誘拐
コンタクトレンズを外してしまった眼でも、周囲が急に屋外の景色に変わったことくらいは分かる。
(人生二度目の瞬間移動!)
フェリクスに瞬間移動する能力はないはずだ。魔女の亡霊の力か。
ここはどこだ。
何故雨が降っていない。
アッシュデール首都近郊ではないということか。あれだけ荒れていた天気が嘘のようだ。雨の気配が感じられない。
でも同じような植生の森だ。膚感覚を信じるなら、気温も晴れていた日と同じくらい。国内か、せいぜい隣国くらいの距離か。
(逃げなきゃ)
どこに? どうやって?
ここは森。人影はない。助けを呼べない。走って逃げても、清乃の足ではどうせすぐに捕まる。
どうしたらいい。考えろ。恐怖に支配されるな。泣くな。考えろ。泣くな。
違う。
(泣け!)
清乃は暴れるのをやめた。高い位置にある左肩に腹を乗せられ、くの字になった苦しい姿勢のまま大人しくなって静かに涙をこぼした。
彼女の様子に気づいたフェリクスが、支えていた膝裏を下に引っ張った。
小さい子どもを抱くようにして左腕に清乃を乗せ、うつむいた顔にかかる黒髪を右手で優しく払う。
【キヨの涙は武器なんだってな。女らしいところもあるんだな】
「…………」
くそ、と思いながらも、清乃は無言で泣き続けた。
唇をわななかせ、手の甲で涙をぬぐう。もっと肘を上げたほうが子どもっぽくて憐れを誘えるだろうか。あとはついでに泣き声もあげてみるか。
「……ぅうわあん」
「すきなだけなけ。そのくらいはまってやる」
フェリクスは清乃の身体の向きを変え、自分の首に抱きつかせる格好にした。片手で体重を支え、もう片方の手は慰めるように頭を撫でる。
嘘みたいに優しい手。大きいのにお父さんみたいとは言わせてくれない、優しくするのとは別の意図も持った男の手。
清乃は鼻をすすりながら、手に触れた髪の毛を引っ張ってやった。
【いて。やめろ、禿げる】
「……ハゲろ」
【残念ながら、父も祖父もフサフサだ】
耳元で笑うな。鳥肌が立つ。
「放してよ」
【裸足で歩いたら怪我するぞ。そのまま掴まってろ】
おまえの抱っこで運ばれるくらいなら、足の裏がボロボロになったほうがマシだ。
言ってやりたいが、本当にそんなことになったら、いざというときに走って逃げられない。
人間ひとりを抱えたままでいたら、いくら鍛えている人間でもそのうち消耗するだろう。そのときを待つのだ。
「……ここどこ」
【魔女の夢の中】
なんだそれ。馬鹿じゃないの。
リアルファンタジーはじめる気か。
「…………家に帰りたいよ」
「さがすか。どこかにあるはずだ」
この森の中を、清乃を抱えたまま彷徨う気か。
すでに陽が落ちてしまっている。夜の森の散歩なんて、獣の餌食になるようなものではないのか。
真っ暗ではない。昨夜が満月だったのだから、さっきまでは雨雲に隠れていた月も空で太っているはずだ。
「お父さんとお母さんがいる家がいい。予定通りの飛行機に乗らなきゃ怒られちゃう。うちのお母さん怖いんだよ。フェリクス一緒に怒られてくれるの?」
【いいぞ。落ち着いたらこっちに呼べばいい。頭くらい下げてやる】
「王子だからって年長者を呼びつける気? 今すぐ、あたしを日本に連れて帰って頭下げなさいよ。娘さんに怖い思いをさせて申し訳ありませんって」
【なんだ、怖いのか】
「怖くないわけないでしょ。あたしまだ子どもだもん。ずっとサバよんでたけど、ほんとは見た目通り十五歳なの!」
子どもの振りをスルーされた清乃がヤケクソで適当なことを言ったら、フェリクスは喉の奥から笑い声を漏らした。
【そんなみんなが信じるような嘘をつくな】
「嘘じゃないもん。平成生まれの十五歳だよ。もうすぐ高校の入学式があるんだから。誠吾兄ちゃんと同じ高校に受かったの! 入学式に間に合わなかったら恨んでやる!」
【キヨは勉強がしたいのか。いいぞ。家庭教師くらいつけてやる】
「ヤだよ、そんな鞭持ってそうな人」
【ひどい偏見だな】
フェリクスは清乃を抱いたまま器用にジャンパーを脱いで、彼女の身体をそれでくるんだ。
「今更紳士振るな誘拐犯」
【女が身体を冷やすな】
「寒いのが好きなの。放っといて」
綿素材のネグリジェ一枚でいるのはもちろん寒いが、妊娠を示唆する言葉に清乃は怖気をふるった。
フェリクスのやること成すことすべてに反発する清乃に、フェリクスは苛立ちを見せなかった。
返ってくる言葉に面白そうに笑って、暴れる清乃が落ちないよう何度も優しく抱え直す。
【十五かあ。まあそれでも別に。俺はギリいける】
「最低だなこのロリコン! 子どもには興味ないって言ってたくせに!」
【世の中にはすごい十五歳もいるぞ。ボストンで逆ナンされて、うっかり連れ込みかけたことがある。今のキヨよりオンナだった】
「最低!」
【そうか? 途中で気づいて帰したんだからセーフだろ】
もう嫌だこのチャラ野郎。
チャラ男ならチャラ男らしく、アメリカでチャラチャラしていればいいのに、どこを見てどう見当を付けて歩いていたのか、あっさり建物を発見してしまった。
チャラ男のくせに有能とか反則だ。
フェリクスは清乃の体重などまったく気にしていない。まだ全然疲れていない。
【あそこでいいか】
「ちょっと待ってよ、入る気なの? 他人様の家に勝手に入っちゃ駄目だよ。ほんとに犯罪者になっちゃうよ」
【ここに現実の法律は通用しない】
「取締まる人間がいなくても個々人が自らを律する心が平和な社会をつくるんだよ!」
「だといいな」
「建造物侵入罪だよ。警察が見てなくてもあたしが見てるよ。犯罪者になったらあんたの親御さんも泣くよ。ルイーザさんもユリウスも王様もみんな哀しむよ!」
わめいたら、フェリクスの歩く足が止まった。
思い直してくれたかと期待する清乃の後頭部が固定され、すぐ目の前に美形面を持ってこられた。
思わず硬直する彼女の額に自分の額を触れさせて、彼は囁いた。
【俺は別に構わないが、キヨは初めてが野外なんて嫌だろう】
くそ。とうとう宣言された。
【やっぱり狩猟小屋で済ませておけばよかったな。せめて城内でと思ったせいで、こんな場所になっちまった。悪かったな】
「……おいこら魔女! どこかで見てるのか! あんたたち女の味方じゃなかったの? あたしこんな二股野郎なんて絶対嫌だよ!」
【おまえ本当に面白い奴だな】
「面白くない面白くない! しっかりしろチャラ王子! あんた騎士なんでしょ、サー・フェリクス! 強姦魔なんてなったら、立派な称号が泣くよ、剥奪されるよ!」




