第15話 『ケルベロス』
どれだけ時間が経ったか分からない。
辺りはいつの間にか夕暮れに染まっていた。
俺はひたすらグレイウルフを殴り倒し、気づけば周囲は血と獣毛でぐちゃりとしている。
だが、それ以上に気になったのは、俺の耳や腕を食いちぎられても勝手に煙が出て再生していたことだ。……気味が悪い。
……しかも、<ヒール>や回復魔法を使った覚えはねぇ。
ただ、まだ視線を感じる。
……残り、三つ? ……いや、同時に何か……来る!
茂みを押し分け、現れたのは三つの頭を持つ獣だった。
それぞれの口から黒煙を吐き出し、俺を見据えていた。
「……ケルベロス、か。こいつが親玉ってわけだな」
ケルベロスが低く唸り、三つの口から灼熱の炎が放たれた。
俺なら避けられる……だが、後ろのあのガキは無理だ。
「<ブラッド・ウォール>」
赤い障壁が炎を受け止める。
熱風が肌を焼くように吹き抜けたが、壁は崩れない。
……チッ、《種族誌・第三改訂版》 にはC〜Bランク相当の魔獣って書いてあったか。……化け物め、それに今の俺は満身創痍ってのも笑えるな……なら、中距離で落とすしかねぇ。
「<ブラッド・バレット>!」
俺の周囲に血の弾丸が浮かび上がり、ケルベロスに向かって一直線に放つ。
だが、やつはその巨体に似合わぬ速度で回避し、弾を掠めながら地面を抉り、突進してきた。
「チッ、マジかよ」
この技は、俺がこの世界に来て初めて習得した攻撃魔法。
精度と威力には自負があったが、一発も当たらない相手は初めてだ。
……もっと速く、もっと正確に……改良の余地はまだあるな。
俺は拳を握り、右腕に全神経を集中させる。
「<生命魔法・神経電撃>」
ケルベロスの顔面目掛けて右手を振り抜く。
バチィッ! と空気を裂くような音と共に、電撃が走った……だが、手応えが全くなかった。
……くそっ、ゴムみてぇな肌……絶縁体かよ。
ケルベロスが反撃に転じ、俺の左腕へと噛みついた。
ゴリッと骨が砕ける音が響き、焼けるような激痛が走る。
反射的に振り返ると、肩から下が消えていた。
「がっ……あぁッ――!」
それでも気合いで踏みとどまる。
……舐めんなよ。まだ右手が残ってんだろうが。
お返しと言わんばかりに、右手のドラグアームで、ケルベロスの首を力任せに爪で切り裂いた。
「……マジで痛ぇ……けど、まあいい」
息を荒げながらも、消えたはずの左肩から立ちのぼる煙を見つめた。
……やっぱ、腕が再生してる……マジで理由は知らん、生命魔法の副作用、そんなとこか?
「再生するのは助かるけど、痛覚までは消えねぇのはクソだな!」
視線を敵に戻す。
首を一本切り裂いたはずが、まだピンピンしている。
「やっぱ、全部の首を潰さなきゃ死なねぇタイプか……」
血が再び脈打ち、形を変える。
「<ブラッドソード>!」
真紅の刃が音を立てて伸び、迫り来るケルベロスを迎撃する。
だが、ケルベロスは怯むどころか、二つの口を大きく開ける。
「ガアアアッ!!」
俺に向けて灼熱の炎を吐き出した。
咄嗟に俺はドラグアームで顔を庇う。
……クソ熱いな。だが、リュミナの炎に比べりゃこんなのカイロみたいなもんだ。
「おらぁッ!」
そのまま俺はケルベロスの首根っこを掴み、二つの首を思い切り剣で横に薙いだ。
頸動脈が断たれ、血が勢いよく噴き出す。
ケルベロスは大きくのけぞり、ほどなくして力なく崩れ落ちた。
「……ふぅ、終わりか」
全身の力が抜け、その場にどさりと腰を下ろした。
焦げた匂いと鉄の混じった血の匂いが鼻を刺し、肺が焼けるように痛む。
だが、戦いの中で魔法の扱い方が身体に馴染みつつあるのを感じていた。
……近接戦に拘り過ぎてしまったな……次は<ブラッドバレット>で回避の隙を潰し、<ブラッドショット>であの三つの頭を確実に仕留める。今よりも速く……。
「だ、大丈夫……ですか?」
顔を上げると、金髪のエルフの少女が泣き顔のまま立っていた。
……声は震えていたが、無事らしい。
「ああ、大丈夫だ。お前は?」
少女はこくり、こくりと小さく頷いた。
服は返り血でベトベトだったが、傷ひとつない。
……助けられただけでも、良しとしよう。
少女は俺の左腕をじっと見つめながら歩み寄ってきた。
「……あなたの、それ……再生は、魔法じゃないですよね? 加護……いえ、そんな清らかなものじゃない。まるで……呪いみたい……」
その言葉に、俺は無意識に自分の左腕へ視線を落とす。
……確かに、癒すというよりまるで死に抗うように勝手に再生した。<ヒール>もしていないにもかかわらず、だ。まあ、考えても仕方ない、きっとそういう魔法体質(?)なんだろ。
「……俺も詳しくは知らん。多分、生命魔法使いだからそんな能力もあるんだろ? それより……お前さん、道に迷ったのか?」
少女は少しだけ目を伏せ、唇を噛んで頷いた。
だが、少女はまだ納得しきれない様子……とはいえ、それも無理もない話なのだ。
エルフという種族は、人間よりもずっと魔法に慣れ親しんでいる。
小さな子どもでも、森の妖精との取引などで、自然と魔法に触れながら成長していく。
だが、今のそれは彼女の知るどんな魔法とも違っていた。
失われた部位を再生させる<リジェネ>という魔法は、緑の光を放ちながら、ゆっくりと時間をかけて治癒していく。けれどこの男のそれは、煙を上げながら、肉が自然に盛り上がり、形を取り戻していった。……しかも魔法など使っていない。
魔法の癒しというより、生きることに執着した肉体の動き……それはまるで、再生能力を持つ魔族や魔神のそれに近い。
……いや、それどころか「死なせてくれない呪い」のような不気味なものだと感じた。
一方、俺はそんな彼女の思いに気づきもせず、頭を掻いていた。
……ま、とりあえずこんな場所に居るのもアレだし、一旦ウチに連れてくか。
俺はそのまま寝そべっていると、白いスライムが俺に向かってぴょ〜んと跳ねてきた。
「……は?」
気づいたときにはもう遅かった。
一直線に顔めがけて飛びつき、ぺちん、と張りつく。
……で、そいつは口に緑の液体をぶちまけてきやがった。
「……はぁ!? おい、これ……おしっこかよ!? ふざけんな!」
慌ててスライムを引き剥がし、ケルベロスの死骸めがけてぶん投げると、なんか体が軽くなった気がした。
……どうやらスライムの分泌液? これ、回復薬じゃねぇか? しかも魔力回復系っぽい。ありがてぇ……投げてすまんな、許せ。
一応、申し訳なさそうにスライムを見下ろすと、そいつはお構いなしにケルベロスの死骸に覆いかぶさってモリモリ取り込み始めた。
「ま、いいや。もう遅ぇし……今日は帰るぞ。お前も疲れたろ? 明日、エルフの村まで送ってやるから」
お互い血まみれで、焦げと返り血の臭いしかしない。
なのにそのエルフの少女が、震える手で俺の服を掴むと、ぎゅっと抱きついてきた。
……怖かったんだろうな。
俺は軽くため息をつきながら、その頭をぽん、と撫でる。
「もう大丈夫だ。ほら、帰るぞ」
そう言って、少女を連れ、血の匂いがまだ残る森をあとにした。




