6.ゆめとうつつの世界
ジェダイド公爵家の令嬢 アリシア
それが、僕の敬愛するお嬢様の肩書であり、呪縛であった。
高位の貴族ほど重要視される宝石の名を持たない彼女は、格式高い公爵家の令嬢だというのに何の力も持たない少女だった。人から妬まれるほどの美しい容姿をしながらも、宝石の名ではなく平民のような名の彼女は常にひとりぼっちだった。頑張れば頑張るほど、彼女の名前がそれを阻む。周囲に嘲笑われるのだ。
何の役にも立たないつまらない少女だ。宝石ではなく、炉端の石ころに等しい存在だ。大変ご立派な張りぼてを持った石ですこと、愛されない少女だと、そうささやくのだ。
彼女が下位の貴族であれば、これほど苦しむこともなかっただろう。それでも、聞こえたものは言い返さねばならない。傷付こうとも嘆くことは許されないのだ。聞き流すことは許されない。故に悪意の声ばかりがよく聞こえてしまう。
「まあ、あなた方は炉端の石ころにも劣る存在なのね。お可哀想な事」
言い返し、例え打ち負かしても心が晴れることは無い。愛されていない事実から目を背くことは許されない。向き合い、平然を装おうとも彼女の自己肯定感は育まれることは無い。
彼女の母親は、彼女の命の引き換えになった。
疎まれる理由はたったそれだけのこと、けれども決して覆すことのできない事実。
8月に生まれたペリドットの瞳を持つ少女、もしも、その名を得ることが出来たなら石言葉である平穏を掴み取ることもできただろう。彼女は、彼女の家の象徴である緑の宝石を持つことを禁じられていた。年頃の少女は皆一様に自分の名の宝石を身に纏っていると言うのに何と屈辱的だったことだろうか。
宝石を持ってないのかとからかわれれば、飾らなければ己の魅力を誇示できないのねと返し、君の宝石はいったい何なのかと聞かれれば、見てわからないなんて学の無い方と貶して見せる。
己の身を守る為に彼女の言葉の鋭さは増していった。
言い返せば、言い返すほど、己の放った言葉が突き刺さってくる。愛されてないから、本当は自分の宝石なんて分からない。もし、言ってみせた後に違うと言われたら立ち直れないからだ。
彼女の自分への愛情は、さながら自己防衛からくる投影や昇華といった行いに近かった。自分よりかわいそうで愛情に飢えている少年、自分が何より求める宝石の名を与え、真綿のような優しさで包み込む。愛されて、喜ぶ僕を見ることで自己の平静を保っていた。
彼女の僕への接した方は、彼女の理想の愛され方でもあった。
宝石の名で優しく呼ばれることを、いつも心の底で思い描いていたのだ。
初めの頃は気が付いていなかった。きっかけは、あの女だ。取るに足らない男爵家でありながら、宝石の名を持ち、誰からも愛される少女の存在が、彼女の心を激しく揺さぶったのだ。お嬢様はすぐに僕を学園での付き人にした。普段であれば、足元をすくわれぬよう弱点となるものを露見する真似はしない。けれども、それほどお嬢様は追い詰められてしまったのだ。
学園での生活が始まって、1年目の終わりの頃だった。
お嬢様の精神状態は著しく、時折癇癪を起こすようになっていた。王子の心が離れていく度に、身につける宝石がなくなってしまうと憔悴していた。唯一、身に付けられる黄色の宝石は彼女の支えになっていた。婚約者自身はもちろんお嬢様の救いにはなってくれない。
「ヘリオドール、私の宝石…」
17歳になるころには、彼女はすっかり参っていた。やがて、彼女の瞳には諦観の色が濃くにじむようになっていた。冷静さを取り戻しつつあったが、この時には宝石の話題が地雷のようになっており、部屋の中でひとりすすり泣くこともあった。それでも、社交の場では毅然とした態度をしており、切り返しの鋭さには、磨きがかかっていた。
彼女の優しさはより一層強くなり、溺愛と言うべき状態になっていた。
どのような失敗もすべて許してくれた。
そのことで彼女は足元をすくわれてしまう。
そんなことには、なってはいけない。今度こそ、彼女を救わなければ…、何もできない僕でもできることを、なんとか足掻かないといけない。
朗らかに笑うお嬢様の笑顔をふと思い出す。
そうだ、いつも笑っていて欲しいのだ。悲しい顔も、絶望に塗りつぶされる顔も見たくない。僕のせいで辛い思いもさせたくもない。お嬢様のために何もできなかった。お嬢様のための宝石なのに、まさしく僕こそが炉端の石、役に立たなくてつまらない存在であった。
今度こそ、僕は……
強く決意を胸に抱けば、それを邪魔するようにヒュンと上で物音がした。瞬間、全身から冷や汗が吹き出し、全身の痺れと共に意識がまた、遠のいていった。
そうだ、夢ではない。僕は確かに一度死んだんだ。
少年はたまらずに飛び跳ねるように起き上がった。