鬚をあたれ!
あまり脂肪分の多いものばかりをいたずらにたらふく食べ過ぎて、いい加減腹もくちくなっていたので、彼は一人暮らしのアパートのゴミ溜めのような一室でうつ伏せになってごろごろしているのもいよいよ辛く感じられてきた。のそりと起き上がりしなに、だらんと垂れた胴回りの肉塊に埋もれたようなだらしのない臍の奥から、ぐうたらな自分を叱責する腸の重たい蠕動音が鳴り響く。その音を聞いて、我が身を取り巻く肉のたるみをすべて燃焼させることができれば、と彼はいつも考えるだけは考えてみるのだが、果たせるかな、生来の意志薄弱のこととてなかなか実行に移せずに、この狭い部屋の中をだらだらポテチやカップ麺に囲繞されながら、三日にあげず油ののった日をいたずらに送るのに、それを改善しようという気はいささかも起こさなかった。
彼は小汚い卓上に雑然と置かれているインスタント麺の空カップを、なにか私小説の材料でも探す明治大正期の文豪のような面持ちでしげしげと眺めていると、そういえば小さい頃によく読んでいたマンガの雑誌の中で、食べた後にすぐ寝ると牛になる、という世間の謂いを紹介していた一コマがあったのをはたと思いだした。……その時彼が胸臆に抱えていた隠微な気持ちは誰にもわかるまいが、彼が茫洋とした眼で見つめる先にあるカップ麺の丸や四角、様々な空の容器と、汗と黄色い体臭に染みるシャツからでっぷり突き出た臍まわりの肉を訳もなくむんずと揉みしだく謎の行動との間には、並列つなぎの回路よりもっと迂遠で、しかし同時に直列つなぎのそれよりももっとストレートな連関があった。とりもなおさず、過食は禁物という無意識のメッセージだった。彼自身にはそれがなにか、よくわかっていたのだが、いかんせん、齢二一の大学生――それも国文学専攻の三回生――にして、情けなくもそういった機微の複雑な表現のしようには同時代人の誰よりも不足していたものだから、世にはびこる物象主義者たちの禍々しい眼で見れば、人体がその所有者に暗黙裡に愬えるなぞといったそのような不確かなもの、無いも同然であった。そのため、彼がカップ麺のゴミを見、腹を揉む一部始終からは、やはり傍目には怠惰の色しか見いだされないのだ。
彼は物思いに耽った時の常として、顎をぼりぼり引っ掻いた。するとどうだろう、ぎとぎとする二重顎のぶよぶよな肉の表面には、なにか刺々しいものがいっぱいに密生しているではないか。彼はやりきれなさそうに溜め息を一つ吐くと、おもむろに立ち上がり、狭い部屋の一面にばら巻かれたゴミやクズやらの間をぶきっちょうな油足をぺたぺた音させながら器用にぬけて行って、洗面所へ向かう。道すがらに放屁するファンサービスも、このところ忘れない。
――――――――――――
彼は洗面台に立つと、カップ麺を見つめていた時のあの哲学的にアタラクシアな表情を引っ提げたままに鏡面をじっくり見やる。油の照り返しをうけて白く浮き立つ醜い顔が、汚れてところどころ白くかすみ、今しも発掘された銅鏡ですと言われてしまえば一瞬肯いてしまいかねないほどくすみきった鏡の一面に映し出されている。臭いまでこちらに跳ね返ってきそうな犯罪的なブサイク面がそれだった。
額や頬や顎のあちこちには、できものの山が黄色いマグマを火口にたくわえたまま固まっているのが月のクレーターのようにいくつも点在している。汗でぐっしょり濡れた彼の着ている緑のシャツは、内側に忍ばされた胸の脂肪がだらんと垂れているのを隠しようもなくはっきり告げていて、便々たる太鼓腹はそのまま第二の顔よろしく、そこでワハハと笑っていた。
彼は歯ブラシや歯磨きチューブ、その他ヘアワックスなどが、これまた、まとまりもなく雑然と詰められている鏡面脇にある戸棚から毛抜きをもそりと取り出すと、慣れた手つきで鼻の下の髭を一本抜いた……鼻の奥がワサビでも口に含んだ時のようにつーんとし、バカでかいクシャミが一発、そこで誘発される。片方の眼から脂汗にも似た涙が下るのは、自らの醜態を恥じての悔し涙でもあった。
彼はこれまでの人生で、一度も顔をあたったことがない。ヒゲ剃りなどという大人の利器とはまったく無縁の生涯を、彼はこれまでに送ってきたのである。
大学の友人たちはみな、就職活動のためにエステに行って顔をつくられたように綺麗に整えてきている。彼は一人、就活もせずにみなの狂態を離れたところで荏苒と眺めながら、毎朝友人の誰彼がヒゲを剃ることから一日を始めているその横で、こうして毛抜き片手に顎鬚をいそいそと引っこ抜いているのであった。
彼としては非効率的だという実際的な感覚よりもまず先に、機械に頼らず稼穡する人たちの力強さをでっぷりした我が身に感じていたものだから、毛抜きをヒゲ剃りに持ち替えるつもりはさらだに――いやさ、毛頭なかった。
しかしこの頃になると、どうも抜かれるヒゲたちの方で彼に復讐しようという腹積もりなのだろうか……あるいは天敵の多い野生動物は子をたくさん産みつけるという自然の摂理にのっとってなのだろうか、最近とみに鬚髭の伸びるのが早くなり、昨日根絶やしにしたと思った地味よい土壌から、気付けばひょっこりちくちくした先っちょの白いものがもう頭を突き出していて、それの根が黒いために鏡で遠目に見ると、鼻の下も肥えた顎も、影がさしたように黒ずんで見えるのだ。生え初めのうちにすっかり抜いてしまえれば、しばらく安泰と思っていた彼もこれには閉口。億劫だったが、剃刀の刃をたるんだ皮膚にあてた時の、ひょっとすると肉まで削ぎ落としてしまいかねない恐怖を思えばチキン以上にチキンな彼の気質では、踊るサンバで肉を燃焼させることは厭うても二の足は踏み踏み、なかなか毛抜きを手放せないでいるのだ。
彼は顎の下の柔らかい肉をちょいとつまむと、器用に毛抜きを這わせて、じょりっとした感覚を頼りに、クレーンゲームの要領で挟んでは抜き、かいつまんでは抜きしてを繰り返す。本来鏡で見ることのできない、咽喉に近い顎の裏あたりのヒゲすらも、彼の手にかかればお茶の子さいさいで、持ち前の二重顎の柔軟さを巧みに活かし、生え抜きのベイビーどもの生命をせっせと奪うのだ。
彼はヒゲを抜いている間中、ひたすら無心で、鏡を覗いては次の目標をターゲットしているばかりで、二心無く何も考えずにいる。この後どうしようか、今日の予定は……今後の政治向き、本の内容、学科の内容、いっさいはどうでもよく、友達の恋愛事情、自分におとずれることのない春、そういったこといっさいに煩わされることなく、ただただ思索せる一個の人体たる我を忘却し、三昧境に遊び泳ぐことばかりが、彼の視線をほしいままとしていた。
そんな彼が今日も今日とて、何を思うでもなくいそいそと毛を引っこ抜いていると、かき分けた肉の襞の中に、ひときわ大きなできものが、こんもりと黒々しいほくろ然として顎のちょうどしゃくれた頂点に君臨しているのを発見し、気が鬱ぐ思いがした。
(……またお前か……)
彼にはそれに、見覚えがあった。見覚えというよりも、文字通りの顔なじみとなっているそれを、一度として忘れたためしはない。それはごくありふれたほくろでも、できものでもなく……。
彼は作業的だった毛抜きの一連の動きをちょこっと変え、あえて皮膚を傷つけるような、硬質な毛抜きの先でひっかくような具合に、その顎に引っ付いた黒々しい物体に攻撃を加えた。黒いものを覆っていたオブラート状の薄い皮がぺりっと剥がされると、なんと中から奇妙に長い一本の鬚が、液体的な光を鱗のようにうねうねと纏いながら電光の下にさらされたのだ。
毛というものは、たとえば頭をつるりんと禿げあがらせた少年を青坊主と呼ぶことがあるように、剃ってしまうとどうしても皮下に残った毛根やらが青く見えてしまうもので、剃るよりも抜いてしまった方がいっそ肌が綺麗に見えないこともない。尤も抜き方を誤ると、毛が中途で千切れてしまい結局剃った時と同じような仕上がりになってしまうから、毛穴の向きによほど注意してするすると抜かなければならないので、大変な気苦労を要するのであるが……ところでこの抜くという方法、一見原始的にして、お手頃かつ確実な手段のようにも見られようが、実は大いにリスクをはらんでもいる。
埋没毛という、一種の毛の生え方がある。
毛を引っこ抜く際、あまり乱暴に抜いてしまうせいで、血は出ないまでも皮膚を傷つけてしまうことがある。むろん放っておけば人体の自然治癒で二、三日もせず皮膚の傷は治ってしまうのであるが、文字通り皮肉にも、毛穴や汗腺のある出口までも膜じみた皮が覆ってしまうことになるので、新たに生えてくる毛が自力で皮を破ることがかなわずに、伸びるにつれてできもののようにこんもりとそこで膨れてしまうのだ。尤も疣や腫物のようになりはするものの、痛みは伴わないし、見た目を損ねるというだけなので大した異常ではないのだが。
彼はくるくると身を丸めて皮下に潜んでいた巨大な大蛇を遊び心から毛抜きで突ついて起き上がらせてみた……顎に生えるどの毛よりも、それは長かった。彼は忌々しい眼でこの毛を見遣り、かの毛とのそもそもの馴れ初めを思い出してみる。
――――――――――――
出逢いはそう、現在大学の三回生である彼が、中学二年生の多感な時期を鬱屈とやりきれなさを抱えながら悶々と過ごしていた砌のこと……身長の割合で測れば肉の付き具合は今とさして変わらないが、赤々と発疹のように顔にひしめくニキビの量は今より圧倒的に多く、醜悪さで言えば人生で最低だったかもしれない、そんな折。
彼は誰からもキモイ・汚いと格好の餌食にされていて、当時若かった担任教師すらも何かの拍子に彼のニキビ面に手が触れた際に、口に出しこそしないまでも明らかに身を引き気味にしていたのが彼の卑屈の元凶で、歴史の教師だったその妙齢の女教師からすすめられた本の中にあった石田三成と大谷吉継の友情秘話にひしと胸を打たれたのが彼を文学部へといざなったきっかけだったのだが、それはおくとして、この当時彼には磯のアワビの片想い中の相手があった。小学生であったならお母さんのような包容力のある女先生に惹かれもしようが、あいにく引かれている相手に惹かれるほど中学二年生の情熱は真正直とはいかず、この頃を閲した者ならば誰でもありふれたことだろうが、彼も全国の中二男子の例に漏れず、クラスのマドンナ的ポジションの少女に密かな想いを、邪なる気持ちと半分ずっこに持ち合わせていた。
当時、その子を狙っている彼にとっての恋敵は引きも切らなかった。我こそは、という猛者が何人もアタックしては、あえなく純情なあだ花を散らしているというもっぱらの噂だったが、それが音に聞こえてくるたびに彼は彼女がまだ無垢であるという希望に眼を光らせてしまうからなおのこと諦めがつかず、ますますぞっこんになり、自分ももう少しマシな顔立ちであれば、勇を鼓して彼女に告白していたものを……と、何度自分の造形に腹を立てたり、噛みやすいくらいに出っ張った臍を噛んだりしたかしれない。そう、デブでニキビ面で度し難いほどのコミュ障だった彼なんかが身分違いもはなはだしい彼女に告白したなぞと口さがなく広められてしまえば、彼はたちまちクラスの男子どもからお灸をすえられてしまう。容姿というのは、かくも残酷な差別意識を生むものだ。
しかし彼の懸想は、邪な気持ちが全然なかったといえば嘘になるが、他の男子生徒たちが抱く不純な動機とは趣を異にした由来があった。教師からも忌み嫌われるほど醜悪な面貌を持って生まれた彼に、なんとクラス一の美少女である彼女はなにくれとなく、さも本当の友達であるかのように、平等に均等にフェアに接してくれたのだ。彼がなにかの拍子に仲間外れにされかかると、我すすんで「○○くんがかわいそうじゃない!」と、クラスメイトを窘めてくれたのだ。誰にも優しくされた覚えのない彼が、当惑しつつも、その行為に惹かれないわけがなかった。
しかし彼女は、特別彼にだけ優しかったというわけではないことが、なまじ彼にもはっきりとわかっていたものだから、なおのこと告白なんぞできたギリではなかったのだ。誰もに好かれ、理解される人間はいないというのがこの世界の法則だが、どうやら彼女はその御多分から遠く漏れる存在のようで、彼女はクラスの日陰者にも人気者にも、分け隔てなく接するうえに、みんなから一様に好もしく思われていた。無能な教師からすらも、自分のお株が奪われたなどといって逆恨みされるようなベタなこともなければ、むしろ篤い信頼を勝ち得ることに成功してクラスの自治を任されてもいた。彼はそれを傍目に、まるで我が事のように誇らしく思っていただけの、その他大勢の一人にすぎなかった。
――彼が顎の一点に一本だけひょろ長く生育する鬚の存在を認めたのは、そんな彼女と二人っきりで話していた時のことだ。二人っきりで話し込むというシチュエーションはなかなか珍しいことで、その後再びその機会が訪れることはなかったほどなのだが、だからといって睦まじいといえるほどの会話ができようはずもなく、中学生相当の世辞で塗り込められた、敵意も過度の好意もない、当たり障りのない雑談にそれは終始していた。なにかの話で彼が笑うと、釣られたように彼女も笑う。その笑みが、なんともいえないほど美しく、可愛らしく、ああもうこのまま抱きしめてしまいたいという衝動をぐっとこらえつつ、飽きもせずに彼女の顔を盗むというより奪うほどの目力で覗いていると、不意に彼女はこちらのあさましい腹の裡を見透かしたかのように、クスっと小さな花弁が風に揺れたような笑い方をした。
「どうしたの?」
「○○くん、ヒゲが生えてるよ」
「え?」
彼はたいそう驚いた。中二にして老け顔のキャラはクラスにも若干いるにはいたが、ヒゲが生えているというのはさすがに誰もいなかったから(といって、中学二年生相当に、薄いうぶ毛程度なら誰もが生やしていただろうが)、嘘や冗談が言えるような性格じゃない彼女からそんな風にぴしゃりと言われると、なんてことだブサイク面なうえに人より早くヒゲまで生えてきたのかと、たまらず自らの肉体の誤った成長を恨めしく思ったものだが、次の瞬間にはそんな自己嫌悪の情も雲散霧消した。
彼女のしなやかな――女子中学生の指なのだから、それは小さくて当たり前なのだが――細っそりとした、とびきりに小さな白い指が、唐突に彼の顎までさし伸ばされたのだ。彼は分厚い肉の壁の奥から、心臓が息苦しそうにバクバク跳ねあがっているのが胸の贅肉をいちいち震わせるあのゼラチンもかくやという弾力から窺い知ることができた。彼女の手が、教師のそれが触れるやいなやさっとひっこめられたあのデリケートな二重顎が形成された位置に、そっと触れたのだ。
どぎまぎして声も出ない。もとより訥弁な性向であったが、くいっと彼の顎を持ち上げるようにして、ためつすがめつ美少女に下から上目過ぎる角度で見つめられたからには、はらはらとして何も言えないでいるのは健全なる男子として当然の反応ではないか。彼は身構えた。咄嗟に何を期待してしまったのか、彼自身いまではちっとも覚えていないことなのだが、眼を瞑ってすぐに、針でぷすっと刺されたような、ちくっとする痛みを顎に感じてたまらず仰け反った。
「痛っ……」
「……埃かと思ってたんだけど、おヒゲだったみたいね」
「……抜いたの……?」
「うん。一本だけ、ひょろっと生えてたから気になっちゃって」
「一本だけ……?」
「一本だけ」
彼女はさもおかしいことであるかのように、くすりとまた笑った。彼女が嘘つきでないのは彼自身がよく知るところであったから、なんとも珍妙な言いぐさではあったが、まぁ憧れの彼女との接触の思い出として大事にしまっておこうと彼は胸のバインダーに許可もなくその一場をファイリングしていたのであるが……結果として思い出されるのは、今どこでどうしているか音信不通の元同級生のことではなく、しこりのようにその後も肉体にのこる鬚のことであった。彼女に顎を触られた記憶だけを生きがいに、にやにやにやにや口許をほころばせていた彼がそれから三週間後、中学の三年間の間だけ随分と親しかった男子生徒と益体もない雑談に興じていた時のことである。
「……○○、お前さ。ちょっと上向いてくんね?」
「え? なんで?」
「いいから」
わけがわからなかったが、言われるがまま上を向くと、やにわに友は彼の顎に手を添え、つい三週間前に憧れの彼女の指先が触れたばかりで、そのぬくもりがまだ残っている例の場所に臆面もなく触れてきたので、彼はなんだか命よりも大切なものが奪われる心地して、咄嗟に抵抗を試みようとしたのだが。
「――痛っ」
「埃かと思ってたらよ、ヒゲだったよ。一本だけひょろ長くてさ」
「……?」
彼の思い出の神秘は、一本の鬚の奇妙に上書きされてしまった。
それ以来、彼は毎日のように鏡を覗き込み、何が悲しくてブサイク面と顔を向い合せる淋しい毎日を送っていた。そうして待つこときっかり三週後に、彼は不思議の正体をようやっと掴むことに成功した。
抜いたそいつは中学二年生の時点では、ただひょろ長くて、色んなところで節くれだって、昆虫のナナフシのようにかっくんかっくん身を曲げた不格好な、ごくごく薄い毛だったのだが、高校へ上がった頃には立派に真っ黒くなった、例のひときわ長い鬚なのであった。
―――――――――――
(……なーんで、こいつだけ妙に長いんだろうか……?)
いつものことながら、彼は答えの見えない疑問に首をひねる。初めてこれを抜いた中学二年の時分から、ほとんど休む間もなく、きっかり三週間の後には必ずひょっこり鎌首をもたげるこの毛を訝しみつつも、彼は律儀に発見のたびにひっこ抜いては、その長さに驚嘆するものである。
長いといっても、足の親指の爪ほどの長さでしかそれはない。教科書に載っているような伊藤博文の蓄えられたそれと比較すれば、なにをこんなものと世人は思われるだろうが、しかし毛先が頭を覗かせるや短兵急に引っこ抜く性分の彼がそんな長さの毛を抜くことがあるということ自体、ちょっと普通ではないのだ。
彼は掘り起こしたばかりのみずみずしい埋没毛がすっくと立って、挑発的に抜けるもんなら抜いてみろと言わんばかりに反り返っている様子を見て、なんとはなしに不思議な感じを抱いた。この感じがいったいなんなのか、彼自身に表現の神は下りたりしてこないから、誰にもその奇妙不可解である仕儀を伝えたりできないのだが。
なにはともあれ、それを抜いてみることにした。ローションの塗りたくられたような汗みずくならぬ脂みずくな厚ぼったい皮膚をエステティシャンの妖艶な手つきもさながらに伸ばし、鏡で位置どりを確認しながら、そこへぐいっと毛抜きの先を漸近させる……目標物との距離、およそ三ミリ……いよいよピックアップ作戦を開始する。
狙い過たず、彼の毛抜きは一本の鬚をひっとらえた……三週間ぶりの大物の手ごたえに、彼の手もいくらか快哉をあげていたようだった。そのままぐいっと持ち上げるように、引っこ抜いてしまえば、向こう三週間はこの毛を見ずに済む……そう思っていた。
「……⁉」
しかし次の瞬間、彼の眼には思いもよらぬ光景が飛び込んできた。
毛抜きを駆使し、力を入れて毛穴から引っ張りだしたはずの毛が、なにごとも無かったかのようにつくねんと、すました顔ならぬ伸び筋をして、そこに残っていた……それはまだいい。よくあることなのだ。毛抜きでの挟み具合が弱かったり、どうかするとてらてらする毛の表面を滑って取り逃してしまったりすることはままあることなのだ。彼が驚いたのは、そういうことではない。
にゅにゅにゅ、と……蛇が穴から顔を覗かせた時のように、彼の鬚は牽引されたことによって、なんと前より幾分か伸びていたのだ。
足の親指の爪ほどだった長さは、今や親指ほどまでに達していた。
(なんだよこれ……どこまで伸びてんだよ?)
普段は足の下で広がる洞でしかない暗渠内の薄闇の無限を思わせるその黒さが、いったいどこまで続いているのか……彼は少し気になりだした。再度毛を抜こうとする手に力を込めて、ぐぐっと引っ張ると、突っ張られた皮膚に警告のような痛みを覚える。それが激しい痛みではなかったので、彼は引く力を緩めない。
またしても、鬚はにゅにゅにゅと七センチほど伸び、彼を楽しませた。いったいどこまで根が深いのだろうか、好奇心もまた、ずいぶんと伸長していた。
と、そこで顎全域に浸透する強烈な違和感を覚えて、慌てて毛を放した……伸びたそれはくるりと渦を巻いて、顎の先で丸まっていた。
彼はおそるおそる、顎を撫でてみる……いったい今の感触はなんだったのだろうか。毛を引っ張った時、二一年間で一度も味わったことのない種の、筆紙に尽くしがたい奇妙な感覚を彼は覚えた。さすさすと指の腹でさぐってみると、毛穴の辺りが変にひりひりとしていて、鏡で見ると血の滲むような赤さを宿しているのがわかる。スーパーの生鮮品売り場や回転寿司なんかでよく目にする、マグロの赤身に近い色をしていた。こういうダメージが次の生え変わりの時に埋没毛を招来させるわけだが、しかし彼は自今生えてくる毛より今次生えている毛の方にひどく関心を寄せていた。だから観察するのは、毛穴ではなく毛それ自体にあった。
けだし不思議な鬚であった。紙のように薄っぺらく、根方は幅が広くなっていて、一瞥しただけでは顎にちょっとした刃が突き刺さっているように見えなくもない。底の方に移るにつれて、紙きれのようなその幅を漸次的に増していっているから、これでは無理に抜こうとすれば、毛穴から伸びるというよりも、肉を内側から切り披くという印象が強い。そうかといって、そこまで長い毛というものもあるまい……彼はつと、幼少期に吹いて遊んでいた吹き戻しという玩具よろしく、彼の顎で丸まっている鬚を、指でつまんでびーんと伸ばしてみる。シャツの襟にまで届きかねんという長さであったことに、慄然と身を震わせた。これではまるまま、明治期の政治家ではないか。長いのは一本だけなのだが。
彼は人体の奇蹟を見たようで、胸の内側に童心や猫に勝る好奇心の炎をどんどん燃焼させると同時に、心の裡ではまたこの毛に関して焦慮もあった……さっき顎に感じた違和感の正体は、まさに内蔵されていたこの毛にあると踏んで相違ないだろう。薄っぺらい紙のような、キューティクルのキュの字も窺えないてらてらとしたその表面をつぶさに見、光を滑らせるほど硬質な、なにか甲殻的な昆虫の背を彷彿とさせるのをとっくり観察していると、不意にどういうわけだか彼はその鬚が恐ろしいもののごとく感じられて――すなわち自分には不要なもののように感じられて――たまらず彼は、戸棚の中からあれでもないこれでもないと手をまさぐるように突っ込み内容物のもろもろを引っ掻き回しぼろぼろ床に落ちるのもかまわずに、ついに一つの利器を手にすることとなる……鼻毛カット用にあつらえた、小さなハサミだ。
彼は安物のそのハサミで、かの鬚めをはつり落としてくれようと躍起になった。これ以上引っぱろうとするのは、なにか危険な香りがしてならなかったのだ。
しかし鬚というけったいなやつは、これがなかなかどうして厄介なことに、同じ太さの銅線にも匹敵するというくらいの大層な硬さを有しているそうであるから、この時の彼の努力はまったくの徒労に終わった。彼は切り方をいろいろ工夫して、紙のようになっている横っちょのあたりからすっぱり切り落としてやろうとハサミを入れたのだったが、文字通り二枚の刃の間にそれが挟まるだけで、なんの甲斐もなかった。
ついに切断をあきらめた彼は、半ば内なる部分に存在していた好奇心に衝き動かされる形で、引き抜き作業を続行させた。もはや毛抜きを使うまでもない。空に舞い踊らせた凧の糸をたぐるように、指にそいつを巻き付けて引っ張ってやればいいのだ。力任せに牽引すれば、案外と音を上げて千切れそうでもあった。していると、皮膚はきりきりと痛んで悲鳴を上げているように真っ赤に染まる。が、彼は顎に溜まった脂肪の塊を伸ばして、毛穴の向きをよく確認し、それに副って内容する長い毛を外へと引きずり出そうと工夫したので、痛みは多少なりとも和らいだ。さりとて鬚のやつ、なかなか強情な男らしく、あるいは彼の地味豊かな皮下こそが至上の住処だと言わんばかりに、ヤドカリめいてなかなか全容を現さない。ヤドカリというより、見た目からいえばカマキリの成虫の腹に寄生するあのハリガネムシのようでさえあったが、なんでもあの虫は狭いところであればどこにでも入ろうとする習性があるとかで、ともすると、ろくに清掃も換気もされてこなかった一人住まいの部屋の中で彼がぐーすか鼾雷を鳴らしている深更にでも忍び入り、格好な彼の顎の毛穴から、かの虫めは入りこんだのやもしれない……そんなおぞましい想像をしていると、現在触っている、今のところは自分の肉体の一部であるそれを汚らしいものでもつまんでいるみたいな不快な気がして、さもさも不愉快になってきたのであったが、ゆっくりとではあるが、着々と伸びつつあるそれを見ていると、高い鉄塔の建設に従事する技術者のような心境を自分はニート予備軍のクセして感ずるあたり、彼の卑屈もいよいよ病気といえそうだ。
そんな彼は、例の顎全域に及ぶ違和感を再び覚えて、いよいよ怖気づいた。さて抜こうか、抜くまいか……無理に抜いてしまっては、なにかこう、絶妙でぎりぎりなバランスを保っていたダムが堰を切って怒涛するような、古の世に勇者が封じ込めた魔を解き放つような、新品のの小型機器によくはさまっているあのシートを取ってしまうような、いわく言い難い淋しさを感じてしまいそうで……いやしくも、己の肉体が精製した、己の肉体の一部であるのだから。不気味な寄生虫のようなナリをしているからといって、安易に抜くのもどうなのだろう。そう憚られてならない。
抜くよりもまず、医師に相談するべきではないだろうか……チキンの気はいよいよ少年の心にひしめく冒険心までをも粟立たせていたが……医者にかかるよりもまず先に、説明しやすい異常があった方が口で何かを言う手間が省けて都合がよかろうと、これは天性のコミュニケーション障害からくる心配をして、血がないよりもあった方が話しやすいからという理由で、彼は人体のからくりに関する無知からくる怖れを取り払い、束の間の躊躇を乗り越えた。
鬚はさらに伸びた。小さい頃、車の後部座席にておとなしく座らされているのが退屈で、手持ち無沙汰だったこともあり、シートベルトがどこまで伸びるのか、まるで漁師が網をたぐるようにぐるぐると腕に巻き巻き引っ張ったことがある。勢いよく引っ張っていると、シートベルトには際限があって、やがて物が詰まったみたいになり、もうそれ以上引っ張れなくなっているのだが、この毛を引っ張っていると、なんだか自分がエンジンだとかアブソーバーだとか、それが果たすべきいっさいの機能を取っ払った代わりにシートベルトにのみ特化した自動車であるような気がしてきた。だから自分は他のやつらと違って、動くこともせずに漫然とぐぅたらやって、親の仕送りという名の見えざる脛をかじっているだけなのかと、そんな風な考え方をするようになった。そうして一日中部屋の中にいて、彼にとってそのものガソリンである脂肪分の多い油ものをばかり食べて、ぶくぶく太って……気づけば大学も卒業を間近に控えた年齢である。なにをやっているんだと思いつつも、性分のことゆえどうすることもできず、内情を誰に愬えることもせで、周りから叱咤以上の讒言を吐かれれば吐かれるほどに醜悪な顔には皺が刻まれますます拍車がかかったように醜悪になり……無口は人間不信の種ともなっていったのだ。彼の毛は、するすると伸びていった……しかし彼の人生は、もはや待ったなしの頭打ち状態、シートベルトの限界をそろそろむかえようとしていた。
顎の違和感がはっきりと、痛みやむず痒さ、次いでくすぐったさを伴いながらも自覚されてきたのは、これまで虚心坦懐でいた彼をひどく驚かせた。彼は心の中に、一種の保険というか、保証を得ていた。つまり、この長い一本の毛が、なにか抜いてはいけない非常に危ういバランスのただなかにあった鬚だったとしても、異常が起こり次第すぐさま最寄りの病院に飛んで行ってしまえばいい――皮膚科の領分なのか内科の範疇なのかは救急車でも呼んで訊けばいいとして――、そこからくる安堵があればこそ、普段は表に出ることのない勇気を好奇心に後押しされながらも振り絞ることができるのであり、ここまで毛を地中からほじくりだせていたのだが……。
彼は顎の裏……耳の下から発して鰓骨を取り囲む肉のたるみ、人よりも太く短いように見られることの多い咽喉のあたりに、言い知れぬ痛痒を味わった。
それは痛みでもなく、痒みでもなく――、五感でとらえることのできない、しかし慥かな感覚の作用であった。
「――⁉」
彼は驚いた。そして我が眼を疑い、しかる後にその眼の正常であったことが知られてくれば、今度は視覚情報を鵜呑みにした頭の方を検査せずばならなくなった。
ありえなかった……自分の頭が正常なんだとしたら、目前の鏡がいけないのだろうか……しかし鏡はただの鏡であって、それ以上でもそれ以下でもない。稼ぎもない一人住まいの大学生の人間としての小ささを凝縮したような散らかり放題な部屋に、最新科学と癒着した手品用に使うイカサマなミラーなぞがあろうはずもなく、また仮にそれがあったとしても、いったいどう作用すれば、このような姿を映すこととなるのであろう……彼は鏡面に、二重顎が失くなってさっぱりしたスリムな咽喉仏を露わにする彼自身を認めていた。
意外、とかではない。これはそう、超常だ。
彼はあらゆるものを疑い、それ以上毛を引っ張るのも止めて、鏡面の男に見惚れたようになってつくねんと呆けていた。依然として眼差しは重く、たるんだ皮膚に刻まれた皺は落ちない汚れを見ているようで忌々しかったが、初めて見るスマートな咽喉首、くっきりと引かれたような顎のライン……彼はハっとなって、不意に恐ろしいものでも見るように、顎の先にちょこんとかしこまっている鬚を見た。くるんと丸まったそれは付け根の方では大分幅が広くなってきていて、もはや毛には見えなかったが、どのみちただの無駄毛ではないことがここに判明したので、彼の心は欣喜雀躍、物神崇拝する信者のようにその毛のてかりを崇め奉る心象に変化していた。
ひょっとするとこの毛は、にわかには信じられないことだが……顎周りの贅肉を精製源にして栄えているのではないだろうか。科学的にそういうことがありえるものなのか、もっぱらの文系畑では考えたってわかりそうもなかったが、しかし一つ確かに言えることは、この毛が伸びるにしたがって、顎の肉がこそげたように落ちているという事実だ。因果関係をそこに認めないわけにいくまい。
――彼は気分揚々として、毛抜きを続行させた。抜いていくにつれて、毛の抵抗はますます強くなっていくようにも感じられて、皮膚もいよいよ悲鳴ではなく叫びをあげて、赤みを帯びた透明な色合いの気持ち悪い液体を滴らせていたが、構わずに毛を引っ張る。
するとどうだろう。瞼に重くのしかかるようだった眉の下の肉は引き締まり、垂れ目だったのがきりりと尻が上がったように見え、皺の多い眉間や額はすっかり凹凸を均された砂場のごとく平坦に、かつまた渇ききり、一度タオルで汗を拭き取ると、面に二度とあの玉のような油を生じさせなかった。ぷっくりしていた頬はハリのある、弾力に富んだ好印象に様変わりしていて、さきほどまでの彼とは見るからに別人、ただ一点、顎の先に巨大な黒虫が背中を丸めているような鬚さえなければ、イケメンと呼んで愧じるところのない顔立ちの青年が、爽やかどころか日本晴れの陽気な顔で、げに明るく、晴れがましく微笑んでいた。
心からの、嬉しがりようであった。
「……すげえ、こりゃすげぇや……!」
彼は力士がそうするように自らの頬をペシペシ張ったつもりだったが、もはやそこに映るのは万年鍋奉行の膂力胆力ともに相低かりき脆弱力士などではなく、きょうび流行りの優男、草食系のイケメン男子に他ならなかった。吹き出物や、ニキビの痕さえ脂肪と一緒にどこへか消えてしまったようで、彼にとってまことに都合がよろしいのは、日々に尽きることなく抜いても抜いても生えてくるヒゲの、遠目から見てわかる皮下に忍耐している折りの青々として窮屈したあの憎たらしい青髭の状態までもが改善していて、まるで駅のプラットフォームで下品に笑い合う制服を着たティーンエイジャーたちのようにつるつるとした美しい肌触りを自分が手に入れたことであった。
つまり、ああ、なんということだろうか……先まで顔面の憎々しげだった部分が、すっかり一本の鬚となって析出してしまったのだ。
ニキビも、皺も、点々とはびこっていた毛穴の黒ずみも……掃いて捨てたように、きれいさっぱり失くなっていたのだ。
「……こんなことって、あんのかよ……信じられねぇ、これが、俺……?」
彼は鏡面にて、もはや見慣れぬ赤の他人となった人物の目鼻立ちを、指でなぞるように自分の顔を撫でくり回した。対面の相手は律儀に左右反対の動きをして、彼の挙動を少しも違えず、眼といえば眼、鼻といえば鼻、口といえば口の順に、豚足と呼ばれ続けて幾年にもなる太い指を這わせていた。
信じられなかった……白雪姫の話に出て来るあの鏡のように、眼と鼻の先という近距離にあるこの鏡が、あまりにも彼の顔がひどかったために嘘を吐いているのでなければ、たしかな変身が、今まさにこの一本の鬚によって行われたのだ……これは瞠若に値する出来事だった。
しかし彼が真に驚かされたのは、鬚のもたらした魔法のような効力もさることながら、もう一つ別の理由があった……そう、なんと彼の顔は、どうも蓄積された脂肪によってひどく醜い面相となっていたのであるが、こうして化けの皮を剥ぐように、彼の悪しき仮面を引きはがしてみれば、地金の彼はこんなにも、整った端正な目鼻立ちをしているではないか。その奇跡の方が、鬚のことより彼にはよっぽど不思議に思えた。脂肪がないだけで、こんなにも人が変わるものかと、これまでにないクリアな感情で彼は彼自身をようやく見つめることができたのだ。こうして見ると、今までは苦々しい印象しか与えてこなかった眼の下のほくろも、凛々しい、とまではいかずとも、面貌を好もしく見せる一種の装置のようにも感じられてきて、たまらない気分を味わう。
彼は己に自信を持つようになった。そうして、痩せることさえできれば、きっと周りの若人たちのように、ガールフレンドを作って卑屈になることもなく、積極的な人間に生まれ渝わることができるのだと、そう思えるようにもなった。
……試みに、鬚をもう少し引っ張ってみたらどうなるだろうか。彼は臆することも忘れて、それほど長大な毛がいったい人体のどこにしまわれていたのか、考えることもせずに、例の無心を発揮して、作業的に毛を引くようになった。紙のように薄く、それでいて饂飩のようにコシのある太さにまで近づいていたので、きりきりとした痛みははっきり苦痛になっていたが、期待と好奇心は痛苦をそれと意識させるにはあまりにも大きく、彼の胸裡を支配していた。砂漠をさまよえる遭難者は無理をせずに、夜の寒さを辛うじて粗布でしのぐというが、彼を譬えるならば、ビルディングロマンスにひたって懐の温みを知りすぎるほどに知ってしまった商社マンが、これといった目当てもなく、ただ勝てるからという理由でさらに懐を温めようとする姿勢に似ていた。彼は痩せることさえできれば、自分がイケメンになれるのを知って、気持ち舞い上がっていたのだ。しかし運動や食の摂生といった決まりきったダイエットは三日と保たないナマグサぶり。彼はシャツの上からでもわかるほど下にぶるんと垂れた自らの胸の肉を見遣った。片手で顎を抑え、もう一方の手で毛を抜き、そうして視線は胸を見るのだ……高校の時分、スイミングの授業がある度に、相手もなく盛りがつきすぎた男子生徒が「おっぱい揉ませろ!」といって後ろから不意にむんずと揉みしだいてくるのに慣れきってしまった、あのだらしない胸の厚み。
彼はどうということもなく、オカルトに入れ込んだ中年の主婦のように眼をぎらぎらとさせながら、敵でも見る眼つきを我が肉体の一部にくれていた……するとどうだろう。
またしても、奇蹟が起こった。
伸ばせば一メートルにもなんなんとする鬚が臍のあたりで内側に反り返っている。その頃には胸のたるみはきれいさっぱり消えており、気のせいか胴回りも細ってきて、いやらしくもくびれた腰つきがシャツの着こなしから窺えてきた。
抜群のスタイルだった。二の腕のぶよぶよも、どうやら右臂の方だけ取れているので、おそらく今はその辺りの肉を使って鬚はなお伸長しているのだろう……彼は有頂天になった。そのふやふやな頭で、体温保全のための方策として生命が編み出し、老廃物の排出も同時に行ってしまおうという毛の役割について思いを馳せてみたが、果たしてなにがどうなったら、顎の毛と上膊の肉が繋がりを持ちうるのか、いっこうに答えは出なかった。顎からこんにちはしてきたというより、顎に刺さったと言った方がまだしも信憑性を持たれやすいだろうその鬚を鏡越しに見やりながら、彼はふと、何年か前にテレビで取り上げていたある実験を憶い出した。それは人工的にダイアモンドを作るとかいうもので、人の毛髪に含まれる炭素を強力な遠心分離機にかけて取り出し、それを密に結合させてダイアを作るというものだった。知っての通り、ダイアモンド――金剛石とは、炭素の同素体として非常に名高い。髪の毛からあのプレシャスな鉱石として古来より人々を魅了してやまないジュエルを作れたなら、さだめし面白かろうという趣旨の実験だ。彼は、もはや白黒の写真で見る誰よりも長くなった自分の鬚を見て、こいつならひょっとすると大層きらびやかなダイアモンドが作れるんじゃないかと、そんな風に思いめぐらしてみた。鬚は臍の辺りで丸まりながら、その脂ぎった表面に電光を受けて、スパンコールのように眩しく照り輝いている。
していると、ついに指の先までが細くなった……彼は生まれて初めて自分の指を見るかのように眼を細めて、たおやかなその指に、そっと接吻した……それはニンフに呪いをかけられて水面に映る我に陶酔したギリシア神話のナルキッソスとは趣を異にしており、彼は記憶の中の眩しくてたおやかなあの少女に対して、薄くなったばかりの唇でとうとう募らせた想いを告げただけなのである。
―――――――――――
ふと鏡を見て、彼はなんとはなしに大学の同じサークル(といっても非公認の同好会だが)に属する友人の顔を思い浮かべた。それほどいい見てくれではないのに、とかく女性好きのする顔なのだろう、性格はナンパで、それに女ったらしで、会うたんびにいつも他の女性を彼らに紹介するような、度し難いキザったらしい人間だったので、陰では「なんだあいつは、いったい今生のドン・ファン気取りか」などと、布きれかなんかを歯で強く噛みながらきぃーと羨ましそうに悪罵していたのだが、ある日とうとうたまりかねて、彼らはサークルを挙げ、その男の性根を叩きなおそうと奮起した。一つには、風紀の紊れを憂えて、というものがあったし、かの色男が怠けて部費を滞らせることもしばしばであったうえに、なにより最大の理由は、嫉妬に狂って悶死してしまいそうな自分たちを救うためでもあった。
男はさも見下したような目線で、眦を決した彼を挑戦的に邀えた。
「……へぇ、じゃあキミたちは、ボクをサークルから追い出そうと言うのかい?」
「そうは言っていないさ。ただ、我々の部は二次元を愛好してやまない同好の士が集い、互いの趣向について熱く語り明かしたのちに、他方で必然的にストイックにならざるをえないリアルの肌寒さをお互いにこぼすことによって寒冷期を乗り切ろうよという、そういう負け犬の集まりなんだよ。リアルが充実しているような彼女持ちなんかに末席を汚されていたんじゃ、この先若い芽が我が部の門を叩くことが失くなるかもしれないだろ? 二次元を語れる仲間が増えないってのは、お前だって望まないことだろうに?」
「そうだね。まさかハニー達に、ディープなオタクトークをかますわけにもいかないし、ボクとしてもここを追い出されたら、本音の自分をさらけだせる捌け口がなくなって、そのうちフラストが溜まって大爆発しちゃうだろうね。目下リア充だし、在り得る危惧ではある」
「とにかく爾後、あまり軽率な振る舞いは差し控えてくれまたえよ」
「しかし○○氏、それはなんというか、フェアじゃない気がするよ」
「……フェアじゃない? これはもとより、安売り市の開催とかをお前に教えてやってるんじゃないぞ」
「いや、そっちのフェアじゃなくて……。キミはボクが――こんなことを面と向かって口にしてしまえば、キミは皮肉と受けとって、はなはだ気分を害してしまうだろうし、なにより学生とはいえハタチを過ぎた身の上として、こんなことを言うのは失礼な無作法者ということになってしまうんだろうけれども――語弊をおそれずに口幅ったく言わせてもらうけれど、キミはボクがイケメ……少なくともキミよりはマシな容色をしているこのボクのことが嫌いだから、いろいろ口実を設けてボクをこき下ろそうとしているのかい?」
「……そんなワケ無いじゃないか……仲間が減ってしまうのは、いたく淋しいことだから、これから入学してくる未知の後輩のためにも、異端者をここで容認しておくのはマズかろうという意味で、お前を糾弾しているんだよ。これからは女性に対して放埓な振る舞いをしたがるその性格を慎んでくれるのであれば、僕らも溜飲を下げて、寛容な気持ちでお前を再び迎え入れる所存だよ」
「なるほど。いや、その海よりも広い心意気については感謝してもしきれないほど有り難いんだけれどもさ……結局それだとボクはどちらにしたところが、ボクの一部を殺してることになるんだよねぇ」
「……お前の一部を、殺す……?」
「うん、そう。抑圧だよ。ボクはこのサークルを脱けるワケにはいかないんだ。知ってるだろ? オタクという地下の存在はありふれているようで、その実まだ市民権を十分には得られていない。社交的に振る舞おうとすれば、自然その性格をペルソナで糊塗しなければならないんだ。ペルソナ色のリア充ライフ。キミ達から見たボクというキャラクターは、平凡で愉しいキャンパスライフとやらをエンジョイしているように見えるかもしれないけれど、さにあらず、あくまでそれは、ボクの大事な部分を強いて殺したことによって得られた、言うなれば努力の成果さ。しかし努力という付加価値のレッテルにすぎない方便には畢竟、実があればあるほどに無理がたたるものさ。甲斐がないからこその、実現の可能性が限りなくゼロに近いからこその努力さ。無理をすれば、人は死んでしまう。苦しみを最小限に抑えて自殺するのは難しいとはよく言うけれど、頑張りすぎることによって人はけっこう簡単に死ねちゃうものなんだよ。殺せば死んでしまう、そんな義務教育レベルでの常識が、しかしどうもみんなわかっていないから、いやはや困るよね……。
……つまりボクが何を言いたいかというとだね、ボクがサークルという居場所を失うのは、偽りも誇張もなく、真実の意味で僕のキャラの死とイコールなのさ。ボクはボクの人格の一部を失ってしまう……キミ達が爆ぜてしまえばいいと常々口にしているリア充としての半面だけでは、ボクは生きていけない弱い人間なんだ……弱いうえに欲深で、二つないとダメなんだ。ためにボクは、ここに残り続けるべくキミの要請においそれとしたがうワケにもいかない」
「どうして?」
「言ったろう、両面あってこそのボクなんだ。対称ではなく、それは同軸上の一点なんだ。どちらかでも欠いてしまっては、この後生きてはいかれない。船底は竜骨を軸とした左右の板子のどちらかにでも穴が空いてしまっていたら、その舟はたちまち沈んでしまう。ボクが自らに遊蕩を禁じてしまえば――一側面に穴を穿ってしまえば――、憤死してしまいかねないよ。オタク的性格がボクの全てではないからね。かといって、反対側の性格がボクの全てでもないんだよ」
「……なんか、面倒くさいヤツだな、お前……」
「ごめんよ。ボクだって、なにも面倒くさい人間に生まれたいワケじゃなかったのさ」
「なんにせよ、その面倒くさい性格はサークルの意向には合わないから、改めるなり辞めるなりしてもらわないと困るな」
「……なら一つだけ、こちらから〇○氏に問いかけてもいいかな」
「僕に? なにをさ」
「この質問には決してキミを怒らせるつもりは含まれていないんだけれども……キミは身なりがそれほどいいとも言えないね。これまで女の子に一度もモテたことは無いだろう?」
「余計なお世話だい」
「まぁまぁ、落ち着いて聞いてくれよ。……ところでキミは三次元よりも二次元が好きだといつも豪語しているけれど、それは本心から言っているのかい?」
「……このサークルの入会資格の第一が僕にないと、つまりお前は自分が追い詰められているもんだからってこちらの揚げ足を取るつもりなのか」
「いやいや、そんな意図はさらさら無いって。純粋に訊いているだけさ。サークルの入会規則は一時横に置いといてくれよ。あくまで純粋に、二次元の女の子と三次元の女性となら、キミはどちらを択ぶ――?」
「前者だ」
「あつらえたような即答だったので、なんだかボクはこんな底辺な世界をセーフティーネット的な拠り所としなければ生きていけない自分というのが心底哀れに思えてきたけれど、ならば同じ質問を、今度は前提を変えて投げてかけてみるよ。それこそ、フェアな与件でね」
「……と言うと?」
「キミがイケメンだったとして、ボクと同じように動物的な側面がリアルな女性を追い求めようとする……そういう立場だったならば、キミは同じ二者択一に迫られた際に、どちらを択ぶ? キミの選択にボクは今後の身の振り方を従わせよう――キミがイケメンだった場合、どちらの女の子を択ぶ――?」
――彼はその質問に、なんと答えたのかよく憶えていない。ただその場にサークルのメンバーが何人かいた手前、あまり不甲斐ないところを見せるわけにはいかなかったのと、規律を乱してはいけないという気負いが、彼の気を強情にさせていたことだけは確かだった。結果として、そのキザ男は後日女性トラブルかなにかの事件に巻き込まれるかして、惜しまれる夭逝を遂げてしまった。彼らは短い黙祷を捧げた後、それらしい献辞の句を贈った。
『秋霧の こめる澪にて たか哄い 身を尽くせども 櫂は掉わず』
――――――――――
――一本の鬚を覗けば、もはや顔に醜悪なところは何一つとして残ってはいない。魔法の鬚は遺伝によって運命づけられた太っちょの上半身をも体外へひねり出してくれた。そんな作られたみたいな見目良い顔に惚れぼれしながら、彼は今まさに、あの時のキザ男にぶつけられた質問を鏡面にいる人物の口を動かして、この場に甦らせた……二次元の萌え系イラストと、人肌ある温みを帯びた、フィギュアでもグラフィックでもない、それでいて作られたように美しい三次元の豊満な肉体を思い浮かべ、見比べる……この鏡に映る人物と、例えば中学時代に想いを懸けていた華やかなりしあの少女となら、分相応に付き合うことができるだろうか……そんな風に、イフの仮定をしてみるとキリがなく、むしろ彼はこれまでの自分を否定することの方がいくらでも簡単であったことに気付いて、ハっとさせられた。
出不精の彼がやにわに外に出たくなってしまった奇異な行動事由も、もしかしたらその辺りの機微から揣り知ることができたかもしれないが……彼は外に出たくてたまらなくなった。醜悪な外見は、通学の途次の電車内ではいつも彼に地獄の業火を味わわせていた。女性の近くにいるだけで、色んな人から疑り深い眼でじろじろされる。だから却ってあらぬ方向に眼を逸らすことによって誤解のないように満員に近い電車をやり過ごそうとするのだが、あまりにも明後日の方向すぎると余計に色々な人達の顰蹙と胡乱を頂戴してしまうようで、ああ電車の吊り広告というのは視線の据えどころに困る自分のような人間の逃げ場のために吊るされてあるんだなと心底から痛感することもしばしばなのである。土台、広告とか、産業とかいったものがなければブサイクは結婚することもできないだろう。本能というやつは、遺伝的に優れた部分を鋭敏な嗅覚で嗅ぎ取り、優秀な遺伝子を継がせようと機能するらしい。ゆえに彼は、劣等遺伝子の塊、動物世界で見れば、誰からも好かれることがないのだ。だから電車内の広告のようなものは、まさしく彼にとって救済と希望たりえた。すくなくとも、そういう手腕と才覚さえあれば、彼は子孫を遺すことはできるだろう。自分の両親とてその口であるのだから、社会というものは、そういうものなのだ。その結果、彼のような怠惰は許されず、生きてはいけないのだし――仮に優良な遺伝子であったとしても、怠惰であるだけで殺されてしまうのだ。
しかし優良な遺伝子というやつは――それが客観的にわかりやすい、ひどくシンプリファイされたものであればあるほどに、いい想いができる。彼は眼を閉じて、これまでにはない新たな地平を歩むことになった今の自分がひとたび電車に乗るやどうなるか、妄想をたくましくしてみた……。
揺れる電車の中で、自信を持った彼が悠然と吊革につかまって立ってみる……女どもは、稠密な車内を潮とばかり、揺れのまにまに頭を傾け、さも偶然を装って彼の肩にちょこんと、コケティッシュな芳香を放つ小顔を乗っけたりするだろう……偶然を装って遠くに行ってしまうことがあるんだから、その逆もきっとあるはずだ。あるいは座席で隣り合わせたシチュエーションを夢想してみる。またしても、これ見よがしに科をつくった女どもは慣性法則にしたがった振りをしつつ、しかし浅学菲才なことゆえその倒れかかる方向が他の人たちと逆向きになっていることにも気づかぬ体で、すわイケメンぞとばかり、彼の肩でうたた舟を漕いでいるフリを貫徹するのである……長年の卑屈が彼にひねくれ者の心境を付与し、彼は意地悪く、素っ気なく、つっけんどんに、女性の頭を跳ね返し……。
「いやいやいやいや。跳ね返しちゃダメだろ」
ぶんぶんと頭を振る。いけないいけない、せっかく外面が変わっても、内面に変化がないのでは元の木阿弥だ。彼は妄想をうちやめ、それこそナルシストのように、自分の顔を何度も何度もつくづく見返した。
己の顔つきや骨格で考えれば、これ以上ないくらいのイケメンが完成している……後は下半身に重たくたわんでいるファットさえこそぎ落とせば、完璧なプロポーションで、彼は生まれ変わることができる。その喜びに湧き、薄くなった胸は今や期待によって風船のように膨らみきっていた。
彼は残りの体脂肪も、魔法の鬚によってすっかりオミットしてしまう算段だった。当然だ、こんなに楽な脂肪吸引(?)法も他にあるまい。彼はいよいよ強烈な痛みを伴ってきた鬚を、それでも戦々恐々としながらも、怯みもせずに敢然と引っ張り続けた。もはや好奇心ではなく、期待のパラメーターが痛みや恐怖より上だった。
ところで痛覚とは、一説によると生命に終焉の危機が迫っていることを報せる人体の機能だとのことらしい。彼のよく知る創作ものなぞにも、無痛病者が痛みをそれと知覚しないがために、窮地に陥るという展開がちょくちょく見受けられる。痛みとは枷のようでいて、その実朽ちることのない命綱としての鎖なのでもあった。まさしく一長一短なのである。不都合だからといって失くしてしまうわけにもいかないシグナルであると同時に、またそれがあるゆえに、人は外見ならざる部分でシンパシーを感じ、およそインタラクティブな接続も可能となっているのであろうが……。
恐怖もまた、決して怯懦な性情からくるチキン要素などではなく、同様の自己保全機能といえるのだろうか。そうなると彼はいま、痛みばかりか恐怖心すらかなぐり捨てている現状なので、きわめて危ない状態ではあったのだが。
だが危険の度合いでいえば、彼の人生そのものが綱渡り的な危うさもかくやだった。彼は日を漫然と消光していた。食っちゃ寝、食っちゃ寝……そのサイクルはもはや打ち破るには難いほどに肉の身に浸透しきってしまい、改善の余地はないほどに、怠惰を肥え太らせていた。
重力に引っ張られでもしたように――彼の身体は縦方向に成長することなく、ワイドにワイプし、肥沃な土壌でヒゲの青花を存分に咲かせている……せっせと糸を巻くように、長い長い毛を引き抜きながら彼が考えていた四方山は、希望に満ちた、可能性という油で煌めく電光の、眼を刺すほどに鋭利な前進のことであった。
――彼は鬚を抜く……しかしどういうわけだか下半身のたるみは一向に減る気配を見せず、どころか鬚の根も引っかかったようになって、なかなか外へ出てこない。無理に引くと、いよいよ幅が一センチほどにまで拡がっていたせいか、皮膚は切られて血がぼつぼつと洗面台に滴った。彼は字義通り身を切る痛みを必死でこらえ、泣きそうになりながらもスタイリッシュになった脚で街を歩く自分を夢想して、うへへと微笑んだ。
しかし引けども引けども、脚は一向に細くはならなかった。彼はいよいよ顔をしかめた。というのも、脚の代わりにどうも顔の脂肪がさらに引っ張り出されているようで、ただでさえ細くなっていた咽喉は頭顱の重さに耐えきれないほど狭窄し、気のせいか呼吸も厳しくなり、いやおうなく喉笛が鳴る。頬はげっそりとこけ、眼は炯々として気味の悪いほどに飛び出していた。顴骨は荒れ野にそびえる小高い丘陵のように突兀とそびえ、毛細血管は窮屈を告げて鬱血した紫色に彼の表情を彩っていた。気付けば、こんな具合になっていた……。
彼の顔は、これまでにもないほど醜悪な顔となって、鏡の中でいびつにひくついていた。
なんだこれは……彼は遅まきながら、事態の取り返しのつかないことに気付き、ようやく焦慮の念を取り返した。なんだこれは、いったいこれは、誰の顔なんだ……?
こんな痩せっぽちな……痩せて枯れてひょろひょろな、骨と皮ばかりの人間が、自分であるはずはない……そう思って、おそるおそる触れた肌の、なんと硬く、死人のように冷たい抜け殻じみた皮膚の感触であっただろう。彼は胃の腑のあたりにぎゅるぎゅると蠕動する音を感じて、たまらず仰け反りそうになった。
慌てて毛をしまいこもうとするも、一度伸びきってしまったそれを、戻すことはかなわなかった……彼は痩せ衰え、皮下の表情筋が薄気味悪くにやついている醜悪な顔を見つめながら、顎の先から鬚を――この段にいたってはもはやこればかりしか助けはないとばかり、命綱のようにとらえて、肉体に還元しようと無駄な骨を折るのではなく、さらに引いた。押してダメなら、という藁にもすがる心境だった。動顛が、彼の気を狂わせたのだ。
彼は憔悴しきった者に特有の変に痙攣した手つきで、力なく弱々しく、ライフラインたる手綱を引く。恃むべきよすがといってはもう、それしか無かったからなのだが、しかし彼の身には同時に、ある都市伝説が不安のように頭をかすめてしまい、揩いがたい恐怖を彼に植え付け追い詰めた。それは何かの拍子にどこかで聞いた、現実味のないよくある道聴塗説だったのだが……ある人が耳たぶにつけていたイヤリングを外すと、針を通していたその穴から何か白い糸のようなものが覗き、不審に思いながらも引っこ抜いてみると、いきなり聴覚が損なわれてしまったという話だ。
耳たぶの糸を引き抜いて、耳が聴こえなくなる……突拍子もない滑稽な作り話だろうが、今の彼にはそれが嘘だとは思われなかった。耳たぶで聴覚なら、いったい顎鬚で人は何を失うのであろうか……味覚だろうか? 食べるのを至福と仰ぐ彼にとって味の無い人生とは、なるほど至極厳しい荊棘に相違なかったが、しかし味覚くらい失われたところでどうとでもなるというオポチュニズムな生き方もなくはない……問題は、顎と味蕾との間に果たして因果性があるか否か、である。尤もそれを言ってしまえば、耳たぶと聴覚との間にも人体の構造上、直結する要素は微塵もないのだけれど……顎の鬚が伸びただけで上半身までシェイプアップされたのだから、味覚が失われても肯ける気がした。
なにより失われてはまずいのは、顔だった。自身のメンツだ。これを損なってしまうようでは、この先生きてはいかれない――彼は見苦しい顔に別れを告げる意味で、無い筋肉に力を入れて、銅というよりダイアモンドのように硬くなった鬚を、さらに引いた……顔はどんどん醜く痩せこけていくが、太っているよりは、がりがりの方がまだしも気安いのでは……? なにせ自分は食べるのが好きな穀つぶしの健啖家なのだから、日を待たずとも身体は肥えて、早晩理想のフォルムを取り戻せるのでは……。
彼の出目金のように飛び出た眼は、希望的観測のための用にしか立たなかった。絶食を続け入寂の場を求めた僧のように、死へと近づきつつあった彼の手は、なおも鬚をつかみ続ける。それ以外を拒否するように、あたかもそれだけが生きがいであるかのように……彼は紐を引くように、鬚を抜いた。
抜いた。そう、シートベルトに限界があったように……顎鬚にも、しかるべき終わりがあった……ぶちっと、それは毛というよりも皮膚を引きちぎったような鈍い感覚だったが、身の丈をゆうに超えた長い長い仙人のような鬚が、とうとうはらりと床に落ちた事実に違いはない。助かった。彼は下を向いて、脚の細さを確かめてみた……穿いているXLサイズのズボンがすかすかになるほど、彼の脚は服の上からでもわかるくらい細くなっていた……。
やったぞ……ついにやった……。
あまり顔の皮膚が引き攣るので、それに縮小した皮が突っ張るように首を絞めたので、咽喉仏が天を向いており、尖った切っ先で空を深くえぐらんとしているのは、彼の気道をさまたげるには十分で、重度の喘息患者のようにひゅごーひゅごーと苦しそうに息をつく。
彼はぎょろっとした眼で鏡を覗いた……おぞましい生物が、彼を見返していた。彼は鏡面の相手にたいそうたまげて腰を抜かすと、やおら顔からぽつりと水のしたたるように、何かが洗面台の上に落ちて転がった。見るともなしに見ると、それは眼球だった。
彼の眼球だった。
驚く遑もあればこそ、彼の顔は――彼の歯骨は、彼の舌根は、彼の小鼻は、彼の耳朶は――次から次へとぼろぼろと、液体の溶けるようにして落ちていき、洗面台のうえで正月に遊ぶ福笑いのパーツのように散らばった……彼は残された最後のパーツ、かろうじて視神経と繋がっている隻眼で、表情を欠いてしまった自分の顔をしげしげと見つめていた。人の死の九相、その最後の段階を見たようだった。と、ぽっかり穴の空いた方の眼窩から、どろどろとこれははっきりした液体がヘドロみたく流れ落ちていった……脳漿だと理解した瞬間、彼はあることにハっと気づかされた。
(――もしかして、俺――間違っていたのか――?)
と、最期の最期まで、思うことはなく――。
彼の意識はブラックアウトし、身体はぐちょにぐちょに溶けて消え去った。
電光はちかちかと、二、三回瞬いたきりリアクションを一つも取ることなく、数ヵ月後に電気料金の滞納によって強制的に配給が滞るにいたるまで、何かの液体で濡れそぼった形跡のある洗面所を暫時照らし続けていた。