第52話 『深層ダンジョン扉前』
ダンジョン攻略初日。
俺とリュナは少し寝過ごしてしまい、工房に着いたのは十二時を少しだけ過ぎてからだった。
「………………」
ローブに身を包んだメイカが、椅子に腰掛けたまま腕を組み、むすっとした表情でこちらを見ていた。
エルフ特有の尖った耳がわずかにピンと立ち、機嫌の悪さを隠す気もないその様子が、逆に可愛らしく見える。
「すまん、ちょっと寝過ごしてた」
「遅いです」
「……反省してる」
はぁ、と心底呆れたような溜息を零すメイカ。
その空気を察したのか、リュナがそっと俺の背中に隠れるように身を寄せる。
「メイカさん……イザナ様、最後は……ちゃんと走ってました……」
「……最後は、という点は気になりますが」
「……ごめんなさい」
「分かりました」
そう、一言だけ告げて、彼女は壁に掛けられていた大きな絵画に手を伸ばす。
……描かれているのは紫色の渦。
「これは数日前、アートディーラーから購入した魔法の絵画です」
「魔法の絵画?」
「時間もあまりないので端的に説明します。これは二枚一組の絵画で、それぞれを別々の場所に設置し、絵の中へ入ることで対になる絵の前へと出られます」
「なるほど。要するに……事前登録制のどこでもドアってわけか」
「……どこでもドア、という魔具は存じませんが、どこへでも行ける扉という意味で使っているのであれば、概ね合っています。ただし、行き先は事前に決められた二点のみですので、正確には『接続先固定型・双方向転移魔具』と表現する方が適切ですね」
因みに、アートディーラーが扱う魔法の絵画の中でも、特に希少価値が高い「超魔導美術品」に分類される代物だ。
便利な代物だが、一つ引っかかる。
「……待て。便利な魔道具だが、さすがに何かしらの副作用があるんじゃないのか? あとでツケが来るのはごめんだぞ」
「ありません。肉体的・精神的な負荷はゼロに近いです。空間の圧縮や再構成も行われないため、転移酔いも発生しません。安心してください」
即答だった。
「……完璧じゃねぇか」
「万能ではありません……絵画魔法の理屈は未だに分かっていません。この魔法、もとい魔具は、種類が多すぎるのです。技法、発動条件、媒介、定着方法……すべてが違う。作家の感性、人生、感情、偶然、精神状態、それらが絡み合い合うため、同じ構造の魔法は二つとして存在しません」
「……要するに、法則がなくて、なかなか再現もできないって話か」
「はい。理屈で扱おうとすれば、必ずどこかで破綻します。だから万能ではない。でも、『だからこそ美しい……』この世界には、まだ理屈で縛れないものが残っているのですよ」
「……魔法って、そんなロマンの塊なのか」
「ええ。少なくとも私はそう思っています」
相変わらず淡々とした口調で無表情だが、俺にはその瞳の奥に、静かな感動と、どこか拭いきれない切なさが滲んだように見えた。
五百年以上生きてなお、魔法を「理解しきった」とは思っていない。
メイカにとって魔法とは、終わりのない探求なのだろう。
……まあ、話は長かったが、要点は掴めた。
万能ではない、おそらく複数の制限が存在するのだろう。
それでも個人、あるいは少人数運用においては、最強クラスの魔具というのは、魔法について無知な俺でもわかる。
「では……行きましょうか」
「もう対になる絵画は設置済なのか?」
「ええ。すでに設置済みです。対になる絵画は、カイルさんに頼んで運んでもらっています。今頃、ダンジョンの扉の前に立てかけてあるはずですよ」
……ああ、はいはい。
「メイカちゃぁぁぁん!! その頼み、命懸けでも引き受けるぜぇぇぇ♡♡」と即答するカイルの姿が、なぜか容易に想像できてしまう。
「……カイルのやつ、便利に使われすぎじゃないか?」
「ギルド職員の中では、かなり信頼しています。……それ以上の意味はありません」
今、余計な一言を付け加えなかったか、と突っ込みかけたが――あまり時間を使っている余裕もないので、そこは黙って流すことにした。
「では、行きましょう。絵画魔法の詳しい説明は後です。今は時間がありませんので……。
――簡易魔法・対扉絵画」
詠唱が終わった直後、額縁の内側で絵がわずかに揺らいだように見えた。
そして一切の躊躇なく踏み出し、足先が絵画に触れた途端――メイカはそのまま静かに絵画の奥へ溶け込むように消えていった。
「――え?」
思わず声が漏れる。
目の前で起きた、あまりにも現実離れした光景に、思考止まりかけるが……もう驚いている時間はない。
「……行くしかない、か」
「うん、じゃあ先に行くね!」
そう言うが早いか、リュナは迷いなく半歩だけ前に踏み出し、そのまま勢いよく絵画の中へ身を投げた。
「……躊躇いがなさすぎだろ」
そう小さく零してから、俺も一歩踏み出す。
絵画に足が触れた途端、身体は抵抗なく引き込まれると、カチッと乾いた作動音が鳴った。
おそらく、転移を成立させる何かの機構が起動したのだろう。
視界はそこで断ち切られ……
――世界は一面、紫に染まった。
紫に染まった視界が、ふっと薄れる。
「……着いた、か」
視界が開けると、そこはダンジョンの扉の前だった。
周囲にはすでに攻略隊の面々が揃っており、ざっと見渡しただけでも二十人近く集まっていた。
背に翼を持つ大柄な戦士、全身を軽装でまとめた斥候風の男、尻尾を揺らしながら談笑する猫耳の少女、重厚な装備に身を包んだ盾役、杖を携えた魔術師など、いずれも錚々たる顔ぶれだ。
……今さらだが、ここまでとんとん拍子にダンジョンボスの目の前まで来てしまって、本当によかったのだろうか。
本来なら道中で雑魚を処理しながら最深部を目指すものだと思うが……もっとも、これが可能なのはメイカの手腕あっての話で、その点については感謝しかない。
その張本人は、絵画から少し離れた位置で、俺とリュナの転移過程を淡々と観察していた。
「転移、成功ですね」
「わぁ……すごい。ほんとに一瞬だったね」
リュナの声に、周囲の視線がいくつもこちらへ向いた。
その人混みの向こうから、見覚えのある顔が二つ、姿を現す。
赤い鉢巻きに長槍を背負った男――カイル。
その隣で、状況を飲み込めずに戸惑っているリカ。
「……おっ、メイカちゃんが来るとは聞いてたが……イザの医にリュナちゃんも来てたのか〜?」
「えっ!? せ、先輩……!? いつの間に来てたんですか!? それに……来るって、言ってましたっけ!?」
目を見開き、完全に想定外、と言わんばかりの表情で固まっているが……まあ、無理もない。
本来なら事前に伝えるつもりだったのだが、昨日、異形を倒してからというもの、気力も集中力も限界で、リカが宿屋へ戻る前に、俺とリュナはそのまま力尽きるように眠り込んでしまったのだから。
……悪い、リカ。後でちゃんと説明するから、怒らないでくれよ……。
……と、内心で頭を下げていた、そのタイミング。
「……あんれ〜? イザナくんと竜族の子じゃん。やっほー」
振り向くと、ユンが、ひらひらと手を振っていた。
気だるそうな目でこちらを流し見てから、すぐにメイカへと向けられる。
「……って、ちょっと待って。メイカさんまで来てるの?」
「なにか?」
「メイカさん投入って……つまりボスの宝も素材も根こそぎ回収って感じ〜? あー……はいはい、今回マジの攻略だってこと?」
「いえ、単なる気まぐれです。カリバーンの噂を聞いたのでここに来ただけです」
「そりゃそーか、深層でもB級だし、メイカさんが来る理由はないよね〜。……ま、いいや。結果的に生きて帰れる確率も上がった訳だし文句なし」
実際、その通りである。
補給と運搬を一手に担えるメイカがいるだけで、物資管理や運搬量を気にする必要がなくなる。
さらに、空間魔法による転移が可能な環境下では、「全滅」という最悪の事態は、ほぼ起こり得ない。
つまりこの場では、強さも重要だが、それ以上に、確実に退ける手段を持つメイカの存在が決定的だった。
「――確率!? 生きて帰れる確率って……そんな言葉で片付けられる状況じゃないですよ!」
ユンの言葉に、唾を飛ばす勢いの早口で割り込んだのは、解析士の青年――ユースだった。
ユースは一瞬だけユンを睨みつけるように視線を向け、そのまま感情の行き場を失った拳を、何度も扉へ叩きつけながら続けた。
「中にいるのは、ただのB級ボスじゃない! 魔力の構造が安定してない、魔力の層が……重なってるんだ! 解析上はB級? でも、僕は安全だなんて言えない! このまま突っ込めば、必ず死人が出る! 一度、引き返しましょう!!」
「ユースくん、落ち着きなさい」
ユースを制したのはガルドだった。
「でも、ガルドさん! これは……」
「聞いているさ。でも、この判断のもとで、これだけの人員が集められている。他の解析士も全員、同じ条件でB級と結論づけた。……今ここで『やはり危険だから撤退だ』とは、簡単には言えない。それにユースくんは三日間ほとんど寝てないだろ。きっと視野は狭くなっているんだ」
「違います! これは疲労じゃ……」
「違わないとは言い切れない。ユースくんの解析が間違っているとは言わない。だが、過剰に深読みしている可能性はある。現時点での判断はB級。それ以上でも、それ以下でもない」
ユースは唇を噛み、言葉を失う。
それを見て、ガルドは一歩近づき、ユースの肩を軽く叩いて先ほどまでよりも柔らかい声で続けた。
「休め、ユースくん。休むことも、立派な冒険者の仕事だ」
「……はぁ」
ユースは悔しそうに視線を落とし、拳を握りしめた。
その一連の会話を、俺は少し距離を置いた場所から静かに眺めていた。
まあ、傍から見れば一人だけ神経質に騒いでいる狂人に見えるだろうな。
確かに、目の下には濃い隈があるし、寝不足なのは一目で分かるが、あれは……単なる疲労の目じゃない。
殺し屋だった頃、死の直前に立たされた人間が浮かべる、あの目だ……。
……それ以上の根拠はない。
だが、この予感だけは外れてくれと願わずにはいられなかった。




