17 私は、魔王に出会いました(前編)
空が瑠璃色のベールをかけられてゆくように、夜の色合いを見せはじめる頃――。
公務を終えたラウレンツが、王宮のバルコニーに佇んでいた。
ちらちらと瞬く星の金色を目にして、思い出す人物はおそらく一人。
頬をほころばせる彼はすぐに口許を覆い、気を取り直すようにする。
「――いけません。ティアナに出会ってからというもの、つい緩んでしまいます」
呟いて、ふっ……と溜め息をつく。
ラウレンツはこれまで感情をあらわにする機会を持たず、またその必要もなかった。
当然最近まで、本心から笑むことなく過ごしていた彼は、素直に笑う術を得ていない。
その戸惑いからなのか、ティアナの前では無意識にも声を抑えるように、満面の笑顔を貼りつけることが常となっていた。
最初はそれがティアナのいう、すんごい綺麗な笑顔の理由だったろう。
「油断は禁物ですね。笑い声を出さないように気をつけなければ……」
しかし、真剣な表情で戒めたラウレンツの現状は、意識的に笑うことを抑えるかに見える。
そして彼は夜空を見上げ、――何かを考えるようにした。
***
それは、数日前のこと――。
いつものごとく、訪問したレハール邸から戻るラウレンツは、回想でもするのか微笑みながら王宮内を歩いた。
ほのかな幸せになごむ、心境が変わるのは直後。
やがて彼が到着した自室の扉に手をかけた刹那、予期せず蒼白の兄アベルに駆け寄られるのだ。
「兄上。一体何が……」
「どうした、ラウレンツ! 何があったんだ!?」
そのただならぬ様相に、すぐに向き直り何事かと問うも遮られ、逆にアベルから並外れて焦りながら迫られる。
目を瞬かせて閉口するラウレンツではあったが、間もなく平静を保たせ微笑んだ。
「――私は大丈夫です。どうして兄上にそのような心配をかけてしまったのでしょう?」
努めて穏やかにそう尋ねると、こわばっていた顔をほっとやわらげたアベルは、少し目を泳がせてから口を開いた。
「いや、あの。お前が何だか、笑って……そうあれは笑ってたんだよな」
「兄上。それはどういうことですか――?」
言いよどむアベルへラウレンツが更にただせば、自分が無意識にも声を出して笑っていたと聞かされる。
彼は、そのように笑った自身に驚くだろうが……さておき、ただ声を上げて笑う行為を心配されたことが何より衝撃だったに違いない。
とりあえずその場はやりすごして部屋へ入り、腰を下ろしたラウレンツは机に肘をつき手を組んだ。
そうしてしばらく黙ったあと、目は伏せたままで、傍らに控えるエトガーへと声をかける。
「――エトガー。私の笑顔は、どうやら兄上をひどく不安にさせたようなのですが」
「はい」
ラウレンツはいつも側にいるエトガーなら事前に把握するかも知れないと思考したのか、確認を始めた。
「一体、どのような笑い声だったのでしょうか?」
それとなく尋ねて、彼がチラと目を向ければ、エトガーは何とも残念そうな苦笑いを浮かべ、めずらしく口ごもっている。
賢いラウレンツはその瞬間、すべてを悟るようにそれ以上の質問をやめた――。
***
「……本当に、私はどんな笑顔を見せたのか。もはやアベルはおののいてましたよね」
綺麗なかたちを現し出した月へと問うように、ラウレンツはひとりごちる。
「笑い声で恐怖を与えるとしたら致命的です。間違いなくティアナの前では自粛しないと」
ぽつりとこぼした彼は、そこで苦笑する顔をふっと緩めた。
「今までは……他人から嫌われることをおそれたことなど、なかったのですけどね」
――そうして瞬く星々に目線を巡らせた彼は、溢れそうになる笑みをいつもの笑顔の中へと閉じ込めてゆくのだった。
***
見渡す一面にふわふわの真っ白な雲が集う空は、明るいのに届けてくれる陽射しが優しい。
太陽はてっぺんまで昇っているだろうけど、過ごしやすい暖かさでいい日和だ。
そんな中、私はいつもより早く遊びに来たラウレンツと一緒に昼食をとっていた。とはいってもお馴染みのテラスで軽食的に用意されたものだけど。
そして今日のメニュー、バケットのオープンサンドが私たちの前に置かれている。
皿の上を色とりどりのタルティーヌが飾るそこには、鴨肉をのせたものもあった。
動物を愛でるのが好きだけど食べるのも好きという肉食の私は、鴨のロティにオレンジのコンポートが添えられたこれが一番の好物だったりする。
上には、あっさりしたソースで和えたカッテージチーズとオリーブまでのせてあって、もう本っ当に美味しいんだよ!
その鴨のタルティーヌを私がナイフで半分に切って食べるのは、お行儀よく一口サイズにするためじゃない。
好きなものは最初に食べたいけど最後にも味わいたいという思いがあるから。
だから半分は残しておき、今は他のタルティーヌにかじりついていた。
「――ティアナ。嫌いなら食べてあげますよ?」
何が? と思う暇もなく。ラウレンツは私の皿から鴨のタルティーヌをひょいとつまんで口に運んだ。
「ああーっ。なんで食べるの?!」
「残していたからです。優しさですよ?」
「あえて残してたの! わかってるくせにーっ」
綺麗に笑うこのラウレンツは絶対わざとだ。
彼は、最近ちょくちょくこんな悪戯をするようになった。腹黒王子は何気に意地悪らしい。
「好きなら早く食べてしまわないとね?」
次いで自分の皿にある鴨のタルティーヌを手にして言った。
ずるいっ。自分のはまだ二つもあるくせに!
私はこの美味しさを味わってほしくて、彼には始めから二つ取り分けていたのだ。
そんな中、ラウレンツがにこやかに頬笑みながら、何食わぬ顔でひとかじりする動作を恨めしげに見つめる。
――くそう。ならば私も!
「冗談ですよ。ティアナ、このまだ手をつけていないものを……」
言い終わる前に、私はラウレンツの手に噛みつく。
そうして持っていたタルティーヌの残り全部を一口で頬張った。
「うーんっ。美味しいー!」
一方、自分の手からタルティーヌを奪われたラウレンツは何が起こったかわからない様子でぽかんとしている。
「早く食べてしまわないと、――だもんね?」
私は咀嚼して胃袋に流し込んだあと、してやったりとにやけながら言ってやった。
「……それは、私が食べかけの……」
「ラウレンツが早く口に入れないからだよ。もう食べちゃった」
そうして悪役令嬢らしく、悪魔の笑顔でにししと笑っていると――。
ラウレンツは口を閉ざし、掴むものがなくなった手に目を落とした。
あれ? そんなにショックだった……?
あ、指まで咥えちゃったのはごめんと思ってる。そこは素直に謝ろうとすれば、ぷいっと顔を反らされた。
よく見ると、ほんのり目元が赤い気がする。
……怒ったのかな。それとも泣きそう?
ここではじめて焦りが生まれる。どうしよう!
「姉様は、小悪魔ですね」
一連のやり取りを見ていたロマンが、ぽつりと呟く。
「ん? ロマ、言葉を間違ってるよ。悪魔でしょ。悪魔と小悪魔じゃ意味が違ってくるからね」
正す私にロマンはただ笑っていた。
――それはさておき、私は拗ねたように顔を背けるラウレンツへ向き直る。早く何とかしなければ。
「ごめんね。でもまだラウレンツの鴨のタルティーヌは残ってるし、変わりに桃のタルティーヌをあげるから許して?」
私は自身の皿にある桃と生ハムのタルティーヌを手に取った。
「これも美味しいよ。はい、あーん」
ご機嫌を取るようにラウレンツへ差し出す。
そしてチラとこちらに目をやる隙を見計らい、口許へ近づけて食べさせようとしてみた。
美味しいものを食べると自然と笑顔になるからね!
そうやって口を開けることを強いれば、彼はみるみる真っ赤に顔を染めあげていく。
……うん。なぜか更に怒らせたようだ。
私がラウレンツに食べさせてもらったから、私も食べさせようと思っただけなのに。
まあ、正確には勝手に奪ったということは置いておくとして。
食べさせる行為はマナー違反だったのかと悩む。王族の仕来たりはよく知らなかった。
向かいに座るロマンに至っては、お姉ちゃんのピンチだというのに「やっぱり小悪魔」とか言いながら笑いをこらえてる。
もう意味がわからない。私はさらに焦り始めた。
「……いいです。それもティアナのお気に入りでしょう?」
するとラウレンツがやんわりと断りながら笑顔を向けてくれた。
さすが私の好みをよくわかっていらっしゃる。
そうなのよ。この桃の甘さと生ハムの塩加減が絶妙にマッチして頬っぺが落ちそうになるの! ……ではなくて。
本当に機嫌が直っているのかと不安な気持ちで顔色を伺ってみる。
「私のタルティーヌはまだありますから。大丈夫ですよ」
そう言って断りを入れるラウレンツの声音は優しくて、笑顔もいつも通り。
まだほんのり赤く見える顔色とは裏腹に怒った様子はなかった。
「ほんとにいいの? 食べちゃうよ?」
「はい。食べてください」
答えるラウレンツの綺麗な笑顔は、たぶん本当。それに私はようやく安心した。
彼のことは大分わかったつもりでいたけど、王子様の奥はどうやらまだまだ深いらしい。
ロマンといい、男の子の気持ちはやっぱりよくわからないなと思ったけれど。とりあえず二人とも楽しそうだからいいよね。
そうして私は、笑顔で桃のタルティーヌを頬張るのだった。
17 私は、魔王に出会いました(後編)に続きます。




