梅竹義人という男
止められていた時間が動き出し、慌ただしさが訪れた現場とは裏腹に会社のデスクへと戻った3人はマスクを外し、報告書の作成を行っていた。時系列に沿って事実だけを記し、最後に被疑者死亡と締めくくる。
「…………」
ハルペーは投与後、すぐさま血流に乗って体内を駆け巡り、その過程で能力者因子を破壊するのだが、能力者にとってこれは激痛という言葉では生ぬるい、治療という名の拷問でしかなかった。
肉が内側から抉られ、刻まれ、焼き尽くされる。脳の血管がはち切れ、意識を失ったかと思えば再び突き刺すような痛みが襲う。
この逃れようのない苦痛から喉が干乾びる程の声を上げ、のたうち回る姿を見せることも怪物殺しの名を与えられた由縁でもあった。
暴れ回る能力者を押さえつけるのも陽斗の仕事だ。血飛沫を上げる投与者に何も思うことはなく、ただ逃げられないよう気を配るだけであった。
被疑者に必要以上に感情移入をしない自分はこの仕事に向いているのかもしれない。彼はそう考える。
これは慣れというよりも最初から何かしらの感情を持ち合わせてなどいなかった。どのような経緯があれ、事件を起こすような輩がいくら自分の目の前でどうなろうとどうでもいい。お前らの所為でこっちの立場が余計に悪くなる。そんな怒りの感情しか抱けない自分はなんて冷酷な人間なんだと自嘲したこともあった。
机が4つ並べられただけの室内には先程の現場にも同行していた先輩であり命の恩人でもある『ホッグ・ノーズ』、梅竹義人が同じように報告書を作成している。
その名の由来はネット掲示板の住人であり、有力な説の一つとして上げられる理由は防犯カメラに映ったフードを目深に被る姿がまるで豚の鼻のように見えたからだそうだ。
彼は陽斗よりも10歳年上で、今月の20日に33歳になる童貞である。力を得た15歳の頃から世の為、人の為に自ら進んで力の行使を続けてきた。
現実世界に現れた非現実的な存在。そんな彼らに対する風当たりは彼と『アダマス』、笹川優人が今日まで力を尽くしてきた賜物でしかない。
「梅竹さん」
パソコンを閉じ、小春は立ち上がって近づき、目の前の上司に声を掛けた。陽斗は一瞬、視線を動かす。
義人の身長は180センチを超えており、雄豚の名に相応しい強靭な体躯の持ち主であった。四肢や胸の筋肉の発達具合からも格闘術、逮捕術、射撃技術、これら日々の研鑚を物語っている。
この四肢の他に4つの触腕を自在に操り街を駆け回るその姿はまさに超人。と見る者に強烈な印象を与えた。
顔はモテた試しなどない疲れ切った四角顔。髪は短く、側面を刈り上げており、目元は重く眠たげな目蓋の重い一重であった。
陰気で根暗、生真面目で気難しい性分がへの字に歪んだ口からも垣間見れる。
彼の異能は触腕の他に小春と同じく身体機能の強化、触腕の硬化、レールガンなどだ。
そんな何処か近寄り難い、厳めしい雰囲気を漂わせ、どんな素人であれ迂闊に手を出せば痛い目に合う。これが義人の佇まいであった。
「ん? ああ、はい」
義人は顔を上げ、その目を僅かに大きく拡げる。
「報告書を送信したので確認お願いします」
「ああ、はい。解りました。ちょっと待ってくださいねー」
抑揚のない声を受け、言われた通りさっと目を通すと紙を一枚コピー機から排出させ、穏やかさに努めた口調を後輩へと投げ掛けた。
「うん、大丈夫ですね。じゃあ後はこっちでやっておくんで、今日はもう上がってください」
そう聞くと彼女は淡々と定型文を口にして、
「解りました。ありがとうございます。お先に失礼します」
「お疲れ様でーす」
会釈をした彼女は早々に帰宅の準備を始めた。
「お疲れ。気を付けて」
「お疲れ。―—―—お先に失礼します」
かと思えばあっという間に風となり、出入り口に向かって流れて行く。
そうして自席を後にする彼女の背中を見送り、再び静寂が訪れると思われたその時、
「いやぁー。お疲れー」
セキュリティを解除し、眉目秀麗な伊達男。笹川優人がやって来る。