逃走
「何があった。って訊いてもいいのか?」
彼女たちの間に想像していたような空気はなかった。
密着するふたりを見たときには一瞬怯んだが、そのとき誠吾が見たユリウスの顔は、恋人との時間を邪魔された男のものではなかった。
助かった、彼の顔は確かにそう言っていた。
「…………あたしまた変だったみたいで。ユリウスが気づいて、それ以上変なことしないよう拘束してくれてたの。で、やり過ぎで窒息しかけちゃった。あんたは命の恩人よ」
抱擁じゃなく絞め技。ユリウスも混乱していたのだろう。加減を間違えるくらいは仕方ない。
清乃は露出こそしていないが、振袖を脱いでしまっている。
着物の時代なら下着同然の姿だ。そんな知識のない少年たちは平然としているが、目の前で脱がれたか、脱がせと言われたかしたユリウスは動揺したことだろう。
同じ男として同情を禁じ得ない。
「……振袖はどこだ。失くしたらかーちゃんに殺されるぞ」
「抜かりはない。ちゃんと畳んでほら、そこに置いておいた」
清乃が指差す先には、飾り棚の上に鎮座する和柄の生地があった。丁寧に畳まれ、帯や他の小物と一緒に揃えてある。
ユリウスは畳み方を知らないはずだ。つまりその値段を畏れたズボラな清乃が、らしくなく几帳面に整えたということだ。
「変だった割りには、こういうことはちゃんとできたんだな」
「変になる前だったから」
「……なんだと?」
「先に脱いどいて良かったよ。化粧も落として楽な格好でビール飲みたかったから」
…………最悪だ。
我が姉ながら、最低な女だ。
「仕事上がりにパンツ一丁でプハーってやる親父と一緒じゃねえか!」
「まあ親子だし。今日あたし頑張ったから、打ち上げみたいなもんだよ。そのくらいいいじゃん」
「よくねえよ! てめえも魔女の一味か!」
男の純情弄びやがって。許せねえ。
こいつは自分を好きだと言っている男の前で、手を出してこないと確信した上で脱ぎやがったのだ。鬼畜の所業だ。
「うるさいな。あんたも一日これ着てみなさいよ。マジで地獄だから」
「大和撫子の魂はどこへやった!」
「昭和末期生まれはそんなもん持ってない」
「あーガサツなお姉さまでよかった! その格好でも問題なく走れそうだな」
「え、やだよ。なんで」
「説明は移動しながらにしようか。キヨ、ゾーリで走れる?」
ミーティングが終了したらしいユリウスが途中から会話に加わった。
「無理だよ。歩くのもしんどい。今から何かあるの?」
「朝まで大規模かくれおにごっこ」
「はあ?」
「かくれ魔女ごっこだろ」
清乃はもう二十歳、とユリウス相手によく威張っているが、同時にまだ二十歳、でもある。
これといった運動習慣こそないが、去年は大学でも体育の必修があったし、普段の主な移動手段は自転車だ。
まだ体力の衰えを感じる年齢ではない。
(って、思ってたけど!)
元より衰えるだけの体力がなかっただけだったのだろうか。
そんなまさか。体育の成績は小学校から高校までずっと悪かったけれど、サボったことなんてない。短距離走も長距離走も後ろから数えたほうが早い順位ではあるが、毎回ちゃんと完走していた。
【…………おそい】
【……またスピード落ちてきたぞ。なんで?】
ホワイ、じゃないわガキども。おまえら基準で考えるな。
文句を言いたいが、喋るだけの元気が残っていない。
清乃は必死で走っていた。
彼女は前後左右を少年たちに囲まれて、必死に脚を動かした。前も左右も視界が塞がれて鬱陶しい。
「……キヨごめん。ルカスが運んでもいい?」
「…………や、だっ」
それだけ言うだけで息切れがひどくなる。
「姉ちゃん、運んでもらえ。その足じゃ無理だ」
もう泣きたい。走るのをやめ、与えられた部屋に帰って泣いていたい。部屋に鍵をかけ、布団を被って夜明けを待つのでは駄目なのだろうか。
後ろから聞こえる声がなんだというのだ。
こんな深夜に走り廻る悪童を補導しようとやってくる大人ではないのか。アホな少年たちの言うことを鵜呑みにして、大人の清乃が非常識な真似をしていてもいいのか。
そんな考えが頭をよぎる。
分かっている。清乃は現実逃避したいだけだ。
あれは、羽目を外した子どもを嗜める大人のやることではない。
振り返れば、清乃が逃げるための時間稼ぎをするノアとダムが蹴り飛ばされているところが見えるのだ。
いやだ。
嫌だけれど、歳下の少年を犠牲にしてまで言い張っていいことではない。清乃のために、彼らが犠牲になるのは間違っている。
ルカスが差し出してくれたジャケットの袖に腕を通すと、清乃の全身がほとんど隠された。内側に残っていた体温が気持ち悪かったが、これなら襦袢の裾が乱れても気にならない。
俯く清乃をルカスが遠慮がちに持ち上げる。
【首さえ絞めなきゃ、どこでも好きなとこに掴まってて。妹は髪を掴むけど、それも遠慮して欲しいな】
【はい】
わざと九歳の妹の存在を口にしたルカスに付き合って、清乃は少しだけ笑ってみせた。
ルカスが左肩に担ぐように抱き上げるから、清乃は彼の肩に掴まった。
【行こう。厩舎まで行ったら、オレの馬に乗せるから。それまでルカス、頼んだぞ】
【大丈夫。装備担ぐ訓練より楽】
訓練とは。
清乃と誠吾は一瞬固まってしまった。
「あ、うち成人したら定期的に兵役が課されるから。ルカスは先に十八になってるから、訓練に参加したことがあるんだ」
国民皆兵。
彼らは人智を超えた能力を持ち、更にそれとは別に物理的な戦闘力を持っているというのか。
ルカスは自己申告通り、大人ひとり抱えているとは思えない速度で走った。確かにぜえぜえ息をしていた清乃よりもずっと速い。
体格もさることながら、訓練とやらを積んでいるためだろう。
平和ボケした清乃と誠吾は、この国を生きて出たければ、選択を間違えてはならない。目の前にいるのが信用してもいい人物なのかどうか、正しく判断しなければ。
魔女の亡霊が清乃の胎を狙っている。
清乃に魔女の血を濃く引くアッシュデールの王子の子を孕ませ、日本で産み育てさせようとしている。
その目的を果たすため、清乃の精神の隙間に入りこみ、彼女の思考に囁きを混ぜた。
そうだ。
あのコエは清乃の思考を誘導し、少しずつ支配していった。
清乃はユリウスに、媚びる視線を向けた。彼の気持ちを知っていながら無防備に振る舞い、彼を煽った。
覚えている。全部覚えている。
清乃がユリウスを誘ったのだ。女の顔をして、彼に迫った。
(気持ち悪い)
「キヨ、馬に乗ったことって」
「ないよ」
乗馬なんて上流階級の趣味は持ち合わせていない。清乃が育った田舎でできる習い事なんて、習字算盤、女の子ならピアノにバレエくらいがせいぜいだ。
「やべえよ、姉ちゃん。リアル白馬の王子様」
誠吾がわざとらしくはしゃいだ声をあげる。
こんな状況でなきゃ、清乃だってテンションを上げられた。今は無理だ。
だってその白馬に乗るのは清乃自身だ。
先行したオスカーが用意していたのは、ユリウスの馬だという。轡を噛ませ、手綱は付けているが、背中に鞍は乗せていない。
【すごいだろ、アイドル王子のイメージ戦略。イベントでユリウスが乗って登場したら、失神する女子も出る】
だろうな。想像がつく。
「……その格好で跨がったら痛そうだな。少し不安定になるかもしれないけど、横座りするか」
嫌だよ。
何故馬。いつの時代だよ。
「車っていう選択肢は? 左ハンドル初めてだけど、なんとかするよ。貸してもらえたら、誠吾とふたりで空港に向かう。あたしがいなければ、みんな逃げる必要なんてないんでしょ。パスポートとかは、明日空港まで届けてくれたら助かる」
「キヨ、無理だ。鍵を取りに戻る余裕がない」
「お願い。あたし嫌だよ、馬なんて乗れない」
馬の背にしがみついても、走ったら二秒で振り落とされる未来が見える。自分の足で走ることができない清乃を馬に乗せてユリウスがどうするつもりか、聞かなくても分かる。
絵本に描かれていたお姫さまのように、ユリウスの腕に抱えられるのだ。
そんなのは嫌だ。
泣きたい。泣いたら、そんなに嫌ならやめようと、違う案を出してくれるだろうか。
唇を噛む清乃を尻目に、少年たちが脱いだジャケットを重ねて畳み、馬の背に置く。
「キヨ、行くよ」
ユリウスが馬上から手を伸ばす。ルカスが清乃を荷物のようにひょいと持ち上げ、彼の手に渡す。
「……知ってるよ。あんたは必要だと思うことは、あたしが嫌だって言っても無理矢理やるって」
「そのとおり。大丈夫、落としたりしないから。怖くないからちゃんと掴まってて」
すでに怖いよ。
どうせ乗るなら乗馬服的なものを着て、自分で手綱を持ちたかった。それなら怖くても頑張れた。
簡単に乱れる襦袢の裾を気にしながら、他人のジャケットを提供されながら、柄でもないお姫さま扱いで乗りたくなんかない。
【行こうか。セイは走れるな? 獣道も通るから、はぐれないよう気をつけて】
【大丈夫だろ。こんだけ月明かりがあれば見失ったりしない】
「……誠吾」
縋りつくように弟の名を呼ぶと、彼はなんでもない顔をして清乃を見上げた。
「情けねえカオすんなよ。朝まで隠れてるだけでいいんだろ。ちょっとした旅の思い出作りとでも思おうぜ」
「……ばか」
こんな思い出は欲しくない。子どもの冒険ごっこに付き合わされるなんて、冗談じゃない。
「キヨ。不本意なのは分かるが、今は気遣ってあげられない。車は走れない道を通るから、キミを運ぶには馬が一番いいんだ。それともずっとルカスに抱っこされてるほうがいい?」
「…………こっちでいいよ」
清乃は今、空気を読まない我儘を言って、少年たちを困らせている。
分かっている。分かっているけど。




