その20
妖精森の結界を越えて姿を現したのは、牛のように巨大な躯に禍々しい姿、鋭い牙を持ち狂気を宿した赤い目をした三首の地獄の番犬だった。
その魔犬の中央の首に縄が巻きつけられ、伸びた縄の先を領主が握っている。
「うわぁーー、あれはケ、ケルベロス!!
オイ領主さま、貴様が連れてきたのはエレーナ姫でもルーファス王子でもなく、地獄の番犬だ」
妖精森の結界を取り囲む領主とクーデター軍の前に現れた魔犬は、先頭にいた兵士を踏み潰すと縄を持つ領主に向かって一直線に駆けてくる。
領主の周囲に控えていた従者や兵士は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
たったひとり取り残された領主は、真正面に来た魔犬に睨まれてると腰を抜かしその場に座り込んでしまう。
「どうして、あのガキの首に巻いていた縄がケルベロスに。
こんな縄は捨ててしまえば……うわぁ、縄が手から離れない!!」
領主はケルベロスの縄を離そうとしたが、指が全部張り付いてしまったかのように、手は硬く握られたまま開くことができない。
領主は尻餅をついたまま後ずさり、獲物を見つけたケルベロスはジリジリと迫ってくる。
その時、側にいた兵士がケルベロスに向けて矢を射るが、しかしケルベロスの体をすり抜け反対側の兵士に当たってしまう。
実体を持たない異界の魔物は、煙霧のように濃縮された渦巻く魔力の固まりだった。
攻撃に気付いたケルベロスは、方向転換をして弓を構えた兵に突進して行く。
おぞましい獣のうなり声は三つ、黒い化け物は高く跳躍すると巨大な魔力の塊で兵士を押しつぶし、前足の鋭い爪はカマイタチで周囲の兵士をなぎ払う。
そしてケルベロスに噛みつかれると、人間の命の一部が食われてしまうのだ。
ケルベロスが突進すると泥を含んだ重たい烈風が巻き起こり、兵士はその風にあおられ吹き飛ばされる。
「ひぃい、暴れるな。引きずらないでくれぇ!!イタイイタイ、し、死んでしまう」
暴走するケルベロスに、領主は縄ごと地面を引きずられ全身泥まみれになり、そして逃げる兵士に踏みつけられる。
ケルベロスが跳躍するたびに、領主の体は宙を舞い地面に叩きつけられ全身が傷だらけになり、縄を固く握ったままの腕は折れて激痛が走る。
金をかけ作らせた貴族風衣装は破けて泥まみれ、領主はボロ雑巾のような姿でケルベロスに引きずられた。
「これは大魔女の使い魔だ。
呪われた土地に居座る俺たちを、大魔女は生きたまま地獄に落とそうとしている!!
「人間が地獄の魔犬にかなうはずない。
こんな場所にいられるかぁ、俺は逃げるぜ。領主のように大魔女に呪われるのはいやだぁ」
魔犬に恐れをなした兵士たちは、武器を投げ捨てると我先に逃げ出した。
ケルベロスは口からよだれを垂らし激しく尻尾を振りながら、逃げる兵士を追いかけて尻に噛みついたり体当たりで押しつぶそうとする。
ふとケルベロスは足を止め、自分の首にぶらさがる邪魔なモノに気付いた。
それを引き剥がそうと前足で押さえつけると、邪魔なモノは金切り声をあげる。
すると領主の喚き声に条件反射したケルベロスは、興奮しながら押さえつけてモノの腕や肩に噛み付いて、左胸から丸いモノを引きずり出す。
「ひぃいーー、ケルベロスがご主人様の魂を喰っちまった」
「化け物の様子がおかしいぞ。マズいものを喰ったみたいに顔をしかめて、なんか吐き出したぞ!!」
領主の魂を喰らったケルベロスは、苦しげにうめくと激しく頭を振って何かを口から吐き出した。
ソレは赤いまだら模様の毒々しい色をした丸いタマで、怒ったケルベロスはソレを思いっきり蹴り飛ばす。
まだら模様のタマは細い道を転がり、ケルベロスが暴れる様子を唖然として見ていた村長の足下に転がってきた。
「これはまさか、領主さまの魂?
しかし、私が持っていても……」
村長は領主の従者にまだら模様のタマを渡そうとしたが、従者は悲鳴をあげて逃げてしまう。
食あたりで大人しくなったケルベロスは、首に巻かれている縄を噛みきった。
すると巨大な魔犬の体から黒煙が吹き出し、アッという間に縮むと、煙が消えたその場所には一匹の小さな黒い犬がお座りして尻尾を振っていた。
***
護衛の宿舎(柔道場)で寝ていた少年が目を覚ますと、既に日は高く昇り夏の虫が鳴いている。
開け放たれた扉の外で、白銀の髪をした小さな王子は奇妙な帽子をかぶり、不思議な乗り物に乗る練習をしていた。
鉄の車輪の乗り物はバランスが悪く、ガシャンと音を立てて転び王子は車輪の下敷きになる。思わず助けようと起きあがった少年に、外から少し舌足らずの明るい声が聞こえる。
「おはようニールくん、昨日はゆっくり眠れた?
お腹が空いたでしょ。ご飯を準備しているから、顔を洗ったら夏別荘の食堂に行ってね」
「おはようございます、ってカナさま、僕の事はいいので早く王子さまを助けてください!!」
少年に声をかけてきた茶色い髪の小柄な魔女は、側で倒れた王子を助けもせず見ているだけだ。
「自転車の補助輪を外したばかりだから、何度か転ぶのは仕方ないわ。
ヘルメットをかぶっているし、肘とヒザにプロテクターをしているから転んでも大丈夫よ」
カナはのんびりと答えると、腕組みしたままルーファス王子が立ち上がるのを待っている。
周囲には今すぐ駆け寄りそうなアシュや、木の影から王子を見守る隊長や、夏別荘の玄関前で王子が怪我をしたらどうすると文句いうメイド娘がいた。
過保護な大人たちに王子の手助けをさせないように、カナは監視しているのだ。
「その車輪の乗り物は、支えがなければすぐ転んでしまいますよ。カナさまは魔女だから乗ることが出来るのです」
「誰でも練習すれば自転車ぐらい乗れるわよ。えっ、もしかしてニールくんも自転車に乗れないの?」
なんとか倒れた自転車を起こしたルーファス王子は、カナと少年が仲良さげに話しているのを見て苛だった声を上げる。
「オヤカタ、オヤカタ!!このジテンシャは真っ直ぐに進まないし、すぐ倒れる。
きっと車輪がゆがんでいるんだ。オヤカタの新しい白いジテンシャと交代しろ」
「えっ、私の自転車は王子が乗るには大きすぎるし、ほら見てごらん、ちゃんと真っ直ぐ進むわよ」
自転車に乗れない王子が「自転車が悪い」と言い出したので、カナは目の前で小さな自転車に乗ると広場の周囲を走りだす。
白いレースのミニドレス風チェニックに緩くウェーブした長い髪が風になびかせながら、自転車のハンドルを手離してみせる。
「ワタシは小学生の時にはウィリーで広場を一周できたし、一輪車だって乗れたんだから。
少し頑張って練習すれば、これぐらい簡単に出来るようになるんだけど、王子は自転車に乗り事を諦めるのね」
「ううっ、そんなこと……だってオヤカタ」
朝早くから自転車の練習をしているが、バランスがとれず転んでばかりいる王子は早くも挫けそうになっていた。
そこへカナが自転車に乗る姿を見た少年が、興奮した様子で声をかけてきた。
「それでは僕のような平民でも、練習をすれば車輪の乗り物を操ることが出来るのですか?」
「そうよニール君、妖精森に遊びに来た子供はみんな大叔母さんにシゴかれて、ちゃんと自転車を乗れるようになったわ。
でも王子は……このままじゃ自転車に乗れないね」
カナは王子と少年を見比べると、鼻で笑う仕草をする。
小さな自転車を取り上げて少年に持って行くのを、ルーファス王子はカナの腕にしがみついてとめた。
「僕はジテンシャの練習に少し疲れただけで、乗るのを諦めるなんて言っていない。
オヤカタと一緒にジテンシャで走りたいんだ、だから、ジテンシャを返して」
白銀の髪に大きなルビー色の瞳、少し勝ち気な顔立ちをしたルーファス王子が涙をためながら上目使いでカナに訴える。
少しイジメすぎたかと心の中で思ったカナは、王子を抱きしめると背中をポンポン叩いた。
カナは小さな自転車を王子に返すと、ニール少年のために雑貨店のリサイクルコーナーに置かれていた中古マウンテンバイクを持ってきた。
そして王子とニール少年のふたりは、昼食後から夢中で自転車の練習をして、気がつくと陽が傾き夕刻前になっていた。
昨日カナが妖精森の入口に倒れている少年を見つけてから一日が過ぎたのだ。
「二人とも、自転車のバランスが取れるようになったね。
そうだ、コンおじさんがニール君のお兄さんと話をしたんだって。
もう大丈夫だから家に帰りなさい。お爺さんが待っているって言っていたわ」
***
妖精森の入り口に、カナとアシュが少年を見送りに来た。
少年に貸した赤い自転車の荷台には、米や缶詰やハムなど大量のお中元が乗せられている。
「ありがとうございますカナさま、僕の家にはほとんど食べ物がなかったのです。
大魔女から頂いた贈り物があれば、しばらく食べる物に困りません」
「カナさま、コン王が領主と話をつけて下さったのですね。
しかし子供をひとりで帰すのは心配なので、私が少年を村まで送って行きます」
本当はルーファス王子も少年の見送りに来たがったが、アシュがなだめて王子の代わりに来た。
アシュの腕にはアチラの世界に渡ることのできる白い蛇、王子の守護獣がブレスレットに変化してはめられている。
実は彼女はエレーナ姫から密命を受けていた。
妖精森の一日は外の世界では十日の時が流れる。という事は、自分たちがここに逃げ込んでから外の世界は三ヶ月も時間が過ぎている。
妖精森周囲に陣取るクーデター軍の、現在の動向を探るため、アシュは少年に同行するのだ。
「ニールくん、お土産の果物は今日中に食べてね。
それと、おうちが落ち着いたら夏別荘に遊びに来てちょうだい。
ニールくんはルーファス王子と歳が近いから、遊び相手になって欲しいの」
カナの言葉に少年は深々と一礼すると、自転車を押して急ぐように妖精森の入り口のトンネルに入っていった。
手を振って少年とアシュを見送ったカナは、少し考えると駆けだした。
「ちょっとワタシも、後ろからこっそりついて行こうかなぁ」
カナはふたりの後を追いかけて妖精森の入り口を出たが、目の前の広場には白いワゴン車が一台停まっているだけで、そこに少年とアシュの姿はなかった。




