42 境界
クロエは日をあらためて、リクール辺境伯邸へと向かった。
先日は雪が降ったのか、地面にうっすらと積もっていて、寒さが厳しい日だった。
そこにはめいっぱいめかしこんだクローディットの姿があり、彼女はたしかにディオンと同じ髪色をしていてクロエのことを一心に見つめている。
「初めまして、クロエ・セシュリエ様、あたしはリクール辺境伯第二夫人のクローディットと申します」
淑女礼をして名乗る彼女の態度に、一見するとそれなりに良識のありそうな夫人に見えた。
「いらっしゃってくださって嬉しいわ。……ごめんなさいね、息子があなたを混乱させるようなことを言ってしまったのでしょう?」
「……」
言いつつも彼女は隣に控えているディオンのことを視線で示す。彼は、口を閉ざして否定も肯定もしなかった。
「きちんとした説明をさせてください。きっとご理解いただけると思うのよ」
そうして応接室に案内されて、ソファーに座り、その際にも彼女に変わったところは見受けられずに、彼女を交えた話し合いの場は始まった。
この話し合いはディオンが自分のすべての事情を話したことによって、滞っていた婚約の話を進めるために直接クローディットと対話をするという体面があるため、彼女の目的ははっきりとしていて口を開く。
「それで、あたしがクロエ様に弁明したいのは、絶対に、第一夫人であるフロランスの息子になんてディオンが負けたりしないということよ」
彼女はクロエとディオンが問題視している彼女自身のことではなく、跡継ぎ問題に発展するのではないかという懸念を消し去ってどうにか結婚にこぎつけたい。
だからこそ、その瞳は真剣だった。
しかししょっぱなからどこか方向性はずれていた。
……だって普通は、結婚相手になりそうな人にアピールするのであれば、第一夫人との関係の良好さや、どれだけディオンが跡継ぎとして家族全体で認められているかではありませんか。
けれども口をはさむことはなくクロエは当たり障りのない返答をする。
「と、言うと?」
「だからね。わかってもらえると思うのだけれど、ディオンはあんなボンクラで怠け者の弟になんて跡継ぎの地位を取られたりしないわ」
「私は、詳しくこちらの家の状況を知りません」
「そ、そうよね。それは理解しているわ、きちんと説明します。この子には幼いころからたくさんの教育を行って来たわ。なんでもできるなんて言えないけれど、王城の事務官の試験も突破したことがあるし、魔法学園の入学試験も合格できるだけの魔法の才能も有ります」
「……それはどこの魔法使いのお墨付きですか」
「以前、魔法協会で勤めていた魔法使いの方よ、推薦状を書いてくれることを約束してくださったわ」
その言葉を聞いて、クロエはパチパチと瞬きした。
事務官の試験はそれなりに実務をこなせなければ突破できるものではないし、魔法協会は魔法使いの最高機関なのでそこの魔法使いが推薦状を書くというのならばそれは才能があるかよほど努力をしたに違いない成果だった。
……たしかディオンは土魔法の属性を持っていましたね。
使っているところは見たことがないけれど、それでもこの場で適当な嘘をつくとは思えなくて意外な顔をしてクロエは彼を見た。
当のディオンはとても微妙な顔をしていて、それは母が自分の自慢をして羞恥心を感じている顔なのか、嫌悪している表情なのかはよくわからない。
「それに、剣術の方は……リクール辺境伯家騎士団で訓練を積ませた程度だけれどそれでも、筋は悪くないそうです」
「……あなた、戦えるんですか」
さらにいわれた言葉にクロエは、ついディオンに問いかけた。
ディオンはものすごく渋い顔になって「あんたに秒で蹴散らされる程度には」と返してくる。
その言葉にクローディットは視線を鋭くしてディオンを見るが、彼は素知らぬ顔で彼女のご機嫌をうかがうような態度は見せない。
……そうだとしても本業ではないのに、魔法も、剣術も、事務仕事もなんて……。
ずいぶん、いろいろなところに手を伸ばして今は爵位家継承者としても申し分ないほどの実力があるとは、あなたの自己肯定感の低さはどこから来るのですかね。
クロエはそう疑問に思ってしまうぐらいだったのだが、彼は自分の功績などまったく誇らしく思っていない様子だった。
「たしかにクロエ様には及ばないのは当然よ。でも、あなたは現に勝ってるじゃない。勝ってるのよ大差をつけて、フロランスの息子よりもずっと勝ってる!」
しかし、ディオンに素晴らしい功績を否定されたことによってクローディットは少しヒステリックになって続けた。
「跡取りの問題なんてないも同然だわ。それにクロエ様がディオンと結婚してくれれば今以上に万全になる、いや、完璧になるのよっ」
「完璧ですか」
「そう、そうです! それが成されればもうあとは、怖いものなんてなにもないぐらい、完璧よ。ディオンにはこのままどの方面でも成果残すように働かせ続けて、あなたはお屋敷の中でただのんびりとしていても誰も文句なんて言わないわ!」
彼女はどんどんとヒートアップしていき、にっこりと笑みを浮かべる。
「あたしの子供だものできるわ。あたしのことも大切にしてくれる息子だもの、あなたのこともきっと大切にする、あたしもあなたを誰より大切にするし優遇する。フロランスになんて大きな顔をさせたりしないっ!」
「私のことを?」
「だって結果は出たも同然でしょう? 女の価値は子供の価値! あの人の子供はどうしようもない子供だったでも、あたしはそうじゃない、あたしは公爵家という産まれに満足せず素晴らしい経歴を持つクロエ様と結ばれて、幸福な結婚生活を送るのよ」
「私と……??」
「それもこれも、なにもかも、頑張ってきたおかげだわ。必死になってよかった! 早くはらんで、男を生んで、必死になってきた甲斐があった!」
クローディットはどこまでも変な方向に話を進めていき、クロエはぞわりと肌が粟立つ感覚を覚える。
「報われたのだわ。本当に嬉しい、相変わらず可愛げがなくてなにを考えているかわからない可愛くない子だけれど、大丈夫。あたしが全部きちんと管理しているから、安心してお嫁に来ていいのよ」
…………ディオンが私とこの人を関わらせたくない理由がわかりましたね。
彼女は当たり前のように彼を支配しているつもりで、彼の功績や彼のことを自分のこととしてとらえている。
自分とディオンの境目を見つけられていない。
なので話をしていくうちに自分とクロエが結婚するみたいに聞こえる内容を話し出してしまうのだ。
……これはたしかに……。
「それにね、クロエ様、あたしあなたのことを本当の意味で理解してあげられると思うの」
「ええ?」
「あたしには、弟がいるのよ。それはもう可愛くないゴミみたいな弟がね」
彼女は満面の笑みを浮かべたまま、自分の身内を罵り始める。
「生まれた瞬間から、あたしのことを蹴落として、あたしの居場所を奪って本当に最低最悪の人間」
「……」
「クロエ様もそうなのでしょう? とられたのよね。居場所を。だから女の子なのに騎士になんてなって可哀想に、立派にならなくちゃいけなかったのね」
彼女は一息ついてクロエを慰めるようにそう口にした。
一瞬、何を言われたのかまったく理解できなかったが、かみ砕いて考えてやっとジルベールに爵位継承権を取られたクロエが可哀想だと言っているのだとわかった。
それはまったくの事実無根であり、こんなこと今まで誰にも言われたことはなかった。
「でも、もういいのよ。もう大丈夫、この子は弟なんかに負けないわ。あのフロランスの息子もきちんとあたしが、見張って躾けて、絶対に反抗なんてさせない。どんな手段を使っても」
先日、ディオンにしがみついていたエクトルの姿を思い返す。その彼に向けていたディオンの瞳も、そこに宿っていた愛情だってクロエは一度会っただけで理解していた。
しかし彼女の眼には何も映っていない。
実の息子のことも、クロエのことも、何もかも。
それはどうにもたしかに厄介であり、解決の方法は一つしか思い浮かばない。
「だから、二人で幸せになりましょうね」
そう締めくくる彼女にクロエは「そうですか」と静かに返してその日の話し合いを終えたのだった。