3 私は、弟ができました
白く霞んだ花曇りの空が、炎であたためられたように柔らかな朱色をおびていく。
赤い日差しを浴びるあぜ道に、がらがらと音を立てて走る馬車の影だけが長く伸びていた。
中で揺られるレハール侯爵は、出先でティアナの意識が戻ったとの知らせを受けた。逸る気持ちを乗せて自邸へと急ぐ沈黙した車内を、射し込む夕陽がほの明るく照らす。
隣に座るロマン・バルトは、薄く伏せた目にその光をただ映した。浮かぶのは先ほどの状景。最後に見た母が自分へと言葉を紡ぐ姿だった。
そして彼は静かに目を閉じ、夜の幕を降ろすように馳せた思いへ蓋をした――。
***
一日が終わろうとする陰りは、邸の明かりをさらに強く際立たせる。あとは寝るだけの暇をもて余す私は、相変わらずソファでふんぞり返っていた。
「超退屈なんですけど」
愚痴るように呟いて傍らのヒルダにちらりと目をやれば、彼女はベッドメイキングの最中だった。
私の声は届かなかったのか、今も黙々と職務を続けている。まあ、聞こえたところで、面白い小話をしてくれるかもなんて期待はしてないけど。
窓に見える景色が薄藍のベールを落としていくにつれ、夜の静けさだけが部屋一面に広がる。
テレビもなければスマホもない。何の娯楽も見つけられずにいる中で、そういや小説十三冊も大人買いしたのに三巻までしか読んでなかったと思い出す。
楽しみを継続させようとせずに全巻読破したら良かった。何ならアニメも観れば良かったよ。ルイスの声、聴きたかったなあ。
上等そうなふかふかの座面に体を預け、肩肘をかけて頬杖つく。いかにも不機嫌です、というぶすっとした態度で偉そうに座って考えていた。
今日一日中、こんな世界やだ。貴族やだ。私の萌えを返せ。そう思いながら過ごした。
ただ日々を過ごした前世と何ら変わらない、与えられることをこなして時間を重ねるだけの経過にいる。これから送る人生にも今のところ希望は湧いてない。
記憶が戻った私は、とくにしたいことがないから誰かを偉そうに使ったり、気ままに奔走することもなかった。
けれど現在進行形の憮然な面持ちに、人が変わったわけではなく、まだ容態がすぐれないだけと思われているようだ。こうしてむっすりぐうたらしてることがすでに横柄そのものだから、今までと変わらないよね。
ティアナが高飛車、我が儘に育ってたおかげで、こんな様子でも誰に咎められることなく、平気でいられるのが今の唯一の救いだ。
「お嬢様、まだお加減はすぐれませんか?」
こんな私に優しく声をかけてくれるのはヒルダ。
何の希望も見えない未来に、まだどころか永遠にすぐれない気がするよ。
「週末には楽しみにされていた、王宮でのパーティがありますのに……」
うん。そんなのがあるんだよね。
だから一週間も寝込んだっていうのに、目覚めたその日にダンスレッスンさせられたし!
面倒くさい。このまま体調悪いふりしてたら行かずにすむかな?
「アベル王子もきっと待っていらっしゃいますよ?」
いやいや。待ってないでしょ。例え正式じゃなくても、自分の婚約者候補が倒れたら一度くらい会いにくるよね?
それが見舞いの花一つさえ贈ってこないんだから。
王子に何の関心も持たれてないのは明らかだけど、こんな令嬢なら当然と頷ける。今の私はミジンコほども興味ないから別にいいけど。
「そう言えば……」
ふと口にして思い返せばこのティアナ。実は王子本人にまだ一度も会えてなかったりする。
私は事の発端になったあの日を思い浮かべた。そうだ。ティアナが森へ行った目的は、アベル王子に会うためだった。
表向きは父の仕事を見学したいと理由づけていたけど。本当は、王子も国境警備の確認で常々森に遠征していると耳にしたために同行をねだっていた。
今までも未来の旦那様との会瀬を望み、父にせがんでは何度も王宮に足を運んでいたが、公務に忙しい王子との面会は果たせていなかった。だからこそ早く会いたくての業を煮やした強行だ。
初対面が『森の中で偶然出会う』っていうのも運命的で素敵よね! なんて思っていたっけ。
目当ての人が来てるという周知もないのに、今日がその運命の日と出会いを信じたのは、健気じゃなくて自己中心的に生きていた性格の弊害。
「今の私からすれば、こんな高飛車、我が儘だから暗に避けられてたんじゃないの? としか思えないわ……」
結界の中で脅かされることなく暮らす私が魔物を知らず、それが危機感を逸脱させていたとはいえ。アベル王子に会いたい一心だけで、父の結界視察に無理矢理ついて行って気を失い、前世を思い出したというのだから。
我ながら阿呆だなあと、ティアナの人生を反芻するほどに残念で仕方ないと遠い目になる。
それから私は、王子に相当ご執心だったティアナと同じ気持ちになれないのは少しヤバいかなあと悩んでもきた。
確かアベル王子は、それは見目麗しく文武両道。性格も快闊で器が広いと聞く……。
そうやって王子のことを考えてみたけど、やっぱり全く興味が湧かない。まあ、貴族でも面倒とか言ってる私が、王族になりたいとか思わないよね。ここで可愛がられて自由に過ごすほうが断然マシだ。
元より私は小説でのお気に入りも、王子じゃなくて時おり素敵な笑顔を見せる気怠げな侯爵だったんだよ。
あの氷のように冷たい侯爵の稀に浮かべる笑顔が見たい。ここにそういうタイプはいないのかと思った。
私はいますぐその笑顔を所望する! そんなことを考えていると、不意に扉をノックする音が聞こえた。
「――ティアナ。体調はどうだい?」
心配そうに様子を伺いながら部屋へと入ってきたのは、この世界での父だった。
私が倒れてからこの一週間。寝る間も惜しんで側に付きっきりだったらしいけど、今日はどうしても重要な用があるとかで朝から出掛けていた。
ようやく帰邸して急いで私のもとに向かってくれたことは、少し息を切らせる様子からわかる。よりによってそんな時に目覚めてごめんね、と思いながらも、前世の記憶を得た私は少し慣れない気持ちで父を迎えた。
「お帰りなさい。お父様……」
「ああ……っ。ティアナ。良かった、本当に良かった……っ」
私に駆け寄り、強く抱き締める。噛み締めるように言う父の様相と抱き込まれるぬくもりに、私は何だかひどく安心を覚えた。
心が自然と父を受け入れてゆく。良かった。悲しませずに済む、私はそう安堵した。
「心配かけてごめんなさい。それと、ありがとう」
素直な気持ちを言葉にのせた。
すると体を離した父が目を瞬かせてから、私をじっと見つめてくる。その様子に首をかしげれば「まだ容態が良くないようだね。邸の者から聞いているよ」と言われた。
うん。礼を言って体調がおかしいと思われるとか。ティアナ、さすがに酷すぎるわ。
私は自分を大いに悲しんだ。そんな時のこと。
「目覚めて間もない時分に悪いが、すぐに紹介しておきたい子がいるんだ。いいかな、ティアナ?」
紹介したい子? 頭の中にはてなが浮かんだ。
よく見ると父の後ろに小さな誰かがいる気配がする。
「さあ、おいで。ロマン」
そうしておずおずと前に進められた少年に、私は目を見張った。
「彼はロマン。ティアナ、今日から君の弟になるんだよ」
その言葉より、目の前にいる彼に私は驚かずにいられなかった。
青白いほどの陶器のような肌に、くせのある薄いアッシュグレーの髪とその合間から見える紫がかったグレーの瞳。そしておどおどと小さく震える姿、それは……。
「……コタ……?」
思わず紡いだ名前に、少年は「え?」と伏せていた睫毛をあげた。
「ん? 違うよ。ロマンだよ、ロマン」
すかさず父の訂正が耳に入るけど、私はただ少年を見続けた。
驚きが隠せないままに鼓動が早鐘をうち始める。
似ている――と思った。ロマンと呼ばれた少年は、前世で一緒に暮らしていたうさぎのコタに。
まるで彼が人間になって私の前に現れてくれたと思えるほどにそっくりだったのだ。
そう。私は前世で一人暮らしを始める際、実家では禁止されていたペットが飼える! とその相手にうさぎを選んだ。その子の名前がコタだった。
はじめは震えて中々ゲージから出てこなかったのだけど、辛抱強く待てばやがて慣れ、とてもやんちゃに走り回って。生まれつき体が弱くて手はかかったが、仕草のすべてが可愛く、言葉もわかるんじゃないかというくらいに賢いコタは癒しだった。
私がコタを守らないと! の思い、そして一緒にいてくれるから自分も頑張れるという気持ちで毎日を過ごした……けれど。
その時間はたった三年と短かく終わっていた。
「ティアナ……ティアナ!」
何度か呼ばれてハッと我に返る。
目の前のコタ……ではなくロマンは戸惑う表情で私を伺っていた。
「すまない。まだ調子が戻っていないのに、いきなりこんな話をして……また日を改めてゆっくり話そう」
なぜか、ひどく気落ちした顔で父に謝られた。
……気づけば、私の頬には涙が伝っていたのだった。
そうしてロマンを連れて部屋を出ようとした二人を、私は必死になって止めた。
「待って! 違うの、違うのよ!」
駆け出した私はロマンがびっくりするのも構わず、その体を抱き締めた。もう離さないというように。
「違うの。嬉しくて。すごく嬉しくて……」
「……ティアナ」
「ありがとう、お父様。とても素敵な弟だわ」
そう言って、目覚めて以降、そしてこの世界に来てはじめて。私は心から笑った。
***
この世界でようやく会いたいものに会えた気がして、私はすごく興奮した。
ベッドに入ってもそれは続き、嬉しくて中々寝つけずにロマンのことを思い出す。その髪や瞳、彼の様子。そして眼帯で片目を隠していたこと。
なんで隠してるんだろう? 物もらいでもできてるのかな? 私はあの目が好きなのに。
そう言えばそんな話を見た気がするな。と、ふとその記憶を辿ってみた。
ああ。あの買ったばかりの乙女ゲームの小説だ。主役の悪役令嬢の弟がそんな容姿で形容されていたことを思い出した。
そうそう。彼女も一人っ子だったけどある日弟が連れてこられてたなあ。前世ならあまりないことだと思うけど、貴族の世界ではあるあるなのかな? と何気なく名前がなんだったかを考えてみる。
「えーっと、そうだ。ロマン! ……あれ? 一緒じゃない」
外国の名前は詳しくないけど太郎や一郎的によくある類なのかと思った。
まあいいや。何より弟が彼で嬉しい。これからあの子はロマン・レハールになるんだ。
「ん? なんだろ。どこかで聞き覚えがある響き、というか見たことがあるような……」
そこまで考えて、一瞬すべてが停止した。
――ロマン・レハール。
それは悪役令嬢の義理の弟と同じ名前。
……へえ。同姓同名ってすごい偶然だね。
うん、偶然……。
なぜか心が騒ぎ始めた。
「まさか……ね?」
私はすぐに記憶をかきあさる。
それは前世で焦がれた世界。読みかけの小説で主人公だったその人物の名は……。
――悪役令嬢、ティアナ・レハール――
「う、う……。わ、私じゃないかーっ!」
***
その夜。邸に響き渡った絶叫で、邸内の人々を駆け巡らせたことは言うまでもない。
突きつけられた嘘みたいな現実に放心する私は、医師の往診やメイドの世話にただなされるがまま「嘘だ嘘だ嘘だ……」と呪文のように呟き続けたのだった。
そして、あんなに取り乱すなんて時期尚早だったかと悩む父と、やはり僕はここに来てはいけなかったんだと思っているロマンがいたなんて。
もはや私に気づく余裕は残されてはいなかった。