8.分岐する道筋
少年は勢いよく起き上がった。その呼吸はひどく荒く、乱れていた。顔は血の気を失い、身体は小さく震えていた。少年は、夢によって思い出してしまったのだ。ギロチンの刃が、頚椎を容易に切断して己の首を落としたことを。なんて気持ちの悪い感触なのだろうか。血の気が引いたことによって目眩までしてきた。
なんとなく、首がくっついていないようが気がして、触れて確認しようとしたが、すぐには確認ができなかった。自分では勢い良く動かした気がしたのに、意識のズレからか腕が持ち上がるのが想像よりも遅かったのだ。それが、またなんとも言い難い気持ちの悪さを加速させた。目の前が点滅し始める。呼吸すらできなくなってしまいそうだった。
「ヘリオドール?」
お嬢様の心配そうな声が遠くから聞こえる。近くにいるはずなのに、耳鳴りが邪魔して良く聞こえない。なんとか、視界を向けようとも逆に意識のズレを認識してしまい、顔を上げることすら困難にさせた。
「…大丈夫よ、ヘリオドール。可哀想に、恐ろしい夢を見ていたのね」
優しげなお嬢様の声が心地良く染み込むように聞こえてくる。大丈夫よ、お嬢様が囁く。それは、とても必死な声に聞こえた。なるべく、身体を動かさないようにして、お嬢様の声だけに集中する。
「大丈夫、大丈夫だからね。ヘリオドール」
焦りと困惑、今のお嬢様はまだ14歳だと言うことにふと思い当たる。聴き慣れた落ち着き払った声は、彼女が意図して発声していたものであり、今の彼女は今の自分となんら歳が変わらないことが気が付いた。
正確には15歳になる年か、とそう思った瞬間、それまで襲っていた苦しさがふっ、と消えてなくなった。拾われた当時、歳を聞かれた僕は9歳になる年だと答えた。誕生日などというものは知らなかったのだ。私は13歳になる年よ。お嬢様はそう言った。気に入ったのか、以来お嬢様も自分の歳をそう表現するようになったのだ。
15歳になる年、誰も知らないうちに僕とお嬢様は同い年になっていたのだ。
徐々に霧が晴れるように意識がはっきりしていく。過呼吸の名残を残しながらも、ようやく落ち着いて呼吸をすることできた。恐慌状態から抜け出せば、今度はこちらが困惑することとなった。
鮮やかな黄緑色の瞳に涙が溜まり、こちらを見つめていたのだ。
初めてお会いした時から、感情の発露をしっかり行う方ではあったが、悲しみを表に出すことはあまりなかった。貴族としての心掛けとして悲しみを表現することがあっても、涙を見せることはなかったのだ。
そうでなくとも、彼女は僕を庇護下から出そうとはせず、子供のように扱い、また自分もそのように振る舞った。心配を掛ければ叱られ、失態を犯せば許し慰める。感情を取り乱す事があっても、人前では取り繕い、見せる事はない。一瞬、処刑前夜のことを思い出す。あの時の彼女もまた泣いていたが、視界が歪んでいたために視認はしてなかったのだ。
「お、お嬢様…アリシアお嬢様」
慌てて声を掛けるものの、どう慰めるべきか、その前に迷惑を掛けた事を謝るべきか、判断に迷う。オロオロと慌てる僕を見て、お嬢様は小さく笑った。
「…良かった。心配したのよ」
仕方のない子、そう言ってまた優しく僕の頭を撫でた。申し訳ございませんと謝罪の言葉を口にすれば、大丈夫よとやはりを頭を撫でられる。心の中では、同い年となるお嬢様に撫でられるのを恥ずかしく思いながらも安堵の笑みを浮かべる彼女の邪魔をすることも出来ず、謝罪の意味も込めて、されるがままとなった。
僕はお嬢様の庇護下に置かれている為、公爵邸においてご家族を除き、僕を害そうとする者はいない。このお優しいお嬢様は、使用人には愛されていた。細かい気遣いと労いの言葉を惜しみなく振る舞う彼女、家族に冷遇されていようとも使用人に冷たく当たる事はない姿に心を打たれた者は多い。
気が弱くて使用人に媚を売っている。
悪意のある者は、そう嘲笑う。だが、彼女のそれは決してそのような行いではなかった。叱責は当然行いながらも、要望や助言を欠かさず、何かあれば必ず褒めた。王妃の器。いつからか、使用人の中ではそう言われるようになっていた。
使用人のお嬢様への忠誠心は非常に高い。もし、お嬢様の庇護下を抜ければ非常に厄介な反感を買うことだろう。可能であれば、現時点のダイヤの状況を確認しておきたいが、素直に申し出る事はできない。学園では、ある程度の噂を拾って情報収集をする事ができたが公爵邸ではそれも難しい。
もし可能であったとしても、僕が行うには難易度は高めだ。
飼い猫が突然奇行に走るには、正当な理由がなければならない。けれども、なりふりも構っていられない。彼女は来年には小さな社交場である、学園への入学が決まっている。死への明確なイメージを振り払い、早くに同行するための算段をつけ始めるのだった。
****************************
公爵邸の執事長であるアメトリンはその日、頭を悩ました。
薄い色素の黄色と紫色の瞳を持つ彼は、公爵邸の主人に恭しく仕えながらもアリシアお嬢様に対して忠誠を誓っていた。もちろん、心内でのことなので公言した事はない。
年齢は半ばを超えていると言うのにいまだに若々しく見目も麗しい、女性的配慮に気遣いながらも、思慮深くも圧倒的スピードで仕事をする有能な執事は公爵邸にとっての大切な宝石の一つだった。
そんな執事の忠誠の先がお嬢様と知られれば、どうなることか想像にたやすい。表立って彼女の味方をする事はせず、必要があれば無関心を装った。せいぜい、出来るのは必要以上にお嬢様と接触しないよう誘導するくらいのものだ。
執事の頭を悩ますのは、決してそのような配慮のことではない。
考えに困って少年が相談したのは、以前でも自分の指導に時間を割いてくれた執事長のところだった。胡散臭い笑みを浮かべるこの執事のことを少年は最初は全く信用できなかった。あまりに毛嫌いする少年に見かねた少女が執事の配慮について話した事があるのだ。
もちろん、多少なりとも警戒心が残っていたが、忙しない状況に置かれているのに甲斐甲斐しく勉強を見てくれる執事をいつしか尊敬するようになったのだ。
なにせ、少年は勉強などした事がなかった。そのため、進みは亀のように遅かった。執事は、どんなに忙しくも時間を取り、決して、匙を投げることもなく、根気強く勉強を教えた。その甲斐あってか勉強が終わる頃には、少年は執事を尊敬の眼差しで見るようになっていたのだ。
もちろん、これは以前の話であり、勉強が終えた頃というのが付き人になる前のことだ。つまりは入学してから、1年目の終わりのこと、今はまだ教えはじめの頃だった。
少年は、今以上に多くを学びたいなら、彼の元に行くのが1番だと思い、今の関係性も考えず押しかけていたのだった。
少年は言う。
来年、学園に向かわれるお嬢様の付き人になるためには、どうすれば良いのかと。
執事は、少年の真っ直ぐな瞳を思い出す。
いつから考えていたのか知らないが、突然の申し出に驚いた。少し前から勉強を見てやっていたが、どうにも嫌われているらしく、少年と目があった事がなかったのだ。お嬢様以外と目を合わさないのが普通なので、そこまで気にはしてなかったが。ただ、あまり喋らない子が流暢に喋ってお願いしてきた事に感動を覚えてしまっただけなのだ。威嚇するだけだった子猫が、知らない間に成長したのか、おやつのおねだりを覚えたような…、失礼な考えに至ってしまい、執事はその事を考えるのをやめた。
問題はそれだけではない。
執事を悩ませる問題はもうひとつあったのだ。
少女もまた執事に問う。
あの子を手放そうと思っているのだが、どうしたらいいのだろうか、と
ペリドットの瞳を悲しそうに伏せて、執事にそう言ったのだ。
方法はいくらでもあるのに、執事にそう問うたのは手放したくないと暗に言っているようにしか聞こえなかった。少年に学びたい気持ちがあっても、今までの勉強の進みから言えば、来年にはとても間に合わないだろう。しかし、今までほとんど単語での会話で済ませてきた少年がどこから覚えたのか必死にお願いをしてきたのだ。お嬢様の意見を尊重するのが当たり前なのだが、少年の願いを叶えてやりたい気持ちにもならなくはない。
執事はしばらくの間、頭を悩ますこととなった。
少年の意見の尊重する事も、確かにお嬢様の願いではあるのだから。