呼吸
風を切って馬が走る。
夜中に起こされた大きな白馬は、細身の少年と小柄な女ひとりの体重など気にしていないかのように軽快に走った。
「さっきもらった手ぬぐいは右のポケット。シャツの前面を提供してもいいけど、汗臭いかも」
知ってる。今更だよ。その汗臭いシャツに顔面押し付けられて死にかけたばっかりだよ。
ユリウスの両手は手綱を握っている。勝手にポケットに手を突っ込んで手ぬぐいを取れと言うのか。
嫌だよ。馬鹿。
(くそっ)
何が手ぬぐいだ。シャツの前面だ。子どものくせに。
誰が子どもの前でなんか泣くものか。泣きたいけど泣かない。今はそのときじゃない。
清乃がいくら泣いたって、ユリウスは自分がすべきと思うことをする。つまり今、涙は武器にならない。
清乃は体の中の空気を全部吐き出し、大きく短く息を吸って止め、長く吐いた。
「その呼吸、セイもやってたな」
「武士がやってたヤツだよ。丹田呼吸法」
「……キヨはブシという結論でいいのか」
「普通の大学生ですが何か」
清乃は普通の人間だ。
怖いのは嫌だ。痛いのも嫌だ。武器と拳を振り回したい奴らと一緒にいたくない。
夫どころか彼氏ですらない男の子どもを産まされるため操られていたのだと聞かされれば、嫌悪と恐怖が身体を支配する。
そんなの、薬物を使用した犯罪と一緒だ。薬物の代わりに、超常的な力を使っただけ。清乃は被害者になるところだった。
考えれば、逃げるために思考しようとすれば、身体中を震えが襲う。
だから清乃は息を吐き、吸い、溜め、また吐くことに意識を集中させるのだ。
泣かない。恐怖に支配されない。大丈夫。
大丈夫だ。目を開けろ。敵が弱点をさらす瞬間を見逃すな。大丈夫。
清乃は強くなんかないが、子どものお荷物になるほど弱い人間になるつもりはない。大丈夫だ。
「……キヨ? ちょっとこっち向いて」
なに? と言う代わりに、ユリウスにしがみついたまま彼を見上げる。
視線を遠くに投げ、馬を操る彼が一瞬だけ下を向く。
ふは、とユリウスは楽しそうに笑った。こんなときなのに。
「敵を見つけたときのキヨだ」
「ん?」
「ブシだ。間違いない。キヨは戦闘民族の末裔だ」
「一緒にしないで」
「一緒じゃない。オレたちは騎士だ。ブシと騎士とで手を組んで、魔女をやっつけるんだ」
少年たちは獣道を獣のように走った。
土地勘のない誠吾も、田舎育ちの名に恥じない俊敏な走りを見せた。
前後を四人ずつに挟まれ、清乃を前に抱えたユリウスが巧みに馬を走らせる。
(だから今は二十一世紀だっつの)
確かに車が通れるスペースはない。バイクも無理だし、子どもらしく自転車を選択することができなかったのも理解できる。
馬が最適解な場面に遭遇することが清乃の人生に巡ってくることがあろうとは、夢にも思わなかった。
城を出た彼らは、街ではなくその北側に広がる森に向かった。
現在まで続く身分制度。王侯貴族は昔から狩猟を楽しむものとされている。彼らが高尚な趣味を嗜むために残してある自然だ。
最初は舗装こそされていないものの、普通乗用車がすれ違えるくらいの道を走っていた。脇道に入るとどんどん道幅が狭くなっていき、所々獣道ですらない所を、枝木を避けながら進んだ。
そうして辿り着いたのは、多分狩猟小屋と呼ばれるものだ。手造り感のある、森の中のログハウス。風、じゃなくザ・ログハウス。
「……なんか既視感が」
「オレは誘拐犯じゃないし、マフィアでもないぞ」
「似たようなもんだよ」
異国の危険な集団。嫌がる清乃を無理矢理馬に乗せて駆けた。車が馬に変わっただけ。ほぼ同じだ。
ふたりを乗せて駆けてくれた馬をユリウスが労い、邪魔になる装備を外して解放してやる。賢い馬は自分で厩舎に帰るらしい。
丸太小屋は、実際に狩猟小屋として使われているそうだ。
街からは元気な十代の少年の脚力で三十分強。電気や水道を通して快適に過ごす環境を整えるほどではない。
ただ今夜ひと晩、夜露を凌ぐためだけに選んだ場所。
当たり前のようにベッドで休む権利を譲られながら、清乃は室内を観察した。
大人数で使用することは想定されていない、小さな小屋だ。
隅に置かれた寝台はひとつ。壁に掛けられた鹿の剥製なんて、生で見るのは初めてだ。棚に並べられた骨にはどういう意味があるのだろう。
ひとりか、せいぜい二、三人用サイズの丸テーブルは小屋の真ん中。端に寄せれば、なんとか少年九人が横になる場所くらいは確保できるだろうか。
【月の入りまでここで隠れていればあとは大丈夫だ。五時間てとこかな】
腕時計を見ながら、ユリウスがこの逃走劇が終わる時間を教えてくれる。
五時間。それだけの時間、ここでじっとしていればいい。満月さえ沈んでしまえば、魔女は意思を持つ人間を操るほどの力を失う。
次の満月は一ヶ月後、その頃には清乃は日本に帰り、魔女の力が及ばない地で平穏を取り戻している。
【見張りは半分ずつにするか。前半と後半に分けて四人ずつ。セイはキヨの側にいてあげて】
【了解。ありがとう、みんな】
【セイ、感謝の必要はない。キヨも君も、うちの事情に巻き込まれただけだ】
まったくだよ。腹の中で呟きはしたものの、口に出しては言わなかった。さすがにそこまで傍若無人な振る舞いはできない。
清乃は少年たちが小屋の収納から取り出して、外で埃をはたいてきてくれた毛布をかぶり横になってじっとしていた。
今は喋りたいことも聞きたいことも、他人にして欲しいことも何もない。ただ独りにしていて欲しい。
毛布をかぶって他人の視界を遮ってしまえば、とりあえずそれは叶う。
ベッドの側面に寄りかかる誠吾は、眠る気にもなれないだろうが、この場で唯一清乃が心安らかに接することができる者として側にいてくれている。
ユリウスは前半の見張り役のひとりとして出て行った。多分彼は、交代の時刻になっても小屋には戻ってこない。
今一番、清乃を害する危険が高いのが彼だからだ。彼が清乃の近くにいなければ、魔女の目論見が達成することはない。
そのユリウスが、清乃の近くで彼女を守ろうとしている。矛盾もいいところだ。
それを自分でも自覚しているから、彼は馬から降りてから今まで、清乃から一番遠いところに立ち位置を探している。
ユリウスだって被害者なのに。
少年の純粋な気持ちを利用され、傷ついてもいいはずなのに。
【移動中カタリナからメールがあった】
ロンが誠吾に話しかけているのが聞こえる。
【今、警備関係の人間を一ヶ所にまとめてる、って。あのひとたちが相手だったら、俺たちじゃ太刀打ちできないから、操られててもこっちに来れないよう抑えといてくれる。ユリウスのPKよりも複数の銃のほうが強いからな】
そうか。だから彼女は今ここにいないのか。
【エルヴィラ様とかは? こんなとこまで女の人に来てもらうのは難しいか】
魔女ならできるはずだ。エルヴィラはユリウスの居るところになら、一瞬で跳べる。来て欲しいな。
ごつごつした腕なんかじゃなく、柔らかい身体に抱きつきたい。
(お母さんに会いたい)
小さい子みたいだ。自分でも思うが、追い詰められたら鍛え抜かれた兵士だってママを呼ぶのだ。
二十歳の誕生日を迎えてから、事あるごとに自分は大人だと主張してきたが、今は子どもに戻りたい。
清乃はまだ子どもだから、子どもを産めなんて言われても困る。お母さん、もう帰りたいよ。お父さんと一緒に迎えに来てよ。
【エルヴィラ様は魔女としての調子が悪いらしい。今は跳べない、直接的な助けになるのは難しいという話だ。城内の人間の動きに気をつけてくださっているそうだ】
そうだ。エルヴィラは昨夜も言っていた。時期が悪かったと。
今彼女は、いつものようにその強大な力を振るうことができない。
【なんでだよ。魔女は満月の夜に強くなるって話だったろ。そもそも魔女の亡霊ってなんなんだ】
【亡霊は亡霊だ。昔、】
【あ、ちょっと待て。怖い話か。覚悟決めるまでちょっと待って】




