前のご主人と新しいご主人
「いやだ。忘れたくない!」
悲鳴のような大声で叫んだ熊の言葉に、俺は予想が的中した事を確信した。
やはりこいつは、以前のご主人を想ってずっとここにいたんだ。死ぬ事も、ただのジェムモンスターに戻って消える事も出来ずに。生殺しの状態のままで。
熊の目を塞いで頭を抱え込んでいる俺は、熊の耳元に顔を近付けて言い聞かせるようにこう言ってやった。
「大丈夫だ。忘れなくて良い。全部持ったままで良い」
その言葉に、熊がピクリと反応する。
今度は戸惑うような鳴き声で明確な言葉にはなっていなかったが、俺にはこいつが言いたい事が不思議と分かった。
だから、目を塞いだままもう一度、今度は優しく言い聞かせるようにゆっくりと言ってやる。
「俺の従魔になれ。以前のご主人の事を覚えたままでいい。全部まとめてそんなお前を引き受けてやる。お前のご主人がどんな人で、どんな仲間がいたのか、俺に教えてくれよ」
明らかに、熊が戸惑うのが分かって俺は小さく笑った。
「俺の大事な従魔のマックスとニニは、俺の前に別のご主人がいたぞ。聞いてみろよ」
小さく耳元でそう言ってやると、熊は小さく震えた後、今にも振り上げそうだった腕を静かに下ろして四本足に戻った。
明らかにもう、攻撃しようとする意思は感じられない。
一つ深呼吸をしてから、ゆっくりと目を塞いでいた手を離す。
ハスフェル達が息を飲んで剣を握り直して構えるのが見えたが、そっちは放置だ。
「それは……それは、どういう意味ですか……?」
明らかに戸惑っている熊のその言葉に、俺は顔を上げてマックスを手招きして呼んだ。
早足ですぐ側まで駆け寄ってくるマックスを見て、俺は笑って小さな声でマックスに話しかけた。
「マックス、お前の以前のご主人の事、覚えてるよな」
驚いたように目を瞬いたマックスは、嬉しそうにワンと吠えた。
「ええ、もちろん覚えていますよ。前のご主人はとても優しいお方でしたよ。ゲンカンって所に、木の家を作ってもらって一緒に住んでいました。ご主人は、皆からサイトーサン、あるいはオトーサンって呼ばれてました。私はご主人と一緒に毎日お散歩に行くのが大好きで、お散歩に行こうって言ってくれるのをいつも待っていました。お散歩の途中でご主人がお買い物をする時は、私は外で待っていたんですよ。その間にいろんな人が私の事をイイコだねって言って撫でてくれました」
ニニも呼ぶとすぐに来てくれて、マックスのすぐ後に話し出した。
「私は、ジムショって所にお家があったわ。ハコに毛布を敷いてくれて、いつもそこで寝ていたの。いつもリササンって呼ばれてた女の人がご飯をくれたわよ。イイコだねって言って、いっぱい撫でたり遊んだりしてくれたわ」
ああ、そうだった、ニニを一番可愛がって面倒を見ていた山崎さんは、同僚の女性達からはリサさんって呼ばれてたな。それにマックスの前の飼い主は、斎藤部長。定年直後に急な病で呆気なく亡くなったんだったな。それで、バカ息子に保健所へ連れて行かれそうになっていたのを葬儀の席で聞いて、俺が強引に連れて帰って来たんだっけ。
突然の懐かしい記憶に、俺の涙腺がちょっと崩壊しそうになって咄嗟に横を向いて鼻をすすって誤魔化したよ。
「だから今のご主人は、二人目のご主人ですよ」
マックスとニニのその言葉に、まだ背中に乗ったままの俺を、熊は呆然としながら首を回して振り返った。
「良いんですか? 忘れなくて……」
「もちろんだよ。それはお前がご主人と一緒に築いて来たお前自身の記憶だ。大事なんだろう? 忘れたくないんだろう?」
そう言いながら、俺はゆっくりと熊の背中から滑り降りた。うん、これは確実にマックスの背よりはるかに高い。
背後でハスフェル達が戸惑うように何か言ってるのが聞こえたが、それどころじゃない。
改めて熊の目の前に進み出る。
今攻撃されたら確実に一瞬で終わりだけど、もう全然怖くなかった。
「もう一度言うぞ。俺の従魔になれ」
大きな熊の額に手を当てて、もう一度力を込めてそう言ってやる。
熊の額に当てた右手が、燃えるように熱い。
だけど、ティグの時のような跳ね返るみたいな抵抗感は無く、代わりに巨大な熱の塊がまるで子犬のように大喜びで胸元に飛び込んでくるのを感じた。
大きく息を吸ってその熱の塊を丸ごと受け止めてやる。
「ありがとうございます。新しいご主人。私は貴方に従います。貴方について行きます!」
嬉しそうなその言葉に、安堵の息を吐く。
次の瞬間、一気に光った巨大な熊は、さらにひと回り大きくなった。
うわあ。もう、この顔の大きさだけでもラパンよりはるかに大きいぞ。ダンプカーよりデカいんじゃね?
起き上がって上体を起こし脚を投げ出すみたいにしてお尻で座った熊は、その胸元にもうほとんど消えかけていたが、確かに紋章の痕が見て取れた。
「お前の名前は? 前のご主人はなんて呼んでたんだ?」
大きな熊の顔を見上げて聞いてみる。
「……セーブル、そう呼んでくれていました」
確かに一見真っ黒なんだけど、やや茶色味がかったその毛皮は猫の毛色でもあったな。確かに毛色の名前はセーブルだったな。まあ、こいつは熊だけど。
なんとなく、前のご主人のその適当なネーミングセンスに親近感を覚えた俺は、笑って右手の手袋を外した。
「じゃあ、お前の名前はそのままセーブルって呼ぶよ。よろしくなセーブル」
そう言って、胸元の前の紋章の上にそっと手を当てる。これを消さずに新たな俺の紋章を刻むんだ。
大きく手元が光った後、無事に俺の紋章が胸元に刻まれる。だけどその下には前のご主人から貰った紋章の痕が見えて俺は笑顔になる。
上手くいった。ちゃんと前の紋章を消さずに上書き出来たみたいだ。
もう一度大きく光ったセーブルは、今度はどんどん小さくなって大型犬ぐらいになって止まる。
「おお、これなら普通の熊っぽく見えるぞ」
笑って手を伸ばして太い首元を叩いてやる。
「以前も、普段はこれくらいになっていたんです。いかがですか?」
ちょっと照れたみたいな得意気なその声は、ちょっとおっさんぽい雄の声だ。
よしよし、久々の雄の従魔だ。
「ああ、いいんじゃないか。改めてよろしくなセーブル」
「はい、よろしくお願いしますご主人!」
まるで犬みたいに擦り寄って来たセーブルの背中や顔、それから脇腹の辺りも俺は笑って思いっきり気が済むまで撫でまくってやった。
大喜びで飛びかかって来て甘噛みするセーブルと、彼にとっては久々のスキンシップを楽しんだ。
「はあ、もう勘弁してくれ」
揉みくちゃにされて舐めまわされ、ズレた剣帯を戻しながら笑ってそう言いながら立ち上がってふと気が付く。
今に至るまで、ハスフェル達の反応が全く無い。
まさか反対されたらどうしようかと思って恐る恐る振り返ると、そこには驚きのあまり声も無いハスフェル達三人と、いつの間にか上空から降りて来ていたランドルさん達が、揃ってポカンと口を開けたまま俺を見ている姿だった。