9.交差する思惑
「ヘリオドールは無理していないかしら?」
「お嬢様、そのように心配なさるのでしたら、今からでも私の提案など却下してしまえば宜しいかと思われます」
お気に入りの中庭で、少女は紅茶の時間を楽しんでいた。だが、時折思い出しかのように溜め息がこぼれ落ちる。少女は結局、ヘリオドールの願いを叶えてくれた。
「そのような事はしないわ。あなたの提案は素晴らしいものだった。私の要望とヘリオドールの希望、どちらも叶えられる素敵な案だったわ」
屋敷の方に視線をやれば、ヘリオドールが慣れない仕事に懸命に従事しているのが見える。これまで、彼に仕事をさせる事はあまりなかった。最低限の手伝いくらいで、いつも傍にいさせたからだ。
もしかして、私の想定は外れているのかしら。
先日のパニックを思い出す。完全に死への恐怖が断ち切れているなら、あそこまで酷い状態になるだろうか。私から離れたがると思いきや、学園に同行したいと言う。もしかして、公爵邸にいたからこそ危険な状況に陥るのかしら。
考えても仕方がない。本人に聞いてしまうのが、1番ではあるが、それは互いにとって良くない事だ。アリシアは思う。最初の想定であれば、必ず離れていくと思っていた。もし、そのように考えていた場合、わたくしに指摘されたら彼は責められていると思うだろう。
なるべくなら、 彼の意思を尊重させつつも逃してやりたいのだ。人間、後ろめたい事は指摘されたくないものだ。逃げ出すことを諦めてしまうかもしれない。
もちろん、全て私の勘違いで悪い方に考えすぎてしまっているのかもしれない。これも、案外否めない。口にしたところ、突然変な事を言い出したと思われかねない。先日のパニックだって、本当にただの悪い夢だったのかもしれない。それこそ、わたくしの魔法が悪く作用してしまった事も十分にありうるのだ。
考え込んだ所で分かるはずもない。アリシアとヘリオドールが出会ってまだ2年ほどの歳月しか経っていない。お嬢様の飼い猫でしかないヘリオドールが、責任感が強くお嬢様を崇拝しているとは思いも寄らないだろう。
「そうよね、もっと先のことかもしれないものね…」
「お嬢様、何かおっしゃいましたか?」
執事の問いにいいえと答えながら、少女は思う。時の宝石については逸話しか知らないのだ。見た目は大して変わっていないからと近年のことかと考えていたが、違うのかもしれない。ヘリオドールが何も責められぬよう準備だけは万全にし、うまく立ち回るしかない。
「…あの子の様子はどう?」
「はい、お嬢様。慣れないことなので、多少の失敗が目立ちますが概ね順調に仕事をこなしています。条件をクリアできるかは、まだ分かりかねますが」
アメトリンが提案したのは、ヘリオドールを執事として働かせてはどうかと言うものだった。物事には順番がある。まずは雑用からこなしていき、従僕の仕事を覚え、最終的に執事として働けるようになれば同行を許可すると言うものだ。
ヘリオドールに求められる水準は非常に高い。だからこそ、そこまで極めれば努力を評価して同行させる。例え、到達せずともある程度身に付ける事ができれば、自立させやすくなる。公爵家の紹介状を用意してやれば、職場を選ぶことも可能だろう。
何より、執事長であるアメトリンが面倒を見てくれると言ってくれたのだ。
「怪我をしないか心配だわ…」
「お嬢様、大きな怪我はさせませんので、小さい擦り傷などはお許しください」
執事長であるアメトリンは、とても面倒見がいい。忙しい身の彼に任せるのは忍びないが、ヘリオドールを任せることが出来るのは有り難い。アメトリンは、決して傲らない男だ。己も大量に仕事を抱えているのに、周囲のフォローも忘れず行い、大きな失敗も一瞬で成功へとひっくり返して見せる。
涼しい顔して、何もかもそつなく行う。感情的に他者を叱り付けることもなく、圧倒的なスピードでフォローに回る。どんな大惨事を引き起こしたとしても、彼にかかればなんてことなく元に戻る。
「そうね…。アメトリン、貴方に任せたのだもの。信頼しているわ」
「はい、アリシアお嬢様」
わたくしの大切な宝石、ヘリオドール
手放さない理由が出来た。ヘリオドールが選んだ。それは、とても喜ばしい事だった。だが、彼の世界が広がってしまうのが、どうしようもなく寂しかった。
使用人に見守られて、小さな身体で必死に仕事をこなすヘリオドール、きっとすぐに使用人の中に馴染んでしまうだろう。手放してあげたいのに、彼の世界にいるのは私だけでよかったと歪んだ考えが囁いている。
ねえ、ヘリオドール、貴方は今でもわたくしの宝石なのかしら。