第21話 『悪魔』
それから俺たちは平原を抜け、急な山道を登った。
山頂に着く頃には、気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。
このあたりは夜になると活性化する魔物が多いのか、周囲ではハイオークがうろつき、さらにその先の山の麓では、百メートル級の巨人同士がぶつかり合っていた。
牛の頭を持つミノタウロスと、単眼単角のサイクロプス。
互いに雄叫びを上げ、地形を変える勢いで殴り合っている。
……かなり離れているはずなのに、俺たちの足元まで戦いの余波が伝わり、砂が細かく跳ねていた。
……神話の再現みたいだな。
ま、ギリシャ神話じゃサイクロプスとミノタウロスに直接の関係はねぇが、サイクロプスは原初の巨人、ミノタウロスは呪いで生まれた化け物だ。
神々に造られた怪物って点じゃ、まぁ同じか?
……ったく、俺も天使に予定外の転生くらった身だしな。
やっぱり神様ってのは、どこの世界でもロクなもんじゃねぇ。
「……あんなの、初めて見るよ。すっごくこわい……でも、体の奥が、ぞくぞくしてる……」
リュナが息を潜めながら呟いた。
そういえば《魔獣分類書》にも、あんな規格外のミノタウロスやサイクロプスは載っていなかった。
おそらくは亜種か、進化個体ってとこだろう。
……そう思い、観察眼を使おうとした瞬間、脳を焼くような痛みが走った。
「――ッ」
……どうやら最高ランクの観察眼とはいえ、今の俺では視ることすらできないらしい。
「……イザナ様、大丈夫? あの巨人見て、よだれ出た? あれ食べたいよね」
「アホか。誰が食欲わくか。ま、頑張れば一匹くらいはどうにかなるかもしれねぇけど……ミノタウロスとサイクロプス、それにオークの群れまでまとめて相手するのは無理だ。それはもう戦いじゃなくて自殺だ。命は大事にしろ」
「ちぇー……」
もちろん、頑張っても一匹くらいどうにもならない。
普通に正面から戦ったら、即死だろう。
……けど正直な話、俺も胸の奥じゃ怖さより好奇心が勝っていた。
いや……あんな怪物を目の前にして、興奮しないほうが無理ってもんだろ? 男ってのは結局、でかいものが好きな生き物なんだ。前の世界じゃ、戦車とか対物ライフルを見ただけでテンション上がってたが……今、目の前にいるのは本物の怪物だ。目に焼きつけるなってほうが無理な話だろ?
「なぁリュナ……やっぱり今晩、あいつ、食べに行くか?」
その一言で、リュナは目を輝かせる。
頭を縦にブンブン振る勢いは、もはやヘドバンの域だ。
「もー、冗談はやめてくださいよ〜ほんとに……」
リカが小声で制した。
俺たちは死闘を繰り広げる現場を避け、東へ大きく迂回した。
息を潜めて歩くこと数時間、ようやく山小屋を見つけた。
リュナが顔をしかめたので、どうやら魔除けの加護はあるらしい……。とりあえず一安心だ。
そう思った矢先……山小屋の窓の隙間から、かすかな灯りが漏れているのが見えた。
「……こんな深夜に……誰か、いるのか?」
「……ここ、入りたくない」
リュナが手が少し震えている。
「でも、入らないと……ハイオークに襲われてしまいますよ」
リカが囁くように言う。
殺し屋の感だが、この山小屋からは言葉にできない違和感が俺にも伝わってくる。
それでも、せっかく山小屋まで来たんだ。背に腹は代えられない。
俺は息を整え、扉を押し開けた……。
だが、その部屋の奥には――ランプの明かりに照らされた人の形をした何かが座っていた。
それは全裸の男だった。
身長は190センチくらいの長身の細身で、見た目は若く整った顔立ちをしているが、肌は死人のように白く、ツイストマッシュの髪は毒々しいマゼンタのような色合い。
そして何より目を引いたのは、青い唇と、肘から先が墨のように黒く染まった右腕、その姿はまるで悪魔のようだ。
男はゆっくりとこちらを振り向き、口元を歪めて笑う。
その笑みのまま、下半身がわずかに動いた。
「……なんだこの変態は……人の顔見て興奮するとか、どんな性癖してんだよ……」
俺は咄嗟に身構える。
リカは青ざめ、リュナは体が少し溶けかけて泣きそうな顔をしていた。
「うふふ……変態とは失礼しちゃうなぁ〜でもまぁ、いいよ。僕の名はメフィス・ファウスト。人間たちには悪魔って呼ばれてる存在だよ」
メフィスは唇を吊り上げながら立ち上がった。
悪魔、ね……。《種族誌・第三改訂版》にも悪魔の項目はあったが、詳しい記述はほとんどなかった。《魔獣分類書》のデーモンとは雰囲気が違う……けど、ハッタリって感じでもねぇな……ま、観察眼を使えば、正体はすぐにわかるだろうが、スキルを使ったことを悟られて殺されでもしたら、洒落にならねぇ。
……幸い、今のところ敵対的な気配はなさそうだ。
ここはひとまず、刺激しない範囲で情報を聞いておくか。
「……で、悪魔さんが、どうしてこんな山奥にいるんだ?」
相手の出方を探るため、あえて軽い調子で言い放つ。
「質問が多いねぇ。悪魔に問い詰めるなら、それなりの対価がいるってものなんだけど……」
メフィスは喉の奥で笑い、指先を口元に添えた。
「でも……今日は機嫌がいいから、特別にタダで教えてあげようか。――僕ね……堕ちた勇者を狩りに来たんだよぉ。でもそれが運悪くサイクロプスに食べられてしまってね〜。しかも、そのサイクロプスが今、堕ちた大精霊を取り込んだミノタウロスと大喧嘩中でさぁ〜。手出しできなくて退屈してたところなんだよね……。勇者を殺すのを楽しみにしてた僕を、こんなビンビンな状態で放置してくれてどうしてくれるの? ……責任、取ってくれるよね?」
そうか……だからあの二体はあんなに暴走してたのか。
おそらく勇者を食った魔物が進化した、ってところだろう。
だが、一つだけ引っかかる単語があった。
「俺が責任なんか取れるわけねぇだろ。……ただ、“堕ちた”勇者ってのは、どういう意味だ?」
「ふふっ、そのまんまの意味だよ。勇者って言っても、世界には何人もいるんだ。その中の真の勇者が、堕ちたって噂があってね……堕ちた理由は、知らな〜い。でももう瀕死だったみたいでさ。その使い魔の大精霊と一緒に心中しちゃったみたい……。で、その死骸をサイクロプスとミノタウロスが食べたみたいだね。おかげであんなふうに進化しちゃって、今も小競り合いしてるってわけ。だから僕は、それをの〜んびり観戦してるだけなんだぁ」
……勇者って、何人もいるのか。
つまり、称号か職業みたいなもんか。
堕ちた理由なんざ、おおかた仲間に裏切られたとか、魔王討伐の途中で全滅したとか……そんなとこだろ。知らんけど。
「なるほどな……で、お前の狙いはサイクロプスの腹の中にいるその勇者、ってわけか」
「そう、せいか〜い♪でもね……君たちも、すごく興味深いんだ。――ねぇ、名前は、なんて言うの?」
やはりそうくるわな……。
こっちも散々情報を引き出した。なら、何か差し出す番だが、名前を知られるのは危険だ……名を媒介に操る魔法や魂を縛る系統の魔法もおそらくこの世界ならあるはず……いや、こいつが本気で傀儡にするつもりなら、問答無用で俺たちを攻撃するはずだ……だったら、名を隠すほうがむしろ危険か……仕方ない、名乗るしかねぇか。
「俺はイザナ。そっちがエルフのリカ、そして隠しても無駄だろうから言っとくが、スライムのリュナだ」
「ふふっ、いいねぇ……どの子も美味しそうだぁ。でも、イザナちゃんの名前……珍しいねぇ。君たちどこの国の人なのかなぁ?」
……しまった、正直この世界の地名までは把握してねぇ。
嘘で誤魔化したところで、悪魔相手にそれが通じる保証はねぇ。
……でもな、嘘と真実を混ぜて話すのは、殺しの仕事で腐るほどやってきた手だ。
「……どこの国、ね……。リカはエルフの村出身だ。リュナはおそらくこの森。そして俺は地図のずっと東の端、海を越えた先にある小さな島国の生まれだ。この世界じゃ名を出しても誰も知らねぇ、辺境の国だ」
メフィスの目が細くなる。
だが、イザナの声には揺らぎがない。
もちろんこの言葉には嘘一つもない、海の向こうの誰も知らぬ国……それは、かつてイザナが存在した世界の日本という国だからだ。
……へぇ……なるほどねぇ。嘘は言ってない、か……ふふっ、面白い。
「まっ、いいや。今夜は襲ったりしないよ。悪魔にもね、気分ってものがあるんだ」
そう言って、黒く染まった右手でゆっくりと股間を撫でながら楽しそうに微笑む。
「言ってることと行動が合ってないんだが……まあいい。二階は使わせてもらうぞ」
「ああ……好きに使っていいよぉ」
俺がリカと階段を上がるが、リュナはそのままメフィスに歩み寄っていった。
「おい、リュナ、やめとけ。そいつは敵対的じゃなさそうだが、悪魔だぞ」
「……ビスケット、あげるの」
差し出されたビスケットを、メフィスはひょいと指先で摘み、おぞましい笑みを浮かべる。
「ん〜……いい香り……でもね、少しだけ魔力が混ざってる。ふふっ、優しい魔力だ……クセになりそう」
リュナがきょとんと首を傾げると、メフィスは顔だけがすっと前に出て、リュナの顔の目の前で止まる。
「ねぇ……君、少しは戦えるんでしょ? どうかなぁ……今夜、僕と殺し合いしない?」
「い、いやだっ!」
リュナは顔を真っ赤にして即答、そのまま階段を駆け上がっていった。
メフィスは唇を舐め、ビスケットをゆっくり口に含む。
「ふふっ、残念。逃げ足の速い子だぁ」
……全く、変なやつに会ったもんだ。
静寂。その場に残ったのはメフィスだけだった。
「ふふっ……彼らはまだまだ強くなりそうだぁ……。でも、A級クラスの力を持っているのに、なぜこれまで表舞台に出てこなかったのか……不思議だねぇ。……それにリュナちゃんの魂は、A級どころか、S級にすら届く。そしてイザナちゃん。君の身体に刻まれた祝福。いや、あれは祝福なんかじゃない……神が与えた「死ねない」という名の呪いかな……? ねぇ? 想像してごらん? もしも僕がずっと彼を殺し続けたら……魂はどう変わるんだろう、壊れるのか、あるいはもっと別の“ナニカ”に変容するのか。ああ、考えるだけでゾクゾクするよ。
――ねぇ、君もそう思わないかい?」
メフィスはそう言うと、黒く染まった右手をじっと見つめていた。
…………だが、遠い未来、この悪魔との邂逅が、のちの運命を大きく変える事になるとは……。
――その時はまだ、誰も知る由もなかった。




