29 私は、尊敬しました(前編)
白く照らされた室内で、ざわめきは影をひそめる。
静寂が聞こえる中、眩しい光だけが音もなく明るさをより強めた。
そして私は……たたずむラウレンツを映した目を伏せながら、ゆっくりと手をおろしていった。
「皆様、席を外してしまいすみませんでした」
「ラウレンツ王子!」
ラウレンツの声は、また一瞬で流れる空気を柔らかなものに変える。さすが王子様と感心する間にも、嬉しそうに名を呼ぶミアが駆け寄り、クラーラも続いた。
……けれどそんな二人を余所に、じっと立ち尽くして思い返す。
もう少しで、私はとんでもない過ちを犯すところだった。
他の令嬢に危害を加えるなどあってはならず、先ほどラウレンツに向けられた態度と言葉も当たり前でしかない。
だから反省しようとするも、今は『壊れたガラス細工を見られた』、そればかりが浮かぶ。
私がその事に顔を歪ませるだけでなく、やがて瞼をぎゅっと閉じた矢先――。
「やはり、壊れてしまったようですね」
「えっ……」
こつぜんと紡がれた言葉に、思わず声を洩らした。咄嗟に目を見開けば、ラウレンツの綺麗な笑顔が飛び込む。
「土台に使用していたテーブルですが、実はつい先日から天板が傾き始めていたのです。そうでしたね、エトガー」
「……はい、さようでございます」
不思議なほど普段通り穏やかに話す彼は、エトガーの肯定に軽く頷いてなおも続ける。
「本来ただちにすべき修繕を先送りにしたため、おそらく傾斜が原因で滑り落ちたのでしょう。破損は当然の結果であり、対処を怠った私の責任です。これで皆様にも経緯は明らかになりましたから、今回の件に関して以降の詮索や発言は不要とします」
そう言って、すべてを終わらせたラウレンツに呆然とする。
説明はまったく予想もしない内容で、まさかこんなふうに片付けるとは思ってもみなかったのだ。
けれど、綺麗な笑顔の王子様は……こうしていとも簡単に事態を丸く収めた。
「……お、お待ちください、ラウレンツ王子っ」
「ミア嬢? ――ああ、すみません。幸いにも怪我をした方はいないと見受けましたが、私からの謝罪がまだでしたね。この度は、大変驚かせてしまったことをお詫びします」
「違いますわ、そうではなくて……ラウレンツ王子もご覧になられましたわよね……? 言葉遣いもさることながら、粗暴なティアナ様は、本当にラウレンツ王子には相応しくない方ですの。置物が壊れたこともきっとティアナ様が……」
「お気遣いありがとうございます。ですがミア譲、その必要はありませんよ」
ミアにディスられたけど、全部真実だから反論はしない。
……それよりラウレンツのせいになるくらいなら、本当に私が壊したことにすれば良かったと思う。
「何より、これ以上の発言を自制するよう申し上げたことが伝わらなかったようで、残念です」
「あ……それは、その……」
「それともう一つ。たとえ同じ候補者の貴女でも、ティアナ嬢とそのご家族を蔑むような言動は、私が許さないことを心得えておきなさい」
ふわりとした微笑みに反して、いつもより強く聞こえたラウレンツの口調に軽く息をのんだ。
――『家族』という言葉で、ヒルダを守ってくれたのは嬉しい。だけど発端は、二人を相手取るつもりがミアだけを責めた形になったからで、売り言葉に買い言葉だった気もする。
私は少しかわいそうに感じて、つい庇おうとしたけれど……。
そんなことをすれば、貴族のミアを余計惨めにさせるかも知れない、と口を挟むのはとどまった。
「ところで皆様にお話があります。私は少し急な用件が入り、また公務へ戻ることになりました。ですから、本日のお茶会は一旦終了とし、後日改めてご招待させていただきたいと思います」
「承知いたしました。ご公務でしたら仕方がありません」
「クラーラ嬢、ありがとうございます。お二人にはご足労申し訳ないですが、何卒ご了承いただき速やかな退去をお願いします」
ラウレンツは変わらない笑顔と優しい語調でありながらも、有無を言わせずに告げてゆく。
そうして、長くも短いお茶会と私の戦いは終幕を迎えるのだった――。
***
「――それでは皆様、お疲れ様でした。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
放たれたセリフを合図に、周りの人々がそろそろと動き始める。
だから私も足並みを揃えて、手を繋いだヒルダとともに入り口へ向かっていた。
「あ、ミアお嬢様……っ」
最中に背面で呼び声がしたと思ったら、ミアが素早く私の横を過ぎる。そのまま真っ直ぐ退室してゆく後を、声の主であるメイドも追うように続いていった。
「――ラウレンツ王子。次回お会いできる日を心より楽しみにしております」
「はい。その際はまた、どうぞよろしくお願いします」
次いでふと会話のする方へ振り返れば、ラウレンツと別れの挨拶を交わしたクラーラがこちらに向かって歩いてくる。
その様子を何気なく見つめていると目が合った彼女は微笑み、私の前で立ち止まった。
「ティアナ様。心からご同情いたします」
「ん?」
出し抜けに言われて、私は何のことだろうと首をかしげる。
「まさかミア様が、ご覧になっていないものを見たとおっしゃるとは思いませんでしたから。何か後ろめたいことでもあったのでしょうか」
……わあ、なんて清々しい手の平返しなんでしょう。
ずっと仲良く私を責めていたはずなのに。何事もなかったように切り捨てている変わり身の速さがおそろしい。私は、ちょっぴりミアに同情した。
「別にもういいけどね……」
「そうですか。ではまたお茶会でお会いしましょう」
「…………うん」
返事に間があったのは仕方のないこと。
だって『女子って怖い』と薄目になっていた私の内心が、「嫌です!」って叫んでたんだもん。
だけどクラーラはとくに気にすることなく、優雅なお辞儀をしてくれた。
「ごきげんよう、ティアナ様」
「あ、うん。ごきげんよう」
対する私があわてて挨拶を返すと、彼女も来賓室から去っていった。
――そうして二人を見送った後、再びヒルダの手を掴んだ。
「私たちも行こう」
色々と気掛かりは残るけど……忙しいラウレンツのためにも早く帰路につこう。
そう思った私は、ヒルダと共に踏み出した。
「ティアナ……」
すると不意に後ろから呼び止められ、刹那に繋いでいた手がほどかれる。
「え、ヒルダ?」
「お嬢様。私は馬車を呼んで参りますので、その間こちらでお待ちくださいませ」
まばたきをして見上げると、ヒルダはにっこり微笑んで言い切った。
「う、うん。……わかった」
たじろぐ私が思わず反射的に返したら、すぐさま一人で入り口へと向かう。
続いてなぜかエトガーまでもが「私もお手伝い致します」と駆け寄り、一緒に退室してしまった。……何でだよ。
あっという間の出来事に、取り残された私は二人が出て行った方向を眺めて呆ける。
「――ティアナ。ようやく二人で話すことができますね」
言われて、ハッと我に返った。そして背後から近づく気配には少しこわばる。
……正直、とっても気不味い。
なぜなら、ガラス細工のことは気になるし、貴族らしからぬ振る舞いをいさめられたばかりだし。何となくどうしようかと戸惑う私は、振り向くことも出来ないでいた。
「どうしたのです? ティアナは、私と話すのが嫌でしたか……?」
「っ、それは違うよ。嫌じゃない、嫌なわけない……けど」
「けど?」
いつもの笑顔で覗き込むラウレンツの声音が、少し寂しそうに感じてすぐさま否定する。
けれどそれ以上は何を話していいかわからず、口をつぐんだ。
それから、久し振りなのにまだあんまり話せてなかったなと考えながら視線を下げていれば……――すっと手を取られた。
「えっ……」
「仕度が整う間、立ち話をするのも何ですから。ソファで座って待ちましょう」
ラウレンツは優しく微笑ませて言った後、私の手を引いてゆるやかに歩き出す。
やがてソファの場所まで連れられて促されるまま腰をおろすと、彼も並ぶようにして隣へ座った。
――彼の内心はわからない。だけど、悲しんでも怒ってもいないように感じる。
そんなふうに考えても仕方ないと思い始めた私は、もう何でも素直に話そうと決めた。
***
「……壊れ、ちゃった」
「そのようですね。早く直しておけば良かったです」
まず、一番気にかかっていたことを口にしてみたが、ラウレンツは何のこともなくあっさり笑顔で答える。
「もうっ。違うでしょ! だってそんなの、嘘だもん……」
「何のことですか? 天板に緩みが出ていたのは本当ですよ」
「ううー……っ」
返答の中身につい噛みつき、ずっと抱えてた思いを洩らすも、これまた何食わぬ顔で返された。当然すぐに反論したかったけど、この調子だと少し揺れただけでも本当のことにされそうだと思う。
私は絶対に嘘とは言い切れず、ただ唸るしかなかった。
「まあ、多少の誇張はあったかもしれませんね」
「……ラウレンツ、それを嘘って言うんじゃないの?」
「いいえ。脚色です」
ラウレンツは変わらぬ微笑みをたずさえながら、とぼけたセリフをさらさらと紡ぐ。
話を面白くする必要がどこにあるんだよ、まったくこの王子様は! あくまですべてを自分の責任にするつもりらしい。
「私が、壊したかもしれないんだからっ」
どうして壊された本人がこんなことをしなければならないんだと思ったら、無意識に口走っていた。
すると、一瞬真顔で止まったラウレンツは、またすぐ吹き出すようにしてから笑顔をつくる。
「ふっ。いきなり何を言い出すのかと思えば」
「でも、一番やりそうだよ。ラウレンツもさっき見たよね、私がミアに……」
「そうですね、あれは確かに。次回からはもう駄目ですよ」
とりあえず、責任の所在を変えたい一心で伝えれば、彼は顎に手をあてて思い返した後、わざとしかめた顔で子供を叱るように言う。
「ごめんなさい」
「わかってくれたならいいですよ。ちなみに、ティアナの壊すところは見ていませんから。――私も自分が見たものだけを信じます」
そして、私が謝るとすぐに口角を上げて、悪戯っぽく放つラウレンツの言葉に面食らった。
……思い返してみれば、ヒルダを庇ってくれた時の『家族』という発言といい、一体どこから聞いていたんだろうか。
「何より私は、ティアナが誰かを傷つけることはしないということも、知っているつもりですよ」
考える間にも、そう続けて向けられた笑顔はとても綺麗だった。
「ありがとう……って、ラウレンツ?」
何だか嬉しいなと、にわかに心をほっこりさせてたのだけど、少し様子が変だ。
目の前の彼は、なぜか手で覆う顔を俯かせて震えている。
「それにしても、あの時のティアナの顔……」
「顔?」
「最後にミア嬢を威圧した時の表情です。失礼を承知で言いますが、あの笑顔にはもう……頬が緩みました」
――ああ、あれか。
そういえばミアは固まってたし、きっと以前修得した悪魔の笑顔だったんだろうと推測した。
そしてオブラートに包んで話す彼は今、どうやら笑いをこらえているらしい。
いや、お手本はラウレンツなんだからね?!
「もう……、それは置いといて。ラウレンツは壊した人を探したりしないの?」
とっても楽しそうなラウレンツに、王子様が盗み見とか良くないと思う、と若干拗ねながらも話題を変えてみる。
もやもやしないのかと、これもちょっぴり知りたかったことだった。
「ティアナも探さなかったでしょう?」
「それは……。今さら謝ってもらっても元に戻るわけじゃないし、口先で謝られても余計に腹が立つだけだもん。あと、これは私のものじゃないから。だけどラウレンツは違うでしょ」
「はい。そうですね。ただ……私があえて探さないのは、謝らせないためです」
「謝らせない、ため?」
どういう意味だろうと首を傾ければ、ふっと顔を反らしたラウレンツが前を見つめて話し出す。
「……謝ることが出来なければ、許されることもないですから。この先ずっと壊した事実は、自身の胸だけに刻まれることになります。そうして永遠に謝る機会を失うということは、何よりも最大の罰になるのです」
教えられてなるほどと納得する。だけど、その思いを知った私は何となく、同じような経験があるのだろうかと考えてしまう。
「それは謝るよりも、きっとつらいことだと思います。私は、ティアナのように優しくはないのですよ」
そう言って振り向く彼は、少し眉を下げて苦笑していた――。
一連の様子を見守る私の頭に、ふと前任の執事クルトの名前が浮かんだ。
そして視界に散らばるガラスの光が映り、目を落とす。
ガラス細工はラウレンツがクルトと作ったもの。それが今日壊れたことで、もしかしたら思い出したくない記憶に触れさせたのかも知れない……と感じた。
このように、ラウレンツが犯人を探さない理由はわかったけれど。
そもそも私を婚約者候補から外そうとするごたつきさえなければ、壊した人は自ら名乗り出たようにも思える。
それなら、彼が自責にする必要もなく、もう少し気持ちよく終われたのでは、――そんなもしもを考えるほど、そうはならなかった現実がつらくのしかかるのだった。
29 私は、尊敬しました(後編)に続きます。




