい別れ方をしたのかもしれないわ」
ひどい別れ方って、何だろう。
「おい、大丈夫なのか? そんなやつ家に上げちゃって。もしかしたら、危ないやつなんじゃ……」
「危ないって?」
「例えばほら……暴力ふるうとか、女に見境なく手出すとか」
自分で言ってぞっとした。
「まさか。たぶん喧嘩別れでもしたんでしょう。それで『顔も見たくない』なんて言っちゃったのよ」
「……だといいけど」
少し、嫌な予感がした。
□□□□□
「……なるほど。随分面倒くさいことになってるみたいだね」
おじさんは苦笑して無精髭を撫でてみせた。
「キューピットの才能か……。あいつもさ、ああいう性格だから結構そういうことが多かったらしいよ。本気で誰かのことが好きな子を見ると応援したくなっちゃうんだな。若菜ちゃんは本当にあいつそっくりだね」
頭以外は、と付け足したので脛を軽く蹴り飛ばしてやった。
「いてて……怒るとすぐ足が出るのもそっくりだ」
顔をしかめながら蹴られたところをさする。っていうか、もう半分くらい信じちゃってるとはいえ泥棒かもしれない人を蹴るなんて、あたしってこんなに神経太かったんだと自分でもびっくりする。きっとあたしはもう、ほとんどおじさんのことを本物のパパだって認めているんだろうな。どうしてかは自分でもうまく説明できないけど。
「若菜ちゃんはさ、貴也くんと付き合いたいの? それとも、アリサちゃんにうまくいってほしい?」
「……両方」
「はは、まあそりゃそうだ」
おじさんは笑って人差し指を立てる。
「あるよ、解決方法」
「ホント!?」
「貴也くんが二股をかける」
悪びれもなくそんなことを言ってのけるので、あたしは溜息を吐いた。
「……おじさんに期待したあたしがバカだった」
「えー、おじさん真面目に言ってるんだけどなぁ。僕はそれで今までやってきたし」
「それは相手の女の人がそれでもいいって人ばっかりだったからでしょ。あたしたちは違うもん」
「ま、今日は全員にフラれちゃってこの有様なんだけどね」
なるほど、それでここに転がりこんできたのか。
「っていうか、貴也だってたぶんそういうの嫌がるよ」
二股をかけて平気でいられるようなやつなら、あたしだってこんなに悩んだりしない。
「んー、でも話聞いてる限りだとさ」
「なに?」
「貴也くん、多分アリサちゃんのことそんなに好きじゃないんじゃないかなぁ」
「へ?」
「いや、なんていうか、どっちかというとただ後輩を可愛がってるだけみたいな感じがするけど」
「で、でもすごくお似合いで……」
「結局選ぶのは彼だろう? 若菜ちゃんから見てそうでも、貴也くんがアリサちゃんを好きになるとは限らない」
確かに、そうだけど。
「それじゃ、アリサちゃんが……」
「みんながみんな恋を叶えられるわけじゃない。若菜ちゃんは確かに今までたくさんのカップルを成立させてきたのかもしれないけど、その陰で泣いていた子だってきっといるはずなんだよ」
そんなこと分かってる、そう言おうとしたのに声が出なかった。分かっているようで分かっていなかったんだ、きっと。
「そういうときは諦めて他の相手を探すしかないんだ。その人とは縁がなかった、そう思うしかないよ」
ぽん、と肩に手を置かれる。
「――もし若菜ちゃんの方がフラれたらさ、おじさんが慰めてあげる」
「おじさん?」
「若菜ちゃんホントにあいつそっくりだしさ、多分相性いいと思うんだよね」
おじさんの真似をして『身体の?』と茶化そうとして――ぞっとした。
「ここに置いてもらえるならもう浮気したりしないからさ、ね?」
「どういうこと?」
あたしはすっと立ち上がって後退る。
「いや、だからさ――」
怖いくらいにこにこしたおじさんがあたしの方へ近づいてきて――
「――若菜ッ!」
「いぃちぃまぁんんばぁりぃきぃぃぃいいいいいっく!!」
「うわあああああぁぁぁぁぁああああああ!?」
――玄関のドアが勢いよく開けられたのと同時に、あたしの飛び蹴りが炸裂した。
「……」
「あれ、貴也? なんで?」
「心配して来てみれば……まあ、そうだよな。お前はそういうやつだったな」
「えっ、どういう意味?」
「俺がいなくてもなんとかしちまうんだなってことだよ。まあ何事もなかったなら良かったけど」
貴也は溜息を吐いて――あたしはへなへな、と崩れ落ちてしまった。
「たかやぁ……!」
「お、おいどうした!? やっぱりなんかされたのか!?」
慌てて駆け寄ってくる貴也の胸に縋りつく。
「まだされてない、けどっ……怖かったよ……」
「変態男に蹴り入れた女の台詞なのかそれは……」
「怖いものは怖いもん!」
涙がぼろぼろ零れ落ちる。
「貴也がいなくてもなんとかなるなんてこと、ない……貴也がいなきゃダメなの、貴也じゃなきゃ嫌なの……あたし――」
――たかやがすき、と素直に言えた。
「あたし、やっぱり諦めるなんて出来ない……!」
他の人を探すしかない、なんておじさんは言ったけど、あたしにはそんなの無理だ。
「……ったく、やっぱり俺がいないとダメだな」
「え?」
「――お前みたいな手のかかる女、他の奴に任せられるか」
「貴也……!」
ちょっとだけ顔を赤くして言い捨てる貴也に嬉しくなって、勢いよく抱きついた。どん、と貴也が床に尻餅をついて眼鏡がずり落ちる。
「ねえ、それあたしのこと好きってこと!? だよね!?」
「うざい離れろ!」
「だって嬉しいんだもん。貴也大好き」
にやけた顔でそう言えば、貴也はさらに顔を赤くした。
「お前、急にそういうこと言うなよ……調子狂う」
「えへへ」
あんなに素直になれなかったのが嘘みたい。いっかい言っちゃうと次から次へあふれだして止まらなくなる。
「――っていうか、どうするんだ? あれ」
貴也の視線の先には、床にのびているおじさん。
「もう懲りたんじゃない?」
「……どうだかな」
「それにさ」
あたしは貴也の胸に頭を預ける。
「――貴也がまた守ってくれるんでしょ?」
「……ま、来ないと俺が蹴られそうだからな」
「うっさいよ……バカ貴也」
久しぶりの台詞を呟いて、あたしはそのまま目を閉じた。
□□□□□
「いてて……まったく、ひどい目にあったよ」
「自業自得でしょ。ちょっとは反省してよね」
「はは、相変わらず手厳しいなぁ……」
おじさん――パパは布団の上で苦笑して、またいててと呻いた。
結局あれはあたしの勘違いで、ただ『養ってほしい』と言いたかっただけらしい。でもあんな迫り方したら蹴られても仕方ないと思うのは、あたしだけかな?
まあママに連絡したら今週末に帰ってくるって言うし、この困ったおじさんをどうするかはママの判断に任せようと思う。今、あたしはそれどころじゃないのだ。
「ほら、これ世界史のノート。3回写せ。そして暗記しろ」
「ええ、無理だよそんなの!?」
「無理じゃないやれ! テスト明日なんだぞ、分かってんのかお前。っていうかなんでこんなに進んでないんだよ、昨日までずっと勉強会してやってただろうが」
「だって貴也とアリサちゃんのことでそれどころじゃなくて……」
「はあ? なんでアリサちゃんが出てくるんだ?」
貴也は首を傾げる。全然分かってないんだ、こいつ。あんなに頑張ったのに。
本当はあたしにキューピットの才能なんてなかったのかもしれない。ああ、アリサちゃんにどうやって謝ろうかなぁ……。
「手が止まってるぞ!」
「もうやだよー、勉強したくないよー」
ペンを投げ出すあたしに貴也は溜息を吐いて、眼鏡をずり上げた。
「期末試験が終わったら何がある?」
「んー、冬休み?」
「そうだな。で、冬休みのイベントといえば?」
「お正月!」
「その前だ」
「大晦日?」
「もっと前。お前わざとやってるのか?」
「なにが?」
首を傾げるあたしに貴也はまた溜息を吐いてみせる。
「……クリスマスだよ」
「ああ、クリスマス! 今年もイヴに貴也ん家でパーティーするんでしょ? 楽しみだなぁ」
「今年は25日にやるってさ」
「へえ、そうなんだ」
「……だから」
貴也はぷい、とそっぽを向いて言った。
「――イヴは、俺がどっか連れて行ってやるよ」
「そ、それってもしかして」
「ただし! 期末で赤点回避したらの話だからな」
「ええ、何それ!?」
「赤点取ったら冬休み補習だろ、お前」
「う……」
「分かったらさっさと勉強しろ。今日は一晩中付き合ってやるから」
「もう、分かったよ……」
嬉しいけど嬉しくない。でも。
「あたしケーキ焼いていってあげるからさ、楽しみにしててね」
「……あんまり甘くないやつで頼む」
「はいはい」
ほっぺたが緩むのを感じながら、あたしはペンをとった。
――勉強は嫌いだけど、貴也のためだったら一万馬力だって出せそうな気がした。
END
はい、というわけでテーマ短編でした。
10000……いちまん……一万馬力……はっ。って感じで過去のネタを引っ張ってきました。
おじさんが異常に書きやすくて、途中で1万字を超えてることに気付きましたがまあ諦めてそのまま仕上げました。ごめんなさい。
ちょっと季節を外したような気もしますがまあもう明日から12月ですし、いいですよね……ホント締切ぎりぎりですみません(土下座
毎度のことですが今回も残念クオリティです。お目汚し失礼いたしました。