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シワのついたステンカラーコートを着たサラリーマンやフレンチブランドのショルダーバックを腕にかけるOLがいそいそと改札から出て行く。
池袋帰りのビジネスマンがベットタウンとして利用するこの街の日常風景であり、終電前とあっても石神井公園駅の利用客は多かった。
池袋から急行で10分程度であり、家賃も東京の相場より安い。
その点、サラリーマンだけでなく学生や夢追いの若者たちが住むには絶好の地域であった。
急行電車の乗客が改札を抜けていく中、花岡映司は人がまばらになった改札への長い階段を一人降りていく。
黒いダウンジャケットのジッパーを上げるとジャケット両脇のポケットに手を突っ込んだ。
改札を抜け、飲食店の並ぶ駅南側の商店街へと歩き出す。
既に閉店した店が多かったが、その入り口に飾られたクリスマス用の電飾が暗い店内を照らし、営業中の店舗の光に馴染もうとしていた。
クリスマスとは無縁の黄色いネオン看板の飲食チェーンを見つけると、そそくさと中に入る。
出された熱いお茶を飲みつつ、映司は今日の新報論社での打ち合わせを思い出していた。
「それでね花岡さん。今回で”いせちゅう”は終了してもらって、新しい恋愛ものを一本描いてもらえないかなと思って。」
新報論社編集部の白山はゆるくウェーブのかかるダークブラウンの髪を触りつつ映司に言う。
白山の整髪料と香水の入り混じった体臭は女っ気に疎い映司でも嫌悪感を示さずにはいられなかったが、化粧映えしたキツイ顔立ちで睨みつけられると映司はその立場から何も言うことが出来なかった。
白山は映司が新報論社運営の小説投稿サイト『ニュージェネ』で連載している小説『異世界で現実中卒の俺が魔法大学学院生と戦ったら勝てた件』の担当者である。
しかし、連載当初の担当者ではなく、映司と白山は今回初対面であった。
当初の編集者は映司と同年代の高城という男である。
高城は常によれよれのシャツとシワのついたスラックスを履き、髪型も全く整えない男であったが、その大手出版社らしからぬ出で立ちは映司に安心感を与え、良き相談相手でもあった。
高城の編集スタンスは作家の希望にできる限り寄り添うものであり、そのせいで締め切りが遅れそうになっても会社に泊まり込み、なんとか出稿に間に合わせてくれていた。
作品の単行本化も高城が拾い上げてくれたおかげでなんとか実現し、映司は高城に絶大な信頼を寄せている。
だが数日前に突然、時事・社会系雑誌『新報総論』に異動となり、今回挨拶も兼ねて白山との打ち合わせを設けることになった。
そして人間味のしない香りただよう会議室によばれた映司は白山と出会うや否や、連載小説の打ち切りを命じられたのだった。
「あの、まだ物語も中盤で終わらせようがない状態なので、何とか伸ばして完結させられないですかね。」
太腿に置いた手をデニム地に擦り付けながら、映司は自身のない声で言う。
「正直、続けても微妙かなって思います。数字にも出てますし。」
白山は映司を見ずそう言いながら、着ているベージュのジャケットについたゴミを払った。
事実、単行本の売り上げは下がっており、高城とこれからの展開について話し合っているところでもあった。
連載当初は”いせちゅう”と愛称がつけられ、いろいろなウェブサイトでも取り扱ってもらった。
しかし、単行本が売り出された直後から似たような世界観の作品が多数登場し、映司の作品のファンは一斉に移動し、単行本の売り上げに大きく影響が出てしまった。
高城は映司に対し、これからの作品展開で他作品との一線を引こうとしてくれていたが、見かねた上層部が高城を異動させ、女性誌での売り上げに長年貢献している白山をその代わりとして抜擢、ライトノベル部門に新たな活気を入れようとしていた。
「まぁそもそも一般的な本の読者はこのノリについてこれないだろうし、似たような作品が乱立しているんじゃ売り上げが見込めないのも無理はないと思うんです。だからこその恋愛小説なんです。テーマとしては一般的だし、ちゃんとした文章で書けば、単行本だけじゃなくってドラマ原作とかでも使えますし、女性の興味も惹くと思うんです。実際この間国電の営業の方と話してー」
白山は大手広告代理店の名前を出すと、いかに自分がドラマを作りたいか嬉々として話してみせた。
映司は言い返そうとしたが、自分が見ようとしなかった事実に沿った理知的な反論を怖がり、何も言えなかった。
その姿を見た白山はまだ攻撃させてもらえるのと言わんばかりに言い続ける。
「作品も読ませて頂いたんですが、都合の良い世界観すぎて何も面白みがないし、その世界観を好む一定の層にしか読まれない作品と化していると思うんです。それじゃあ本は売れないし、一定の売り上げしか見込めません。分かっていると思いますが、作品は作者の願望をひたすら投影するものではないんです。」
会議室のドアがノックされ、髪の毛を頭上でまとめたTシャツ姿の若い女が白山に来客であることを伝えた。
あとで行くと白山は目線だけ女に向けて言うと、目の前にあるA4サイズの紙を映司の前に移動させた。
「これ、企画書です。女性誌で人気のテーマを踏まえてのものですが参考にしてください。花岡さんには当社で連載を続けて頂くためにも恋愛小説を書いて頂きたいのです。できるだけご自身の”経験”を踏まえたリアルなものだといいですね。」
企画書の上部には太字で”リアルな若者の恋愛事情がウリの物語”と書かれてある。
映司が企画書に目を通している間に白山はスッと立ち上がり、出口に向かう。
ドアノブに手をかけると白山は好意とも嘲笑ともとれる笑顔を映司に向けた。
「現実でダメだからといって別世界に行ってなんとかなるなんて発想は、あまりにも幼稚だと思いませんか。」
出来そうだったらご連絡くださいと言うとそれ以上は映司を見ず、そそくさと出て行った。
映司はしばらくドアを見つめながら、油の塊のような最後通告をどうやって飲み込もうか考えていた。
食事を終えるとすぐに店を出た。
朝から何も食べなかったせいか必要以上に食べてしまい、腹が張っている気がした。
腹を何度もさすりながら、石神井公園の方に歩き出す。
石神井公園は駅から南方面に歩いて行くとたどり着くがそこまでは10分程度歩かねばならない。
映司の住むアパートは広い公園を抜けた先にあるので更に歩かねばならなかった。
合計20分の道程だが映司はこの時間を利用していつも小説の構想を行う。
12月に入り、この時間帯は一層寒さを感じるが、今連載している小説もこの道程で生み出されたことから、その寒さで頭を冷やして構想を練ることを彼は人一倍大切にしていた。
しかし、今日は構想どころか小説のことすら考えられなかった。
このままだと自分の作家人生が終わってしまう。
もともと映司は作家を目指していたわけでもない。漫画やアニメ好きであり、自分の妄想を実現しようと気ままに小説投稿を始めたわけであって、文学作品のような芸術性を表現したいからでもない。
大学卒業以後、就職することもなく警備員のアルバイトで生計を立てた。その傍らにある暇な時間つぶしのやり方が作品を鑑賞することから作ることに変わっただけなのである。
正直1年も続けられると思っていなかった。でもそれは作家としての実力ではなく、運良く流行という波に乗れただけだったのかもしれない。
たまたまキャッチできた幸運の入った缶詰。中身はもう飲み尽くしたのだ。
石神井公園のボート乗り場が見えてくる。暗闇に並んだスワンボートが規律良く並び、仲良く眠っていた。
池のほとりに沿って歩道を歩き、公園の中に入って行く。
街灯はぼんやりとした明かりで薄暗く木々を照らし、公園はちょっとした森にも見えた。
歩道を歩いていると池に臨むベンチが所々に置いてあった。今の時間は誰もいないが普段はカップルや釣り人がそこを利用している。
映司は暗闇に照らされたベンチを見て、自分にも恋愛小説が書けるか考えていた。
経験を踏まえろとも白山は言っていた。嫌味のようにも聞こえ、世間の本音にも聞こえる。
自分が描く恋愛はすべて虚構だ。恋愛経験もない。あればきっと就職活動も成功し、世にも幸運な作家として歩むこともなかったはずだ。
自分の出来なかったことに対する不満が原動力となる物語には、おのずと自分の願望が投影されてしまう。まるで自分が神であるかのように主人公を助け、幸せにしてやる。過去の救えなかった自分を救ってやるように、キーボードを打つ速度は上がっていく。
ただ、その原動力があったからこそ1年間の連載も続けられたのだ。
経験を踏まえるということ。それは現実と向き合え、ということだった。
現実と向き合い、思い通りにはならない現実もあるのだということを認めなければならなかった。
就職活動に失敗し、フリーターとなったときは相当落ち込んだ。
小説があったからこそ暗闇から這い出せたものの、今回ばかりはその気力はないかもしれない。
歩道を夢中で歩き続け、公園中央部の国道に出た。
石神井公園は公園中央部を南北に国道が走り、東側と西側に分かれている。国道を下っていった先が映司のアパートだった。
映司はふと公園の西側を見た。西側は東側と違い街灯が少なく、そこにはぼんやりとした道が見えるものの、遠くまで暗闇が広がっていた。
池袋駅の床タイルは利用客の持ってきた雨水で濡れ、人を転倒させうる艶を放っている。
白い蛍光灯が反射し、利用客の足元浮かび上がらせながら、駅構内の人の多さを強調しているように思えた。
目の前を一人の若者がスニーカーで足元を鳴らしながら改札へ向かって行く。
その傘からは大量の雨水が垂れ、その若者が歩いた軌跡が外階段から続いていた。
あれから1週間が経った。
池袋駅の北側増築工事の警備で、映司は駅構内に居た。
工事に伴い北側にある改札は私鉄を含めそれぞれ封鎖され、普段北側の改札を利用する人間が南側の改札に溢れている。
この混雑を生み出してまでも増築する必要があるのかと映司はサラリーマン同士の衝突を見ながら思っていた。
映司は工事箇所入り口前での警備に従事していた。
大晦日とあってか人の通りは多く、警備員と利用客の距離はいつもより近いように感じた。
頭上にボルトをねじ込んでいるような強烈なインパクトドライバーの音が響く。
慣れているといってもたびたび聞かされるのは苦痛で、一体何をしているのか問い詰めたいくらいだった。
耳から入る音の情報を脳ではたき落とすと、1週間で練った恋愛小説を思い出す。
何とか形にすることは出来た。いろんなサイトや本を読み漁って情報を頭に叩き込んだ。
ただ、それが面白いかと言われれば、手に入れたパーツを組み合わせた模造品のようにも思える。
模造品はどれだけ精巧でも模造品である。
しかし、生活のためにはこうするしかないという決断だった。経験からのストーリーだと言い張ればいい。
もう当たりが入っていないと分かっていても自分はクジを引き続けることを選んだのだ。
思い出そうとした恋愛小説がインパクトドライバーで一瞬にしてかき消される。
この仕事も何とか終わりにしたい。
池袋駅北側に新たにファッションビルができる頃にはそこのカフェで小説を書いてやろう。
落ち込んだ気分を何とか元に戻しつつ、終わらぬ断続的な衝撃音に耐えるばかりだった。
映司の勤務は夕方から翌朝までであり、間もなく日付が変わろうとしている。
途中休憩を挟みつつも、映司は相変わらず立ち続けていた。
今日だけは電車は終夜運転しているが、この時間になると人はどこかの場所で年越しをするために集うため、駅の人通りはまばらになる。
映司も一息つき、次第に眠気を感じるようになった。
そして、年越しの瞬間を迎える。
遠くで酔っ払いたちの歓声が聞こえて来た。
池袋には若者が集まりやすく、立っている間も若者の集団が駅から出て行くのを映司は見ていた。
おそらく次は初詣だろう。映司はそう思うと首を回し、背中の筋肉を伸ばす。
しばらくすると駅に人通りが戻ってきた。
ハッピーニューイヤー、ごくろうさまですと何人かの若者に声を掛けられる。
ふざけられていると分かっていても、映司は滅多にない通行人からの声に嬉しく思った。
バイト中は何も考えないようにしている。
けど年を跨いだ今日だけは何だか特別な気がしてならなくなった。
小説も多分上手くいきそうな気がする。
だんだん昼間と同じような喧騒が戻ってくると、夜明けの近くなった空を早く拝みたいと思うようになった。
終わったら少し寝て、小説をもっと練ろう。年明けには即持っていくつもりだ。
その時、地鳴りのような低音がかすかに響いてきた。
映司は何も気づかずに立ち続けていた。
その音は一気に崩壊音と変わり、映司が目の前は一瞬にして闇となった。その刹那、目の前の通行人が一気に潰されたのが目に焼き付いている。