ミャーク馬の島 (ミャークヌーマのスマ)
凧は、天に届ける手紙なのだと。
そんな物語が、あったかもしれない。
太陽の光に何度も睫毛を震わせながら、それでも少年は空を見つめ続けた。
天に、二つの点が咲いている。一つは、風をはらんで天高く舞う八角形の白い凧だ。
遠い地から風に乗って流れてきたのだろうか、薄い紙張りを破れさせることもなく、浜辺に横たわっていた華奢な凧。拾い物の精巧な細工物に少年は夢中になっていた。
長く天に伸びる糸と凧の間で、もう一つの鮮やかな点が上がったり下りたりを繰り返している。風を受けた作りものの蝶は糸を伝って高みに上り、八角形の支え凧の手前でぱたん、と羽を畳んで地上に降りてくる。再び羽の仕掛けを開いてやれば、細工の蝶は再び天へと昇り……。その繰り返しを、少年は先ほどから続けていた。
手の中の糸にほんの少し力を込めれば、蝶は羽を翻し、指の腹に、掌の丘に天と地を繋ぐ縒り糸を押し付けた。
空を吹き渡る風と、糸を通じて大気を感じる自らの手。絶え間ない糸の振動が、確かな生の実感を少年に伝えていた。
ふと、温かい気配に空気が揺れた。
振り返れば、穏やかな黒い瞳が少年を見つめていた。
そっと手を伸ばせば、しっとりした茶色い毛の向こうから、静かな鼓動が伝わってくる。
その長い首が、何かを伝えるように僅かに上下し、少年もまた、言葉を使わずに答えを返した。
少年と一頭の馬は、天高く舞う凧を共に見上げる。
やがてゆっくりと凧を天から下ろすと、背を向けた少年は、痩せた馬と連れだって帰っていった。
秋の太陽が大地を照らし、無限の風が丘を吹き渡る。そんな、ミャークの島の午後のことだった。
「そんな老馬など」
と、義父は言った。
「いらぬ。面倒もいらぬ」
と。
遠い北にシュリの都を望むミャークの島には、大きな町がいくつかあった。その中の一つに、少年の家族は大きな屋敷を構えていた。
血のつながらない、父と兄。そして、少年と、使用人たちと、牧の馬たち。豊かな家だったが、それが日々の平穏を約束してくれるわけではなかった。
少年は必死に義父の袖を掴み、真っ青な顔で首を振る。
『この馬は悪くありません。悪いのはあの役人です』
言葉の技を、少年は持たなかった。幼い時に心の一部をえぐった痛撃は、少年の顔の真ん中に手ひどい傷跡を残し、言葉までをも奪って久しかった。実の両親から手放された少年は、血縁の庇護から離れて育った。それでも、彼を引き取り、長きを過ごすようになっていた義父も、義兄も、周りの人々も──時にはもどかしさや誤解があったものの、少年が全身で発する言葉をよく汲み取り、解した。
故に、強張った瞳から目を反らす義父は今、自分の言っていることを分からないふりをしている──。その事実が、少年を何重にも苦しめていた。
父子を遠巻きにして、薄暗い広間に座る男たちが一様に俯き、重苦しい沈黙に包まれている。
「空広。気持ちは分かる。けれど、今回は無理だよ」
肩に触れた手に振り返れば、静かな瞳が気の毒そうに見つめていた。優しい、義理の兄だった。
少年──空広の懇願を受け止めた瞳が、逸らされる。
「相手が悪かった。あの馬のことは、諦めなさい」
十にも満たない少年の声を結ばぬ叫びなど、聞こえないふりをするのは簡単だっただろう。兄はただ、黙って背を向けた。
空広が住む屋敷では、馬を飼っていた。
一族の偉大なる先祖が昔、遥か北のシュリの都に漕ぎだして、かの地の王から親愛と君臣の証として与えられたという、俊足のいきもの。
茶色の毛に覆われ、黒い瞳をした馬たちは
「与那覇勢頭の俊馬」
「豊見親の都馬」
などと呼ばれて、大層大事にされたそうだ。
それ以前にも馬がいなかったわけではないという。だが、馬がミャークの島で確かな価値を持つようになったのは、その時からだったかもしれない。
その頃のシュリの王国では、馬は大陸のミンの国への献上品や交易品として盛んに産されていたという。だが、ミャークの人々にとっては、馬は違う意味合いを持つようになった。
馬は、王府とのつながりの象徴、権力の証となったのである。
故に、ミャークの力ある人々はこぞって馬を飼った。乗馬に仕立てて乗るものもあった。強く美しい馬を持つことは、そのまま己の威勢を示すことであり、空広の屋敷でも、何人かの馬丁がいつも忙しく馬たちの世話をしていた。
空広は馬を眺めているのが好きだった。
島のあちこちで畑を耕し、車を引く牛たちを眺めているのも好きだったが、馬はとりわけ好きだった。数は決して多くはなかったが、黒っぽいたてがみを風にそよがせ、長い足で赤茶けた大地を踏みしめる馬たちを見ていると、空広はまるで自分が周りの世界の一部になって、馬たちと一緒に呼吸をしているような、そんな気分になるのだった。
僅かな音をとらえてぴん、と耳を立て、すっくと首を伸ばし、遠くを見つめる穏やかな目をした生き物たち。
何かの拍子に一頭が駆け始めると、それに続いて皆が軽やかに駆け始め……。そんな繰り返しを眺めるうちに、幼い少年の一日は静かに過ぎてゆくのだった。
いつの頃からか、空広は一頭の馬に目を止めるようになった。
馬たちが放された牧の隅、枯れかけた溶樹の影にひっそりとたたずむ老馬だった。
「役にも立たない、年より馬ですよ」
少年の無言の問いに、馬丁は若い馬の体を拭きながら、投げやりな答えをよこした。
「頑固で、かわいげのないやつです」
馬丁は、畳んだ古布で若馬の背中のこちら側を拭き終え、老馬に背を向けるように反対側へと回る。その様子を、しゃがんで頬を両手で支えた空広は、じっと見守った。
艶のある若馬の毛を擦る音が、小気味よく空気に響く。
虫の羽音が、掃き集めた糞の山に止まる。その傍らに咲く花に、ひらり、と蝶が降りる。
じっと見つめ続ける少年に耐えられなくなったのだろう、やがて馬丁は音を上げた。
「わかりましたよ。その年よりもやればいいんでしょ? ですがね、なにせ人手ってもんがね……」
そこで少年はにっこりと笑う。そのまま手を差し出して、馬丁の手から畳んだ布を受け取った。
その日から、空広は老馬の世話に通うようになった。
老馬は、馬丁のいう通り頑固だった。「いやだ」となれば、足を踏ん張って、ぴくりとも動かない。おまけに気性が荒く、なにか気に障ることがあるとぎょろり、と空広を睨みつけたりした。
馬丁はぶつぶつ言いながらも、空広の拙い世話を横目で見守り、老馬が前脚をもぞもぞさせたり、耳を伏せたりした時には、大ごとにならないよう手助けしてくれるのであった。
老馬は時折、牧に離された若馬たちを木陰からじっと見つめていることがあった。
年を経た瞳が、何かを探すように潤む。そんな時、空広は長い首をただ静かにさすってやった。
すると老馬は少しだけ気まずそうな顔をして、
「ひん」
と言うのだった。
空広が少しだけ笑うと、馬も、少しだけ笑ったように見えた。
馬の世話がひと段落着くと、馬丁と少年は、大きな巻き貝に柄をつけた茶瓶から、貝の杯で水を飲んだ。おしゃべりな馬丁は、牧の木陰で一人で喋り続けた。
「あいつは牝です。若い時はいい仔馬を沢山産んだんですが……。今はもう、手間ばかりかかって」
馬丁のぶつぶつを繋ぎ合わせたところによれば、老馬の産んだ仔馬たちは、屋敷の馬になったものもいれば、島の権力者を懐柔するために贈られたり、時には南のヤイマの島々に売られて行ったりしたという。
さする手に当たる骨の固さを思いながら、空広はただ、明日も老馬の所に来ようと思うのだった。
老馬がどのくらいの強さで首をさすってもらうのが好きなのか、どの草が好きで、どの草が嫌いなのか、どんな音を聞くと気持ちが安らぐのか……。そんなことを覚えた頃、空広は自ら切ってきた木を磨いて馬具を作り始めた。馬の口につけるそれを、空広は馬の背に乗るために作ったのではなかった。
痩せて、腰骨が突き出た背に乗る気にはなれなかったし、そんなことよりこの馬を引いて外に出たら楽しかろう、と思ったのだ。
珊瑚の石垣で囲われた牧の外の景色を、一緒に見たら楽しかろう、と思ったのだ。
手綱で馬を引いて、牧と外の世界を隔てる門をくぐる時、老馬は特段の感情の動きを見せなかった。
茶色い土を踏み、平べったい珊瑚の石積みの塀が続く道を、少年と馬は歩いた。石壁の間から生え出た草に、鮮やかな花がついている。太陽の日はどこまでも白く、馬と少年の影を大地に焼きつけていた。
不意に、くねくねと曲がる塀の向こうから、子供の群れが現れた。
その中の数人が
「あっ」
と叫ぶ。無遠慮な子供の声が、静かな午後の集落に落ちた。
ごくごく限られた身内と、馬と、木々と虫たちと。そんな世界で生きていれば忘れてしまう引き攣れが、ふとした時に顔を出す。
顔の真ん中に甚だしい傷跡を残す、口のきけない少年――。
同じ年頃とはいえ、無邪気な子供たちは随分遠くにいるように思えたし、彼らも、空広に近づいてくることはなかった。
しばしの沈黙の後に、端と端に立つ子供たちが無言の邂逅を終えようとしたとき、
「ひん」
と声がした。
見れば、老馬が面倒臭さそうに、しかし意味ありげに長い首を傾げている。
子供たちは呆気にとられたように目を丸くし、それから──恐るおそる近寄ってきた。
「……馬、触ってもいい?」
こくりと頷けば、子供たちはわっ、と馬に群がった。
老馬はただ、おとなしく子供たちにもみくちゃにされていた。
その顔は、やけに誇らしそうに見えた。
やがて、また会う約束をして空広は子供たちと別れた。
同じ年頃の子供と知り合いになるのも悪くないだろうか、などと思えば、得も言われぬくすぐったさが体を満たす。
視線を感じて目を上げれば、老馬はにやり、と笑った。
そのまま、空広と老馬は歩き続けた。屋敷に背を向けて、道を下った。細道の両側に茂る青草を手で払い、馬に足を踏まれないよう気をつけながら、蝶が舞う道を歩いていった。
海岸沿いに回れば、遠い青波が太陽の下で弾けるのが見え、海鳥の声が天から落ちてきた。少年が砂利を踏む音と、老馬がぽく、ぽく、と歩く音が規則正しく空気を揺らしていた。
ある一角に差し掛かると、道から少し入った斜面に石積みの墓がぽつ、ぽつ、と現れ、ゆっくりと風景の後ろに流れていった。一様に海の方を向いた墓には、大きなものもあれば、小さなものもあった。
ほとんどは知らない誰かの墓だったが、空広は時折立ち止まって頭を下げた。
乾いた珊瑚の墓石の上に、蝶がひら、ひら、と舞っている。
魂は、蝶に変じてあの世とこの世を行き来するという。
大きい蝶は大人の魂で、小さい蝶は子供の魂なのだろうか──。
老馬は昔、産んだ仔馬を亡くしたことがあるという。
仔馬は、墓を作ってもらえただろうか──。
そんな風に、空広は考えたりした。
そうやって、老馬と少年の日々は過ぎていった。
天気の良い午後には、少年と馬は連れだってあちこちへ歩いて行った。
義理の父も兄も、書物ばかり読んでいた空広が外へ出かけるようになり、いくらか笑うようになったことを喜んでいるようだった。
いつかの日には、一組の夫婦とすれ違ったこともあった。その顔を認めた時、空広の胸は締めつけられて、足がすくんだ。
その時も、傍らの老馬はただ、
「ひん」
と言った。
『顔を上げろ』
と言ったように思えた。
『胸を張れ』
と。
そうして空広は、傍らの馬に見えるように大きく胸を張り、夫婦とすれ違った。かつて空広を捨てた、実の両親。見つめる二組の固い瞳も、馬と一緒なら跳ね返すことができた。
そんな日々が、これからも過ぎてゆけばいいと思った。
その日は、ミャークの島中がぴりぴりしていた。屋敷に詰めた人々も、町ですれ違う人々も、強張った顔をしていた。年に何度か、海の向こうからやってくるシュリの王府の役人たち──。彼らの船が水平線に見えると、人々は顔をしかめ、めいめいの大切な宝をそっと家の奥にしまうのだった。
大昔の先祖がそうして以来、一族はシュリの王国に臣下の礼を取っていたから、愉快でないことも多かった。
交易の見返りに無理難題を吹っ掛けてくるのはいつものことで、その対応に義理の父はいつも苛々し、義理の兄はそんな様子を見てさらに苛々するらしかった。
家の中を、島の中を引っ掻き回す王府の一行を、空広もまた嫌っていた。
そんな心を老馬も汲み取っていたものか──まずいことになった。
役人たちが滞在するというので、屋敷はてんやわんやの騒ぎとなり、うんざりした空広は老馬を引いて散歩に出た。
気持ちの良い秋のにおいに目を細めていた時、
「やあ、これが例の英雄の子孫とかいう子供か」
ふにゃふにゃしたシュリ言葉が静かな島の空気を破った。埃っぽい道の上に、王府の役人のにやにや笑いが零れている。
「目黒盛豊見親の玄孫とかいう。なんだ、やせっぽちで顔に傷まで入っているではないか。おまけに馬にも乗れぬとは。これでは、横にいる駄馬と同じで役にも立たん」
独自の言葉を持つミャーク人の子供に、王府の言葉は分からないとでも思ったのか。千鳥足ではあったから、昼間から酔っているのは確かだった。
『ばかばかしい』
空広は目を反らし、手綱を引いてすれ違う。その時、酔っぱらいは何を思ったか、老馬の尻のあたりを強かに叩いた。
「ひひん」
と老馬が甲高く鳴く。
あっ、と思った時には、長い後ろ脚が上がり、後はどしん、の音と共に役人の体が珊瑚の石積みに叩きつけられていた。
大騒ぎになった。
「斬る! このヤマト刀の試し斬りに、斬り捨ててやる!」
おやめくだされ、おやめくだされ……、と屈強なミャークの男たちが役人に取りすがり、ぺこぺこ頭を下げている。
「ここはミャークの白川の家ですよ。仮にも与那覇勢頭の一族と、面倒を起こしてはなりませんよ」
王府の役人仲間たちも、必死の嘆願を続けている。それでも、どんな権力の持ち主であるものか、件の役人は口角泡を飛ばしながら喚き続けた。
「あんな年寄り駄馬、ミャーク人も要るまいよ! 厄介払いに、刀の錆にしてくれるわ!」
やあ、落ち着いてくだされ、落ち着いてくだされ……。白刃を振り回す役人を羽交い絞めにする男たちから、そっ、と空広を引き離すと、義理の兄は弟を屋敷の静かなところへ連れて行った。
そして兄は、言ったのだ。
「あの馬のことは、諦めなさい」
と。
その後の話し合いも、全て無駄だった。
義理の父も、屋敷の男たちも、じっ、と押し黙って空広から目を反らした。
根気強く、兄は繰り返した。
「いいかい、空広。どのみち、あの馬は年寄りなんだ。もう人も乗せられないし、仔馬も産めないよ」
静かな瞳が、空広を覗き込む。
「お前も知っているだろう? 体を拭いて、毎日餌を食べさせて。馬を養うのは、手間も暇も、お金もかかるんだよ。お前が気に入っていたから、これまで口を出さずにいたけれど……。価値のない馬をかばって、王府を怒らせるわけにはいかないんだよ」
ぎゅう、と空広は唇を噛む。そういう兄だって、かわいがっている馬がいるのを空広は知っていた。その背に乗って島の見回りに出かけるときに、誇らしげに首を撫でてやっているのを、空広は何度も見ていた。
「空広。お前は賢い子だから分かるね。……聞き分けなさい」
再び背を向けた兄が、去り切ったのを見届けて……空広もまた、背を向けた。
価値など、くそくらえ、と思った。
空広は、走った。ただひたすらに闇夜の中を、手綱を握って走った。
闇は少しも怖くなかった。月の光と、傍らで共に駆ける馬の蹄の音。こすれる草の穂と、時々蹴り上げる小石。すぐ横で響く確かな息づきが、「走れ、走れ」と少年を励まし続けていた。
屋敷に背を向けて、町を遠く離れて。藪をいくつも抜けて。いつかの散歩の最中に耳にした、遠くの小高い丘へ。少年と老馬は、駆け続けた。
突き出た棘や小枝に幾度も傷つけられながら、ついに丘の上へとたどり着く。大昔、この一帯を治めた権力者が住んでいたという城跡──。そこには、深い木々に抱かれるようにして今も立派な石積みが残っていた。
昔は住居だったのであろう平たい場所には青草が茂り、老馬の餌には困らなそうだった。
月明りの下、少年と馬は互いを見やって息をつく。それから、走り通しでへとへとの手足を折りたたみ、石積みの陰で丸くなって眠った。
老馬のぱさぱさした毛の向こうから、規則正しい脈動が響いてくるのを、空広は夢うつつに聞き続けた。
この馬が、側にいる。
それが、何より大切なことだった。
夜が明けてからすぐ、空広は石積みを基にして枝の柱を立て、大きな葉や樹皮で周りを覆い始めた。葉を割いて、繊維で縄をない、あちこちを留めた。木を削り、小枝を割いて敷き詰めた。
馬はその様子を時折見やりつつ、草をはみ続けた。
日が暮れるころには、簡素な小屋ができていた。
『これが、自分たちの家だ』
大きく息をついてから、空広は丘を降り、近くの浜辺で魚を突いた。馬は草を食べて、少年は魚を食べて……。深まる秋の中、静かな暮らしは続いていった。
しばらく経ったころ、丘のふもとで人間たちの声がした。
日がな虫の声と草の歌に耳を傾けていた少年にとって、無遠慮に空気を揺らす人間の声を聞き分けるなど、訳もないことだった。
まずは、苛々した義父の声。
それから、抑えた中に焦りをにじませる兄の声。
それに、あの役人のだみ声まで混じっていた。
丘の上へと続く入口は小枝で巧妙に隠しておいたから、そう簡単には登ってこられないはずだった。
眉根を寄せてから、空広はそっ、と傍らの馬の首をさする。澄んだ瞳を見つめ返してから、天の高みに目をやった。
夕空に、淡い紅色が混じり始めている。嵐が、近づいていた。
その夜、大人たちは丘に上がってこなかった。
風に流れる雲の合間から、細い月明りが零れていた。その光を使って、少年は葉を割いて糸を紡ぎ続けた。浜辺で見つけた凧に結ぶために、強い風に煽られても切れないように。高く、高く上がるように──紡いだ糸を繋ぎ続けた。
やがて夜が明けた。
白み始めた丘の上で、空広はじっ、と天を見つめ続ける。
老馬もまた、傍らに静かに佇んでいた。
ようやく陽の光が満ち始め、風向きが変わったころ、空広は凧を空に放った。
風をいっぱいに受けて、八角形の凧がしゅるー……と天に昇ってゆき、細工の蝶が糸を伝って追いかける。天の高みで揺れる、二つの繋がれた点。
高く、高く……空広の屋敷からも、きっと見えるはずだ。
あとは、丘の入り口の小枝を払っておくだけだった。
「空広ー! 空広ー!」
風に乗って、必死の兄の声が聞こえてくる。足音は二つ。義父は持病の腰痛がひどいのか、来なかったのだろう。もう一つの落ち着きのない足音は、あの役人のものだ。
空広と馬は、くるりと踵を返す。呼ぶ声などまるきり無視して、城跡を覆う溶樹の森の、奥へ奥へと逃げてゆく。
「空広ー! 空広ー!」
どうして、答えが返ってくると思うのだろう。なにせ自分は、口のきけない子供なのだから。
意地の悪い笑みを浮かべてみれば、老馬が空広の髪を柔く噛む。声のない笑いが、互いの間に弾ける。
風の音が、どんどん強くなってゆく。
枝が、しなる。幹が、たわむ。天は見る間に暗くなり、兄と役人の声は、近くに聞こえたかと思えば風に流されて、あちらへ、こちらへと惑い続ける。
「空広、ふざけるのはやめなさい! 風が……大風が来る! 早く帰らないと……!」
つかまえてみろ、と空広は思う。
傷を負って捨てられた子供と、年老いた痩せ馬と。
空を舞う凧を繋ぐ糸を切らないように、つかまえてみろ。
その糸を切ろうとしたのはそっちだぞ。
一陣の暴風が、空広と老馬が隠れていた茂みを大地からもぎ取った。必死に地面を踏みしめながら目を上げれば、大粒の雨が叩き付ける丘の向こうで、兄と役人が血相を変えてこちらを見ていた。
「いたぞ!」
執念深い役人は、いまだに例のヤマト刀を下げていた。白刃を抜こうと腰に手が伸びた時、再び風が吹き荒れた。
びゅう! の轟音と共に空広がこしらえた小屋が吹き飛ばされて、ばらばらの残骸が役人の横面を張り飛ばす。
「ひん!」
空広の代わりに、老馬が笑う。空広も声なく笑う。
大風、大風。吹き荒れる大風。
飛ばしてしまえ、と空広は思う。
誰かが決めた価値など、吹き飛ばしてしまえ、と。
めき、めき、と音がして、城跡を包んでいた溶樹が倒れ始めた。
葉に溜まっていた露が一斉に落ち、空広と馬に叩き付けた。
荒れ狂う風が、森の枝葉を吹き飛ばす。
「空広!」
泥土に足をとられて転んだ役人を飛び越えて、兄が藪の中に飛び込んできた。血相を変えた兄は、そのまま弟を抱きしめる。
もう遅かった。我を忘れた風から人を庇うものは、もはや何も残っていなかった。着物を浸した雨と吹きつける風が、見る間に体から熱を奪ってゆく。
「ああ、なんてことだ……」
絶望に満ちた声があがった時――
「ひん!」
と高らかな声がした。
ぽかん、とした人間たちに示すように、力強い前脚が大地を掻き、雨にそぼ濡れた首が、自らの腹の方を指し示す。
その意を解した空広は、身を屈めて馬の前脚にしがみついた。
早く、と目で急かせば、兄もまた、もう片方の前脚にしがみつく。風雨に霞んだ視界の向こうでは、泥だらけで地面に這いつくばった役人が、唖然とこちらを見つめていた。
空広は、小さく首を傾げる。
そして役人もこけつまろびつやってきて、馬の後ろ脚にしがみついた。
老馬は、
「ふーう!」
と大きなため息をついたが、脚を動かしもしなかった。
大風の中で、何もかもが、飛んでゆく。木々も、土も、石も。ミャークの島のすべてが揺すぶられ、洗い流され、飛んでゆく。
そして馬はじっと首を下げて、しっかりと地面を踏みしめて立ち続けた。幼子のようにしがみつく人間たちに、脈打つ熱を分け与えながら。ミャークの大地の色をした馬は、吹き荒れる風の中でただ、静かに強く立ち続けた。
気づいた時には、大風は去っていた。どれくらいの時間が経ったものか。目を上げれば、見慣れた茶色い毛が雨に浸されたようになっていた。それは人間たちも同じだった。まるで海から上がってきた一団のように、空広も、兄も、役人も全身から水を滴らせていた。
ほどけた髪をかき上げながら、兄が地面に転がった刀をちらりと見やる。
役人はこの上もなく気まずそうな顔をして、刀を拾うとぐしょ濡れの帯の真後ろに差し……それから、小さく頭を下げた。それは、老馬に向けたものだったのだろうと空広は思う。
ゆっくりと立ち上がって顔を覗き込めば、馬は少し疲れたような顔をして、それでも得意そうに空広を見つめ返した。
茶色いたてがみから、ぴん、と立った耳にかけて、どこかから飛んできた緑の蔓草が絡みついている。再び姿を見せた陽の光を受けて、蔓草を覆う無数の露は玉のように輝いた。
冠みたいだ、と思いながら、少年は静かに馬の首をさする。
老馬は
「ウルル」
と喉の奥で鳴いて、長い鼻を少年に押し付けた。
そして馬と少年は、言葉にならないことばを交わす。
『帰ろう』
『ああ、帰ろう』
と。
凧は、天に届ける手紙なのだと。
その手紙はどこへ届いたのだろう。
見送るミャークの港から、船がシュリの都へと帰ってゆく。
役人はもう、何も言わなかった。兄と義父は、ただ黙って空広の頭を撫でた。
昔、王の都からやってきた馬。船に乗ってやってきた馬。
「ひん」
と傍らで鳴く老馬の首に頭を預けながら、空広は思う。
しっかりと足を踏みしめる、島の大地の色をした馬たち。
彼らはもう、都から来た馬ではなく、ミャークの馬だ。
丘の上の小屋は飛ばされてしまったけれど、次はもっと丈夫な小屋を建てよう。
凧が舞う天の高みからでも見えるような、立派な小屋を。
人と共に歩く馬たちのために。
島の、ミャーク馬たちのために。
※1 空広 ミャークの英雄・仲宗根豊見親の童名。義理の兄・恵照と共に島内の政治にあたり、後にオヤケアカハチの乱やヨナグニ島遠征において大きな役割を果たしたと伝えられる。
※2 与那覇勢頭豊見親 仲宗根豊見親より前の時代の英雄とされ、シュリの王府への朝貢を行ったとされる。
※3 豊見親 ミャーク島の英雄や統治者に対する尊称。
※4 目黒盛豊見親 仲宗根豊見親の先祖とされる英雄で、ミャーク島の統一を果たしたとされる。
※5 白川の家 与那覇勢頭豊見親に連なる一族で、当時島内の勢力を二分したとされる白川氏のこと。