26 【小話】私と空想の世界 byリリー(前編)
廊下を足早に進みながら、ふと窓へと目を向ければ――。
真っ青な空を一羽の白い鳥が横ぎった。
暑い陽射しが草木の香りを濃くしていく中でも、すうっと飛んでいく鳥はとても気持ち良さそうに感じる。
――私も、今から羽根を広げにゆくの。
心で語りかけて頬を緩ませると、胸にある本をなおさら強く抱き締めた。
今読んでいる本は風の魔法を使う少女の話で、彼女は空も自由に飛べる。
現実の私には真似できないことのように思えるけれど、それさえも読書は叶えてくれた。
周りの世界などに捉われることなく浸れる場所は、いつも私に自由な気持ちを満喫させるのだ。
「ふふ……」
これから過ごす時間に思いを馳せれば、自然と笑みが溢れる。そして逸る気持ちで歩みを進めようとしたのだけど……間際に先ほどのディルクの笑顔が思い出されて足を止めた。
「……サロンで、ティアナ様を待つのよね」
ぽつりと呟く私の視界はなぜか、ないはずの雲にさあっと覆われる。
「だめ……。早く、ベランダに行かなきゃ……」
私はそれを振り切るよう自分に言って、空想の世界へと急ぐのだった。
***
ベランダは薫風が届ける草花の匂いに満たされていた。
見渡す景色は弾ける光と緑で彩られ、日常を感じさせないここは空想の世界をより楽しくふくらませてくれる。
私はすぐさま置かれた椅子に腰かけて、さっそく物語へ羽ばたいた。
――そうして楽しんでいれば。
「遊びに来たよー!」と庭に響き渡る。
つい、声のした方へ目線を送ると、塀に座るティアナ様をディルクが降ろしに向かう姿が見えた。
「やっぱり……」
助けを求められなくても文句を言いつつ迎えに行くのは、ここ最近よく目にする風景。私は気づかない振りで、すかさず本へ視線を戻して耽ったのだけれど。
「――また一緒に鬼ごっこしない?」
「……しない」
私が心から自由に過ごせる世界は、誰にも邪魔されない唯一のものだった。
なのに、突如現れたティアナ様からの誘いで、意図せず現実へと引き戻される。
「だから無理に誘うんじゃねえよ。リリーは淑女なんだ、お前と違ってな」
「元気なとこが私のいいところだと思ってる」
「嫌味も通じねーとかほんと可愛いげなさすぎ」
ティアナ様を非難してまで、私を庇うように語る言葉は嬉しかった。だけど、口では悪く言いつつも、本当は彼女を良く思っていることはわかる。
だってディルクの顔はすごく楽しそうなんだもの、……私と話す時よりも。
「私、レッスンが残ってるから……」
それだけ告げて、素早くベランダを後にする。なぜだか私はあのまま二人を……見ていたくなかった。
だから逃げるように廊下へ出るも、扉の向こうから漏れ聞こえる会話が背中越しに届く。
「じゃあ、ディル。今日は何にしよっか?」
「ティナの好きなことでいいぜ。受けてたってやる」
――いつの間にか彼らは、ディル、ティナと愛称で呼び合うようになっていた。
その事にも、どういうわけか落ち着かない変な気持ちが生まれる。
次第にもやもやと曇っていく心を不思議に感じながら、何だか嫌だな……と自分自身に思う。
そして私は少しでもこの場から離れたくて、邸内の書庫ではなく、街へ本を探しに行こうと決めた。
***
自室に戻って日よけの帽子をかぶると、さっそく正門へと向かった。
あまり外出しない私が街に行くのはこうして本を買う時くらい。
外へ出たくないというよりは、そこで一人遊ぶこともないため機会を持たないだけ、というのが正しいけれど。
「行ってきます……」
たどり着く場所で一人囁いて門をくぐり、少し先に広がる街並を見渡せば、踏み出す足取りは軽くなった。
先ほど持っていた本がちょうど読み終わり、次の巻を買おうとする今、続きが楽しみな気持ちの方が勝ったから。
読了した本では、主人公が新しい友達を見つける場面で終わっていた。
これからどのように絆が結ばれていくのかと考えたら、わくわくしてくる。
いつも真っ直ぐ元気に生きる人物だからこそ、素敵な人と出会えるのだろう。
それにくらべて、話すことも上手でない私はなかなか友達を作れないでいた。
近くに同じ年頃の令嬢も住むけれど、すぐに口ごもってしまう私は彼女たちをいらつかせるようで。いまだに馴染めないままだった。
そうして実際は友達を作ることさえ難しくても、読書で擬似的に体感してしまえるから、もしかしたら……なんて希望を抱いたりもする。
――そんなことを考えつつも通りを進み、やがて訪ねる本屋ではすぐに目的の本と出会えた。
街路に戻った私の心をしめる喜びは、自然と笑顔を湧き上がらせる。
「私には、本があるもの……」
大好きな本を読んでいる時間は一番楽しい。人づき合いが苦手な私でも、空想の世界では何ものにもなれるのだ。
それだけで充分に幸せを感じ始める私は、迷わず出てきて良かったと思う。
だから、晴れやかになる気持ちのまま続きを期待する胸をふくらませ、邸へ戻ろうとしたその時。
「――あら、リリーじゃなくて?」
振り向くそこには……出来れば、あまり会いたくなかった令嬢たちがいた――。
「外に出てくるなんてめずらしいわね」
わずかに見開かせる間に近づいてくる彼女らに反して、私の足は竦む。あわせて喉の奥がきゅっと締まってゆくように感じた。
本当は上手く話せない、どころじゃなくて怯んでしまうのが私の現状だ。
「まただんまり? せっかく声をかけてあげたのに失礼ね」
「……こ、こんにちは…………」
言われて何とか挨拶を絞り出すが、内心では『早く帰りたい』そればかりを考える。
空想でなら飛ぶことだって出来るのに……現実の私はここから逃げ出すことも叶わない、そう思うほどに悲しくなった。
「何なの? 虫の羽音みたいな声ね。全然、聞こえないわ」
落ち込むわずかな隙にも、侵入する笑い声が頭で木霊し始める。
お願い、中にまで入ってこないで……私は念じながら強く瞼を閉じていた。
「持っているのは本かしら?」
「そんなに賢くなりたいの、何だか気に入らないわね」
「――私が、貰ってあげるわ」
最後に聞こえたセリフで、ハッと目を開いた時にはもう……大切な本が奪われた後。
返して――っ! 言葉は喉の奥まで上がる。
けれど閉じてしまったそこは、何も発することをさせてくれず、呆然と見つめるしかなかった。
そして一瞬戸惑うも、「じゃあね」と離れてゆく令嬢たちを見れば――……この場から解放されるならいいじゃない、そう自分に言い聞かせて黙って時が過ぎるのを選び下を向くのだった。
「――ちょっと、何するのよ?!」
「お使いありがとうリリー、これが欲しかったのよねー!」
まもなく騒然とする気配は、思いがけない光景を私に見せる。
そこでは、取り上げられたはずの本を掲げたティアナ様が仁王立ちしていたのだ。
「ティアナ、様……」
ただこぼすように名を口にする目前で、いつもきらきらと輝いた琥珀の目は、見る間に鋭く細められてゆく。
そして私が瞬かせるうちにも、びっくりするほど冷えきる悪魔的な笑顔を作り出し、きつい眼差しを周りに送った。
その変貌ぶりに驚くばかりの私は思わずぽかんと眺めてしまっていたのだが、視線で射抜かれた当人たちは即座に固まりだしている。
「――――さっ、リリー。早く帰ってティータイムにしよう!」
今度は馴染みある満面の笑みで言われて、完全に固まった令嬢をあとに、私は促されるまま歩き出した。
さっきのは、何だったんだろう……めまぐるしく起こった事の流れをすぐに理解はできなかったけれども、今は本が私の手元にあることだけは確かだった。
少し進んだ先にはなぜかディルクもいて、腕を組んでうつむいたまま肩を大きく震わせていた。
「私の顔って……、そんなに怖かったかな?」
「自覚ないとこが笑える、鏡見ろ」
二人がここにいた理由はわからないけど、私は買ったばかりの本をちゃんと抱いていることに安堵した。
それから、ショックを受ける様子で潤むティアナ様と、笑い続けるディルクに連れられて邸へと戻っていった――。
***
邸内に入れば一段と、望んだものを得られた嬉しさが広まる。
けれど邸に着くまでずっと、私は気不味いような何だか気持ちの悪い思いもしていた。
……そうだ。あの時、私は助けられたのだから、きちんとお礼を言わないと……っ!
「あ、あの……」
「リリー、ごめんっ。私、ひょっとして友達との仲を邪魔しちゃった?」
思い立って礼を言う直前。かけられた予期せぬ言葉に口ごもるかたわらで、否定して首を振った。
そして友達でないことだけを告げて途切れさせたものの、続く話をゆっくりと待つティアナ様に、頑張って口を開いてみる。
「……私、上手く話せないから、仲良くなれなくて……いつも、みんなを苛つかせてしまうの」
「リリーは、仲良くなりたいの?」
問われてふと考えた。どうなんだろう? 友達が欲しくないわけじゃないし、外で遊びたくないわけでもない。
けれども、彼女たちといるのは……辛く感じる気がする。
「わからない……」
そう伝えると、本をぎゅっと抱き寄せながら目を伏せた。
それはまた答えをはっきり返せない私はきっと、ティアナ様のこともいらつかせてしまうと思ったから――。
「――そうなんだ、リリーは本当に優しいよね。でも頑張り屋さんすぎるよ」
「優しい……?」
想定とまったく違う言葉は、驚きよりも疑問を湧かせる。
何が優しいだろうのか、おまけに私は頑張った覚えなどない。
……忘れかけていた心の靄が奇妙に大きくなった。
「うん。私だったら仲良くなりたいかわからない人に大事なものを渡すなんて我慢できないし、会った時点で逃げ出すもん。それを文句も言わないなんて優しいし、逃げずに我慢するのは、ちょっぴり頑張りすぎだよ」
ティアナ様の発する言葉は何一つ自分にあてはまらないと感じた。
私は言いたいことが言えずに、逃げることも出来ないだけで、少しもそんなにいいものではないのだ。
今もわざとらしく言うのかと考えてしまってる私は、優しくさえもない……。
「だからリリー。嫌なときは頑張らずに逃げちゃって。立ち向かうのは偉いけど、知らないうちに無理しすぎていて疲れることもあるんだから」
「そんなの、出来ない。私は、ティアナ様みたいに強くないもの……逃げたら、また何を思われるか……っ」
「え? それでリリーはどうかなるの?」
「……え」
「うーん。あの子たちになんて思われてもリリーは本を読めるし、ご飯も食べるし、眠くなったら寝るし……日常は変わらないよね。嬉しいことをされたら、こっちも何かしたくなるのがプラスされるだろうけど」
もやもやとする心は、素直に助言を受け取れなくて否定したのに――。
こともなげに返されて、ティアナ様は自分がどう思われるかなど何も気にはならないのか? という不信を向けるまもなく。
また、考えてもみない内容を語られて瞬いた。
「それに……友達じゃなくて仲良くなるつもりもないなら、通りすがりの人と一緒でしょ。そんな人に言われり、思われることを気にする必要ってあるの?」
ついで尋ねるようかけられた言葉に一瞬呆けるも、つと思考を巡らせた。
みんなと馴染めない私は、惨めで情けない気持ちにもなっていた。
だけど、彼女たちと仲良く遊びたいかといえばそうではないし、好かれたら嬉しいかと言われても別に……あれ?
それなら、あの人たちに認めてもらう必要って――……あるのかな?
私は、何だか不思議な答えに行きつく。
「自分は、自分が一番大切にするべきものだよ。そのために逃げるのは負けでも間違いでもないもん。相手に合わせて堪えるリリーは優しいしすごいけど、そんなことをしなくてもいい人と一緒にいるほうが楽しいんじゃない?」
真っ直ぐに私を見つめるティアナ様は、「もっと楽していいんだよ!」そう言ってにししと笑う。
ふと、手にする本の主人公が物語の終わりで話すセリフが浮かんだ。
『――見つけたわ。私、あなたと友達になりたい。だって一緒いるとすごく楽しいんだもの!』
彼女も同じようなことを言っていた。それがわかった途端、自分の強ばった意識からふうっと力が抜け落ちる。
……けれども、矢先に胸が締めつけられてゆく思いもしていった。
向けられる屈託のない笑顔を見つめ返すうちに、だんだんと気づき始めたことがある。
霧が立ちこめるようにすっきりとしないこの心は……何も知らずに優しい言葉をくれた、ティアナ様へ向けられていたのだ――。
ティアナ様が語る言葉も先ほど思い出したセリフも、清廉な彼女たちに放てることで。
自分が本当は、こんなにもいやらしい子だと気づいてしまったから。
「……そんなの、そんな人はいないわ……っ!」
いたたまれなくなる私は今こそ逃げようと、部屋に向かって駆け出すしかないのだった――。
26 【小話】私と空想の世界 byリリー(後編)に続きます。
 




