好都合
柊哉達は保健室で住田に手当てをしてもらう。
勿論、最初に美優の手当を行った。
意識を失ったままだが、傷はかすり傷程度。じき目覚めるはずだ。慶はそれを確認すると、安心したように、幾らか落ち着きを取り戻した女生徒、田代京子と先に保健室を立ち去る事にする。
目覚めた美優が京子を見て、また正気を失う可能性があるからだ。
京子は慶と同じクラスだった為、慶が付き添う事になった。
詳しい事情と処分に付いて教師を交え、これから話しをする。まだ、蒼白さを残した顔で、京子はユラリと立ち上がる。この短時間で随分やつれたように思えた。
きっと後悔をしているだろう。しかし、どんな処分を受ける事になっても、命があっただけマシだ。
後一歩、柊哉が意識を取り戻すのが遅かったら、彼女は間違いなく、此処にはいなかった。
美優自身も、この先、ずっと十字架を背負って生きて行かなければならなかっただろう。
しょんぼりと出て行く田代の背中を柊哉は、黙って見送った。
三人だけになると、住田はすぐに上着を脱がせ、柊哉の治療に取り掛かる。
時間が経つと綺麗に傷痕が治らずに残ってしまうのだ。額から体に出来た小さな擦り傷まで丁寧に綺麗に治していく。階段を転がり落ちた為、それは無数にあった。
治療を受ける間、柊哉は一通りの経緯を簡単に住田に説明した。どうせ説明しなくてはならないのだから、一緒にやった方が効率的だし、治療に専念している今なら、余計なお喋りも少ないだろうという思いもあった。
案の定、住田は相槌を打つ程度に留まっていた。柊哉の作戦勝ちである。
「はい、いいわよ。今回のは、綺麗に治ったわ」
さすが、名門の魔法学校の保健士、腕はピカ一だ。見た目からは、全然そうは見えないが、迅速且つ正確な治療だった。説明を終えるのとほぼ同時に治療を終えた。
立ち上がりワイシャツの袖に腕を通しながら、柊哉は礼を述べる。シャツの襟元には血の跡がまがまがしく残っていた。
「ありがとうございました」
「あら、いいのよ。是が私の仕事だし…………でも、これからが大変よ」
白衣のポケットに無造作に手を突っ込みながら、住田が難しい表情で言った。
柊哉は、その言葉の意味を組み取り頷いて見せる。
「分かっています。人と関わりを持つ以上、いつかはこういう時がくると思っていました。彼女自身が乗り越えていかなくては、ならない事です。ただ、少し早過ぎましたけどね――――すみませんが、彼女が目覚めるまで、ここで待たせて貰っても良いですか?」
銀色のシンプルな壁時計に視線を走らせる。そろそろ昼休みも終わり、授業が始まる頃だ。慶には、炎達への説明も頼んである。「とりあえず今日はそっとしておいて欲しい」とも伝えて貰ってある。
美優が目覚めたら、このまま帰ると伝言も頼んだ。
「そうしてあげて、担任には私から言っておくわ。ついでに状況報告もしてくるから、留守番頼むわね」
肩をポンと叩き、体をゆらし部屋を出ていく。意外にあっさり退散した住田に事の重大さを感じさせられる。
住田がいなくなると室内は一気に静まり返った。美優の寝息まで聞こえてきそうだ。
教室などからも離れている為、生徒達の声も届かない。
柊哉は、美優が眠るパイプベッドの脇に緑の簡素な丸椅子を運び腰掛けた。
咄嗟の事だったので、美優の力を強制的に遮断したのだ。布団から出ている美優の右手のブラウスの袖には柊哉が掴んだ手の跡が赤くくっきり残っている。
(これから、どうしたものか……)
治療の為に外していた眼鏡を手に取り掛ける。
自分の考えが甘かったのは確か。
(まさか、ここまでする者がいるとは思わなかった)
余りの突然の事に、庇うのが精一杯だった。慶が機転を利かせなければ、大怪我をしていただろう。
静かに眠る美優の寝顔を、心配そうにじっと見つめる。
(自分の魔力が、人を傷付ける事に怯えていた美優。未遂とはいえ、それが現実になりえる場面に出くわしたのだ。このまま、引きこもってしまうかもしれない……いや、かもではないか…………)
苦々しく眉根に皺を寄せる。実際、面倒な事になった。何か策を練らなくてはならない。柊哉は深く溜め息を一つ吐く。入学して、まだ間もないのに、全く気苦労が絶える事がない。まるで、誰かの陰謀ではないかと思えるほどだ。
(陰謀……)
何となく思い浮かんだ言葉に、引っ掛かりを柊哉は感じた。
(美優から距離を置くように仕掛けたのか?)
美優を突き落とした京子の姿を思い出す。おとなしそうな子だった。
(外見だけでは判断できないが、謀ごとをするように思えない。それどころか、人を突き落とす、なんて大胆な行動を起こした事が信じられない。何かあるのか?)
眼鏡の縁に手を当て考え始める。
「柊哉さん」
呼び声で、ふと我に返ると、ベッドに横たわったまま美優が此方を見上げていた。不安そうな、その瞳に労るように話し掛ける。
「目が覚めましたか?」
「はい、すみませんでした。また、運んでいただいたみたいで――柊哉さん、大丈夫ですか? 凄い血が……」
ベッドに体を起こしながら、少し震える声で問う。あの時の事を思い出したのだろう。
「大丈夫ですよ。住田さんに手当を……」
柊哉は途中で、思わず言葉を切った。
前屈みになり、美優がそっと柊哉の前髪に優しく触れる。細い指に髪を絡め、額を顕にしたのだ。美優の顔が自然に近づき、柊哉の顔を確認するように覗き込む。
「……良かったぁ」
息を吐き出すように言葉をはく。傷痕一つない綺麗な額にホッとしたようだ。
「優秀な保健士さんに治療して貰いましたから。勿論、美優もですよ。それより、手を……」
「あっ!! すみません」
美優は慌て手を引っ込め、体を離す。押さえを無くして前髪がサラリと落ち、額を隠した。
髪の隙間から、僅かに覗く美優の耳が赤く見えるのは気のせいだろうか?
「大丈夫ですか?」
今度は、柊哉が確認するように尋ねた。
腕や首を動かし、美優は体の調子を確かめ、ニッコリ微笑んで答えた。
「はい、どこも痛いところはないです」
「いえ、そうではなくて……」
「えっ??」
キョトンとして柊哉を見る美優。
「平気なのですか?」
「何がですか?」
質問の意味がわからないと言った風に聞き返された。柊哉は、無言で美優を凝視する。美優の様子から、とても、元気を装っているようには見えない。
美優の嘘を柊哉が見破れないはずがない。
――静かな間が流れる。
(もしかして、覚えていないのか? それならば……)
転落事に頭を打ったせいか、美優自身の防衛本能が働いたのかは、分からないが好都合だった。
(無理に思い出させる必要もない)
柊哉の脳が、忙しく今後の動きを考え始める。
「いえ、何でもありません」
取り敢えず、問題は一つ解決したのだ。
安堵の気持ちも相まって、自然と笑みがこぼれる。
美優も、その笑顔につられるように笑顔を作る。
(残る大きな問題は一つ)
柊哉の脳裏に、その解決案が一つ浮かぶ。
「美優、一つ提案があるのですが……」
(彼女が受け入れれば、次期にその問題も解決するはずだ)
「美優は……?」
柊哉が生徒会室に入るなり、慶は尋ねてきた。
余程、心配だったのだろう。美優を良く知るものなら考える事は一緒なのだ。
今は放課後で、慶に今日の件を二人きりで、話がしたいと呼び出されたのだ。柊哉自身もいろいろ聞きたかったのでよしとする。
人払いをしてあるので、生徒会室は二人だけである。風紀室とは違い、広さも倍以上あり、置かれている備品もかなり絢爛豪華だ。
「生徒会室は、随分と立派なのですねぇ」
柊哉は目を丸くし、思わず言葉を漏らしていた。
「姉妹校が時折情報交換などに来るからさ。学校としても、見栄を張りたいんだろう……そんな事より、美優は?」
どうでも良いとばかりに、適当に質問に答え、すぐに美優の事に話を戻す。
しかし、どうでも良い質問にもイライラしながら、きちんと答えるあたり、律儀な男だ。
椅子に座るように片手で合図し、自分もテーブルを挟んだ向側の椅子に腰掛ける。
「あぁ、すみません。すぐに目を覚ましたので、寮まで送って来ました」
柊哉は合図されるままに、ひじ掛け付きの高級そうな椅子に腰を下ろしながら答えた。フカフカと柔らかく、長時間座っていても疲れなさそうだ。
「迷惑をかけて、すまない――それで?」
急かすように慶は聞いた。
「覚えていませんでした」
「それは、どういう事だ? 記憶喪失という事か?」
静かな口調で、ジロリと視線を柊哉に飛ばす。
勿体ぶるような物言いに、早く話せと目で告げる――
柊哉は、小さく肩を竦め説明を始めた。
「そこまで、大袈裟な事ではありません。覚えていないのは、ほんの一部、美優が怒りで人を襲おうとした記憶です。話した感じだと階段から突き落とされた事も、僕がケガをした事も覚えているようでしたから」
「好都合の場所か…………頭を打ったせいなのか?」
「わかりません。美優には内緒で、それとなく住田さんにも診てもらったのですが、原因は分からないそうです」
「いらぬ記憶だ。無理に思い出す必要はないだろう」
ホッとしたのか、緊張から解き放たれるように、慶は背もたれに寄りかかり力を抜いた。覚えていなければ傷付く事もない。
「しかし、あんまり楽観視出来ません。記憶喪失は一時的で、何かの拍子に思い出す事もあります。誰かの言葉とか――」
慶は眉間に皺をよせ、考え込むように腕を組む。人の口に蓋は出来ない。
沈黙した慶に、柊哉は自分の考えを告げた。
「何日か休んでもらおうと思います」
慶はピクリと片眉をあげる。
「長い間、休むならともかく、それでは何の解決にもならない」
「分かっています。気休めだという事は――僕に考えがあります」
「考え?」
(如月慶は反対するだろうか?)
柊哉はほんの僅か躊躇した。話したら逆に邪魔をされるのではないかと――
本来、今現在の彼に承諾を得る必要などないのだから。
(しかし、今後、美優が彼を好きにならない保証はない。その時、後悔をさせないように――大丈夫、彼なら承諾する。そんな了見の狭い男ではないはずだ)
柊哉は誰も盗み聞きしていないか、辺りに気を配った後、口を開いた。
「本当にそんな事をするのか?」
話を全て聞き終えると慶は尋ねた。
「はい、美優の了解は得ています。如月さんにとっては面白くない方法なのですが……」
「確かにな」
憮然とした顔で、一つ頷き続ける。
「だが、それ以上の案、俺には思いつかない。美優の事を思うなら反対は出来ない」
「すみません、優作さんには、此方から話しておきます」
「俺も両親には話しておく」
「ありがとうございます。でも、くれぐれも学校関係者には、内密にお願いします」
「当然だ」
慶の答えに満足した柊哉は悠然と微笑んだ。
今度は、柊哉が慶に質問する番だ。
「田代さんの方はどうですか?」
背もたれに背を預けながら尋ねた。
「無期謹慎……それでも軽すぎるぐらいだ」
吐き捨てるように慶は言う。一層の事、退学になれば良いと思っているのだろうが、学校の対面上、それは難しい。
A組の生徒なら、相当な実力の持ち主。簡単には切り捨てられない。
しかしそれも、如月家が何か言ってくるようならすぐに覆されるはずだ。
「随分と厳しいですね」
「当たり前だ!! 一歩間違えば死んでいたかもしれないんだぞ!!」
椅子を蹴散らしながら、立ち上がり声を荒げた。勢いで椅子が横倒しに倒れる。
椅子のキャスターがカラカラと、物悲しい音を奏でながら空回りしている。
柊哉は驚いたように、茫然と慶を見つめた。
(正直、人前でこんなに怒りを顕にするとは思わなかった。彼女を退学追い込むつもりか?)
重い空気が室内に流れる。
柊哉の視線に慶は我を取り戻す。
「……すまなかった。つい興奮してしまって…………心配しなくても、事を荒立てるつもりはない」
まるで、柊哉の心の声が聞こえていたかのようだ。
慶は倒れた椅子を片手で起こし、静かに座り直す。
二人が口を閉ざすと、校庭から微かに生徒達の声が聞こえてくる。
落ち着きを取り戻した頃を見計らい、何事もなかったように、柊哉は次の質問へと移った。
「動機は何だったのですか?」
「先生に聞いた話だと美優に対する嫉妬だったらしい。葉月さんに密かに想いを寄せていたそうだ。毎日、登下校を一緒にする姿を見せられて、おまけに今日一緒に昼食を摂る事を知った。そんな時、美優を見かけたので、つい」
「如月さんは、どう思いますか?」
「何が?」
柊哉の唐突な質問に意味が分からないと聞き返す。
「同じクラスなのでしょう? 田代京子さんは、どんな方でしたか?」
慶は眉間に皺を寄せ、考えながら答える。
「……彼女は大人しくて、控えめな子だったな。それに、真面目で努力家だ。最初は彼女が突き落としたとは、とても思えなかったが……でも、本人が美優に謝ったんだから、間違いないだろう」
僅かに怒りを込めた声で言う。
「謝った?」
柊哉は考え込むように、視線を落とし問うた。
「あぁ、直後にな。咄嗟に突き落とし、すぐに大変な事をしたと思ったんだろう」
(確かに如月さんの言う通り、あり得る話。取り立てて不自然な点はなさそうですね……っ!!)
柊哉は何かに気付いたように、顔を上げ慶を見る。慶もその何かに気付いたのか、柊哉を見ていた。
「どうやら、これでお開きのようですね」
「そのようだ」
二人が椅子から立ち上がるのと同時に生徒会室のドアがガラリと開け放たれ、雪乃が姿を現した。
一瞬、柊哉の姿を見て雪乃はギョッとした顔をするが、すぐに表情を戻す。
「何故、貴方がここへ?」
「俺が呼んだんだんだ」
柊哉の代わりに慶が即答した。雪乃は、柊哉を探るように盗み見る。昨日の事を告げられたのではないかと気が気ではないようだ。
目が合うと柊哉はにっこりと安心させるように微笑んだ。
雪乃は、反射的に目を反らす。
(驚いた所を見ると、様子を見に来たわけではなさそうですね)
「今日は、此処には来るなと言っておいただろう」
慶は冷たく言い放つ。
「先生が慶を探してたから……」
冷たい声に怯んだのか、相手が慶だからなのか、分からないが殊勝な声で答えた。
「雪乃さんは、今日の騒ぎ知ってらっしゃいますよね?」
「何が言いたいのかしら?」
殊勝な態度はどこへやら、ギロリと目を吊り上げ睨み付けた。
柊哉は、ブレザーのポケットに手をいれ、ピアスを握る。
(今日の今日で何かをするとは思えないが……)
「湊君、いくら何でもそれは……」
慶が柊哉を咎める。いずれにしても前科があるとはいえ、一平民が十二名家である如月家の人間を疑うのはまずい。十二名家の耳に入れば一生涯を潰されるであろう。
慶は柊哉の身を案じているのではない。柊哉を通して、美優が火の粉を浴びるのを心配しているのだ。
慶は知らない。雪乃が決して柊哉の事を告げ口をしない――イヤ、出来ない事を知らない。
「いえ、田代京子さんとは同じクラスなのでしょう。どんな方か聞こうと思っただけですよ。誤解をさせてしまったのなら、すみません」
ペコリと頭を下げて見せると、渋々口を開いた。
「暗い子よ。殆ど話した事ないから、それ以上知らないわ」
「そうですか……」
「もう、いいでしょ? 慶、行きましょう、先生が待ってるわ」
「分かったよ。すまないな、湊君」
「いえ」
――三人は生徒会室を後にした――




