50 欲求
正式に婚約を交わしてしばらくして、雪が深くなり落ちつくころには、ディオンもクロエの顔をまっすぐに見られるようになっていた。
ともに行動することが多く顔を合わせる毎日だったので、いい加減慣れたらしかった。
しかしそのスタンスは変わることがなく、なんの障害もなく日々は進んでいくが、彼はクロエゆかりの物を収集していた。
収集していたというか、自分で作り出す域に達していた。
具体的に言うと、クロエのスケッチを取り始めるようになった。
意外と……というわけでもなく彼は絵がそれなりにうまく、貴族の教養としてきちんと習得していたらしい。
描きあがる絵はどれもそれなりのクオリティだ。
しかし美化されすぎていて、クロエとしてはこれが自分かと頭に疑問符を浮かべるのだが、彼が楽しそうなので放置していた。
そうして今日も、彼は真剣な顔をしてクロエのことをモデルにして絵を描く。
暇なので窓の外で、しんしんと降り積もる雪を眺めているが一面の銀世界はあまり代わり映えしない。
けれども時折、積もった雪が枝からどさりと落ちるところや、雪の降る加減の移り変わり、外に出たらどれほど寒いだろうかと窓に手を当ててみるとじんと冷える。
その些細な変化や感じる気温は面白いものだ。
温かい部屋の中から眺める美しい銀色の庭園の景色は、花が咲き乱れる春と同じだけ贅沢なものである。
……それに春になったら魔獣が一気に動き出すもの、こんなふうにゆっくりはできないでしょうね。
だからこそ、こうして過ごせる今というのはとても重要だと思えて、ふと視線をディオンに向ける。
すると彼はクロエのことを絵のモデルとしてとらえているからか、目が合っても反応せずに、クロエのことを一心に見つめる。
「退屈しないのですか」
クロエはなんとなく口を開いてそんなことを聞いてみた。
クロエは外の景色を楽しんでいるからいいものの、彼は絵を描いているときに見るのはいつもクロエのことだ。
いい加減、見飽きてもおかしくないと思う。
「……」
「……」
「……退屈とは、まったく思いません」
絵に集中しているからか返答が返ってくるまでにしばらくの時間を必要とした。
そして帰ってくる返事は予想と一致する答えで、クロエも随分彼のことを理解してきたと思う。
「むしろ、堂々といくら見つめてあんたの美しい部分を探して書き出せるなんて、昔の自分なら想像もしていなかった嬉しいことです」
「……」
「だからとても楽しいです。あ、退屈なら言ってくださいすぐにやめるし」
クロエのことを気遣ってそう言う彼に、クロエは気にせず「そうですか」と短く返して、また窓の外を見た。
そんなそっけない返事でも、クロエは嫌ならすぐにやめようということを彼も理解しているからか、ディオンも気にせずすぐに絵を描く音が聞こえてクロエも外の景色をまた眺めた。
シャカシャカと紙をこする音だけが響く静かな空間で、パキッと薪がはぜる音がする。
そして白い雪を見ながらクロエは思った。
……わかってはいたことですけど。本当に婚約してお互いに相手のことを縛っていい権利を得たとしてもディオンは変わらないのですね。
敬語が混じったような話し方も、クロエのことを尊重する気持ちも、何もかも。
彼は幼いころから抱いている気持ちをずっと変わらずに、持ち続けている。
それはどんなに状況が変わっても変化せず、彼の気持ちは、この雪景色のように純白で美しいものだった。
……一切の曇りがなく、純粋で、汚れない愛情……。
それはとても美しいし、素敵なものだ。得ようと思って得られるものではない。クロエにとっても価値がある。
しかし、そうであることは決められたルールでもなければ、覆してはいけない世界のことわりでもない。
むしろ逆だ、人を思うならばその裏側にはきっと求める気持ちがついて回る。
彼を好いていると思ったクロエが、彼の拒絶を押し切ってまで彼の問題を解決したことはそれに起因する。
それは当たり前に押し付けるべき感情ではないし、他人を引き合いに出して強要するべきことでもない。
けれども、お互いにそう思い合っているのならば、求めあうのは必然でありアリエルやベルナールが大体一緒にいてどこでも惚気て愛を示し触れ合うように、クロエたちだってそうしてもいい。
……でも真っ白なのよね。どこまでいっても、彼は求める感情を表に出さないし、望まない。
「……あなたって、謙虚ですね」
「……そうでもない、と思う。絵をかかせてもらっているし」
「それとも単純にただの善良なだけの人?」
「え? ……どういう話か見えてこないんだが」
「……ただの独り言ですよ」
「は、はい」
クロエの脈絡のない言葉に翻弄される彼に、適当な言い訳を言ってまた考える。
……でもただの善人なんて……ありえないと思うんですよね。
聞いておいて、その可能性は頭の中で否定する。
なんせそうだったらそれはそれで少々おかしいことだと思うし話し合った方がいい。
けれどもそうではなく、クロエは彼がまったくもって子供みたいに純粋な愛情を向けてくるのは、きっと許されなかったからだと思うのだ。
幼いころから抑圧されて育ってきて、クロエに好意を抱いても決して届かないしかなわない。
だからこそ欲望なんか消し去ってしまってないみたいに扱っているだけではないか。
けれどもそれを確かめたことなんてないので真偽はわからないし、どうすればお互いに求めあうことができるのかもはっきりと答えは出ない。
ただ考える時間はたくさんあって、クロエは雪の降る庭園を見つめながら答えを出した。
十分後には彼は絵を描き上げた様子で、ぱっと顔をあげる。
それと同時に立ち上がった。
「よし……見てくれるか?」
彼のそばによると、すぐにディオンはクロエの方へと画版を向ける。そこには物憂げな表情で外を見つめる美しい黒髪の女がいた。
相変わらず恐ろしいほど顔が整っており、こんな人間が実際にいたら、傾国の美女と呼ばれていただろう。
けれどもそれを否定することはなくクロエは「うまいですね」と言いつつ、彼の手から画版をやんわりと奪い取った。
「……?」
そうして近くにあったソファーにそれを置いて、立ち上がろうとする彼の肩に手を置いて制止する。
首をかしげてクロエのことを見上げる彼に、クロエはうっすらと笑みを浮かべて一歩距離を詰めた。
首が痛そうな距離感で、それでもクロエの意図をくみ取ろうと見上げる彼は健気でその赤っぽい金髪が目にかかっている。
のけるために額に触れると彼は片方の目をつむって、身を固くした。
「私がこうして少し触れるのは多少慣れましたね」
「ま、まぁ、一応……」
「顔も見られるようになりましたし、初めて会った時とは大違いです」
「そ、そうですね」
戸惑いながらも肯定する彼は手を細かく震わせていて、まったくもって平常心というわけでもないと思う。
しかし変わった。あの時は、こんなふうに触れ合うことは難しくて、挙動もおかしかったが今の彼の反応は一般的な男性の範疇だ。
それならきっとこれからも変わっていく。
「……私が以前、あなたのことを好きだと言ったことを覚えていますか?」
「忘れたことは、ない、が」
「その時のあなたの返答は?」
「お、覚えています」
動揺は声にも表れて、その瞳は不安に揺れている。けれども逃げ出すようなことはなく、クロエのことを見つめて彼は返した。
「ありえない、とか言って、申し訳ありません」
「怒っているわけじゃないんです」
「? ……じゃあ、どういう……」
「……絵のモデルをしながら考えていたんですよ、私」
クロエはそうしてディオンに優しい声で言う。
「こうして問題を解決してなんの障害もなくそばにいますが、あなたはまったく変わらない」
「……」
「私のことを思う気持ちばかりで、自分からなにかを求めることはない」
「それはっ……その。俺はあんたをそんなつまらないもので縛りたくないし」
クロエの言葉にディオンは一生懸命に反論したがその言葉はあまり正しくない。
「正しく望むのと縛るのとは別物ですよ。ディオン。家族や友人たちが私に会いたいと望んで、一緒に何かしようという言葉はしばりつけているとは言えないでしょう?」
クロエの言葉に彼はおずおずと頷く。
「あなたは、私になにかを望んでもいい。もちろんお互いの了承は必要だと思いますが、私だってあなたを愛しているのですから、望まれたら嬉しい」
「う、嬉しいか?」
「嬉しいですよ。あなただから」
「…………」
「それとも、一切ありませんか? 一点の曇りもなくあなたの気持ちはまっすぐに私を応援するだけのシロモノですか」
沈黙する彼にクロエは続けて問いかける。
まったくそんな気持ちなど一切湧いてこないのだというのならば、この問答は酷なもので、嘘をつかせたいわけではないので可能性をきちんと提示した。
「ずっとそうしていたいとあなたは望みますか。あなたはそれがきっとできる。でも、できるかどうかではなくて、あなたの本当の気持ちがどんなものか私は理解したいです」
言い終えるとクロエは一歩引いて、考える時間を与えるために彼の頬に触れていたその手を離そうとした。
しかし、すぐにその手を掴まれてまるで引き留めるみたいに、ディオンは離さなかった。
「っ……」
まるで呆れられるのを恐れる子供みたいに必死で、自分の中で言葉を探していて、けれどなにを言うわけでもない。
「……」
「……」
「……ごめん」
そうして最終的に謝った。
その謝罪の意味が分からなくてクロエは言葉を返せなかったが彼は、クロエのその片方の手を両手でぎゅっと握って俯くように頭を下げる。
額に手を当てて小さくなる彼は、許してほしいと真に願っているみたいで、少し可哀想で、その頭を撫でた。
「まったくありませんか」
「っわ、わからない」
それから、本当に真っ白なだけの愛情だったのだと思ってクロエが問いかけると予想外の返事が返ってくる。
「わかってる。本当は、あんたのことを普通に愛するべき段階にいることはわかってるんだ」
「……」
「でも、わからない。うまくやれる気がしない。俺は当たり前のようにあんたに触れられない、クロエ様からのなにかを欲しいとはうまく思えない」
……うまく思えない……ですか。
「そんなものを望むのは、具体的にいうと恐れ多くてとても口にできなくて、怖い。情けないことで意味の分からない主張をしているのはわかってる。でも……」
そこで言葉は途切れて、彼は顔をあげる。
見間違いかもしれないけれど涙がにじんでいるように、見えて顔は真っ赤で酷い状態だった。
「いかないで、欲しいということだけは……言いたい。ごめん」
その言葉を言われて、クロエはやっと彼がまったく自分を望まないことによって捨てようと考えていると勘違いされたのだと察してキョトンとする。
そんなことで捨て置いたりするわけがない。
彼の本当の気持ちを知りたいだけだ。
愛するだけ愛してまったく何も望まない常識外れの人物なのか、欲求が出てこないだけなのか知りたかっただけだ。
それに急いで、求められたいというわけでもない。
別に急ぐ理由もないのだし、少々普通の令嬢ではないクロエが、彼に普通にしてほしいなんて言うはずもないのである。
「な、情けない顔ですね」
「わかってる。とても、好かれる人間ではないことぐらい」
「そんなこと言ってませんよ。あなたがどういう愛情を持っていても私はあなたのことを好きですし……」
そう言って、そのままたまらずクロエはディオンのことを抱きしめた。
ぐっと近く体を近づけて、目線のすぐ下にはディオンの髪がふわりとしていて、後頭部を撫でる。
「それに、そう言えるのならきっと、そのうちわかるようになりますね」
それは彼に伝える言葉ではなく独り言だった。
いかないでほしいと言えるなら、クロエが去っていこうとするときに手を取って引き留めたいと思うなら、いつか手を取って、それ以上のことをして愛し合いたいという気持ちも出てくるだろう。
それがわかる日が来るのを楽しみにするぐらいの余裕はクロエの中にある。
いつか、その真っ白な愛情をジワリと染めて、手を伸ばしてくれるその日を心待ちにしたい。
「ははっ、楽しみです」
「っ~……頼む、離して、く、くださっ」
クロエはそう結論を出したが、ディオンは必死になって声をあげた。
ぱっと体を離すと言葉にならない声をあげて悶絶し、顔を覆って小さく唸り始めた。
楽しみではあるが、その日は遠そうだとクロエは思い直してまた笑ったのだった。
これにて本編完結です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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