第13話 『この異世界で、君と見たい景色がある』
異世界に来て十一日目。
俺は台所でマドロミピーチを削いで小鍋に入れ、水を注ぎ、ゆっくりと火をかける。
「……なるほどな。熱で毒性を飛ばせば、ただの睡眠剤になるわけか」
この果実に含まれているのは、軽度の睡眠導入作用を持つアルカロイド。
……いわば、天然の睡眠薬だ。
殺し屋時代、現場によっては安全圏なんて一瞬しかなかった。睡眠時間がたとえ三十分でも取れるなら、深く、確実に眠らなきゃならない。
寝不足は判断力の低下に直結し、それが死を呼ぶ。
実際、眠気でラベルを読み違え、鎮静剤の代わりに筋弛緩剤を打って死んだやつ。
徹夜明けで足を滑らせ、高層ビルから落ちたやつ、誤射して仲間を殺したやつ。
どれもこれも、判断が一瞬遅れただけだ……寝不足で死ぬ理由なんて、いつだってくだらねぇ。
「任務の成否も、生死の境も、結局は眠気ひとつで決まる……笑えねぇ話だわな」
俺は一口すすってみた。
舌に残る甘さと同時に、肩の力が抜けていく。
「……うわっ、これはヤバいな……眠気が、来る……でも……」
水分を飛ばして粉薬にして瓶に詰めておけば、悪くならねぇし、どんなうるさい場所でも眠れるな。それに、ここ最近はずっとリュミナとの稽古続きだったし……ようやく今日はゆっくり眠れそうだ。
そうして俺は、藁のベッドに身を沈め、気絶するように眠った。
◆
異世界に来て十二日目。
リカがエルフの村から帰ってきた。
上半身裸の俺を見るなり、顔を真っ赤にして変な声を上げたが、すぐに大きなバッグと革袋をどさっとテーブルに置いた。
……いや、言っとくが、服がないから着てないだけだ。
それにしても、中から出てくるわ出てくるわ。
パン、タルト、燻製肉、干し果実、チーズなどの保存食、さらに毛布、石鹸、身体を擦るゴシゴシまである!
これで風呂でも泡立てられるし、垢も落とせる。
リュミナ曰く、『回復術師は常に身体を清潔にしておかなければなりません。不浄は魔力の流れを濁らせますよ』……とのことらしい。
……一応、俺も腐ってもヒーラーってとこか。
リカからタルトを一つもらい、口に運ぶ。
……シーベリーみたいな味……ちょっと酸っぱくて……蜂蜜っぽい甘さだ。普通にうまい。
「……ん、うまいな、これ手作りか?」
「えへへっ、そうですっ。実家で作ったんですよ? お母さんがよく焼いてて、小さい頃から手伝ってたんです。エルフの村ではね、果実を一晩蜂蜜漬けにしてから焼くのが定番なんです。この酸味と香りが残る感じ、私は好きなんですけど……」
頬を染めて、リカがそっとこちらを見上げてきた。
「……どおりで、少し蜜っぽい味がしたのか」
「わかりました? この蜜はフュラノの森でしか採れない月千花の蜂蜜なんですよ。お母さんから甘さは控えめにして素材の味を生かしなさいって、ずっと言われてて……だから、これも実家の味なんですっ!」
リカは照れくさそうに頬を掻きながら笑った。
まるで自分の生まれた場所を、少しだけ俺に見せたい……そんな感じだった。
俺がエルフの村に行けなかった分、こうして色々と持ってきてくれてるんだな……そう思うと、なんだか妙に健気に見えてくる。
……そうだ。ついでに外の世界の話も聞いておこう! そう思ったその時――
「――あっ、そうだ! 旅の準備もそろそろしなきゃですね!」
「……ん? 旅? いや、俺そんなこと一言も言ってねぇけど」
「ふふっ、なんとなく、そんな気がしたんです。スローライフといっても、先輩、ここにずっと閉じこもるタイプじゃないですもんね」
「……そう見えてたのか?」
そして、リカは少し口を尖らせて……それからゆっくりと話し始めた。
「私は……先輩と、この世界を見たいんです。確かに、ここでスローライフを送るのも幸せだと思います。静かで、あったかくて……先輩と過ごす毎日は、本当に穏やかで楽しいです。でも、このまま何も知らないまま終わるのは、きっともったいない気がして……」
リカの指先が、テーブルの縁をなぞる。
「せっかく異世界に来たんです。知らない街や、まだ見たことのない景色を見てみたい。そこで出会う人たちと話して、いろんな空の色を知って……そして、その場所に……もし先輩が隣にいてくれたら、もっと楽しいと思うんです」
一瞬、沈黙。
俺は苦笑して、天井を見上げた。
「……まぁ、マサラタウンで幸せになる主人公もいいけど、せっかく異世界に来たし、旅してみんのも悪くねぇ。それに、合わなかったら……またここに戻ればいい、だろ?」
「やったー! じゃあ、少し準備してこようかな……って……あれ?」
リカはぱっと顔を上げ、嬉しそうに笑うと、何かに気づいたようにこちらへ歩み寄ってきた。
そして、首を傾げながら俺の耳元に伸ばした指先で、そっとピアスをなぞる。
「先輩、これ……なんですか?」
「……ああ、これか」
リュミナからもらったピアスなんだが、さすがに、“幽霊にもらいました”なんて言っても信じてもらえねぇよな。
どう言い訳したもんかと考えていると、リカがじっとそのピアスを見つめていた。
「綺麗……鱗みたいな模様ですね。なんだか冷たいのに、ちょっとあったかい感じがします」
「そうか?」
「はい。……先輩に似合ってます。けど……」
リカは一瞬だけ視線を逸らし、俺の頬を指でなぞる。
「……これ、女の人にもらったんですか?」
「なっ……誰がこんなとこに女いんだよ。この辺り、魔物と木ぐらいしかねぇぞ」
「ふふっ、ですよね。……でも、ちょっとだけ嫉妬しちゃいました」
リカはそう言って、頬をふくらませながらも小さく笑い、
自分の荷物を抱えて部屋へ戻っていった。
……いや、なんだその反応。嫉妬って……。
でも、ちょっと悪くない……か……いやいやいや、違うだろ! 何を期待してんだ。落ち着け。
そしてこのあと。
俺がリカの部屋に入ったことがバレて、こってり問い詰められるのは……また別のお話である。
……ほんと、マジで何もしてねぇんだって。




