白兎と方針の決定
ベンを廊下に放り出して戻ってきたその執事は、まるでゴミを見るみたいな目で絨毯の上を走り回る真っ白なウサギを見た。
ウサギが、毛足の長い絨毯をものすごい勢いで前足で掻き始めるのを見て、細い眉がピクリと跳ねる。
しかし、坊ちゃんが満足そうにその様子を眺めているのを見て、こっそりため息を吐き首を振って部屋を出て行った。
多分あの執事は、ウサギだけでなく動物全般が嫌いと見た。
「あれ、大丈夫かね……ウサギって、しっかり世話しないと駄目だって聞くけど……しかも、あの坊ちゃん、確かに素直、ってか無邪気かもしれないけど、あれは良い子とは言わないよな。ううん、家から一歩も出ずに育ってるからか、自分のわがままは全部通ると思ってるっぽいよな」
「しかも、少なくともウサギの事は可愛がってはいたが、自分で世話をきっちり出来るとは到底思えんな」
俺の呟きに頷いたオンハルトの爺さんがそう言い、ハスフェルとギイも同意するように頷いている。
「動物は、自分の思い通りになる玩具じゃねえよ。それに、欲しいと言った動物が、何処からどうやって連れて来られるかなんて、考えてもいない風だったな」
「確かに、そんな感じだったな。まあ、箱入りで世間知らずのお坊ちゃんならそれは当然だろうさ」
俺の言葉に、ギイも同意する様にそう言って揃ってため息を吐いた。
ハスフェルとオンハルトの爺さんが顔を見合わせて何か言いかけた時、俺は思わず声を上げた。
「あ、やった……」
まだお皿は室内の様子を写しているのだが、絨毯の上を走りながら、ウサギの尻から黒いのがポロポロとこぼれ落ちるのが見えたのだ。
まあ当然の生理現象。餌をもらった後だから、やらかしてもおかしくはない。
しかし、気付いているのかどうか分からないが、部屋にいる少年は転がるソレに全く反応しない。
「あれ、やばいんじゃないのか?」
ギイが、苦笑いしながらお皿の映し出す黒い粒々があちこちに転がった絨毯を指差す。
「俺もそう思う。問題は、あの執事がどう反応するかだな」
ひとしきり走り回ったウサギは、あの箱に戻り干し草を齧り始めた。
少年は、机に置いてあった本を手に取って読み始めたが、絨毯の隙間に落ちたソレには全くの無反応だ。
もうこの後、どうなるかの予想が簡単について、俺達は揃って大きなため息を吐いたのだった。
その後、また執事が出て来て、坊ちゃんに食事の時間だと言って部屋から二人揃って出て行ってしまった。
「何だよ、部屋から出てるじゃんか」
思わず呟く俺に、三人も苦笑いだ。
その後、しばらくして執事が戻って来て、本を片付けようとして絨毯のあちこちに落ちている、問題の『黒い粒々』に気付いた。
また、執事の眉がピクピクと跳ね上がる。
黙って箱の中で干し草を齧るウサギを見る。
まるで、ウサギは見られているのが分かっているかの様に平然と箱から飛び出し、目の前でまた黒いソレを幾つも転がした。
執事の顔が怒りに歪む。
「この、汚らしいケダモノが!」
いきなりそういうと、何と小さなウサギを蹴り上げたのだ。
俺達全員が息を飲んで一斉に立ち上がる。
そのまま何の抵抗も出来ずに床に転がるウサギを見て、黙って近寄り上から布を被せて、まるで汚らしいものでもつまむかの様に指先だけで摘んで、何とそのまま窓を開けて庭に放り投げたのだ。
広い庭に、猟犬らしき大型の犬が放されているのが見えた瞬間、俺は叫んでいた。
「シャムエル様! 頼むからあのウサギを助けてやってくれ!」
次の瞬間、ぐったりしたウサギを抱えたシャムエル様が俺の膝の上に現れた。
「万能薬を頼む!」
俺の叫びと、すっ飛んできたアクアとサクラが、ぐったりとしたウサギに万能薬を振り掛けるのとはほぼ同時だった。
しばらくの沈黙の後、無事起き上がった真っ白なウサギは、フンフンと不安気に周りの匂いを嗅いた後、唐突に固まってしまった。
まあ、無理はない。
俺の背後から、巨大なマックスとニニが揃って自分を見下ろしていたのと、まともに目があってしまったのだから。
「食べちゃ駄目だぞ」
振り返って苦笑いしながら俺がそう言うと、マックスとニニは不満げに揃って鼻で鳴いた。
「ご主人、いくら何でもそれくらい分かりますよ」
「そうよ。だけど、その子はそうは思ってないみたいね」
マックスとニニの言葉に、膝の上のウサギを見る。可哀想なくらいにブルブルと震えていて小さく丸まってしまった。
「これ、どうするかなあ……」
咄嗟に助けたのは仕方が無かったけど、この後の事を考えてちょっと困っていると、オンハルトの爺さんが俺の腕を叩いて皿を見せた。またあの執事が映っている。
膝の上にいたシャムエル様がいつの間にかいなくなっているので、また見に行ってくれたみたいだ。
俺は、慌ててウサギを抱き上げて落ちないようにして、お皿を覗き込んだ。
「非衛生極まりありません。先生の口から、坊っちゃまに、もう動物を触らない様に言ってください」
部屋にいるのは、先生と呼ばれた年配の男性とあの暴力執事だ。
「分かりました。衛生的な面を考えると、良い事ではありませんからね。私から言っておきます」
頷く先生に一礼して、執事は満足そうに頷き部屋に戻って行った。
丁度、部屋から掃除道具を手にした男性が数名出て来た所だった。
「ご苦労、部屋は綺麗になりましたか?」
「はい、終了しました。汚れた絨毯は交換いたしました。さすがに、あのままお使いいただくわけには参りませんからね」
「お願いですから、動物は部屋に入れないでください」
大きな絨毯の筒を抱えた男性も、嫌そうにそう言っている。
「大丈夫ですよ。先生から、非衛生な環境は坊ちゃんの健康に良くないので、今後動物を飼うのは禁止との指示を頂きました」
「それなら安心です。では失礼します」
絨毯を抱えた男達を見送り、部屋に入った執事は、すっかり綺麗になった部屋を見て満足そうに、ニンマリとほくそ笑んだ。何だか嫌な笑い方だ。
そこへ、別の執事に付き添われた坊ちゃんが戻って来た。
「マイヤー。ウサギは?」
部屋に入るなり、無くなっているウサギの箱に気がついた坊ちゃんがそう尋ねる。
「坊っちゃま。先生からご指示があり引き取らせました。動物を部屋に入れるのは今後禁止との事です」
あんな事をしておいて、平然とよくもそんな事が言えたものだと思うが、何も知らない坊ちゃんは当然不満気だ。
「せっかく、少しお元気になられているのに、不衛生な環境で、またお加減が悪くなれば何といたします」
「……分かった」
まだ文句を言いたそうだったが、そう言うと、ソファーに座ってまた本を読み始めた。
「あくまで私が見た限りだけど、確かに小柄だし痩せているけど、あの子は別にどこも悪くないよ。どうして部屋に閉じ込められて療養してるのか分からないね」
いきなり膝の上に現れたシャムエル様がそう言うと、困った様に俺を見上げる。
「つまり、あの子がここにいるのは、何か別の理由がある?」
「みたいだね。どうにもよく分からないよ」
シャムエル様と同じく、三人も困った様に俺を見る。
俺は黙って目を閉じて、腕を組んで考える。
「よし、決めた」
一言そう呟き目を開く。
「なあ、シャムエル様ならこっそりタロンを助け出せる?」
「そうだね。まあ、こっそり連れ出すなら……出来るかな?」
「シャムエル様、何故そこで疑問形?」
「だって、覗き見するのと違って、直接の手出しは、どこまで出来るか私にも……」
「それなら、私が行って来ましょう。鍵を壊してタロンを逃せば良いんですよね?」
ベリーが手を上げてそう言ってくれる。
「ベリーに危険は無い?」
「もちろんです。姿隠しの術で中へ入って、鍵を壊して来ます。そうすれば、タロンは自力で逃げられるでしょう?」
「じゃあ、お願い出来るか?」
頷いた揺らぎが消えるのを見送ってから、ハスフェル達を振り返った。
「って事で、プラン6をもうちょっと変更してプラン7を考えた。これで行くぞ」
三人に変更点を説明して頷き合った。
それからしばらく待っていると、タロンとベリーが無事に戻って来てくれた。
「おかえり。怖かったな」
「心配かけてごめんなさい、ご主人」
ウサギをオンハルトの爺さんに渡した俺は、物凄い音で喉を鳴らしながら、タロンが俺に頭を擦り付けて膝に飛び乗ってくるのを見て、黙って小さな身体を抱きしめてやりその柔らかな暖かさを噛み締めた。
「なあ、あいつらに仕返ししてやろうと思うからさ。タロンも手伝ってくれるか?」
すると、顔を上げたタロンは当然の様に頷いた。
「当たり前でしょう? まさかご主人、このまま逃げるつもりだったの?」
「まさか、いくら俺がヘタレでも、大事なタロンとファルコに手出しをされたんだから、きっちり話つけさせてもらうよ」
「さすがね。それで私は何をすればいいの?」
当然のようにそう言ってくれるタロンを、俺はもう一度抱きしめた。
「タロンの出番は、もうちょっと後な。今日のところはひとまず撤収だ。夜はちゃんと寝ないとな」
にんまりと笑った俺は、そう言って立ち上がった。
ウサギは相談の結果、オンハルトの爺さんが一晩面倒を見てくれる事になった。
従魔達が大勢いる俺の部屋は、さすがにただのウサギにはストレスだろうとの配慮からだ。
公爵邸への突撃は明日だ。
その前に、一応根回しはしておくべきだろうから、俺達はひとまず冒険者ギルドへ向かったのだった。