18 インストラクション・ワン
ニニンは腐りかけの木箱の中に震えながら身を潜め、負傷した肩を布で縛っていた。
とんだ厄日だった。
いつものように仲介人から暗殺の仕事を受け、ササッと殺って報酬を貰って帰る。それだけのはずだった。気を付けるべきは暗殺失敗ではなく叔母に夜間外出がバレないようにする事だと考えるほど気楽に構えていた。それでいて仕事に集中していないわけでなく、良い意味で肩の力が抜けている。
今までずっと上手くいってきたし、上手くいかない道理もない。
が、この日はとことんツイていなかった。
標的は町一番の大富豪。大きなお屋敷には高い塀と警備が置かれていて侵入者を阻んでいる。向かいの家の陰から様子を窺えば、屋敷は月明かりで照らされているどころか篝火が焚かれ、闇に紛れて接近するのは難しい。近づく者は必ず咎められるようになっていた。
そこでニニンは一計を案じた。小銭で物乞いを雇い、警備に酒を差し入れさせたのだ。
警備が酒を受け取って酔っぱらえばその隙を突ける。突然の見ず知らずの乞食からの差し入れを怪しめば、それはそれで乞食を咎めている隙を突ける。どちらに転んでも有利になる。
ケチのつき始めは、秘密にしておくように口止めしたのに警備に詰問された乞食があっさりニニンについて白状した事だった。
乞食とは信用も信頼も無い会ったばかりの関係性なのだから、脅されれば口を割ってしまうとは考えていたが、この日小間使いにした乞食はニニンが考えていたよりもずっと根性が無かった。
乞食は怪しい何者かの走狗に過ぎないと気付いた警備が辺りを見回した時点で、ニニンはまだ屋敷の塀を越える途中だった。慌てて塀を登り切って反対側に身を滑らせ、張り巡らされた警報魔法の透明な糸を僅かな空気の歪みから見破り抜け目なく避けて着地する。
そこでニニンは小枝を踏んだ。偶然落ち葉に隠れていて分からなかったのだ。隠れていても落ち着いていれば気づけたろうが、急いでいた。
小さな音だったが、たまたま厠に行くために起きてきていた使用人が近くを通りかかり、目が合ってしまった。ニニンは顔を隠し、手には灯りを反射しないよう黒く塗ったナイフを握っていて、どう言い繕ってもクセモノだ。
立て続けのイレギュラーに混乱しはじめたニニンは俊敏に使用人に飛びかかり、首にナイフを突きつけ口を塞ぐ。使用人は麻痺したように動かなくなったが、恐怖からガタガタ震える使用人は持っていたランタンを取り落とし、地面に落ちたランタンは大きな音を立てて割れ。
音を聞きつけ駆け付けた警備がニニンを見つけ警笛を鳴らし、いよいよ立て直しが利かなくなる。
今までの暗殺成功率が100%のニニンには暗殺者としてのささやかなプライドがあったが、名声より命が大事。正面戦闘をこなせない以上、警備が集まって囲まれたらどうしようもない。
逃げよう。そう決めたニニンの決断は素早かった。
素早かったが、警笛を聞きつけてやってきた剣士はもっと速かった。
目を疑う速度で屋敷の離れから飛び出してきた用心棒が抜剣した瞬間にニニンは血の気が引いた。独特の鈴の音は聞き間違えようがない。
魄鳴りの剣士。化け物だ!
鈴の音は一つだったが、一般人にとっては音が一つだろうが二つだろうが隔絶し過ぎていて大差ない。
心臓を縮み上がらせたニニンは全力で逃げ出した。
小麦粉玉を煙幕にして、狭くぬかるみ入り組んだ小道を何度も曲がりながら走り、植木鉢を背後に投げつけ、並の追跡者なら五秒で振り切る逃げっぷり。
しかし剣士は追いすがり、一撃を入れてみせた。その一撃でよろめいて川に落ちたニニンを追って飛び込むのを剣士が躊躇わなかったら命はなかっただろう。
咄嗟に息を大きく吸い込んで長時間潜水し、溺れ死んだか流されたかと錯覚させられたのも僥倖だった。夜の川の水は暗く淀んでいて、水底で息をひそめるニニンをよく隠してくれた。
しかし狙われた富豪は屋敷に侵入したクセモノを逃がす気は毛頭ないようで、街中を叩き起こす勢いでニニンを探しはじめた。
ニニンは顔こそ見られていないが背丈は割れていて、特に肩の傷が致命的だった。服装を変えて何食わぬ顔をしようとしたところで、傷を見れば侵入者だと分かってしまう。
ゆえに血眼になっている追跡者達の目をかわしきれず、ニニンは隠れては見つかって逃げを繰り返し徐々に街の端に追い詰められていた。追跡者達は物騒な剣や魔法を振り回し、生かして捕える気は毛頭ないらしい。
今、ニニンは生きるか死ぬかの瀬戸際にあった。それもかなりの「死ぬ」寄りだ。
逃げ続け走り続け、ニニンは疲れ果てていた。木箱に隠れて一息ついたもののすぐにまた見つかるだろう。どうしよう。どうすればいい?
ニニンは無性に家に帰り、叔母の温かいご飯を食べ、柔らかなベッドで眠りたかった。
たまらなく家が恋しい――――
「助けてやろうか?」
「…………!」
とうとう現実逃避を始めたニニンの耳に、優しげな声がすべりこんできた。
顔を上げると、透明おじさんと目が合う。
「俺ならお前をここから助けてやれる。もっとも、助ける代わりに弟子入りしてもらう事になるが。どうする?」
すっかり視界の端にちらつく透明おじさんの存在に慣れ、意識の外にあった。最初に会った時に少し言葉を交わして以来ずっと喋らなかったし、何もしてこなかったから、景色の一部だと思って忘れるときもあったぐらいだ。
ニニンは初対面で弟子入りがどうのこうのと勧誘されたのを改めて思い出した。
彼が何者なのか? どんな人間なのか? 遥か昔に滅びた神話の神なのか、それとも神々と相打った邪神なのか。分からないが、窮地に立たされたニニンにはもう他にすがるモノがない。
これは悪魔の取引かもしれない、しかし死ぬよりは。
ニニンは意を決して答えた。
「弟子になる。助けて」
「よし。任せろ! 俺の事は、そうだな、ニンジャマスター……マスターと呼べ。まずは暗殺者の基本的な心得から教えてやろう。いいか? 大切なのは情報だ」
弟子の答えに喜んだマスターは、追跡者達の現在位置を全て教えてくれた。
ニニンの頭の中の地図に不明だった敵の位置が鮮やかに浮かび上がっていく。
それだけでどこにいるのかも分からない敵に怯え警戒しながら慎重に逃げる必要がなくなった。家に安全に帰る道順がはっきり分かる。それどころか一人ひとり奇襲をかけ始末するのすら容易だろう。
マスターは時々上空にふよふよ飛び、上から見下ろして得た追跡者達の情報を逐一流してくれた。
おかげでニニンはそれまでの苦労はなんだったのかというぐらい簡単に家に戻った。
街中の追跡者からあまりに楽に逃げおおせたため、騙されているのではないか疑うも、傷の手当の仕方と傷跡の隠し方まで丁寧に教えてもらい、その通りにして肩の傷を完璧に誤魔化せたため、警戒は解いた。
ニニンは心底驚いていた。敵の場所が分かるだけで、手当の仕方を知るだけで、まさかこんなに楽になるとは! 今まで技術と機転だけで切り抜けてきたのが馬鹿みたいだ。
「な? 情報は大切だろ」
「はい、マスター」
身をもって情報の大切さを実感したニニンは心から答えた。
こうしてニニンはマスターの弟子になった。




