故兵聞拙速、未睹巧之久也
故に兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり
小屋に至るまで、獣道を長く走った記憶がある。
だが思ったよりも近くに、道らしい道が通っていたらしい。
腕の中で小さくもれた、え、の声の意味が分かったのか、ユリウスが小声で教えてくれた。
「追手を撒くために選んだ道だったんだ。獣道を行かずに元の小径を進めば、だいぶ先に別の小屋があるから。今の小屋よりももっと大きくて快適な」
女もいるならそっちに逃げるだろうと考えさせたというわけか。
「へえ」
「ちゃんと掴まってて。足場が悪いんだ。落ちるぞ」
「……はーい」
ユリウスは毛布の塊を大事そうに抱え直した。
『殿下、その方をこちらに』
軍隊が出てくる外国の映画でよく見る車だ。銃を抱えた兵士が幌で覆われた荷台で向かい合って何人も乗っているやつ。
王子の細腕で女ひとりを抱え上げるのは大変だろうと、軍曹が手を伸ばす。
『彼女に触れるな』
冷たく言い放ったユリウスは、毛布を抱えたままぬかるんだ地面を蹴り、軽々と荷台に跳び乗った。
PKを使えば簡単だ、ということだ。
黙って引き下がった男に、王子は続けて命じた。
『まさか全員ここに乗るつもりか? 彼女が怯えるだろう。怪我人は仕方ないが、他は歩いて帰れ』
外は依然として大雨のままである。
車まで歩いて水も滴る美少年になった王子の命令を受けて、軍曹は部下に向けて顎をしゃくった。
おまえら帰りは徒歩だ。
【承知しました。しかしわたしだけはお側に控えさせていただきます。お嬢さまも、それでよろしいでしょうか】
【彼女に直接話しかけるな】
ユリウスは荷台の内壁に背中を預けて座ると、胡座をかいた脚の間に毛布の塊を抱えこんだ。大事に腕の中に囲い込み、毛布からはみ出て濡れそぼった黒髪の水滴を優しく払う。
車が発進した。あちこちに水たまりができた道を、揺れながらゆっくりと進んで行く。
ユリウスは腕の中に振動が伝わらないよう、細心の注意を払って毛布を抱えている。
第二王子が昨夜のパーティーで異国の少女と親しげに話す様子は、多くの人が見ていた。
だがそれは友人の姉に対する態度を逸脱したものではなく、少女のほうもわきまえた振る舞いをしていた。
大人たちは若いふたりの交流を、爽やかなものだと微笑ましく見ていたのだ。
それが今ではこれだ。
追い詰められた少女に頼られ縋りつかれた王子様は、魔女の思惑を跳ね除けることを喜んで諦めたのだ。彼はすっかり、彼女だけのナイトになってしまった。アイドル王子も男だったか。
そう、軍曹の顔に書いてある。
(意外と顔に全部出るおっさんだな)
ESPなんか必要ない。
「あのひと、なんか色々考えてるな」
「やっぱり分かるか。あれわざと顔に出してるのか? オレを馬鹿にしてるのか?」
「落ち着け」
「落ち着いてるけど」
ふたりにしか分からない言語で小声で喋るふたりは、睦言を語り合う恋人同士に見えるはずだ。
そう見えるように、ユリウスがふたりの角度を微調整しながら、砂糖をまぶしたような声を出す。
やり過ぎでちょっと気持ち悪い。
いくら美形王子様でもこれはちょっと、と軍曹も引き気味だ。
王子様、ヤケクソになってわざとやってらっしゃる。
「…………そろそろいいかな」
「いいんじゃない」
もう精神的に限界のようだし。
『悪いな軍曹』
どんっ
軍曹が仰向けに倒れた。
「速攻だな!」
彼は見えない力で口も塞がれているようだ。突然身体の自由が利かなくなった理由に気づき、唯一自由に動く目で自国の王子を見詰めている。
運転席側にはまだ気づかれていない。
「へいはせっそくをたっとぶ」
「影響受けすぎ。ほどほどにしとけ」
「いや、思ってたよりも深い思想だと思って。今度オレもちゃんと勉強してみる」
真面目か。
「ユリウスこれ、ロープ」
ようやくぐるぐる毛布から解放された。荷台の端に転がっていたロープを拾い、軍曹から視線を外さないユリウスに手渡す。
彼らは捕虜を素早く縛り上げる特技を持っているという話だった。素人が見様見真似でやるよりも確実だろう。
「OK. 視線を外すから気をつけて」
「了解」
とは言ったものの、若さでなんとかなるような体格差ではない。これといって武器になるようなものは見当たらない。
となるとこれか。
襦袢の紐を一本ほどくと、男の太い首に一巡して交差させた両端をしっかり持つ。
暴れる素振りをしたら、一瞬で締める。それでいこう。
ユリウスが男の足首に素早くロープを巻き付ける。ダムが言ったとおりだ。手際がいい。
呆れ半分感心半分見ていると、案の定男が全身に力を入れた。
咄嗟に紐を持った両手を引っ張るも、抵抗に遭う。
(おっさん強すぎ!)
「ストップ! それ以上やったら死ぬぞ」
「うわっ」
殺人を犯す覚悟までは決めていない。慌てて手を緩めると、男が咳込みながら見上げてきた。その両足首は、すでに拘束されている。
ユリウスが両手首を拘束しても、彼はもう抵抗しなかった。
【…………さすが、あの少年の姉だな】
先ほどまで武器にしていた紐を弄ぶ異国人を見上げて、男がぼそりと呟いた。
【あの少年?】
ユリウスが面白そうに問い返す。
【声変わりもしていない小さな少年が、あなた方のいる小屋を守っていた。少年兵が怪我をしないようタイミングを見て、異国の言葉で指揮を執った。殴られてなお、わたしを睨むだけの気概があった】
【殴ったのか】
男の言葉に反応したユリウスが、右の拳を振り上げた。まともに喰らった男が、音を立てて横倒しになる。
「おい、無抵抗の相手に」
「関係ない。こいつはキヨを」
「仕方ないだろ。未だに気づいてないんだから。なんでこの期に及んでキョトン顔してんの、このおっさん。俺意外と才能あったのか?」
「こっちの成人女性と同じくらいの背丈だからかな。オレは重くて大変だったけど」
いくら小柄男子といえど、十センチの身長差がある姉より重いのは当然である。
十七歳男子の体重に加えてどんどん雨水を吸っていく毛布を抱え、頑張ることを諦めたユリウスは途中からPKに頼って歩いていた。
「ごめんあそばせ、王子様」
「その台詞嫌い」
「そうかよ」
日本人の感覚では、こんなものはただの白い襦袢、袖が長いことを無視すれば女装のうちに入らない。
すでに着崩れを気にするような格好ではないから、少しだけ考えて清乃の真似をして襷掛けにしてみる。
ついでに脚に絡みつく裾をナントカいう細めの帯の後ろに引っ掛ければ、尻っ端折りの完成だ。
開いた裾から見えるかもしれないのはフンドシじゃなく男物のパンツだが、痴漢扱いはしないでもらえると助かる。
女の人に会ったら裾は戻そう。
【……君は。君が、弟か。ではあの子どもが】
やっと気づいたか。このおっさん、栄養が全部筋肉にまわっちまったタイプだな。普段であれば、嫌いじゃないけど。
誠吾は濡れた黒髪を後ろに向けて撫で付けながら、唖然とする男を見下ろしてやった。
「Yes. あんたが殴ったっていうチビ、アレが俺の姉だ」
誠吾は姉が殴られたくらいで我を忘れたりはしないけれど。
でもよくそのぶっとい腕で、あんなチビを殴れたな。立ち向かったわけでもなかっただろうに。偉そうに叫んでただけだろ、あいつ。
すげえよあんた。さすが鬼軍曹だ。
「……気分わる」
「セイはここで待ってろ。車を停める」
覆いの向こうにある運転席を注視するユリウスの姿が消えた。
瞬間移動。何度見ても慣れない。
程なくして車が停止し、誠吾は縛られたままの軍曹を荷台から蹴落とした。
おとっつぁん、仇討ちはこれくらいで勘弁してくれ。
運転席の男を降ろした代わりに、助手席に座っていた左足を折られた男に運転させる。
すぐに車の向きを変え、元来た道を戻ると、ずぶ濡れになりながら歩く少年の集団がすぐに見つかった。
その中に、清乃の姿はなかった。




