魔女宅
雨は激しさを増していった。
横殴りの雨がフロントガラスを叩く。最速にしたワイパーが忙しなく動き、一瞬だけ視界を広げる仕事を繰り返す。
この天気はいつまで続くのだろう。
清乃が降参するまで? もしくは、魔女が清乃を諦めるまでか。
できることなら、このまま車で国境を越えてしまいたい。
島国ではないのだから、可能なはずだ。国境すべてに壁があるわけでもなし、パスポート無しで国を行き来する人も珍しくないと聞く。
(無理か。やめたほうがいいんだろうな)
清乃が日本を出たのは今回が初めてだ。
現地の言語は分からないし、英語も拙いものだ。
下調べもしていない国を女ひとりで彷徨うわけにはいかない。下手をすれば、この国にいるよりも危険な目に遭う。
(やっぱり誠吾も連れて来ればよかったかなあ)
弟が一緒だったら、だいぶ違ったはずだ。
清乃と一緒にいれば、最悪の場合は邪魔者として消される気がした。それよりは誠吾ひとりでも帰国させ、助けを呼んで来てもらおうと思ったのだが。
アッシュデール王国王族の威光が効かない外国に行くなら、絶対に連れが必要だ。
困っている外国人女性に声をかけてくる人がみな善人だと思うほど、清乃は楽観的にはなれない。
近づいてくる人が持っているのが親切心なのか害意なのか、見極めるすべを持っていないのだ。
ガソリンだって有限だ。給油するための金を持っていないため、無駄に走り続けるわけにはいかない。
清乃が選択したのは、アッシュデール国内で助けを求めることだ。
相手は誰でもいいわけではない。
フェリクスが昨夜からつい先ほどまで滞在していた家。そこを目指すのだ。
そこは多分、カタリナの実家だ。フェリクスを育てたルイーザの家。
車内に漂う残り香は、小屋に入ってきたフェリクスが纏っていたのと同じもの。
これは昨日嗅いだばかりのにおいだ。ルイーザがこの匂いをさせていた。
何かを燻したような匂い。不快ではないが、初めて嗅ぐ不思議な匂いだと思った記憶はまだ新しい。
座席のカバーは、フェリクスが一夜の遊びに選ぶであろう若い女性が好むものではなく、初老の女性に似合いそうな色柄のものだ。
カタリナから一度だけ聞いている。彼女の実家は城からそう遠くない。森の中にぽつんと建つ魔女の家だと言っていた。
フェリクスが成長し、能力をコントロールできるようになってからは、ルイーザはそこでひとりで暮らしているのだと言っていた。
彼女は王子を育てた功労に相応しい額の年金を受け取り、薬草やハーブの世話をして古の魔女のような暮らしをしている。
黒い軽自動車は、城とは反対方向に頭を向けて停まっていた。ぬかるんだ地面に、方向転換した跡は見当たらない。
つまり現在地から城までの道の途中に、目指すべき家はあるということだ。
清乃は大雨の中必死で眼を凝らして、慣れない左ハンドル車を運転した。
横路を見つけては曲がり、二十分してそれらしき家が見当たらなければ引き返すという方法でルイーザの家を探した。
幸いふたつ目の十字路を右に曲がったところで、その家は見つかった。
小さな木造二階建て。森に馴染む茶色の外壁。路から少し入ったところにあるせいで、あやうく見逃すところだった。
家の前に車を停め、玄関まで走る。それだけで全身びしょ濡れになった。フェリクスに借りた巨大なデニムシャツは不格好が過ぎるので、車に置いてきた。
今更だが、小柄な弟で助かった。清乃と誠吾の身長差は十センチ程度しかなく、ズボンもワイシャツも軽く折り曲げるだけで着れている。横幅もほとんど違和感がない。
他人の家を訪問するのに、そこまで異様な風体ではないはずだ。ずぶ濡れでなければだが。
髪の毛の水分を絞ってからインターフォンに手を伸ばし、清乃はそこで躊躇った。
(ここ、ほんとにルイーザさんち?)
判断材料が少な過ぎる。手持ちの情報だけで決めつけてもよかったのだろうか。
本物の魔女が出てきたらどうしよう。
太らされて食べられたりしないかな。今のうちに骨の代わりに木の枝でも拾っておくか。
魔法で白鳥とか蛙とかにされるのは王子様か。女は何になるんだっけ。眠らされる? あれは美女じゃないと駄目なやつだ。役者不足感が否めない。
ネクロフィリアの王子様だって、眠っているのが平凡顔の女だったらキスしようとは思わないだろう。
リアル王子様のユリウスにはキスNGだと言い切ってしまったから、やっぱり起こしてくれそうにない。
つまり眠らされたが最後、清乃はその先目を覚ますことはないということだ!
(うそやだ、どう)
がんっ。
「いだっ」
前触れなく開いた玄関扉に額を打たれてしまった。
額を押さえて後退った清乃を、建物から出てきた人物が見下ろした。
『いつまでそこにいるつもりだい』
ルイーザだ。相変わらずの無愛想な顔と声。
清乃も他人のことは言えないが、人前では多少愛想良くする努力くらいはしている。
【こんにちは。この嵐で困っています。雨宿りさせていただけないでしょうか】
まさかルイーザも、びしょ濡れの子ども、もう子どもでいいや、を暴風雨のなか放り出したりしないだろう。
清乃は見開いた目を精一杯潤ませ、憐れっぽさを演出してみた。
『王子の車を強奪しておいてよく言うよ』
ルイーザの視線は車に向けられている。バレているようだ。
【すみません。フェリクス殿下に車をお借りして来ました。殿下にはお城からのお迎えが来ている頃かと思います】
『……入りなさい』
清乃に分かる言葉を使ってくれる気はなさそうだ。
扉を閉められる前にと、清乃は慌ててルイーザについて中に入り込んでやった。
パタン、と扉が閉まると、雨と風の音が急に遠ざかった。
中に入ってすぐは玄関ホール兼日本でいうところの土間的な場所になっていた。
スコップなどの庭いじり用品や作業着のようなものが並べられていて、物が多いのにごちゃごちゃして見えない。すべてが丁寧に手入れされ、整頓されていた。
清乃には真似できそうにない、丁寧な暮らし振りが伺えた。
入ったはいいが、清乃は今濡れ鼠状態だ。このまま動けば家中を水浸しにしてしまう。
【あの。申し訳ありませんが、タオルを貸していただけないでしょうか】
【……構わないから、そのままバスルームに行きなさい。こっちだよ】
よかった。英語だ。
清乃は泥だらけの革靴と足袋を脱いで手に持ち、裸足でルイーザの後をついて行った。
シャワーを借りて、出してもらったバスローブを着るとやっと人心地がついた。
泥だらけの服はどうしようかと悩んでいたら、清乃がシャワーを浴びている間にルイーザが持って行ってしまった。下着もまとめてだ。
どうやら洗ってくれるらしい。文句を言うわけにもいかず、羞恥心は些末事として無視するよりなかった。
バスルームを出てすぐの開けっ放しのドアからルイーザが見えた。ダイニングキッチンのようだ。
『服が乾くまで、しばらくそのままで我慢しなさい』
また分からない言語を使われた。伝える気がないなら喋らなきゃいいのに。
【シャワー、ありがとうございました】
頭を下げると、ルイーザが座る席の向かいの椅子を示された。
清乃がバスローブのままおずおずと座ると、ルイーザはティーポットから半透明の液体をカップに注いで淹れてくれた。
ハーブティーだろうか。飲み慣れない味だが、もてなしを拒否するほど不味くはない。正直言って微妙な味だったが、温かさにホッとする。
室内は不必要なほど暖められていた。着る物がない清乃のためだろうか。
不機嫌そうな顔だが、優しいひとなのかもしれない。なんといっても、王子の乳母になるような人物だ。




