異界
「逃げられないなら、受けて立つしかないじゃない。はじめたのはフェリクスだよ。あたしのせいじゃないからね」
「だから、せきにんはとるといってる」
ボタンは胸下までだ。そこまで外して、右腕を袖から引き抜く。
「フェリクスはそれ、脱がないの?」
促したら、彼は不思議そうな顔をしながらも黙ってタンクトップを脱いだ。
清乃は左腕も抜き取って、腹の前で左右の袖を縛って留めた。
下に着ているのはカップ付きのキャミソール一枚だ。このくらいの格好、プールに来ているとでも思えば大したことない。
フェリクスの上裸にしたって、パンイチ姿はすでに見ているのだ。ズボンを穿いたままの今のほうが、あのときよりはマシだ。
(全然平気。これくらいなんともない)
「……ちいさいかただな」
大きな手に肩を包み込まれたから、清乃もすぐそこにあった肩に掴まって膝立ちになった。
「そうだよ。貧相で悪かったな。これがあたしなんだよ。ちゃんと見てよ。今くらいは従弟の愛人なんかじゃなく、ちゃんとあたしを見て。自分を欲しがってもいない男が最初の相手なんて嫌だよ。惨めな思いをさせないで」
「ああ。わかってる。おれはいま、キヨのことだけをかんがえてる。キヨがほしいとおもってる」
フェリクスを見下ろすと、彼の手がキャミソールの裾から入ってきた。肌に直接触れて、曲線に乏しい腰の形を確認している。
「本当? フェリクス、本当にあたしのことだけを見ててよ」
清乃は両手でフェリクスの顔を挟み、彼の目を覗き込んだ。
月明かりに照らされたユリウスと同じ色の瞳には、確かに清乃の姿が写っていた。
「フェリクスがやりやがった――――‼︎」
枕元に置いていた携帯電話の通話ボタンを押すと、耳に当てるまでもなく、ユリウスのうるさい声が聞こえてきた。
美形王子のキャラが崩壊しまくっている。
これもすべてチンチクリンの日本人が原因なのか。
杉田清乃。誠吾の姉は意外と罪作りな女だったようだ。
マジで犯罪レベルだよ。なんとかしてやれよ、相手は王子様だぞ。
「今度はなんだ」
時計を見ると、もう二十一時になるところだった。だいぶ眠れた。完全に昼夜逆転してしまったが、夜は魔女の時間という話だからちょうどいい。
試合再開だ。
というかもうすぐ家に電話する時刻だ。起こしてもらえてよかった。
天気予報見た? 飛行機欠航だって。始業式には帰れると思うけど。
軽くだ。いつも通り、何事もなかったような口調で喋ればいい。
姉ちゃん? 遊び疲れて先に寝たよ。あいつ体力ないだろ。
天気が回復して、それでも清乃の身の安全が確認できていなかったら、そのときは両親に知っていることを全部話して助けに来てもらおう。
魔女がどうとか言って信じてもらえるかは分からない。だけど、誠吾の両親は子どもが助けてと言ったら、必ず駆けつけてくれる。
アホな高校生には思い付かない方法で、きっと自分たちの娘を助け出す。
キヨが無事に帰ってくるまでは、と絨毯の上で雑魚寝を決め込んでいた少年たちが誠吾の周りに集まってくる。
「ごめん、セイ。ごめん。オレ、フェリクスと一緒にキヨのところへ跳んだんだ」
「無事だったか」
「元気だった。ルイーザの家にいたんだ。それで、オレが離れた隙にフェリクスがキヨを攫った」
意味が分からない。
清乃が、フェリクスの乳母とかいう嫌味婆の家にいた。フェリクスが清乃を攫った?
「なんで」
誠吾が眠って力を蓄えている間に、姉はもう試合会場に放り込まれていたのか。遅刻だと怒られそうだ。
「操られてたみたいだ。魔女の力でどこかへ跳んだ。気づかなかったんだ。みんなそこにいるんだろう。エルヴィラに指示を仰いでくれ。俺は今から走ってそっちに帰る」
王様にではなく、魔女長にか。
何、あの王様役立たずなの? それともトップはふんぞり返ってればいいっていう考え?
「この雨の中をか。そこ車ないのかよ」
「キヨが走りまくったせいでガソリンが足りないんだと! 跳びながら走るからすぐにつく。待ってて」
ユリウスは目視できる場所へなら単独で瞬間移動できる。それを繰り返すと言っているのだ。
あれ。でも能力使い過ぎたら倒れるって言ってなかったっけ。
少年たちが素早く伝達したおかげですぐに迎えの車が走り出し、ユリウスは倒れる前に城に到着することができた。
誠吾を含め、全面的に清乃の味方をすると表明している少年八人は、城内の一室からその様子を見ていた。
が、すぐに魔女からのお言葉を賜ることに注意を戻す。
【君たちはやはりアホだな】
何故。
【ユリウスの側近になるつもりなら、あいつが暴走することくらい予想して未然に防げ】
えええ。厳し過ぎないか、それ。
でもよかった。
エルヴィラが怒っているのは誠吾に対してではなさそうだ。
「セイ、君も」
「はいっ」
「姉が大事なら、もっと周りをよく見ろ。キヨに従うだけでは駄目だ。自分で考えて動け」
「はいっすみません、以後気をつけます!」
なんで俺叱られてんだ。どっちかってえと被害者側だろ。怖いから謝っとくけど。
『エルヴィラあ! もう動けるか!』
水も滴る美少年ユリウスが、部屋に飛び込んできた。
全身泥はねで大変なことになっている。いたずらしてきた小学生のようだ。
『ユリウスださっ』
『あいつ今回いいとこなしだな』
誠吾には分からない言語だが、ユリウスの側近候補の少年たちが何を言っているか、なんとなく分かったような気がした。
同じ気持ちだからだ。
『まだだ馬鹿者! 大人しくしてろと言ったのに、何故あんな奴をキヨのところまで連れて行ったんだ!』
『ごめんなさい! フェリクスがキヨを見つけた、無事を確認しに行こうって言うから』
『おまえはあいつの言うことを信じ過ぎなんだ!』
『反省してる! いくらでも謝るから! 今からどうしたらいい? フェリクスはキヨをどこに連れて行ったんだ』
何を言っているのだろうか。
清乃は今どこでどうしているのだ。誠吾に分かる言葉を使ってくれないだろうか。
【セイ、今はユリウスが怒られてるだけ】
【そんな気はしてた】
【ユリウス、用意しろ】
ルカスが長椅子の上に置かれた衣装を指し示すと、ユリウスはすぐに理解した顔になって行動した。
すなわち、その場で着ている物を脱ぎ捨て、奇妙な衣装に着替えた。
この王子様、美少年のくせに気軽に脱ぐ。もう少し気をつけるべきじゃないか。
【どうやって行くんだ。エルヴィラが動けないなら】
【女の体調を何度も口に出すものじゃないよ。今母上が城中を探し廻っている】
誠吾に気を遣って英語に切り替えてくれたのだろうが、どっちみち何を言っているのか分からないままだ。
見つかりました、と報告に来た城の職員の後ろを、大人数でゾロゾロとついて歩く。
案内されたのは、城の地下だった。
ユリウスがお忍びに使う薄暗い通路。
そこに、国王夫妻と王太子がいた。
王妃が妙に疲れた顔で、ギロリと息子を睨んだ。ユリウスは頭を下げて、無言で母の許しを乞うた。
王子様も人の子だ。怒れる母親には勝てないし、姉に頭が上がらない。誠吾と同じだ。
誠吾は怯えを顔に出さないよう、努めて無表情を保った。
今から何が起こるのか、ユリウスが今からどこへ行くのか、空想じみた予測をたてるだけの材料は揃った。
異界への扉が開く。
今からユリウスは、現実から切り離された世界に足を踏み入れる。
清乃がそこにいるからだ。
ユリウスは古い物語の騎士のように、危険を顧みず彼女を救い出しに行くのだ。
囚われの姫君が清乃というのはミスキャストもいいところだが、ユリウスにとっては最上のヒロインだ。危険を冒す価値はある。
王妃の姿に、何か、誰か? ぼんやりした人影のようなものが重なる。
黒い靄といえばいいのか。汚れないのだろうか。誠吾の母よりも歳上だがずっと美人な王妃に気にする様子はない。
ひざまずくユリウスの頭に王妃が手を乗せると、彼の姿が消えた。
(ひっ)
予想はしていたが、目の当たりにすると肝が冷える。これは多分、ユリウスの瞬間移動とは違うものだ。
【セイ】
息子を咎める表情とは違い、おっとりした微笑で誠吾を見る王妃は、もう魔女にしか見えなかった。
この国の魔女はひとりだという話ではなかったのか。
【はい】
【気になるとは思いますが、今日のところはユリウスに任せておきなさい。何かあれば、あなたも送って差し上げます】
いや、結構です。
と言いたいのが正直なところだが、そういうわけにもいくまい。
清乃は誠吾の姉だ。この場に父母がいないのだから、誠吾には清乃を助けに行く義務がある。
例えそれが未知の場所だとしても、尻込みするわけにはいかない。
(めっちゃ怖いけどな! だから頼むぞユリウス。俺見せ場とかいらねえし。脇役のまま退場させてくれ)




