第19話 『旅立ちの日』
冒険初日の朝。
「先輩、そろそろ行きますよ」
リカはまとめた荷物をそばに置き、忘れ物がないか念入りに確かめていた。
そして、最後にリュナの頭を軽く撫で、安心させるように微笑んでから俺の方を振り返った。
「ああ、もうちょい待ってくれ」
リュナを旅に連れて行くと話した時、さすがにリカに反対されるかと思った。
だが意外にも、少し驚いた顔をしただけであっさりと頷いた。
……リュナがスライムだと聞いた瞬間はさすがに目を丸くしてたけど……まぁ、誰だって驚くわな。
リュナの旅の目的は、「この世界を見てみたい」というものだった。
リュミナが目指していた西の大国とは違うが……残留思念ってやつなのか、やっぱりリュナの中にも旅への憧れがあるのだろう。
リュナは、リカから渡された銀貨と食料入りの皮袋、それに風除けの護符を大事そうに抱えている。
皮袋はどうやらマジックバッグらしく、見た目のわりに結構入るし驚くほど軽かった。
リカもすっかり旅支度を整えていた。
白を基調としたロングチュニックの上から、淡い緑のケープと白いコートを羽織っている。
一方、俺はザイルから譲り受けた装備に着替えていた。
月影のブーツに黒のズボン、腹にはタオルを巻いておく、応急手当にも防寒にもなるからな。
その上に黒いシャツを着て、最後に月影のコートを羽織る。
……ああ、暖かい。さすが神品だ。
「リュナ、袋は俺が持つぞ? お前はスライムになって、俺の肩にでも巻き付いて休んでろ」
「だいじょうぶっ! リュナも歩けるもん! ちゃんと旅のおてつだいするのっ!」
……まあ、元気ならいいか。
「まずは北東のトムラウシ山を目指す。シモカプ村まではおよそ四日。食料もその分だけだ。危険を感じたら即撤退。いいな?」
「はいっ!」
「はーい」
二人の声が重なり、どこか微笑ましい音を立てた。
俺たちは家を後にし、森の中へと歩き出した。
それからの道中、俺たちはほとんど無言だった。
森を抜け、カネヤマ湖が見えてきた頃、リュナがふと立ち止まった。
「……ちょっと待って」
「どしたんだ?」
「ユクナトゥスに、お別れを言いたいの。この森の霊獣に、ちゃんと挨拶してから行きたいんだ」
……ユクナトゥス。あの魔鉱化した霊獣か。
たしか、リュナが取り込んだはずだが……。
リュナは湖の前に進み出て、そっと膝をつく。
風が静まり、湖面が淡く揺れた。
その唇が小さく動き、まるで祈るように言葉を紡いでいく。
数分後、リュナは立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ユクナトゥスもね、“いってらっしゃい”って言ってくれたよ」
そう言うと、まるで未練なんてないかのように、スタスタと歩き出す。
「……その、ユクナトゥスってなんですか?」
隣を歩くリカが、不思議そうに首をかしげた。
「君たちでいう、キリストみたいなものだよー」
「お前キリスト知ってるのか?」
この世界にもキリスト教はあるのか……? と混乱していると、リュナはけろっとした顔で言った。
「ちがうよー。イザナ様の皮膚や髪から記憶を抽出したらそんなのがあっただけー。この世界にキリストがいるとか、知らなーい」
「……そりゃそうだわな」
苦笑しながら俺は頭を掻いた。
そうこうするうちに、林を抜けると視界が一気に開けた。
遠くまで続く草原の向こうに、白くそびえる山々が見える。
……まるでアルプスのような景色だった。
「これが……大雪山、か」
「わぁ……すごいね! 空が近いよ!」
リュナが両手を広げて、風を受けながらくるりと回る。
その姿を横目に、リカが少し肩をすくめた。
「寒そうですね……先輩」
「とりあえず、北東のトムラウシ山を目指そう」
「うんっ! そこまでの近道、リュナ知ってるよー! まかせてっ!」
……そうか。リュナはこの森で生まれただけあって意外と土地勘があるんだな。
「ふふっ、ありがとうございます。リュナさん」
リカが微笑むと、リュナはにへらと笑った。
「えへへ。リュナ、森ナビだからね〜」
そう言って軽やかに先導していく。
やがて、トムラウシ山と岩に刻まれた標が見えてきた。
ここまで、魔物に遭遇することもなく穏やかな道のりだった。
だが日が沈み始めると、空気が一気に冷たくなり、肌を刺すような風が吹きつける。
そんな中、ちょうどいい場所に古びた山小屋がぽつんと建っていた。
「ここ……周囲に魔除けの加護がある。光魔法の気がすごく濃いね」
リュナが立ち止まり、目を細めながら周囲の空気を感じ取る。
「もしかして、入れないのか?」
「ううん、大丈夫。リュナも今は人のかたちだから平気だよ。スライムだと……たぶんぴょんって弾かれるけど」
そう言うと、リュナは何事もなかったようにスタスタと歩き出し、俺たちは山小屋の中へ入った。
小屋の中は、意外にも整っていた。
食料こそなかったが、毛布や簡易キッチン、薪まで揃っている。
おそらく、数年に一度は誰かが手入れしているのだろう。
「おぉ、ありがてぇな……ってか、お前もうおやつ食ってんのか? そんなにビスケット好きなのか?」
俺が呆れ半分で言うと、部屋の隅に座ったリュナが、目を輝かせながらビスケットをもぐもぐ。
「んー? おいしいから〜♪」
……まったく、スライムのくせに人間みたいな反応しやがる。
それはさておきビールビールっと……ん?
俺は荷物を探りながら眉をひそめた。
瓶ビールを一本だけ持ってきたはずなんだが、あれ?
「……まさかとは思うが」
「ん? リュナ、知らな〜い♪」
そう言いながら、口の端からぷくっと泡を吹くリュナ。
「おい、それ完全に飲んだ後のやつだろ……」
ふらふらとした足取りで近づいてきたリュナが、そのまま俺に抱きついてきた。
と思ったら、体がスライムになって、上半身にまとわりついてくる。
「ちょ、やめろって! おい、やめろって言ってんだろ!」
「うへへ〜イザナ様ぁ〜……なんか世界がぐるぐるしてますぅ〜♡」
「おい……おまえ……そろそろいい加減にしろよ?」
「えへへ……イザナ様のぬくもり……きもちいい……今日は……ずっといっしょがいいのぉ〜」
「はぁ……そういえばスライムに性別って、あるのか?」
ふと、素朴な疑問が口をついた。
……もしこいつが変なことして妊娠でもしたら、それこそ笑えねぇ。
「え〜? わかんない〜。でもね、リュミナさんの体をもとにしてるから、たぶん女の子寄りなんだよ〜♡」
……なるほど、メタモン方式か。
おそらくこいつは無性別……一番厄介なやつだな。
頭を抱えていると、リュナはにこにこと俺の胸に顔をうずめてくる。
……あぁ、もう終わりだよ……。
「……おーい、リカー!! この変態スライムを引きはがしてくれー!!」
「ちがうもんっ! リュナは変態スライムじゃなくて、へ・ん・せ・いスライムれしゅ〜♡」
「お前が喋るとややこしくなるんだよ! 頼むから黙ってくれ!」
「はぁ〜い……♡」
「だ、大丈夫ですかぁ? って……ちょ、ちょっと!? 溶けてる!? 先輩これどういう状況ですか!?」
リカが慌てて駆け寄る。
見ると、リュナは半分スライム状態で頬を赤く染め、目はとろんとしていた。
「うにゃぁ……イザナ様ぁ……とけるぅ〜……」
「体も脳みそも溶けてるみたいだな……」
俺はげっそりしながら額を押さえる。
「リカ、とりあえずこいつと今日一緒に寝てくれ。俺はもう無理だ。色んな意味で……」
「えぇぇ!? なんで私がぁ!? ……もぉ、仕方ないですね……」
「ん〜……じゃあお姉ちゃんもとけよ〜♡」
「とけませんっ!!」
リカがリュナをそっと抱きかかえると、スライムの体がぷにょりと揺れ、「ふへへ〜……あったかい……」と寝言を漏らした。
……やれやれ。
俺はため息をつきながら、干し肉、もといビーフジャーキーを手に取る。
ビールがなくなった寂しさを紛らわせるように、ゆっくりと噛みしめた。




