過去
清乃は子どもの頃から小さかった。
小学校時代には、二学年下に紛れても違和感がないと言われていたくらいだ。
そんな小四女子が学校で一番デカい六年男子をぶん殴って泣かせるなんて、誰が想像しただろう。
話を聞いた誰もが最初は信じなかった。
でも確かに誠吾はこの眼で見たのだ。
当時小一だった誠吾にとって、最高学年の乱暴な少年は恐怖でしかなかった。
先生も手を焼いていた悪ガキで、児童全員が奴のことを恐れていた。すぐに殴るし蹴るし投げるし、小六当時ですでに大人と変わらない身長があったから、女の先生では奴の蛮行を止められなかった。
今思えば男の先生も面倒臭く思っていたのだ。
こいつ早く卒業してくれねえかな、と多分みんな思っていた。
だから奴の乱暴に泣き訴える児童をなだめ、被害者を諭すような真似をする先生まで出る始末だった。
スカートめくり? あー君のことが好きなんだろ。仕方ない奴だな。女の子が大人になって許してやってくれよ。君たちもこんなことで先生に言いつけに来るんじゃない。なんでも自分で対処できるようにならなきゃ、中学高校、大人になったときに困るぞ。
高学年女子が集まって泣きながら先生の言い草を話している場に、清乃もいたらしい。
それまでに、姉も被害に遭ったことはあるようだった。チビだと揶揄われ頭を押さえつけられた、こうやればもっと小さくなるかな、と笑われたとベソをかきながら親に訴えていた。
なるべく奴には関わらないように、それが一番だと、大人も子どもも事なかれ主義を貫いていた。
あの日までは姉もそのようにしていたと、誠吾は記憶している。
だが虐めっ子というものは、こちらが避けていても向こうからやって来るものだ。
あの日は集団下校の日で、小一の誠吾は小四の清乃の後ろを汗だくになって歩いていた。暑い夏の日だった。
確か夏休み直前くらいのある日。
学校から家が近い順に少しずつ子どもの人数が減っていき、最後の別れ道で姉弟ふたりになった。
そこに奴が現れたのだ。
真っ直ぐ帰宅する決まりなんか守るつもりがない問題児は、そのときひとりきりだった。
それを確認したとき、多分清乃はこう思ったのだ。
千載一遇のチャンスが巡ってきた。
近所に住む祖父宅でよく観る、時代劇のテーマ曲が流れた気がした。
いつものように、奴は小柄な姉弟を揶揄いに寄って来た。
清乃はそれに、真っ向から立ち向かった。
後ろの誠吾はただ、その赤いランドセルを見ていただけだ。
「あんたはそこで泣いてな」
怯える弟にそう言い置いて、彼女は一歩前に出た。
小突こうとしたのか掴もうとしたのか、奴は小さな少女に手を伸ばした。
己が圧倒的強者であることを疑わない奴のニヤニヤ笑う顔が、姉の頭越しに見えた。それだけ奴は彼女よりも大きかったということだ。大人と子どもの体格差があった。
あのとき姉が何をしたのか、誠吾は今でも分からないままだ。
虐めっ子が後ろ向きに倒れた。すごい勢いだった。ランドセルがなければ頭をアスファルトに強打していたはずだ。
奴が完全に倒れる前から、清乃は次の動作に移っていた。
すなわち、奴の鳩尾に膝から着地すると同時に右腕を振り上げ、握った拳を顔面に叩き込んだ。
あのときの衝撃を、誠吾は一生忘れることはない。
小さな姉が、巨悪を倒した瞬間だ。
小さくて可愛い姉弟ね。お姉ちゃんは本が好きなの? 大人しくて賢い娘さんでいいですね。
大人はいつも彼女をそう評していた。
家では暴君として弟に接する姉だが、外面は確かにそんな感じの少女だったはずなのに。
虐めっ子に殴り返された清乃は、吹っ飛ばされるようにして奴の上から下りた。
それと前後して、デカい図体をした虐めっ子が大声で泣き出した。
清乃はゆらりと立ち上がり、倒れたままの虐めっ子を見下ろしながら後ろ向きに歩き、誠吾にぶつかった。
彼女は振り返り、誠吾、と弟の名を呼ぼうとしたのかもしれない。
しかしその途中でむ、と顔をしかめると、手を口元に持っていった。
姉の真っ赤に染まった口と手を見て、自分が悲鳴を上げたことを誠吾は覚えている。
「歯が抜けた! やった! 見てよ誠吾……じゃないや、泣けって言ったでしょ、バカ。今すぐ泣け!」
弱虫は引っ込んでろ的な意味だと思っていた。
姉に腕をつねられた誠吾は、言われたとおりに泣き声を上げた。
騒ぎに気づいた大人が集まってきた。
彼らが見たのは、血塗れの顔で地に伏し泣き喚く大人サイズの少年と、泣きじゃくる小さな弟を庇い抱きしめる健気な少女の姿だった。
すわ通り魔か、と誰もが思ったらしい。
誰ひとりとして、その現場を作った犯人が、口元を血で濡らした小さな少女だと気づくことはなかった。
誠吾の姉は、悪意に負けない。
自分ひとりでは勝利を得ることができないと悟ったときには、味方をつくる。
泣きじゃくる弟を守る小さな少女を、叱責できた大人はいなかった。
現場を見た大人はみんな犯人である清乃の味方になり、彼女を保護すべきと考えたのだ。
翌日、当事者ふたりとその両親、それぞれの担任と現場に駆け付けた男性教諭による話し合いの席が設けられた。目撃者の誠吾も同席させられ、母親にしがみついていた。
何があったのか、虐めっ子は鬼の首を取ったような顔で清乃を指差しながら、とうとうと喋った。
「こいつが急におれを倒して、殴ってきたんだ! おれは何もしてないのに!」
初めて被害者席に座って気が大きくなった少年は、その場の空気に気づいていなかった。
大きな少年の言葉を、その場に至ってなお、誰もが嘘だと思っていた。少年の両親すら疑いの目で息子を見ていた。
人は、特に大人は子どもの話よりも自分の常識を信じる。
小さな女の子は、歳上の大きな男の子に喧嘩で勝つことはできない。それが常識だ。
だが、虐めっ子の言葉に嘘がないことは、その場にいた誠吾はよく知っていた。
大きな目に涙を浮かべて、清乃は頭を下げた。
「……ごめんなさい……。でも怖かったんだもん。誠吾は怖がって泣くし、また殴られるのは嫌だったから、押しちゃったんです。そしたら転んじゃって、びっくりしてあたしもこけちゃったときに、手が当たって。……ごめんなさい、もうしません」
泣きながら謝る娘の隣で、両親が勢いよく立ち上がり、頭を下げた。何故か誠吾も頭を下げさせられた。
その勢いに、嘘だ! と叫びかけていた少年は口を開くタイミングを失った。
「娘が申し訳ありません! 例えどんな理由があろうと、暴力はいけないと、家でしっかり言い聞かせます! もちろん治療費は全額お支払いさせていただきます!」
誠実なフリで謝罪の言葉に嫌味を混ぜたのは、小さい姉弟をこの世に産み出した小柄な母だ。
クソガキの発言を封じた手腕は、この親にして、と当時の誠吾の語彙にはなかった言葉がしっくりきた。
「……い、いえ、息子も悪いところがありましたから。怪我も鼻血と擦り傷だけで、病院に行くほどではありません。それより娘さんは歯が折れたと聞きましたが」
意外と良識があるのか、もしくは分が悪いと悟ったかした父親の言葉に、虐めっ子はギクリとした。
誠吾は気づいていた。姉が歯抜け部分が見えるように、わざと口を大きく開けて喋っていたことに。
再びわざとらしく口内を大人に見せると、清乃は礼儀正しく、かつ子どもらしい答えを返した。
「ここですか? 子どもの歯だから大丈夫です。ちょっとぐらぐらしかけてたし。お母さん、歯医者さん行かないよね?」
嘘だ。今日明日にも取れそうな状態で、早く取れないかなーと言っていたのを誠吾は知っていた。殴られたのが原因とは言い切れないはずだ。
頬を腫らして涙目になる少女は、無罪放免となった。
本件は暴力というよりは事故。事故の原因をつくったのは、普段の少年の言動。少年は更に仕返しとして自分よりはるかに小さな女の子の顔を殴っている。
清乃がやったことは悪いが、それはわざとではなく、本人は反省している。
日頃大人しい清乃が今後同じような問題行動を起こすとは思えない。むしろ少年は自分の行いを省みるように。
誰も被害者の自分の味方をしてくれないことに気づいた少年は、清乃が恐ろしいものに見えてきた。だんだんと口数が減り、小さくなって最後には両親と一緒に頭を下げて部屋を出て行った。
ほとんど口を開かなかった男性教諭の顔をチラッと見てから、誠吾は両親と姉と共に帰途についた。
男性教諭の顔は、終始引き攣っていた。
暴行事件当日、一番に現場に駆け付けたのは、例の台詞で被害児童の訴えをあしらった男性教諭だった。
学校に知らせた近所の住人に頭を下げ、男性教諭は近くの空き地に三人を連れて行った。
虐めっ子は泣きながら、おれは何もしてないのに、コイツが急に、鼻血が止まらない、おれは悪くない、と必死に訴えた。
教諭は疑わしげな表情で、顔の下半分を腫らした小さな少女を見た。
本当か、と問われた清乃は、親よりも歳上の男性教諭を見上げた。そしておもむろに口の中に溜まった血をその場に吐き捨てると、こう言ったのだ。
「なあんだ。こんなこと、で先生出てくるんだ」
小さな少女の口から出た言葉に、大の大人が絶句した。
「あんたも来年中学生でしょ。こんなことくらい自分で対処しなきゃ、大人になったときに困るよ」
姉が怖くて、六歳だった誠吾は泣いた。
「じゃ。弟が怖がって泣いてるし、あたしたち帰りますね。先生さよーなら」
あの日から誠吾にとっての清乃は、絶対誰にもクリアできないクソゲーのラスボスだ。




