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十六夜

 清乃は暴れながら騒ぎ続けるが、フェリクスは気にせず歩みを再開してしまった。

 その小屋は、小さな狩猟小屋より更に小さくて粗末なものだった。

 隅にあるのは竈か。少し離れたところに薪が積まれていて、壁沿いに造られた台の上には調理器具。床に置かれた大きな甕。

 そしてあれは斧か。

(武器がある)

 あれを持てば、少しはこの忌々しい長身の男に対抗できる?


 視力の悪い目を細めて周囲を観察する清乃を、フェリクスはようやく解放した。

 寝台にそっと下ろされたら、何かが脚をチクチク刺激する。

【なんだ、そのしかめっ面】

「コンタクトも眼鏡もないからよく見えないの。取りに帰りたい」

【明日な。これだけ暗くなれば、どっちみち何も見えないだろう】

「眼鏡があれば見えるよ。月明かり入ってきてるじゃん」


 今夜は十六夜(いざよい)月のはずだ。

 猶予(いざよ)う、の意味は、躊躇、停滞。

 目の前の男がためらえばいい。このまま事態が停滞すればいいのだ。

 時間を稼げば、最悪の事態は免れる。一時的に嫌な思いをするだけで済む。


 フェリクスはこの期に及んで、優しい表情を崩していなかった。清乃を怖がらせないよう、細心の注意を払っている。

 大きな身体で急に動いて驚かせないよう、ゆっくりとした動作で近づいてくる。

 彼は寝台に敷かれたシーツの下に藁が敷き詰められていることに気づいて、躊躇いなく脱いだ襟付きシャツを広げて置き、その上に清乃を座らせ直した。

【キヨは、キスくらいはしたことあるか】

 下に敷かれた布が増えたおかげで、チクチクした感触がなくなった。

「ないよ。する気もないよ」

 タンクトップ一枚になって剥き出しになった肩には、細身の印象を覆すだけの逞しさがあった。そんなものを目の前に持ってこられたら、反射的に心が萎縮する。

 斧なんて持っても、こんな奴には勝てない。怖い。


【なら今日はやめとくか。それくらいはユリウスに取っておいてやれ】

「意味分かんない。そんなのあんたに決められる筋合いない」

 二十を過ぎた女のファーストキスごときにそんな価値を付けようとするな。気持ち悪い。おまえは十代女子か。

 昔読んだ騎士小説に書いてあったな。純潔は女の最も美しい装飾品だとかなんとか。

 処女信仰気持ち悪い。二股チャラ野郎が自分の行状を棚上げして持っていいものじゃないだろう。

 別に大事にしていたわけでもない。これまでそんな機会がなかっただけだ。

 回数なんか関係ない。自分が望まない関係を強いられるのが嫌だ。


【……泣くなよ】

 泣くよ馬鹿。好きなだけ泣けって言ったくせに。こんなの酷すぎる。泣くしかできることがない。

(なんであたしこんなところで、チャラい外国人に襲われそうになってるんだっけ)

 フェリクスに近づくなと母に言われていたのに。心配要らないと流した清乃が馬鹿だった。やっぱり母の言うことが正しかった。

 母は偉大だ。

 清乃にはまだ、母のような人間になる自信はない。

 人の母親になる準備なんてできていない。まだ母を求める子どもの立場でいたい。


 フェリクスは清乃の涙に怯んだりはしなかったが、身体の位置を入れ替えて寝台の上に座ると、開いた脚の間に清乃を座らせて優しく抱き寄せた。

「……なんでフェリクスがこんなことするの」

 フェリクスはそんなに力を入れている様子もないのに、胸に寄りかからされた姿勢のまま動けない。

 清乃の身体を一周した長い腕の先の大きな手が弱々しく震える両手を包み込むのは、暴れさせないためか。


 優しい空気。優しく触れる手。

 フェリクスはいい奴だ。セクハラチャラ野郎だけど、それと同時に人のことをちゃんと思い遣れる真っ当な人間でもある。

 嫌がる女に無理強いなんてできるひとじゃない。

 知ってた。

 だから嫌だったんだ。

 美形揃いの王家の血を持つ整った顔。均整の取れた長身。他に女がいても構わないと言う女性が途切れないのも当然だ。

 まだ可愛らしさを残すユリウスとは違う大人の色香。

 清乃は今、またおかしくなってきている。思考が溶けかけているのが自分でも分かる。フェリクスが出す空気に惹かれはじめている。

 昨夜も変だった。ユリウスを誘った。

 今度はこいつ? 節操が無さすぎる。何が男嫌いだ。こんなの立派な淫乱女じゃないか。

 こんな奴に触られて嫌じゃないってどういうことだ。

 これも魔女の亡霊の仕業か。それともただの清乃の本能なのか。

 フェリクスは女の扱い方を心得ている。これまでにもこうやって、土壇場になって尻込みする女の子をなだめ、心を溶かしてきたのだろう。

 経験値の低い清乃には、対抗する方法が分からない。

 田舎から出てきた純朴な女の子が都会の悪い男に騙されるやつ。二年前、大学進学のためにひとり暮らしを始める清乃を両親が心配していたのは、世の中にはこういう男がいると知っていたからだ。


「キヨがかわいいからかな」

「嘘をつくならもっとマシな嘘にしろ」

 清乃の全身を包み込む体温に少しずつ慣れてくる。震えるほどの恐怖心が薄れてくる。

【魔女の目的は聞いたか】

「……この国の外にも、魔女の子孫を増やしたいって」

 生きたい。迫害されない世界で生きたい。魔女が増えればそれが叶う。

 大昔に生まれた妄執の塊。

 迫害された魔女の亡霊。恐怖、苦痛、怨嗟、執着、そういった意識の集合体。

 そんなわけの分からないものに支配され生きてきたアッシュデール王国。


【そうだ。すごいだろ、うちの国。あいつらを外に出さないために、俺たちは生まれてきた。そのために生きていかなきゃいけない】

 低い声に笑いが混ざる。笑える話なんかしてないのに。

「……大変だね、って言っていいのか分かんない」

【他に言えることなんかないだろ。俺たちが役目を放棄すれば、地球丸ごと魔女のものになるんだ。あいつら、今度は仕返しに人間狩りでもするんじゃないか。怖いだろ】

 こわい。

 笑いながら怖い話をするフェリクスも怖い。

「……フェリクス?」

【ん?】

「フェリクスは魔女に操られてるんじゃなかったの? 今どういう状態?」


 彼の目は、誠吾が言っていたような焦点が合っていない目ではない。

 窓から差し込む月明かりだけでも分かる。これだけ近距離で見れば、彼の目は正常な判断能力を持つ人間のもとだということが見てとれる。

【ルイーザから聞いていないのか。魔女は囁くだけだ。人間を操ったりしない。囁かれた人間が普段と違う行動を取っているように見えても、それはその人間が普段隠している願望を引っ張り出されているだけだ】

 フェリクスの願望とはなんだ。

 童顔チビには興味ないというのは彼の本心だったはずだ。

「つまり、今あんたは自分の意思で行動してるってこと?」

【そうだ】

 清乃の指をもてあそんでいたはずのフェリクスの手が、いつの間にか腕に移動してきていた。

 冷たくなった膚に体温を分け与えるように、ゆっくりと撫でながら少しずつ上に向かってくる。


(こいつの手あったかいな)

 緊張している肩の力を抜きたくなってきた。頑丈な身体にもたれかかっていれば、楽な姿勢になれる。

「なんで? 王子の使命を忘れて、魔女の手下になるの?」

 それはこいつにとっては楽しいことなんだろうな。

 外国に行って女の子をナンパして、片っ端から寝るってことだろうから。それなんていうバイオテロだよ。

【…………キヨも知ってるだろう。ユリウスは真面目な奴だって】

「悪い従兄に影響されなくて良かったよね」

【少しは俺を見習って適当に生きればいいんだ。好きな女ひとり口説くことも諦めて、いい子ちゃんでいるっておかしいだろ】


 好きな女、とは清乃のことか。

 なら何故フェリクスは、大事そうに語る従弟の好きな女を抱きしめて頭にキスしているのだ。

 キスはしないという話だった。あれは唇には、という意味か。なんの意味があるんだそれ。

 乳母(ルイーザ)の匂いがするな、ってなんだよこのマザコン。

 フェリクスの好きな匂いということか。シャンプーを借りただけだ。でもあれ、手作りっぽかったからルイーザの匂い、で合っているのか?

 清乃の腕から肩までを布地の上から撫で上げ、うなじに達した手が今度は少しずつ下に下りてくる。くすぐったい。

 なのになんでだろう。嫌じゃない。

 もう始まるのか。始まっているのか。

 やばいな。まだ早い。時間稼ぎしなきゃ。

 でもどうしよう。あたまがぼんやりする。

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