雪山にて
「逃げよう」
ゼフィランがその提案をした時、ディアーンは全てを察した。
勘づかれた。所在がバレてしまったのだと。
「最近、町に降りると私を探る影があったんだよ。だから警戒はしていた。尻尾は出していないはずなんだけどね」
これは女の勘だけど、と前置きしゼフィランは、
「たぶん今夜にも奴らは一か八かで突撃してくるだろう」
という予測を立てた。
「なら……、」
俺だけ逃げればいいじゃないか。そう言おうとしが、ゼフィランの表情を見て口を継ぐんだ。
なぜならそんなこと、
「そんなこと私が許すと思うかい?」
実際問題、一人で遠くまで逃げきれるほどディアーンは回復しきっていなかった。
あの日から4ヶ月、にしてはずいぶんと傷も癒えている方だ。というか異常な回復力だった。瀕死状態だったとはとても思えない。
「それに匿わなかったという証拠もないんだ。疑わしきは罰しろってね。結局は同じさ」
ゼフィランは優しく笑った。
「さ、荷物をまとめるよ。君も……君は荷物無いか。なるべく暖かい格好をするんだよ。ああ、そのネックレスとロボット、忘れないで持っていきなね」
ゼフィランは荷物をまとめ、あえてまだ夜も開けきらぬ寒々しい時間帯に家を出た。
「どこへ向かうんだ?」
言葉に合わせて白い息が宙を舞う。
「そんなの決まってたらとっくに動いていたよ」
それもそうだ。
冬の山。あたり一面を包む雪はディアーンの膝下ほどまで覆っている。ゼフィランの貸してくれた防寒具が無ければ即凍死していただろう。
一歩一歩、足を地面から引っこ抜くように進んでいく。
しかし、良いか悪いかゼフィランの女の勘というのは当たってしまっていた。
「まずいね、これは」
日があたりを照らし始めた頃、遠くの方にぽつぽつと人影が見えたのを見逃さなかった。
遠い岩陰の隙間から双眼鏡を覗かせてゼフィランは聞く。
「あの男?」
防寒用防具に身を包んだ人々の中に1人、麻色の衣に身を包んだ長身の男が混じっていた。
肉眼でも難なく見えるほどの視力を持つディアーンの頷きを確認するまでもなく、その特異な出立から、先日話した不思議な男だというのは一目で分かった。
「奇妙なんだよね」
相変わらず双眼鏡を当てたままゼフィランは、
「先の話と照らし合わせれば、おそらくアイツらは君が半壊させた町の住人達だろう。ただ、半壊した自分の町を放ってまで君を追いかけてくるだろうか。情報を収集し、私という可能性を突き止め、そして今ああして追いかけてきている。曲がりなりにも町壊しだの白い悪魔だのと言われている君と、一般人がそう何度も対峙したいと思うだろうかってね」
「どういう事だ?」
「なーんか匂わない?あの男」
「匂う?」
ディアーンは咄嗟に鼻をひくつかせたが、もちろんそっちの匂うではない。
「そもそもあの町にそんな強い璨力を持った人がいるなんて聞いたことないんだよ。しかもこの地方の璨力じゃないかもしれないんだろ?……まあ、たまたまって可能性もあるけどさ、何か別の力が働いてるんじゃないかと私は睨んでるんだ。あの親玉ポジションの麻色男、見るからに手だれっぽそうだし」
このままだと逃げきれない。それは明白だった。
病み上がってすらいない身体で極寒の雪山を歩かなければならないのだから当たり前だ。その差は徐々に縮まってきていた。
どうにかしなければと思いながらも、現状を打開する策はひとつしか思い浮かばなかった。
「仕方ない。私が時間を稼ぐから、君は逃げてくれ」
ゼフィランはディアーンに言った。
「このままじゃ2人とも捕まってしまう。そしたら全て台無しだ」
「でも……!」
でも、2人で逃げ切る事に意味がある。ディアーンはそう考えていた。いや本当は、もし危険があったら、自分を捨てて逃げてほしいとさえ思っていた。
「……何でそこまでゼフィランは優しくしてくれるんだよ」
意味がわからなかった。最初から疑問だった。あの時、川で自分を拾い上げたあの時から。
「理由なんてないさ。君を拾ったことも、面倒を見てきたことも。私がそうしたかったからした。それじゃ不満かい?」
不満なんじゃない。不思議なんだ。
札付きの人外生物を何の理由もなく庇う行動が理解できない。だって人間ってのはもっと残酷で、醜くて、惨たらしくて……、
「私はね、ディアーン」
ゼフィランの口調はとても優しかった。
「君にもう一度人間を信じてほしいんだよ」
そしてディアーンの頬に両手をそっと当てた。
「君が人間を許せないのは痛いほどよくわかる。私もそうだ。それでも、そんな人間だけじゃないってことを知ってほしい。良い人だっていっぱいいるんだよ」
「……ゼフィランみたいな?」
「おっ、嬉しい言葉が聞けたね。そうか、私を良い人と言ってくれるか」
大きな口を開けてははっと笑うゼフィラン。
そう、この人は他の人間とは違った。まるで母のように優しく、友のように気さくで。そして、とても温かかった。
「アンタはケガの治療もしてくれた。ご飯も食べさせてくれた。今度は俺を逃すために命まで張ろうとしてる。俺は、」
その目は次第に潤み、
「俺はゼフィランに何の恩返しもできてない」
ポロポロと涙を流した。
その姿を見たゼフィランはフッと困り笑顔を浮かべ、
「バカだね……」
ディアーンをギュッと抱きしめた。
「恩返しなんて考えるんじゃないよ」
まだまだこの両腕にすっぽりおさまるほどの小さな身体。小刻みに震える身体を包みながら、ゼフィランは耳元で呟いた。
「君はまだまだ子供なんだ。本当はずっと大人が近くにいて、君を守らなくちゃいけなかった。君にはその権利があるんだから」
ディアーンの鼻を啜る音を聞きながら、優しく背中をさする。
「でもそうだね。もしも私の足止めが成功して、万が一、君が娘に出会う事ができたら、その時は私の代わりに君があの娘のそばにいてあげてほしいな。6年も前に行方不明になった子がまだ生きてると願ってるだなんて、親バカも拗らせすぎて救いようがないのは分かってるけどさ、目の前で死んでるのを目撃したわけじゃないんだ」
「…………」
「ああ、ごめん。失言した……」
ゼフィランは少しはにかみながら謝った。
「でも人攫いは売り飛ばすのが目的だからね。うまくいっていれば生きている可能性は充分にあると思うんだよ」
うまくいっていれば……。その言葉に1番懐疑的だったのも実はゼフィランだが。
「まあ、バカな私を肴に、私への文句をしこたま募らせてるであろうあの娘に、そうだねって隣で笑ってあげるだけでいいからさ」
そう言うゼフィランの身体にしがみつくように、ディアーンも抱きつき、
「見つけるよゼフィランの娘。絶対に」
その声に、ゼフィランは嬉しさを隠すようにもっと強く抱きしめた。
「ありがとう。いい子だね」
2人はとっくに親子だった。