問題の坊ちゃんは……
傾き始めた夕日に照らされて、重い沈黙の時間が過ぎる。
無意識に側に来てくれたニニの頭を撫でながら、もう、何度目か数える気もないため息をまた吐く。
「本当に、お気楽に異世界を旅して回るだけのつもりだったのにさ。何でこうも次から次へと、災難とトラブルが寄ってくるんだよ。一体俺が何したって言うんだよ……」
もう一度ため息を吐いて、抱きしめたニニの後頭部に頭を埋める。
「ニニ、お日様と土と草の香りがする……」
何だか不意に泣きそうになって、俺は身震いして顔を上げた。
今から弱気になってどうする。
確かに俺は流されやすい性格だよ。事を荒立てるくらいなら、自分が謝ってすむならそれでいいと思って平気で頭を下げたよ。
だけど、今は違う。嫌だけど、売られた喧嘩は買うよ。
今回に関しては、絶対買うよ。だって、あそこには俺の大切な仲間のタロンが捕まっているんだから、そもそもこのまま逃げるなんて選択肢は最初から存在しない。
だけど、面と向かって王都の貴族に喧嘩売るのは得策じゃないよな。
だけど、あいつらが俺やタロン、ファルコにした事は許せない。
俺が頭の中で一人でぐるぐると考え続けていたら、不意にオンハルトの爺さんが顔を上げた。
「お、何か見られる様だぞ」
そう言って、さっきのお皿を取り出す。慌てて俺達も身を乗り出してお皿を覗き込んだ。
そこには、厩舎にいたファルコを逃してくれた飼育員の男がいた。白い何かを抱いて廊下を歩いている。
「まさか、あれはタロンか?」
ハスフェルの言葉に、俺は首を振った。
「いや、ちょっと違うと思う……」
その男が抱えているのは、タロンよりももっと小さく見える。
もっとよく見ようと覗き込むと、いきなり腕の中にいた白い塊が動いてぴょこんと顔を出した。
「あ、可愛い……」
俺の言葉に、ハスフェル達が揃って吹き出す。
「お前は、こんな時でも相変わらずだな」
ギイに背中を叩かれて俺は誤魔化す様に笑って肩を竦めた。
男が大事そうに抱えていたのは、生まれたばかりではないだろうが、まだまだ小さな子ウサギだったのだ。
真っ白な体に、真っ赤な目、やや短めだが耳は立ってる。鼻をひくひくさせているが、怯えている風ではない。
しばらく歩いて、大きな扉の前に到着すると、男は慣れた様子でウサギを片手に抱え直して扉をノックした。
「坊っちゃま、入りますよ」
その瞬間、中から扉が少しだけ開いて、小さな子供が顔を出した。
多分、小学校低学年だろうと思われる。背も低く身体はかなり細い。しかし、確かに血色は良いし、目はキラキラと輝いている。
「ベン、ホワイティは?」
満面の笑みで両手を差し出す少年に、ベンと呼ばれた男は笑顔で頷き、しゃがんで抱いていたウサギを手渡す。
奪い取る様にしてウサギを受け取った少年は、小走りに部屋に戻ってソファーに飛び込むみたいにして座った。膝の上で、抱いたウサギをずっと嬉しそうに撫でている。
「どうぞ。食べさせてやってください」
ベンが細く切ったニンジンの様なものを渡すと、少年は嬉しそうにそれを受け取ってウサギの目の前に突き出す様にして差し出した。人参の先がウサギの鼻にめり込んでいる。
顔を上げたウサギが齧り始めると満面の笑みで声を上げて笑い、またそっと背中を撫でる。
その手付きは、ややぎこちないものの、大事にウサギを扱っているのが分かる。
しばらくそうやって食べさせていたが、もらった分を全部食べさせた後は、そのまま足元に放したのだ。
ウサギはキョロキョロと部屋を見回し、ソファーの横に置かれていた小さな平たい箱に飛び込んだ。
その箱には干し草が入っていて、トンネルの様な木の箱も置かれている。
どうやら、このウサギは坊ちゃんのペットみたいだ。
「真っ白でオッドアイ。見つかった?」
「それがですね、坊ちゃん」
申し訳無さそうなベンがゆっくりと顔を上げる。
「ちょっとした手違いが起こった様でして、まだなんですわい」
「いつ? 明日?」
即座に聞き返されて、ベンは口籠る。
「坊っちゃま。ホワイティだけでは駄目ですか?」
「だって、この本に出てくる剣の勇者様は、真っ白で大きなウサギの従魔と、オッドアイのウサギの従魔を連れているんだもの。僕もそんな子達が欲しいんだ」
「以前も申し上げましたが、ウサギの場合はバイアイと申します。珍しいですから、もうしばらくお待ち下さい」
口を尖らせる少年を見て、何だか違和感を覚える。
「成る程、物語の主人公が連れている従魔がオッドアイだったのか。だけど、猫じゃなくてウサギって……」
それは、ちょっとした手違いというレベルじゃないと思う。
ってか、あの男達……どれだけ適当なんだよ。白くてオッドアイってだけで、タロンを攫って行ったって言うのか?
また腹が立って来たぞ。
「必ずお探ししますから、もうしばらくお待ちください」
「早くして」
「はい、申し訳ございません」
下手に出るベンに、少年はまた口を尖らせる。
「もう良いから戻って」
しかし、ウサギを抱き上げようと箱のそばへ行こうとしたベンを、少年が遮る様に手を伸ばして止める。
「今日から、ホワイティの居場所はここ。良いから戻って」
その言葉に、ベンは慌てて首を振った。
「それはなりません。先生に叱られます。触る程度は良いが、部屋で飼う事は許さないと言われ……」
「いいから戻れ!」
いきなり癇癪を起こした少年は、真っ赤な顔で立ち上がった。
「いいから、いいから戻れ!」
はっきりと言われて、ベンは戸惑う様に言葉を失い、深々と一礼した。
「かしこまりました。では明日またお世話に参ります」
「要らない。僕が世話をする」
「撫でて人参をあげるだけが、お世話ではありませんぞ」
きつい声で咎める様にそう言ったが、少年は持っていたクッションを投げつけて机に置いてあった小さなベルを鳴らした。
「帰らせろ」
奥から出てきた、多分執事っぽい男性が、有無を言わさずベンの腕を掴んで引きずって行った。
引きずられつつも、彼は必死になって、部屋中に糞が落ちるので気をつけなければならない事、家具を齧る危険があるので、部屋に放しっぱなしにはしないでくれと、大きな声で叫んでいる。
うん、俺はウサギは飼った事無いけど、多分、正しいアドバイスだと思う。
犬や猫と違って、ウサギはトイレのしつけが出来ないって聞いた事がある。まあ、個体によってはちゃんと用意したトイレでしてくれる子もいるかもしれないけど、草食動物って、基本何時でも何処でも出すもんな。
ちなみに、うちの従魔達は、宿にいる時は勝手に人間用の手洗いへ行ってくれるし、大型の子達は、中庭の奥に、ちゃんと従魔のトイレ用の砂場があるんだそうだ。しかも、その砂には浄化の魔法がかかっていて、一晩で綺麗に分解されるらしい。
普通の宿で従魔を連れていると断られるのが、要するにこれ。トイレのせいだ。普通の宿では、常にそんなお金のかかる準備をするわけにいかないし、かと言って室内で大型の従魔が勝手にトイレをしたら……そりゃあ大惨事になるだろうからな。
すげえぞ、ギルドの宿泊所。
そんな事を考えながらお皿を見つめていると、またウサギが箱から出て来て部屋の中を走り回り始めた。そしてそのまま、毛足の長い絨毯に突っ込んで遊び始めた。
ううん……これは部屋の中が、ちょっと見ていられない様な大惨事になりそうな予感しかしないぞ。