3.ある令嬢の諦観
冷たい石畳の上で眠るヘリオドール、少しでも寒くないように抱き寄せた。まだ成長期を迎えていない少年の身体、昔に比べれば肉付きは良くなったが、それでも体重は軽く簡単に抱き寄せることが出来た。
これもまた、淑女にあるまじき行いだったが明日には死ぬのだ。
問題などあってないようなものだろう。
カラスの濡羽色の髪を撫でてやれば、幸せ夢を見ているのだろうか。ふにゃりと頬がほころんだ。あどけなさが残る顔、手足も細く身体は羽根のように軽い。15という歳にしては、あまりに幼い姿に憐憫すら覚える。3つも下の弟のような少年を道連れにしてしまうなんて、きっと天国にはいけないだろう。
透き通る黄金の目が、陽に当たると輝きを増して、それが手放したくない程美しくて、そして私だけを写しているのがどうしようもないくらい愛おしかった。わたくし自身には何もなかったから。宝石の名も、他者を惹きつける魅力も、見せかけの虚勢で生きてきたツケが回ってきたのだ。
せいぜいあるのは、ほんの小さな精神干渉の魔法の力。
王妃教育でようやく上手く扱えるようになったが、王妃として社交で発揮する前に無駄になってしまった。対象は会話している相手のみで、最大でも同時にふたりまで、言葉に力をのせることでほんの少し印象を操作するだけの些細な力だ。だが、あまりに強力すぎると封じられねばならない厄介な力でもあり、他人に知られれば敬遠される力でもあった。強い精神操作は言わば、洗脳のような力だ。恐れられる理由は、魔法によって精神操作がされたとしても判別する手段がないこと、そして高位の神官でなければ能力の高さを知る手段がないことだ。
よもや、そのことを学園卒業の式典で暴露されるとは思わなかった。
苦々しい気持ちを振り払うように溜息をつく。ふと、外を見やると空が白んでいた。牢の中に入ったのは昨夜のことであったが、たった数時間の間に状況はめまぐるしく変わり、挙げ句の果ての断罪だ。婚約者であるシトリン王子を奪ったあの女は、もう我が公爵家の養女に迎えられることが決定している。
よく手の込んだことで、随分前から計画されていたのだろう。丁度、両陛下が周辺国との会談に赴いており、この処刑を止められる者はいない。
殺して仕舞えば、死人に口なし、どのような言い分も生者の思うままだ。
恐らく、正当な婚約破棄は認められなかったのではないだろうか。
両陛下の代理としての権利を今のシトリン王子は有している。帰還する間に殺してしまい、陛下が承認せざるを得ない状況に持ち込むつもりなのだろう。
少し前から私の耳にも届いていた。王城前の広場で“高貴なる者”が処刑されるという話だ。詳細は不明で、貴族よりも平民の方で主に流布していたことから、信憑性が低いのではと疑われていた。両陛下の不在と言うのも大いに影響していたことだろう。
また貴婦人の間では同時に流れていた噂の方が興味深いことから、処刑の噂はあまり重要視されていなかった。と言うのも、心優しい清らかな男爵令嬢が、悪逆非道な公爵令嬢に虐げれているのを王子が救い、ふたりは恋に落ちたという、なんともロマンチックな話であったせいだ。明らかな意図が見て取れることから、婚約破棄は確実だろうと令嬢の間で持ちきりになっていた。
平民にも同様に流れていたことを考えれば、シンデレラストーリーとして印象付け、男爵令嬢との結婚を撤回できないようにしたかったのだろう。また、ここで私が悪役として死に、男爵令嬢が公爵家に迎えられることで身分差も解消され、公爵家も救われるばかりか協力したことにより地位を向上させる目的もあったのだろう。
そして、平民の前で“高貴な令嬢”が処刑される。
死の後にもしも、その罪が撤回されるようなことがあれば、安易な処刑を行う王族というレッテルを貼られかねないのだ。周辺国にも、冤罪で高位の令嬢を断罪したと後ろ指をさされ、場合によっては交渉時に不利に働く可能性も否めない。
損得で考えれば、死人である者に全て罪を着せてしまう方が遥かに賢い選択だ。
腕の中で眠るヘリオドールを見つめる。
私のかけた魔法によって、彼は幸せそうに眠っている。
責任感が強いせいで、彼は激しく取り乱していた。その前に牢番に痛め付けられたせいもあるだろう。通常よりも効きが良く、この状態ならば目が覚めてもしばらくの間、夢心地のままだろう。睡眠酩酊のような夢と現実の狭間で死ぬことが出来れば、必要以上に恐怖を覚えることもないだろう。
「大丈夫、大丈夫…決して、怖くないからね」
大丈夫、貴方には幸せな未来が約束されていると、言い聞かせるようにアリシアは何度も何度もつぶやいた。
身体が震えるのは、寒さのせいだからと見ないふりをして、
「大丈夫、貴方は確かに愛されていたから…」
今だけは現実を見なくていいのだと、目をつぶり、遠くから聞こえる足音すら気が付かないふりをした。