第3話 『アドレナリン』
異世界に来て二日目。
朝風呂を済ませ、テーブルに持ち物を並べて確認する。
懐中時計、ハンドガンと予備マガジンが二つ、マルチナイフ、ライター、財布……そしてタバコは、ない。
財布の中身には色々な国の紙幣や硬貨が詰まっていたが、この世界じゃ使い物にならないだろう。
外に出ると、朝の日差しと森の匂いが心地いい。
深呼吸をひとつ。肺の奥まで澄んだ空気が満ちる。
……空気がうまい。
俺の求めてたハワイでのスローライフとは違うけど、これはこれで悪くない。
……悪くないんだが。
このうまい空気で吸うタバコは、絶対最高だろ……。
そう思った瞬間、無性に恋しくなった。
転生前の世界じゃ、喫煙者は高額納税者のくせに、喫煙所は減る一方……端に追いやられ、肩身の狭い思いばかりしてきた。
ああ……思い返すだけで涙が出そうだ。
……いや、いかんいかん!
せっかく異世界転生したんだ。タバコは一旦やめて、クリーンな人生を歩んでみるのも悪くないかもしれない。
「……はぁ。そういうことにしとくか」
独りごちたところで、背後から声がかかった。
「先輩、おはようございます……。相変わらず朝、早いですねぇ」
寝ぼけ眼で髪をくしゃくしゃにしながら、リカが顔を出す。
「おはよう〜。そうだ、リカのチートスキルを見せてくれよ!」
「え? 私にチートスキルなんてないですよ〜」
「……は?」
拍子抜けして固まる俺。
だって、転生する時にあのドジっ子天使が言ってただろ?
『転生者には一つだけ強大なスキルとか、伝説級の装備とか、莫大な資産とかを与えるのが神界の決まりですぅ!』って。
……あれ? いや、そんなこと言ってたような……気がするんだよ……な? もしかして、リカはそのへんケチられたのか?
頭の中でぐるぐる考える。
転生してまだ二日目だってのに、すでに世界の不公平感に直面することになるとは……。
するとリカが、頬をかきながら少し照れ笑いで言った。
「ま、まぁ……私からしたら二十年も前のことですから。もうそんなこと忘れちゃってますよ〜」
「おいおい、あんな大事な場面だぞ。普通忘れるか?」
「でも、風魔法だけは二十年鍛えましたから! だから十分チートですよ! ふふふ……見ていてください!」
リカは人差し指を俺に向け、まるで銃を構えるように姿勢を整え、狙いを定める。
中指をパチンと弾いた瞬間、指先の空気が弾け飛んだ。
――パンッ!!
乾いた破裂音とともに、透明な弾丸が空気を裂いて突き進む。風圧が頬を撫で、耳の奥がキンと鳴る。
振り返ると木の表面に、拳大の凹みがくっきりと残っている。
……速ぇ。ただの空気の弾が、銃弾クラスの威力だ。おそらくマッハ1はある。
「ど、どうですかっ!?」
「いやいや、殺傷力高すぎるだろ……いきなり上級魔法見せられても困るぞ」
「いえ……これ、おそらく初級魔法レベルですよ? 私がこの世界で最初に身につけた技ですし」
「はぁ!? これで初級!?」
思わず声が裏返った。
いや、ちょっと待て。
初級魔法でこの破壊力って……この世界の魔法、常軌を逸してないか?
それとも、これがお前のチートスキルなんじゃないのか?
「……リカ。もしかして、それって……お前のチート――」
言葉を言い切る前に、リカが元気よく被せてきた。
「はいっ! 先輩の考えてることはわかりますよ! これを散弾銃みたいにできるのか!? ですよね!? もちろんできますとも!」
……いや、違――……え、できるのかよ!?
すると、リカは嬉しそうに手をかざす。
次の瞬間、さっきと同じ圧縮空気の弾が今度は無数に、手のひらの前でぷくぷくと膨らみ始めた。
「<エアーショット>」
リカの甲高い声と同時に、散弾のように弾け飛ぶリカの腕が跳ね上がった。まるでショットガンをぶっ放したかのような反動だ。
弾けた弾丸は木に直撃し、幹の表面は抉れ、白い木肌がむき出しになっている。細い枝は粉砕、太い枝にもところどころ亀裂が走っていた。
「ど……どういう原理なんだ……」
「科学的にはベンチュリ効果に近いです! 指先に空気を集めて、周囲の分子の運動を抑え、密度を高める! そして一気に低圧へ放出することで、高圧空気の弾丸になるんです!」
息を弾ませながらも、リカは得意げに胸を張る。
その青い瞳がきらりと光り……ふっと、不敵な笑みを浮かべた。
「……でも、先輩の魔法は生命魔法でしたよね?」
「あ……あぁ……」
……リカのこの顔は……嫌な予感しかしない。
そして、その予感はすぐに的中することになる――。
リカは地面に落ちていた枝を数本拾い上げ、手のひらに風を纏わせて加工し始めた。
風の刃が木を削り、数十秒も経たないうちに……
「……よし、できました!」
彼女の手の中にあったのは、木製の短剣――見た目はコンバットナイフだ。
「おいおいおい……なんでいきなり短剣なんか作るんだよ!」
リカは不敵な笑みを浮かべ、短剣をくるりと投げて俺の手元に転がす。
そして一歩近づき、吐息がかかりそうな距離で、甘ったるい声を響かせた。
「せんぱぁ〜い……ふふ、ねぇ……どちらかが倒れるまで、遊びましょうよ〜。だって、生命魔法って……怪我してるときか、今すぐ治療が必要なときにしか使わないでしょ? だったら、まずは本物の傷で試さなきゃ……お話になりませんよねぇ……?」
……スローライフが目標だってのに、と思いつつも理屈は通っている。誰かを救う前に、まずは自分の体で実験するしかないのかもしれない。
「わかった、手加減は無しだ。あとお前は魔法無しだ。普通に俺が死ぬ……」
受け取った短剣を握りしめる。
リカは二刀流で短剣を構え、にやりと笑うと距離を取り、弾んだ声で叫んだ。
「じゃあ、いきますよぉっ!」
「よし、こい!」
リカが地を蹴り、一直線に迫る。刃と刃がぶつかり合う。動きのキレは昔と変わらない。だが速度が、明らかに違う。今のリカの速さは、以前よりずっと鋭い。
どうやらこの二十年、リカは風の流れや空気の癖、呼吸のリズムに至るまで磨き抜いてきたらしい。刃一本一本にその蓄積が宿っている。重心の移動と足さばきは軽やかで、隙の見えない斬撃の嵐が襲いかかる。
俺は間合いを測り、呼吸を整え、リカの刻むリズムの隙を無理やり探した。差し込むタイミングを狙って踏み込む……しかし、空気の流れを読み、リカは先に自身の動きを修正し、俺の攻撃は軽くいなされる。
――やっぱ隙がねえし……速ぇ……これが二十年分の研鑽か。
「せんぱぁい……そんなに必死なお顔、久しぶりに見ました……もっと見せてくださいね?」
クソッタレ……! 攻撃を挟みながら甘い声で煽ってきやがる。
俺には煽り返す余裕なんてねぇ……捌くだけで手一杯だっての!
……そうだ。ドジっ子天使が言ってたじゃねぇか。
魔法は引き寄せの法則、大事なのはイメージと信じる気持ちだって。
ん? 生命魔法のイメージって……なんだ?
生命……それなら今、俺は戦闘のど真ん中だ。体中からアドレナリンが出まくってるはずだぞ。
なら……それをもっと強制的に分泌させるイメージだ。
……そうだ、思い出せ。
殺し屋時代……最初の任務で心拍を跳ね上げたあの瞬間を……自分で意図的に心拍を高ぶらせろ……。
次の瞬間、心臓がバクンと跳ねた。
熱が血管を駆け巡って、全身を焼くように熱くなる。
……これだ。
俺自身の生命力を、魔法で引き出せばいい。
「<アドレナリンサージ>」
その言葉と同時に、心臓がドン、と跳ね、さらに鼓動が加速する。
視界が異様に明るくなり、音がやけに鋭く耳に突き刺さってくる。
だが、心拍を制御できない。
必要な酸素が増えすぎて、呼吸が追いつかない。
闘争ホルモン――アドレナリン。スポーツでドーピングにも使われるほどの効果であると同時に、危険度も跳ね上がる。
今の俺は、オーバードーズ寸前だ。
だからこそ、最速で決めなければならない。
攻撃を捌く速度を一段上げると、刃の嵐の合間にリカの表情がほんの僅かに崩れた。
その隙を逃さず、俺はリカの左手を掴みつつ、自分の短剣を振り上げた。
刃と刃がぶつかる。重い衝撃が腕に伝わり、その勢いで彼女の短剣が弾かれ、コロンと床に落ちた。
そのまま踏み込んで、喉元に刃を突きつける。
「……勝負ありだな」
言った瞬間、パチンと糸が切れたみたいに全身から力が抜ける。
握っていた短剣すら支えきれず、足元にコロンと落ちた。
「っ……くそ……」
魔法は確かに成功した。だが制御は全くできていなかったのだ。
身体が持たず、血糖も酸素も底を尽きかけている。
……あ、やべぇ……倒れる……。
……そうだ、肝臓に働きかけろ……。グリコーゲンを分解して血中に糖を……。
必死にイメージしようとするが、視界は急速に暗く閉じていく。
リカが慌てて両肩を支え、何かを叫んでいる。
だが耳に届く前に、意識は闇に引きずり込まれ……
俺はそのまま、リカの胸へ倒れ込み、気を失った。




